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鋼の声で歌って  作者: 五部 臨
最果ての風を聞け
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奇しき夜へ / “夏枯れ茨”ウィード





 熱の残った砂を踏みながら、海岸を緩やかに歩いた。ウィードの足跡に、禿頭の魔術師が静かに続く。

 さざ波と虫の声だけがよく響いている。これだけなら、ただの穏やかな夜であった。ときおり、砂を蹴る音が間に入り込む。海に写る月を見れば、ただの行楽のような気分にもなる。

 しかし、夜空から白い女の腕がそれを許さなかった。世界の天蓋を割って、黒々とした虚ろから、腕は幾重も伸びては海の底を掴もうと沈んでいく。そのたびに波が爆ぜて、白いしぶきを散らしていた。


 足跡をいくつも残し、流木をいくつか踏み越える。かたりかたりと静かな音が、波に交じる。桟橋があり、かたかたと括り付けられた舟が鳴る。

 桟橋の上に立ち、こちらを待ち受けているのは巡礼者めいた小柄な影があった。兎の獣人だ。不釣り合いな長杖を持ち、灰色の外套を纏っている。右目から鼻にかけて、毛皮を裂いて刻まれた傷跡が生々しい。白い毛で覆われた顔とピクピクと大きな耳を震わせて、こちらに円らな視線を投げかけてくる。“欠けた月”の弟子に違いない。


「乗れ」


 端的な言葉が発せられる。高い声だが、静かな落ち着いたものだ。兎人はパッと見て年齢がわからないから、首にかけた人紋と呼ばれる薄板を見る。銅の柳葉を象ったものを盾に張り付けている。薄っすらとした記憶から、意味を引き出す。盾は男、柳葉に銅は毒、年齢を示す宝玉は外されて黒い穴が残っている。出家して魔術師となった、成人男性を表す人紋だったはずだ。

 この人紋は彼らが生み出した苦肉の策であり、付けるのも嫌がるものもいる。だが、わからない人間にはありがたい。傷もなくきれいな銅板はわざわざ今回のために引っ張り出してきてくれたのかもしれない。


「ぼうっとするな、行くぞ」

「ええ、ごめんさないね」


 禿頭の魔術師にあおられて、歩を進める。ぎしぎしと鳴る桟橋の板を踏み、そっと舟に乗る。それでも二人が続ければ大分、揺れた。確認すると彼は、桟橋から舟を解き放った。長い杖で海の底を叩いて陸地から離れていく。小さな船で船底に櫂が二本、申し訳程度に置いてある。この海域を抜けるのにはあまりにも貧弱に見えた。


「決して水に触れるなよ」


 疑問を呈する前に、彼は懐から小さなランタンを取り出して。前に掲げた。ゴロゴロと石炭が詰まり、黒々としたそれにゆっくりと浸すように魔力を流していく。


「愚者の火よ、生もなく死もなき者よ。盟約がままに、時の河を開け」


 ランタンに緑青めいた火が付いた。熱もない緑の火がランタンの中で蛍のように明滅する。応じるように海の上に鬼火がいくつも立ち昇った。波の飛沫を受けても消えず、そして波を傷つけるこもない冷光だ。

 鬼火たちは舟を挟み込むように二つの列を作る。列の間の水は色を変えて黒々としたものに変わる。サブアが感心したように息をついた。


「冥府の河を召喚したのか……これは」

「そうだ。あまり見るな。心が溶けるぞ」


 “黒き大河”は様々な神話群で語られるものに違いない。常世と現世を分ける。時の狭間に流れる人の記憶が流れるこの河、その水を飲めばすべてを知り、すべてを忘れるという。時を司る“欠けた月”の弟子らしい秘術だ。

 海の上を流れる“黒き大河”に乗って、ゆったりとした早さで小舟は進む。

 大海を渡るには、馬鹿馬鹿しい速度だが時の流れが違うのだろう。少し目を逸らしただけで洋上が、岩礁の合間に変わっていた。


「迷宮の秘術は冥界下りに近しいものがある、と聞いたことがある」

「そうだ、潜り下れば、最下層はどこかの冥府に繋がるもの。我が秘術でそれを為す」


 サブアの声に淡々と短く兎人は答えた。冥府と冥府、同じ特性と名称を持つ場所を繋ぐのは確かに容易いだろう。出ることを考えなければ。


 とうとう周囲からは風景が消えた。鬼火が散り散りとなって、波の中へと消えていった。周囲には黒々とした大河ばかりが広がるようになっていた。

 ゆったりとした動作でランタンを船首に括ると船底に座り込む。懐から、焼き菓子を取り出すと、一口齧る。


「失礼」


 カリカリと小気味良い音を立てて、何枚も食べていく。小柄な種族ほど頻繁に食事を取ることが多い。兎や鼠の獣人などは特に顕著だ。


 時折、黒々とした水面から人や猪の頭、猿の手や馬の脚だのが浮かび上がり、そしてドロドロと黒い液体へと変わっていくのが見えた。河に溶け込んだ記憶が飽和して、一時的に実体化したのだろうか。生体由来のものばかりではなく、鉄で補強された木製の盾から鋼鉄の船のようなものも浮かんでは沈んでいる

 そう思うとくらりとよろめいた。幸い船底に手を付けたが、一瞬だけ、背筋が冷たくなった。魔力酔いだ。強すぎる冥界の魔力を見すぎたせいだろう。目を閉じて、こめかみを揉む。めきりと左腕に響く嫌な音。それとともに魔力が抜けた。


「おまえ」

「ああ、昔、無理をしただけさ」


 戸惑いの混じったサブアの声。目を開き、船縁に慎重に寄りかかる。左腕からはやはり、茨が無造作に繁茂をしていた。さすりながら、ゆっくりと茨をこそぎ落としていく。もういい加減慣れたものだ。

 あの戦いの傷跡は完治はしなかった。愚かなる呪術師達の成れの果て、自身の使った呪詛に侵されてしまう。“ウィリオーンの魔女”達の多くがそうであったように。


「握れ、楽になる」


 兎人は懐からひょいっと短刀を取り出して、鞘ごとウィードに押し付けた。呪詛がほどけ、茨が少しづつ枯れていく。紋章から見れば“欠けた月”の守り刀に違いない。


「あり、がとう」

「いい。“夏枯れ茨”を手伝うのが、師の願いであり、我の目的でもある」


 彼はぴくぴくと耳を動かして、顔を擦る。鼻を静かにならし、残った保存食を口に押し込んだ。その後ろでは時折、水底から浮かび上がる記憶の塊がざばりと産声を鳴らしては沈んでいく。不思議とこの舟にぶつかることはなかった。

 サブアはカンっと杖で船底を叩く。そして自分の顎をすっと撫でた。


「お前の目的は、別にあるのか」


 静かに兎人は頷くと、舟の櫃を開いた。場にそぐわない機工の塊が置いてある。銃ではなく、刀のようなものだ。刃のあるべき部分には、溝のようなものが彫られている。


「サメを殺す、それが我らホオウの一族に課せられた運命だ」


 動力装置についた縄を引くと、刀の溝が燐光を発する。同時にざばりと不自然に盛り上がった水面からサメが跳び出した。それをさっと兎人は切り捨てた。そして、ふぅっと息を短く吐く。

 辺りには背びれがいくつも見えている。


「まずいな。捕捉された。黒き河のサメモリーが活性化している、早く通常空間に戻らねば」

「「サメモリー」」


 戻ってきた理不尽に魔術師と呪術師は、虚ろな顔のまま、その言葉を繰り返した。それを返す気力しか残っていなかったのだ。

 長く息を吐き出して、杖を強く握って立つ。二人の術師は油断なく辺りに意識を張り巡らせ、黒い河を泳ぐ背びれに杖の先を向ける。


 もう慣れるしかない。


 その諦観を怒りに変えて、ウィードはゆっくりと魔力を紡いでいった。

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