記憶の慣れ果て / “喪失者”サブア
サメが小舟を転覆させようと暗い河から突き進んでくる。集中できない、疲れた心を震わせるために、舌打ちとともに杖で舟底を叩いた。白い魔力が波紋のように広がっていく。
「瀑布よ、水底より食らいつけ」
記憶の濁流を裂いて、泥水で作られた大蛇がサメを丸々飲み干した。そのまま蛇が卵を喉で潰すように、暴れるサメを押しつぶしていく。濁流が赤く染まり、そしてゆっくりと溶けていった。
「むごいことするね」
茨の魔女が嫌悪するでもなく、諫言するでもなく、ぼそりと言葉を落とした。魔力は最小限、ただ一点、杖の底に枯れ葉色の輝きを集めている。呪詛がすでに肉体を浸食されているのだろう。さわさわと茨が這い、伸びてしまっている。肉体に刻まれた呪いの反動がすでに現出してしまっている。
その彼女に向けて、ざばりと天空から不自然な水音が響く。空からサメが振ってきた。ちょうど大槌のような頭をしたサメがこちらへと見えづらい牙を剥いている。はあ、と呆れ声を出したため、対応が遅れそうになる。
それに先んじて、兎人が光る刃をブォンッと振る。光の刃が放たれて、戦輪の形を取る。そのまま、サメの首を落とした。胴は泣き別れて、軌道がそれた。河へと落ち、頭部だけが小舟のふちに軽い音ともに当たる。そのまま、どろりと黒い水へと変わる。
「油断するな、触るな、消せ。それは“記録”で“記憶”だ。さっきまで“迷宮の主”の影響でサメだったが、この後、何に変わるか、わかったものじゃない」
その言葉に反応したのだろう。水はドロドロとした紫色の肉として形を変える。複数の目と口が浮かび、針のような舌をぬらりと出している。
「火よ、汝が務めを果たせ、清めよ」
それを茨の魔女が無造作に焼き払った。青白い炎がぱちりと爆ぜて、すっかり水を蒸発させると消えていた。あんな状態でよく別系統の呪術を使うものだと、ほうっと息が漏れる。茨の呪に侵されている状態では、火の術などの扱うことなど至難だろうに、よくやるものだ。
そしてわずかな視線だけ残すと、サブアは再び杖に力を集めて、魔力の微弱な波を放った。河に走った魔力が返ってくる感覚で杖が震えた。舟底に集まり、河底から突こうとするサメの群れが牙を剥いているのが読み取れる。記憶の河、全体に張られたうっすらとした魔力は迷宮のものだろうか。
感知の邪魔だ。
息を吸い、ゆるやかに吐き出す。魔力の耳を澄ませて水蛇の手綱を握り、舟に影響がないように、ぬらりと潜らせた。
「瀑布よ、濁るままに牙を向け」
黒い記憶の河を濁流が踊り、サメの形をした“記憶”どもを喰らう。水そのものである濁流神グルグ・アカーの現身は悠々と泳ぎまわる。次々と飲み干していく姿に、サメは引いていく。
ざあっと水音を立てて、サメの群れが水面近くに顔出して飛び上がる。文字通り飛行するのは、人類の理解を拒む所業だった。
「遊びて覆え、我が茨、汝の庭はここにあり」
魔女が声とともに手を突き出した。か細い茨が幾重も伸びて、空飛ぶサメたちをあっさりと突き刺していく。サメは、ぼたぼたと音を立てて黒い水の塊へと戻り、河の水へと溶けていく。
すると、すぐさまにサメの背びれがぬうっと発生した。先ほどまで存在してはいなかった。飽和した記憶の河が、サメを作り出したのだ。
「キリがない、な」
船頭の兎人はため息とともに、飛沫から生まれたピラニアだのタコだのを、手早く光剣で切り捨てる。どうしてサメと共にピラニアやタコが生まれるのかは、問いかけたいがぐっと押し込める。
「ここで、出れば、振り出し戻る。ならば致し方ない、か」
忌々しげに言いながら兎は片手で印を切った。見たこともない呪術を声もなく、展開すると天から剣が雨あられと降り注ぐ。長剣、直刀、偃月刀にレイピア、カタナや野太刀、短刀などが無造作に小舟を取り囲むように落ちてくる。いくつかはサメを串刺し、そしてそのまま川面に突き立った。波打つ地面にでも刺さったように不動だ。
「ここは、あっしが食い止めましょう。時の河を下れば、冥府に繋がる起点があります。そこまでいきなさい。あんたらなら、門は開けますよ」
「おい、それはッ!」
「行きなせえッ!」
魔女の言葉を打ち消すように、声を荒げると、案内人は足で蹴って小舟を押し出す。そしてそのまま兎人はひょいと突き立った剣の上に乗り移る。片足立ちだが、全く動じた様子もない。ただ姿勢に合わせるように、片耳が曲がっている。
握った光剣、それから伸びる紐を強く引く。光の刃が分厚くなると低い動力音を放った。よくよく見れば、ただの光ではない。サメの歯のようなものが剣の淵を回転しているのだ。形状としては大分違う。しかし、あれは“ちぇーんそー”だ。書物でしか見たことない武器だ。初めて見た。
「来いよ、遊ぼうぜッ!」
にぃっと兎人が笑うと、再構築されたサメがわらわらと向かってくる。憎しみか、それともただの飢えか。どういった記憶が彼らの中で渦巻いているか、わからない。ただ天から河から、虚空から、あらゆる方向から現れるサメを切り捨てていく。
だが、無限の体力を持つ“記憶の河”と戦うことなぞできるはずもない。ゆっくりと遠ざかる兎人の姿がある。見捨てるべきだと、誰かが言う。勝手に特攻した馬鹿なぞ放置すべきだ。
それを記憶が塞ぐ。包帯をした少女の、不安げな顔が邪魔をする。銅鑼声で唸る機械の塊が笑いながら、溶岩の斧を握った小娘とともに立ち向かっていく。そんな幻が頭蓋を刺激した。
ため息を吐きながら、どうすると隣に立つ魔女に短く問う。同じような表情をして、頭を抱えた彼女は頭巾をふわりと下ろす。枯れ草ような色合いの髪に隠れて、目に付くのは変色した首の皮膚、火傷の痕だ。
それをすっと撫でてから、彼女はこちらに向きに直った。
「手はあるわ、彼が時間を稼ぐ。私が“最終階層”に繋ぐ。貴方は援護して、彼を連れてきて」
「軽く言う。そう簡単に繋げるのか」
「私は、一応、迷宮踏破した一党、ということになっているわ。最奥にいたものを再現ぐらいできる。ねぇ、それを突破した先はどこになるかしら」
そう言うと静かに陰鬱そうな面構えがゆるむ。
「呪術を用いた転移か」
「嫌いなんだけどさ、仕方ないわ」
迷宮の終点にいたもの、守護者かそれに類する怪物を屠ったという“記憶”を利用して、この迷宮の終点を無理やりに繋ぐ。疑似的に記憶から作り出した“迷宮の主”、“迷宮の主”がいるのだから、そこが最奥だという乱暴なすり替えをしようというのだ。そもそも、この冥府下り自体、乱暴極まりない。
鼻息を一つ、捨ててから杖を強く握る。
「ウィリオーンの魔女は情緒がないな、雑に攻略をする」
「そうかしら。迷宮の床、くりぬいて攻略するよりはまともじゃない?」
「誰だ、その馬鹿は」
「終わったらリオナちゃんに聞きなさない」
ほのかに笑いながら、呪術師は河へと茨を伸ばす。そうして、記憶で作られた水へとゆっくりと魔力を通す。
だんだんと記憶が物質化していく。河を裂いて白い翼が三対伸びた、その下から染み出すように立ち上がったのは巨大な女だ。冴えた月のように青白い肌、にぃぃっとと笑うと赤々としたザクロのような口と、いやに伸びた犬歯が目立った。
「感謝するぞ、小さきものよ」
しぃんっと響く声、黄金の瞳を細めて笑う。冷然と告げる女の顔は美しいものだった
「貴様らに、我が軍門に下ることを許す。従え」
言い放ちながら、記憶の河から大鎌を引き抜く。
どこかで聞いたような声、なぜだが既視感が広がった。どこかで会ったことがある神格だったろうか。ガラハムの使い走りだった頃に封印体に出会ったのかもしれない。しかし復元体、存在の重さの感じない。風船のようなものだ。これでは魔力の反響から正体を類推もできまい。小さな謎を追うべき時でもない。
風船とはいえ、高位神格の復元だ。傷一つ与えれば消え去るとはいえ、油断なぞできるものではない。
「断る、くたばれ。星の子らよ、盟約の名の元に、魔を穿て」
光の矢が放たれると同時に巨大な女神はぴたりと止まる。なぜか悲しそうな顔をしながら、こちらをじっと見ていた。
なぜだと、問いかける前に女に光が刺さった。そのまま、この空間ごと、ガラス細工のようにひび割れて落ちた。
残ったのは疑問と、煌々と照る太陽の空。潮の香が正気をくすぐり、空間を割って伸びる幾重もの白く巨大な腕が狂気を揺する。
小舟は洋上にぽつんといた。近くには宗教儀式に使うだろうオベリスクらしきものが飾られた小島が見えている。
ひょいっと跳びあがる音とともにすっと兎人が小舟に降り立った。
「まったく無茶をする」
「あら、あなたほどじゃないでしょう」
その受け答えも、サブアには遠く聞こえていた。
どこで、あの女を見たのだろう、そればかりが頭蓋の奥にわだかまる。何も知らない潮風が禿頭をするりと撫でていった。




