氷河の決壊 / “賢者の瞳”リオナ
「貴様とは干渉しあう、大人しくしていろ」
七つの蛇を手繰りながら、禿頭の魔術師は視線も合わせず言い切った。杖をサクリと刺して、口の端を押し上げた。異なる神格から生み出された魔術は互いに食い合う。貴重な防御の手段ではあるが、余り手広くやると味方同士の足を引っ張ることになる。
「なら、しばらく任せるわ」
ぎゅっと溶岩の斧を握り、煌々と刃を赤熱させ、身を守り目を凝らす。魔力を自身の中でぐるぐると回し、魔力をぎゅうっと溜め込んでいく。
サブアの挑戦に“霜の巨人”が跳ねるように立ち上がり、剣を掲げる。魔力の流れを彼も読めるのだろう、瞳にはこちらが練った魔力が煌々と映っていた。
「死欲の母よ、慈悲の刃を我に与えよ」
ごうっと周囲の冷気が収束し、剣へと集まった。冷気が蒼い光となって辺りを照らす。それを嘲るようにずいっとサブアが前に出た。
「使徒の方が上手かったぞ」
「兄上か」
似ても似つかない氷像の使徒を、巨人はそう呼んだ。わずかに、瞳が揺れたように見えた。よくよく見れば黄玉の色合いをしている。
「もはや宿願を見せることもできぬか」
「お前も見ることはないさ」
そう薄く笑うと、杖の動き一つで蛇の頭を躍らせる。ざばりと水音を立ててサブアの後ろへと引く。ざざざ、ぞぞぞ、と力が集まり、放たれる。
「内なる怒りに狂う蛇よ、海原より逆巻き、滅びを歩め」
どのように押し込めたのだろうか。白く鋭い魔力の波長がびりびりと響き、目が傷んだ。
その力を持ってサブアが杖を突き付けるように前に出すと、美しい水蛇がどろりと溶けた。そして地を揺らす轟音とともに泥と木片の混じった汚れた水の壁が盛り上がり、鎌首もたげるようにそびえた。
リオナはごくりと喉を鳴らした。“境界の司”と違い、荒々しい暴虐の相を強くしているとはいえ、ほぼ同じ構成を、ただ一人でこの男はくみ上げた。
これ、は。
「これ、はッ!」
「さあ、贄を食め」
リオナと言葉を同じくした巨人の驚嘆が響く。それに埋もれた声によって、泥水は爆ぜた。無造作に放たれた瀑布が雪と氷に包まれ白い世界を泥で侵していく。
土で汚れ、折れた木々の混じった、瀑布が巨人すら押し流さんと叩きつけられた。
「死欲の母よッ! 我を抱き留めたまえッ!」
氷の大剣を大地へと突き刺すと、祈りの叫び声だけを置いて、巨人は泥の中に飲み込まれた。濁流により、雪に隠れていた岩が露出し、そして山から引きがされて転がっていく。いくつもの流されては泥水とともに頂から、密林へと落ちていった。
泥が過ぎ去った後、氷塊がそこに残っていた。冷気が青い魔力を放って砕け散ると、雪がぶわりと広がった。内からは、大地へと剣を突き立てた巨人がぬっと姿を出した。
傷はないが、ふぅふぅと荒い息を吐き出す。“霜の巨人”は兄弟といっても使徒とは違い、定命のものなのだろう。消耗が大きいようで、もとより裂けていた皮膚がよけいに開き、赤黒い筋肉が剥き出しになっていく。
それでもなお、黄玉の色をした瞳は力強く、サブアを見据えている。それすらも、鼻息をひとつ返す。こちらは涼しい顔をしているが、額にじわりと汗がにじんでいる。握った杖へと集っていた魔力がわずかに綻び、白い光をゆらゆらと伸ばしている。
「ほう。ただの木偶だと思っていたが」
「貴殿のような枯れ枝が、私を押し留めるとはな」
余計に疲れるとばかり吐きつけた魔術師の言葉を、巨人はさらりと返す。剣を再び構えて、ぎりりと握りしめる。ザリっと剥き出しになった山肌を踏みしめて、その巨体を滑るように動かした。振り上げられる刃に対して、サブアは動かずに魔力を練る。
「蛇よ、踊れ」
サブアの短い詠唱で解き放たれた水塊の殴打を、剣の腹で弾き返す。魔剣聖剣の類なのだろう。弾かれた水は凍り付いていて、大地へと突き刺さった。
“霜の巨人”がただ数歩、下る。ただそれだけの間で魔術師が刃の間合いに入ってしまう。サブアがこちらをちらりと見てからも大仰に悪態をつく。リオナは短く頷いて答えた。
「死欲の母スースリク・ジンバよ、慈悲の刃を我に与えよ、汝の腕はここにあらんッ!」
「ちぃっ! 枯れ果てよ星の欠片、朽ち行くままに痛苦を叫べ」
崇める死の真名とともに踏み込み、薙いできた冷気をまとった大剣。冷たく輝く刃へ向けて、サブアは杖に纏わせた砂嵐でじりじりと受ける。砂粒すらもが凍てついて地に氷をまき散らす。跳ね飛ばされるままに、後ろへと跳んで避けていく。
だが、追撃ができぬ距離ではない。ぐっと握った剣が冷気を青く輝かせたまま、突く。巨大で長い腕が剣の切っ先をサブアへとねじ込んだ。杖ごと胴を狙った一撃は、ただ一呼吸で砂嵐を裂き、杖を突き砕いた。サブアは舌打ちとともに倒れ込み、背を山肌で強かに打ちつけた。からんと杖だったものが転がり落ちた。
「噛み砕け、地の底より」
その状態であっても伏せていたのだろう濁流を袖の下から解き放つ。いくつもの枝葉を巻き込んだ泥水がぞぞっと巨人へと向かうが、それは届く前に凍てついた。泥の蛇はそのまま力を失って、すうっと消え去る。
「ここまでだ」
「朽ち行くは星の欠片、嘆きを叫べ」
薄い砂嵐をそのままぶつけるが、無造作に刃を掲げられた“霜の巨人”には障害にもならない。その巨大な影はサブアを覆うほどだ。
だが、それでいい。目くらましだ。
「盟約を示せ、地を這う熱よ、悲嘆がままに手を伸ばせッ!」
リオナは飛び込む。斧の柄を溶岩の魔術でぐんっと伸ばし、思い切り巨人の頭蓋へと向けて叩きつけた。“霜の巨人”は強い。目くらましと柄の伸びる斧、二重の奇策であっても、いなすだろう。振り下ろさんとした剣が溶岩の斧を刃を受け止める。練り上げた魔力は十分、蒼く冷え切った氷の刃であっても、まだ溶岩は赤々としている。
そして、視線が突き付けられる。ぞっとするほど強い死の印象が、幻覚としてリオナに叩きつけられた。地下迷宮での見つけた、腹が食われていた死体が嫌に思い出された。
だが、使徒の時とは違い、こちらはまだ三人で動ける。
「ガドッカさんッ!」
「任されよッ!」
ガタガタの体を無理やりにガドッカは立ち上がり、ただ一瞬で巨人を殴りつけた。立ち上がった頭から白い霧のように、蒸気があたりに広がり、裂けた。手には雷光をまとった錫杖が握られている。
打ちつけられた巨人はたたら踏み、腹に火傷を負いながら数歩下がる。だが、それまでだった。思わず膝をついた。これでようやく視線はリオナと並ぶ程度だった。
「なんとッ! 耐えきるとはッ!」
「その言葉、お返ししよう」
派手な技の応酬はガドッカが復帰するまでの囮にもなった。雑に直しただけだろうが、それでも、十分だった。
「埋め火よ」
すでに戦いの趨勢は決まった。長く伸ばした溶岩の斧を再び赤々と灯し、巨人へと振り下ろす。
「母よッ!」
頂へと手を伸ばしながら巨人は叫ぶ。詠唱か、祈りか。どちらにしても遅かった。巨人の頭は吹き飛んで、ただ一度宙をくるりと回った後、燃え尽きて灰へと変わる。
あっさりとした死だった。すでに動かない肉体からは、筋肉が膨張して醜く丸く固まっていた。裂けた皮膚や首筋から漏れだした血がどろりと山肌へと吸い込まれていく。
終わり、と呟くより早くごうっと冷気が吹き荒んだ。頂がぴしりぴしりと割れて、巨大な妊婦の像へと形を変えた。足はなく山の頂そのものと繋がっている。その女は、金で出来た瞳でこちらを一瞥した。リオナは知っている。遥か遠方より呪詛を放っていたのは、コレだ。
それは自身の巨大な腕を山肌から引きはがす。腕の影が周囲を暗く覆う。だが、それでもなお、膨れた形で象られた女の顔は悲しげにこちらを見つめ続けていた。




