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鋼の声で歌って  作者: 五部 臨
最果ての風を聞け
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灰を行くもの  / “- - - - - - -”




 漂うままに、弛緩した精神に声が響いた。意識がふっと戻る。寝台からゆっくりと体を起こす。自分の部屋、綺麗な味気ない部屋がそこにあった。カーテンの締め切った窓の外から、ざわめきが聞こえた。重い体をのそりと動かし窓に寄る。細い枝のような腕で布をどかせば、同じ色をした灰色の空がある。工場や家々から吹き上がった煙が酷く辺りを覆っている。


 人々のざわめき、甲高く騒ぎ立てる方へと目を向ける。人だかりがあり、その家の持ち主らしい女が、煙突掃除の親方にキイキイと文句をぶつけてきた。

 屋根からまた子供が落ちたらしい。彼の首は不自然に曲がっている。煙突掃除をはじめ、とにかく子供の仕事は致死率が高い。あの狭い煙突の中に這うように昇って掃除する。体を大きくしないために、がりがりに痩せたまま仕事をしている。


 自分の肉体も似たようなものだが、労役のためではない。

 鏡を見て分かるのは、痩せこけた子供の姿だ。痩せこけた子供の顔だ。金のちぢれ髪、落ちくぼんだ眼窩がある。鏡に写った自分の目を見つめると胸の痛みが不意にやってきた。押さえ込むように体を縮めて、ごほごほと血の混じった痰を壷に吐き出す。喉に詰まった息苦しさが少しだけ良くなった。

 こんこんと窓を叩く音がなる。


「へーい、おんぞーしー」


 ひょっこりと窓の外に立っているのは少女だった。屋根の上に器用に立っている。継ぎ接ぎだらけズボンと上着は大人の男ものを寸詰めしたものだ。まんべんなく汚れて煤と砂だらけの体にちょんっと可愛らしい顔がのっている。灰の絡まった赤毛に、くたびれた鳥打帽をぱんっと被りなおす。そして、少女がにへらと笑うと、思いのほか白い歯が見えた。

 へへっと声が漏れる。


「ひましてる?」

「まあ、ね」


 日の当たらない部屋で、辺りからは街からは死角になる。彼女がこんなところにいても、なんら言われることもない。それでも風は彼女を強く打つ。窓を開けてこちらに入れてあげたい。だが、それは体に毒だ。一度招き入れたことがあったが、少年自身がひどく苦しむ結果になった。

 彼女はそれ以来、どんな風が強くても、雨や砂が降っていても中に入ってはこなくなった。


「あたしもひま! 続き、読んでよ!」

「ん。ちょっと待って」


 そう言いながら、そわそわと部屋を歩く。歩くたびにガタガタと骨が響いた。部屋は寝台のほかに、本のずらりと並んだ棚がある。体が弱く外の世界に出られない息子へのせめてもの贈り物だったのだろう。実際、慰みはこの本だけだ。活版印刷のものから、羊皮紙を綴ったものまで様々だ。ぎっしりと古今東西の本が並べられている。上質な装丁本から、如何にも安い紙をまとめただけのもの。専門的な化学書から、子供のための童話集、いかなにもなパルプフィクション雑誌。様々な出来の、あらゆる年代の本がある。


 彼女が好んだのは、でたらめな好漢達が活躍する珍奇な話だった。題を“天泉無伝”、荒唐無稽で型破りな戦士達が無双の力を振るうのだ。

 ぎしぎしと鳴る骨の痛み、それを押して“天泉無伝”を片手に寝台に座る。本を開いてしおりを抜いた。紙が擦れる音が心地よい。


「さあ、はよ、はよ」


 外で少女は笑いながら催促をする。ぽりぽりと揚げた芋と魚にかじりつく。


「はい、はい。空泣、電々和尚と対すること。狼煙の閃光玉がぱあっと夜半に輝く。空泣の黒い体をぬっと引き出した。“何奴ッ!”

 そこに名乗りを上げるはかの巨漢、剛腕に大槍が添えられる。電々和尚の他はない。いつもの銅鑼声ががぁーんと鳴る。“やあやあ、拙僧こそは天泉一の法力僧……」


 掠れた声で、少年はゆっくりと詠み上げる。胸はときどき痛むし、喉は痛くなる。それを吸い飲みから水を口に含んで誤魔化す。ふうふうと息を落ち着かせた。

 活劇を詠むのはつらい。

 だが、少女の無邪気な笑いについつい力が入っていく。のどの痛みと舌のもつれから、聞き取りづらかったところもある。水をまた一口飲んでから、もう一度繰り返す。

 そのたびに話が行ったり来たりするために、短い章も大分時間がかかってしまった。せめて切りの良いところまでと進めても、大分夜へと近づいてしまった。日はとっぷりと落ちて、長く伸びた赤がすっかり辺りを色づけている。街から伸びる煙も工場のものから、夕餉の匂いへと変わっている。


「……大の字に倒れ、呵々と笑う電々和尚。それに空泣は“あと二人”。そう言って静かに微笑むのであった。きょ、きょ」


 喉をごくりと鳴らしてから一息つく。寒さがそろそろ響いてきた。彼女はもっとひどいに違いないが、にこにこと話しを聞いてくれた。


「今日はここまで。また次回」

「ったはーッ! 面白かった。そんじゃあ、また明日ね」


 にかっと笑って、手をひとつ振る。それを片手で返すと少女は去っていく。バネのように跳びあがり、屋根を駆けていく。

 少年は窓に張り付くように彼女の行く先を見続けた。それでもすぐに夕闇の中へと消えていく。ただ一枚の硝子、透明で美しい彼を守る壁がこの時ばかりはどこまでも煩わしく感じられた。

 病とは別の痛みが胸を突く。彼女のように外に出られればいいのに。その思いが冬の風のように少年を刺す。

 無理をしすぎたせいだろうか。咳き込むと泡交じりの血痰が漏れた。木綿のハンカチで綺麗にふき取るとそっと机に置いた。いっそ外に飛び出して楽になりたい。だが、それは不義だ。必死に生かしてもらっているのだから。どんよりとして気分のまま、窓に布をかける。


 硬いビスケットを無理やりに食べてから懐中から薬を数錠口に含み、吸い飲みから水を吸う。そうしてからようやく寝台を体を横たえる。ぎしぎしと体が傷む。それでも下階から伝わる熱でほんのりと部屋は暖かい。外の人々に比べれば、豪勢な暖かさだ。

 それでも、何か足りないと少年は指を開き、そして閉じた。その渇望はまぶたに押しつぶされていく。見慣れた天井がだんだんと眠りへと誘いこんでくるのだ。意識が途切れるまで何度も何度も、何かを握り続けていった。 





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