局外者 / “夏枯れ茨”ウィード
空では眩い月が太陽を追いかけて回っている。時は逆巻き、空はパラパラと砕けては、黒い泥を吐いている。無理に迷宮化したためだろう、世界は軋みを上げていた。
倒れた九つの頭のサメは固まり始めた溶岩の下敷きになって死んでいる。もう一体の巨大サメはゆったりとした速さで、月と太陽が踊る天空へと昇っている。その上に乗りながら、兎人は目をつむっている。さすがに疲れ果て、サメの時を止めることに集中することしかできないのだろう。
海がバリバリと音を立てて空間が割れた。小片となったそれは、波打ったまま、はらはらと散っていく。壊れていく空間も、後々、ウィリオーンの魔女、おそらく“欠けた月”と“冬の手”で辻褄を合わせるのだろう。あの二人ならば可能な領域だ。
砂の上にぼんやりと体を投げ出しながら、思考を回した。周囲には砂を突き破って茨が繁茂していた。息を深く吸い、ゆっくりと吐く。呪詛があたりに広がり、めりめりと茨が伸びていく。砂浜を塗り替えて、繁茂した茨はだんだんと枯れて、そしてその下から枯れたツタに絡まって再び伸びる。それを幾度も幾度も繰り返していく。
それを、覗き込んでくる影があった。
「生きてるか」
「あいにく、そう簡単には死ねないのよ」
「だろうな」
“ウィリオーンの魔女”ともなれば、呪いが染みついた肉体の破壊は困難になってく。正確にはその肉体の破損を呪詛が補填しようとする。緩慢な破壊、加齢であってもそうだ。故にウィリオーンの魔女たちの多くは異形となり果てている。
もしウィードが死んでいたら、呪詛が解放されて彼女の肉体ごと茨で埋もれているか、より強い呪いに塗りつぶされているか、どちらかだろう。
「あのサメ女は?」
「知り合いに押し付けたわ」
気怠い声を出しながら、ふうっと息を吐く。指向性のない呪いが枯れ葉となって周囲に舞った。送り込んだ茨の門はすでに閉じた。さすがにあの旧友たちは跳び込んでくる暇はなかったらしい。彼らの逆鱗に触れるには十分だ、あの形代はたぶん破壊されただろう。悪いことをしたが、ほかに手はなかった。
ざらついた感情のまま、茨がうごめいてしまった。いけない、どうにも未熟だ。
「それで、その娘は?」
感情を押しのけて、禿頭の魔術師に問いかける。上半身だけの人形、左腕は砕け、表面も痛々しく朽ちている。わずかに感じる生命の鼓動が淡い光として、魔女の瞳に写った。これがなくては、ただの残骸としか見えなかっただろう。
それでも流れゆき、失われていく魔力は彼女を死に導いている。割れた陶器に糊付けで封をしたような、雑な治療のせいだ。
「妹弟子だ。頼む、助けてやってくれないか。代価は払う」
「魔女に、不用意なことを言うね、君も」
血色のせいで昏く見えてしまう瞳で彼を見た。良く見知った男の、泣き出しそうな顔に似ている。まったく仕方ない。
「――なら、仲間に君のことを話してあげなさい。それだけで十分さ」
魔力を抑えて、鼻で息を吸い吐き出す。杖で体を支えながら、でよろよろと立ち上がる。人形は専門ではないが、今、できるのはウィードだけだ。杖を砂浜にさして、魔術師から人形を奪うように掴む。
「命の杭、心の檻。鼓動よ、響け」
人形の体がうっすらと輝きはじめた。魔力の波を流し込み、内に残った魂を縫い留めていく。ゆったりと慎重に魔力を走らせていく。
やはりすでに心臓のない肉体では生命の活性化が難しい。それでも命を吹き消さないように、ゆっくりと膨らませるイメージをしながら、徐々に力を注いでいく。
「かー、ふー、かー、ふー」
ゆっくり自身の呼吸に合わせるように魔力を鼓動として、残った生命力に呼びかけていく。こうして魔力を足しても助かるかはわからない。魔力の相性もあるが、そもそも呪術による直接の治癒はウィードは得意ではない。飲み薬や軟膏こそが彼女の本領であり、こうした魔力においては、本職の治療魔術師には大きく劣る。
それでも手と鼓動を休めずに、人形に魔力を明滅させていく。こぼれそうな命を握り続ける。それでも、ゆっくりと魂が抜けていく感覚があった。
これ以上は、無理だ。その弱気に強い寒気が襲いかかる。
背中から視線が刺さりこんだ。サブアの不安そうな瞳からではない。誰だかすぐに分かる。澄んだ森のような緑の髪、ふわりとした花の香が脳裏に浮かぶ。できるできないじゃない、やれ。師のにこやかな笑いが、おぞけとともに思い起こされる。
雑念に首を振り、意地を絞り出して恐怖を頭蓋から取り払う。言われずとも、私は、このウィードは“ウィリオーンの魔女”であるバルーシャだ。
言い聞かせながら、呪術をより広げていく。紡ぐ、接ぐ、生やす、増やす。これでは足りない。もはや茨の呪詛では届かない。おそらく人形のままでは、命を維持できない。今にも失われそうなほどに命の波動は弱々しく、ウィードの後押しでも人と為すことは不可能だ。
静かに息を吐き出しながら、首の火傷痕に触れた。かつての痛みを連想しながら、もう一度、肺に空気を深く吸って吐き出す。賭けてみよう。
「降り立て、生まれよ。今、高らかに石と鉄を打ち鳴らせ。宴を始めよ、火を灯せ」
ヒトの始まりは火と共にある。獣を退け、暖を取り、あらゆるものを加工した力の一端だ。文明を作り出したヒトの象徴、その単純で古い呪詛、いや信仰ともいうべき力だ。それからゆっくりと命の火を作り出していく。手始めとして、呪詛を纏った人形の体を焼却する。
「なッ!?」
サブアが戸惑いの声を放つが、耳朶から消す。今は集中すべき時だ。
腰から、古臭いランタンを取り出し、蓋を開いた。かつて“鎧の迷宮”で使っていたもので、正直、今はただの日用品だ。しかし、使い込んだ道具というのはそれだけで価値ができる。
呪いを広げて、燃え尽きそうな人形から火を移す。ランタンの中で火花がぱちぱちと爆ぜて、輝いた。それを人形の灰ごとぐいっと押し込み蓋を閉じる。
ぽうっと火が灯り、ちらちらと火が内で揺れていた。
よろりとへたりこみながら、抱きかかえるようにランタンを抑える。
「意外と、いけるもの、ね」
荒く息をしながら、辺りに茨と炎の呪いを散らす。繁茂しては枯れて、焼けて燃え尽きる、それを繰り返しては砂浜を埋めた。
世界がはらはらと砕けては、元に修繕していく。月日は逆巻くことをやめない。迷宮化した以前に、世界の形を戻そうと強力な呪いが月から放たれている。迷宮がなくなるのも近い。ウィードもサブアも元の位置へ戻ることになるだろう。
「さあ、持っていきなさい」
汗が肌を滴り、砂が張り付く。立つ気力もなく腰砕けのまま、へにゃりと笑うとランタンを差し出した。煌々と燃える火は鼓動のように揺らめている。生命を火花と変えて、維持する。古い古い聖火の呪術だ。
「魔力を注いであげれば、あと何年かは持つわ」
「礼を言う……まったく怪我人ばかりが増えるな」
受け取ったランタンに向けて、禿頭の魔術師は早速、悪態をつく。するとゆらゆらと中の炎が強く揺れた。それに人が悪そうな笑いを浮かべて答える。
「はっ、何言いたいか分からんぞ」
「楽しそうで何より」
それに微笑みかけると、むっと笑いを止めるサブアがいた。より深い苦笑を返すと、ピシッとひびの入る音がした。自分の右腕が剥離して、この時間軸から消えていた。もう、この世界は壊れるらしい。
「それじゃあ、あとはお願いね。あの子達のことも、ね」
自身の顔にひびが走る。黒い泥、混沌が溢れた。進行は驚くほどはやい。この南国まで転移術で無理に移動した反動だろう。召喚術、つまり空間操作の類である迷宮の構築を解除しているのだ。それに巻き込まれている。師や他の魔女にとっては、元々そういう予定だったのかもしれない。
元々、盤外の存在なのだ。彼らの旅にとっては、外様なのだ。もう祈り願うことしかできないのだ。その事実が体を硝子を割るように壊していく。
バリバリと音を立てて世界が壊れた。サブアに引かれて、周囲が戻っていく。
蒸気を吹き上げる船の上に緑髪の女が、すでに結果を知っていたように悠然と笑っている。こちらをに少しだけ笑いかけると、すぐに海へと視線を戻す。相変わらず師匠は最悪の魔女だ。
その横には懐かしい少女、リオナが楽しげに師匠と話していた。ひさびさに元気な姿を見られた。
「では、あとを頼むよ。」
「 」
隣にいるはずのサブアに言うが、答えは聞こえず口を動かす動作だけが分かった。全身は一瞬、塵となり溶けた。
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暗い。
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嘔吐しそうな感覚。作業中だったはずの菜園へと無理矢理に戻された。単純に時間そのものが戻ったわけではないのだろう。昼間作業していたはずなのに、月が光っている。
意識が戻ってくるとあたりに広がる土の臭いが鼻をつき。モグラ除けの風車がカラカラと鳴っているのが聞こえ始めた。
そういえば今夜は、月夜にしか取れない熱愛花を取る予定だったな、とぼんやりと思い返す。
それを再び覗き込む男の影があった。サーベル風の拵えをしたカタナを腰に携えている。背には蔦で編んだ籠、手にはハサミが握られていた。覚えていてくれたらしい。相変わらず、なんだかんだマメな男だ。
「お゛う、なにしてんだ?」
「やあ、ただいま。ちょっと疲れた」
答えにならない答えを返して、ゆったりと思考を放り捨てる。しょうがねーなー、という不満のこもった優しい声が意識とともに夜に溶けていった。




