死欲を笑う / “賢者の瞳”リオナ
暗い中、水の激しい音だけが耳を支配する。すでに悲鳴をあげる余力もない。上下されてゆれる頭と、必死に抑えている木板一枚の先で動き回る濁流の感覚だけがあった。
それが、途切れる。ぶつりと、何かが切れたような音が頭の中だけで広がった。リオナの持つ魔を見る瞳が世界の境界を無理やり渡ったせいだろう。負荷のあまり視界がぶれていく。
同時に吹き上がるのは冷や汗、それは目のせいだけではない。全身を駆ける肌の違和感のせいだ。詰め込まれた樽はおそらく天高く打ち上げられたのだろう。
その奇妙な浮遊感が途切れると、何か底へと引き付けられていく。ひっ、と久々に嫌な声が絞りだされた。無意識の声は、再び腹の奥から叫びを引っ張り出してきた。お互いに聞き取れないだろう声と、ぷしゅうううっと目の前が白い蒸気で樽の中が満たされた。
そして無造作にどさりと落ちる。雪の中に突き刺さったのだろうか、それでしっかりと止まった。
「お、あ、むむむ」
「くそっ」
「お゛お゛お゛っ」
悪態と呻き声を交えながら、三人は蓋を吹き飛ばして這い出した。お゛お゛っと仲間以外には見せられないような声を上げて、リオナは冷たい雪に突っ伏した。いっぱいに広がる神の魔力が視界を覆いつくす。
目をしばたたかせて、蕃神の魔力を振り払う。焦点をなんとか合わせると、ようやくリオナは辺りを見ることができた。ただただ白い雪が広がっている。その先には突き立つような白い峰、そして白く埋まってしまった密林がその下に置かれている。重力はきちんと山からも引かれているようで、立ち上がっても密林へと落ちることはなさそうだ。
ゆっくりと立ち上がると後ろを振り向く。間欠泉のように吹き上げた水が凍てついて、突き立っている。“境界の司”達の生み出した奇跡の残滓なのだろう。さすがにこの山には耐えきれず、氷となって自らの重さでみしみしと崩れて落ちた。
「おつかれ、様か」
「引くことはできなくなったわけだ」
まだふらついているサブアが杖を突いて立ち上がる。その横には首の座りを確認するガドッカが、かちかちと首を回した。
その動きがかちりと止まり、そして動いた。錫杖をごうっと振ると短く、鋭い音が鳴り響く。そのあと、太く硬い氷柱がごとりと落ちた。
「見えなかった……」
いつ撃たれたのだろうか、透明で見えづらいせいだけではない。瞳が、感知が、馬鹿になっている。目が慣れるまで、どうにも不利だ。顔をしかめるリオナに、自身の胸を叩いて機械の神官が轟音を鳴らす。
「しばし、任されよ。なぁに、たまには力業といきましょうぞ」
「なにそれ、いつも通りじゃない」
「む」
ぽうっと白い蒸気を吹きあげ不満を表し、硝子を瞳をしきりに動かす。もう一度狙ってきただろう氷柱を弾き飛ばす。練り込みが甘かったのか、今度の氷柱は砕け散り、雪の中へと落ちていく。
「雷神ザオウよッ! 偉大なる御力を貸し与え給えッ!!」
突き出すように、雷光の錫杖を構える。一歩、また一歩と雪を踏みしめて、氷柱を放つ元へと進む。すでに何本も無造作に放たれる氷柱はその軌道を捻じ曲げられて雪へと突き刺さることしかできない。ガドッカの祈りに応えた、雷神の力だ。
痺れを切らしたのだろうか、シャッと声を上げて、雪中から飛び出した影。それを無造作に叩き潰した。人型のかぎ爪を持つ怪物だったのだろう。すべて氷で出来ていた、それはどろりと溶けた。
「使徒ですかな? だいぶん下級のようですが」
サブアとともに、ゆっくりとそれに近づくリオナ。しかし溶けた怪物はぞるぞると引き戻されるように、頂へと引っ張られていく。
頂に座り込んでいた白く大きなものが、のそりと起き上がる。一歩、歩くたびに山が揺れた。風と雪を巻き上げる体が視界を覆う。それは巨怪であった。ガドッカの倍はあるそれは、いびつに膨れ上がった人型の四肢を持っている。握る剣に合わせて、発達したのだろう。
「手慰みでは、力も図れぬか」
みちみちと発達した筋肉を動かす。ぶちんぶちんと白い肌が切れて、漏れだした筋肉が赤く見える。ざんばらに漂う長い髪に顔は覆われて、その下にはわずかに白いのっぺりとした眼が見えた。異貌であるが、気配は神のものではない。だが、それに限りなく近い種族だ。
「“霜の巨人”か」
「その通りだ。ガラハムの弟子よ」
静かに重い声を返す。彼は一息、吐き出して、ひょいと何か軽いものを投げつけてきた。ころりと落ちてきた、それは人形の頭だ。カタカタと口を開けて話始めるのだから、まあ、そんなのは一人しかいない。
「いやぁー、どうにも、失ぁ敗ぃ、しまぁーした」
「いい気味だな、マカラ。浅い考えで魔術に手を出すからこうなる」
「ちゃあんと下調べぇもー、したんですがねぇ。きょうぅりょく、りょく、あー、協力者にぃ、やられたんですよぉー」
「そうか、じゃあな」
ふんっと鼻息と同時、サブアは思い切り蹴り上げた。頂より先に、到達した頭は密林から伸びる重力に従い、悲鳴を上げて落ちていった。
「ちょっとかわいそうね、あれ」
「アレが原因だ。あの程度で済んでは釣り合わん」
神の気配はまだ遠く薄い。ここまで来たというのに、まだ降臨していないのだろうか。いや、それでは世界を干渉できる力があまりにも強すぎる。
「旧交を冷やかすのは終わりでよいか。ガラハムの弟子よ」
思考を断ち切るようにざんばらの頭の“霜の巨人”はぎぃっと剣を構えた。それはガドッカほどあるだろう鉄の塊だった。ガドッカもリオナもよく怪物とは戦ったことはある。だが、怪物の力で人の技量を振るうものとは戦ったことはない。
少しまずいかな、と冷たくなり始めた唇をなめた。その横にガドッカががしゃんと並んだ。ぴゅぅっと白い蒸気を吐いた。
「で、何故、天地返しなんてしたの」
「語るに及ばず、ただ汝らの仇である」
「訳も知らず、戦いなんてごめんよ」
問いかけの答えにリオナは頭をかいた。底にあるのは悪意ばかりではない。ただの悪意を振るう怪物ではなく、こうした人間同士の戦いはどうにもまだ慣れないのだ。
「よくあることだ、埋め火の娘よ。あまり考えるな、刃が鈍るぞ」
「人の良いことだ」
サブアはくだらないとばかり、杖を握る。白い魔力をまとわせて、いつでも呪いを放つことができる。
「死すべき戦士には敬意を払う。それだけだ」
「むぅっ!」
言い切ると同時に、“霜の巨人”は踏み込んできていた。平坦でない頂から下るがままに、勢い付けた振り下ろしだ。リオナに向かう銀の輝きは、単純明快に死を与える一撃だった。同時に下から飛び出したガドッカが剣の腹を叩き、逸らさなければ真っ二つどころの騒ぎではなかっただろう。
「死欲の母よ、弱きものに慈悲の腕を伸ばせ、凍てつけ」
ガドッカはその声とともに放たれた拳で腹を殴られてたたら踏む。ぶちぶちと巨人の腕から筋繊維が弾けた。その打ち付けられたガドッカの全身からミシミシと音を立てて氷が広がる。
「ぐぬ、雷神ザオウよ、偉大なる御力を貸し与え給えッ!!」
ぼちりと肉体に雷を這わせて、流し込まれた魔力を断ち切った。ガドッカは凍死しないためだろうが、膨張する氷に内側から破壊されているのだろう。腹からは水漏れて、蒸気が横からもうもうと吹き上がっている。そしてそのまま、力を失ってごろりと倒れた。
「まず、一人」
「猪なぞ、勘定にいれる必要もあるまい」
そういって強がるサブアも、必死に魔力を練るリオナも動くことができなかった。寒いはずなのに広がる汗、その匂いすらも感じられぬ白い静謐がそこにはあった。ただ圧倒的な死が目の前に、そびえているように思えた。
「ならば」
「瀑布よ、水底より食らいつけ」
静かな声だった。その一瞬で何かが放たれた。短い呼びかけだけで、魔力は収束し、水の礫となって巨怪を打ち付けた。ただそれだけで吹き飛び、巨大な体を転がした。
「舐めるなよ、“霜の巨人”が。今の人類が太古の怪物と戦う手段がないとでも思ったか」
禿頭の魔術師は口の端を引き上げた。周囲に水がざわめいて、一匹の蛇へとその姿を象った。リオナは内心、舌を巻いた。純粋な魔力、つまり生命力の総量なら、若く筋力があるリオナの方が圧倒的に上だ。
しかし、あの精緻な姿を見れば、それだけしか上回っていないと実感できる。つやつやと輝く鱗、水でありながら赤々と見える舌。完全に自分の内にある魔力を操らなければ、短く、端的な言葉で構築したのだ。心強いやら、悔しいやら。鼻から息を吹き上げると、地に手をついた。
「盟約を示せ、地を這う熱よ。我握るは汝が心臓、魂をも焼きつくせッ!」
燃え立つ斧を握りしめて、水の蛇を躍らせるサブアの前に立った。よろめき倒れていた巨怪がぐわりと立ち上がる。ぶちぶちと爆ぜる筋肉もお構いなしにこちらへと突き進んでくる。
「踊れ」
すぐさま、放たれた水の蛇が正面からそれを弾き飛ばす。彼の前を回る蛇はすでに首を分けて、七つ頭を作り上げている。
「貴、様」
「出来損ないと同じにするなよ。これでも今代では一番弟子だったからな」
薄く笑う、その男。気味の悪い、いやな笑いだった。会ったこともない邪術師ガラハム・イーナンを思わせる。静かな雪の頂に、ただただ鈍く、ひび割れた声をじっとりと響いていった。




