牙の海、茨の庭 / “夏枯れ茨”ウィード
空気が絞った弓のように引きつった。それもわずかな時間で弛緩する。ガラハム=イーナン、その魔力が周囲に散ったせいだろう。慎重で姿を現さない邪術師のことだ。疑似的にその一部を下ろしただけだろう。
「あら、よそ見はいけないんじゃない、ウィード姉さん」
サメ神の端末が言い放ち、二尾のイタチザメを振り上げて思い切っり投げた。回転もせず真っ直ぐ牙をむく。
「リオナはそんなこと言わないさ」
軽口を言いながら、向かっていくように進む。重い砂が足を取りそうになるが、それでも避けらないものではない。
だが、それににやりと口の端と虚ろな瞳を歪めて、指をぱちんっと鳴らす。
「爆ぜろ」
突然、磯臭さともにイタチザメが爆散し、多数のイタチザメに分裂する。
なんぞこれ、と呻く気持ちをなんとか捨てて、イタチザメの散弾に意識を集中する。ただの物理的なサメの投擲であれば、あの小さなサメに食い殺されただろうが、所詮は呪詛に過ぎない。
立ち止まり、自身を守るようにぎゅっと腕を交差させる。
「茨よッ!」
自身の内に抑え込んでいる呪詛をわずかに放出する。服を裂き、肉体の奥から茨が生えて繁茂する。鎧のようになった茨、その棘に接触するだけで小さなイタチザメは体を維持できずに潮風に溶けて消えた。
なぜか、きゅぴーと間の抜けた断末魔だけがそこに残る。海洋生物とはいったい、そんな思考が戦いに割り込んでくるのを止められない。
「へぇ、やるじゃないか。末席とはいえ、さすが“ウィリオーンの魔女”」
リオナの顔でサメの歯を剥いて笑いながら、端末は手を叩いた。拍手のつもりなのだろうが、力加減を知らないのか、めきりと手首が折れる音がした。
困ったように軽く手を振るうと、それもすぐさま元の通りだ。再生ではない、おそらくは再構成だ。やはりまともな生物ではない。リオナの形は表面的な模造に過ぎず、どこかに核があるのだろう。神の使徒やガドッカと構造は似たようなものだろう。
戦いづらい相手だが、弱点が収束しているとも言える。とはいえ、その核を見抜く技量は自分にはない。
なら自分でやる必要はない。
「踊れ、おしゃべり野菜たち、煮て焼くのは後回し」
魔力の糸を遠くに飛ばす。短い伝言を送るだけの呪術だ。
それに不愉快そうにサメの端末は体を傾けて、奇怪に体をゆがめる。人間のギリギリに挑戦するように体を反り、リオナを模造した胸を突き出した形になる。
「増援、無粋じゃない、姉さん」
「いい加減にしなさい。挑発したところで――」
額を揉みながら怒りを漏らす。それに割り込んで、時に砂浜を裂いて飛び上がる巨大な影、ただただ巨大なサメが空へと向かい、そしてゆっくり落ちてくる。呪詛ではなく召喚の系譜、あの奇怪なポーズは召喚の術だったらしい。
しまった。防げただろう魔術を油断と呆れで見落としていた。
「メガロドンだ。無粋者は潰れて死ね」
端末は親指を下に向けて、つまらなそうに言い放つ。
巨大な影が、ウィードのいる海岸を覆う。端末へ向けて、再び走り出すが、間に合わないだろう。解放した呪詛、茨の鎧が動くたびに肌に刺さる。
無為な抵抗に見えただろうか。
だが、恐怖で行った移動ではない。メガロドンの影にもう一つの小さな影が入り込む。これを知っていたからだ。
「竜殺しよッ!」
声とともに印を切った兎人の呼びかけとともに、一本の剣がメガロドンを上から刺して貫く。巨大なサメで合って無骨な大剣が腹までぶち抜いて、内臓と血をウィードや砂浜に降り注いできた。
サメは死んだが、落下が止まるわけではない。兎人はそのまま跳躍し、自身の召喚した剣に触る。
「永久に彷徨う我らが主、“欠けた月”名において命ず。時よ、止まれッ!」
呪詛とも祈りの力ともわからないものが、解き放たれた。兎人がさっと降りて、砂に足をつけると、落ちてきたメガロドンは剣とともに空中に固定されてピクリと動かなくなる。
「ほほう!」
楽しげになった端末は、今度は軽く手を叩く。砂浜に撒かれた血が沸騰するように噴き上がると、そこからサメに車輪を付けた戦車が現れる。それも単一ではなく複数だ。サメ戦車は御者もいないのに動き出すと、車輪の動きに連動して機械的に投石を行ってくる。銅貨で買える出来の悪いおもちゃのようだが、車輪には凶悪な鎌が伸びてて、犠牲者を巻き込もうと猛然と駆け回る。
投石も突撃も兎人に向けているのだろうが、雑だ。しかし、数が数である。忌まわしげに光の“ちぇーんそー”を振るう彼を置いて、ウィードは巨大な影を抜けていく。
洋上では二つ首だったサメがヒュドラのように首を増やして、埋め火の王に食いついていく。時の止まった剣と同時に静止しているメガロドンと呼ばれるものと同質の存在だったはずだが、もはや明らかにサメではない。
「戦いの中で進化したか、古き同朋よ! もはや汝はサメを超越したサメの王、ザメラとでも呼ばせていただく!」
リオナを模倣した声で雑音交じりに楽しげに叫ぶ。過剰に恰好を付けて、静止するのも忘れない。怒りですらも疲れ果てる言動だった。
ザメラと呼ばれた古代サメは九つある頭をそれぞれ変化させていた。ある頭は首を霧と変化させて、自在に間合いを取る。霧に巻き込まれた海鳥は苦しみの声を上げた後、冗談のように骨だけになって落ちる。
それを蚊でも払うようにガルケゼラの化身は弾き落とすが、頭も霧となって元に戻ってしまう。
それならばと本体を狙った手刀を振るうが、タコや甲殻類を合成した装甲を持つ頭に阻まれる。炎を吐こうと息まけば、口の中から巨大な美女を伸ばした頭部から殴られ、幽霊船を被った頭から無数の砲撃を受ける。
木々や茨を生やした頭が燃えるのも構わずに溶岩の巨人を拘束していく。それでも、古の戦いを生き残った神の一柱、無尽蔵とも思える熱量を解き放ち、瞬く間に呪詛の蔓を焼き切る。
「一手遅い」
雑音交じりの声が言うより早く、六つ目の頭が鼻を猛然と回転させながら、巨人に食い込む。機械化されて、耐熱性を得た頭部が岩窟を砕くドリルを鼻先に取り付けていたのだ。
「理解に苦しむ、わね」
呆れた声がウィードの吐息に混じってしまう。片手間に、残っていたビーチシャークを雑にぶん殴りながら、端末へと進んでいく。
馬鹿げた光景だが、巨人が放つ苦痛の呻きでそれは消えていく。追撃とばかり、通常通りの頭が噛みつき、甲殻類の取り付けられた頭が巨大な蟹の爪を伸ばし挟み込んだ。
「埋め火のッ!」
兎人が最後のサメ戦車を切り捨てて、援護へと向かおうと砂を蹴る。しかし、それは残り二つの頭が許さない。数多の穴が開いたハンマーヘッドの頭が首を振る。穴から大小さまざまなサメが降り注ぎ、牙を剥く。誘導されているのように、
それだけなら立ち止まることはなかっただろうが、もう一つの頭、水瓶のようなものを取り付けた頭がぱかりと開く。サメ交じりの水が噴き上がったと思うと、そこから水位がだんだんと上がっていく。
海に漫然と水を足して、潮が満ちることなどありえない。呪詛が海岸を侵しているのだろう。
メガロドンの停止に力を割いている兎人では突破が難しくなった。敵の呪詛で満たされた水場では移動が難しい。剣を落として、時間停止させることは呪いの上書きだ。出来なくはないだろうが、消耗が激しくなる。
「ぐ、ぬッ!」
輝く刃を振りながら、防戦するしかなくなる。それでもサメからサメに飛び移り自分の足場を器用に確保しているのは、さすが“欠けた月”の切り札だ。
「どこまで持つかな」
「さあ、ね。私が君を倒すよりは長いさ」
言い切るウィードはようやくリオナの形代に近づいていた。茨の呪詛をゆっくりと抑え込み、鎧を収めていく。杖をすっと槍のように構える。滅多に使うものではないが、多少の心得はある。ゆっくり息を吐きながら、呪詛を這わせて杖に茨を繁茂させる。
「それで、戦えるとも。お姉さんの戦いは伝え聞いているよ」
ニタっとギザギザの歯を剥いて端末は笑う。そして魔力をぞわぞわと集めて、木剣のようなものを作り出す。サメの歯をいくつも生やした、それは偶然にも“ちぇーんそー”に似ていた。さすがに回転はしないようだが、あれな殴られれば裂傷では済まないだろう。
「成長、拘束、転移、幻術、治癒、浄化。多芸で素晴らしいッ!」
端末は称賛と共に、サメの牙を振るう。茨を絡めた杖で受け流し、微細ながら端末の利き腕に傷を入れる。だが、その傷も盛り上がりすぐさま再構築された。
「貴女には決定打がない、他者を圧倒する力も楔もない。他の魔女のような純然たる力、魔力の年輪も持たない。ただ器用なだけ。その程度で我に、あたしに挑むとは、無謀ね」
傲然と言い放つと、こちらに踏み込んでくる。雑で人の形を理解していない形代を無様ながら、幾度も幾度も刃を振り下ろしては掲げる。無限とも思える体力で、牙を剥いて笑う。雑然とした、型もなにもない力押しだ。
幾度も刃が掠めて、血と肉を僅かながら削いでいく。その血をリオナの顔をしたそいつはにたりと舐めた。苛立ちに青白くなりそうな怒りが再び持ち上がるが、抑え込んで杖を握りしめる。
隙を見ては、足や手、腹、時には頭ですらもウィードは叩くことができた。しかし、血も失わず、茨でこそいで肉ですら再構築する。
長衣が重い。こちらの体力は有限だ。避けきれない刃が長衣を裂き、肉をこそぎ血をにじませてくる。
それを押しとどめようと杖でぐっと敵の刃を合わせた。だが、重すぎた。手を咄嗟に離して、跳び退る。わずかに遅く、めしりと音を立てて杖は折れて、大地にふたつになって転がった。
そのままウィードは立つ体力を失って、よろりと砂に足をついた。
「御終い、だな」
「そうね、そうしましょうか」
雑音の多い声で嘲りを振り払う。
茨の魔女は口の端を合わせた。反撃する時は、いつだって膝をつき、地面に手をついていた。今日だってそうだ。
「“夏枯れ茨”バルーシャ・ウィリオーンが命ず、遊びて伸びよ我がともがら。茨の庭をここに開け」
「何を今更――ッ!?」
壊れた杖が爆ぜた。いや繁茂した。茨が一気に伸びて端末を包み押し流す。だが、無理矢理に引き裂かれる強度しかない。それでもなお、伸び続けられるのは杖の一撃や自身の血に込めた小さな呪詛達だ。再構築していても、わずかな呪詛は残り、そこから何度でも茨を伸ばせる。すべての呪詛を体内から取り出すのは、手間だろう。
「この、程度、あたしに」
「さあ麗しの我が家に案内しよう、開けッ!」
最後の呪いを解放すると、茨の門が伸びあがった。門の先には見慣れた懐かしい景色が見えた。干した薬草やニンニクが吊るしてある小さな家だ。備え付けの長椅子には訪ねてきただろう男女がのんびりと座っていた。こちらにぎょっとした様子で、同じような戸惑いの表情を浮かべた。
最近、よく似てきたな。ひとりごちながら、そこに茨ごとサメの端末を放り捨てた。
「たかだか空間転移。時間稼ぎに意味があるのか? 確かに戻るのは手間だが」
何度か転がって茨をよくやく振り払うと、リオナの形代は笑いかけた。それに、これが私の決定打だ、と掠れた声で、にたりと笑い返す。
「「戻れるわけ――」ねぇよ」」
長椅子に座っていた男が猛然と踏み込んだ。真新しく買い替えたカタナを振るい、青い光、闘気の刃を一筋振るう。
端末が胴から横薙ぎに裂けていた。鋭利な断面が焼けるように蒼く染まり、ぼろぼろとリオナの形が砕けていく。おそらくただ一撃で核をつぶしたのだろう。呆然とする端末をいらいらしながら見下ろすのは、古馴染みのサムライだ。
「てめえ、覚悟できてんだろうな、ああん?」
妹の形をしたものに不快げに睨む男にほっとしながら力を抜く。古馴染みが、文句しかない声で説明しろだのなんだのわめき、女が心配そうに片足で近づいてくるのが見えた。
微笑みでも返したいところだが、体力と意識は限界だ。ウィードにできるのはもう熱い砂の上にぐったりと倒れることだけだった。




