災厄と盟約 / “喪失者”サブア
踏み入れた亜空間を石造りの神殿の中をゆっくり歩いていく。典型的な万神殿の形をしている。飾られている神像は皆、動物や魔獣を象り、眠るような形をしている。近寄れば、わずかながら、漏れた神の気配を感じて、ほうっとサブアが息を吐く。彼らは信仰を集められず、眠っている神々なのだろう。
彼らの間を抜ければ、巨大な穴が開いていた。重い気配が膨らみ、大蛇の頭がいくつも、伸びてきた。七つの頭は鱗をぎらぎらと輝かせて、赤々とした口を開き、しゅうっと唸る。
「「よく来た、異郷のものよ」」
複数の声が頭の中へと直に鳴り響き、神殿のすべてが震えた。多頭の大蛇、よくヒュドラと呼称される魔獣だ。神というよりは、怪物、いや怪獣だろう。
必死に穏やかに声を出してはいるが、濁流のような意思がこちらの思考を叩いてくる。気絶しそうにな頭に魔力を込めて耐える。顔をしかめながら、サブアはそれを睨む。瀑布が迫ってくるような感覚がにじみ出てくる。自分のすくむ足をぎゅうと掴む。
「「無礼を承知で頼みたい、この地を救ってはくれまいか」」
「ええ、任せて」
ドンと薄い胸を叩いて安請け合いする女魔術師の姿が横にあった。このリオナとかいうのが平気そうにしているのは、ただ鈍いわけではない。強烈な神格にすでに出会ったことがあるのだろう。
安請け合いにふんっと鼻を鳴らし、力を入れて前に出た。震えはそれほどでもなくなっている。
「何故、我々が出る必要がある? おまえほどの“力”があれば、多少の不利はあっても、あの雪山の神格程度、追い出せるだろう」
「「然り。我らの力があればどうにでもなろう。だが、人の望む形にはなるまいよ」」
瞳を伏せて、頭の一つが舌をちろちろと出した。
「「我らは、祟るもの、苛むもの。人々を飲み込む瀑布であり、家を食らう濁流である。我が歩みは森をも折り、恵みを与えず、恐怖を撒く。七匹の大蛇たる我が力は、すべて災厄である」」
「ふむ、貴様が戦えば、後には大破壊だけが残る、と」
「「然り。そが我らが在り方であるがゆえに」」
洪水を起こす神格、この神が顕現すれば、この地域程度覆いつくす大瀑布が暴れる。後には泥の沼だけが残るだろう。存在するだけで、力が発揮される。サブアの師によれば、神というのは呪詛の塊にすぎない。この神が戦えずいるのは、その体現であるためだろう。
「良いだろう。こちらには選択肢がない。しかし、だ」
鼻を鳴らして、サブアは神霊へと近づいた。圧力が体を重くつぶし、心がためらいに支配されそうになる。だが、これは必要なことだ。
「対価が必要だ」
巨大な蛇の頭が一つ、鎌首もたげて、サブアに近づいてきた。
「契約せよ、我が名はサブア、力を失った魔術師だ」
「「良いだろう、邪術を捨てしもの、彷徨い人よ。迷い子の守護者サブアよ」」
魔術師の前で、血の滴るような赤口を開くと、生暖かい吐息が感じられた。名を教えたわけでも、来歴を教えたわけでもない。だが、その神格は知っていた。サブアはぎぃっと杖を握りしめた。そして自らの表情が変わるのがわかる。歓喜か、おびえか。なぜ自身が笑えたは分からなかった。
「「失いし汝の力、その一端になろう。我らは暴虐なる水、瀑布を統べるもの。グルグ・アカー、英雄殺しと呼ばれた我らが名を汝に与えん」」
その言葉とともに心臓の奥が締められるような感覚がのしかかる。魂が圧迫されている奇怪な感覚、白紙だった魂の一部にかの神の真が書き込まれていく。その“筆圧”に押し出された魔力が体から漏れた。魔力が光へと変わって、白い輝きがぶわりとと吹いた。押し出された呼吸のリズムが乱されて、咳き込んだ。けほけほと輝く魔力を吐きだしてから、少しづつ息を整えていく。
師より授かった時ほどの痛みはない、すぐに落ち着くはずだとサブアは自分に言い聞かせた。
苦しむサブアから首を離して、七匹の大蛇グルグ・アカーは再び思考を振動させる。視線はこちらではなく、小さな女魔術師へと向いていた。
「「娘よ、汝が友、手負いの騎士に与える慈悲を我らは持たぬ」」
「大丈夫よ、お気遣いありがと」
にぃっと笑い同格であるかのように振る舞うリオナ。豪胆というには無造作で、勇敢というには恐れが欠けていた。どちらかと言えばあるのは親しみであった。
「「かの神、埋め火の王は、我と同じ災厄を統べるもの。祟り神を二柱、抑え込むのは人の身には余るだろう、そも……」」
喉を伸縮させて、ごくりごくりと白い腹を蠢かせる。その底から笑っているような思念が爆ぜた。
「「あれはな、嫉妬深い。苦労しているだろう」」
「まあ、うん、契約が広げられないのは厳しいのよねぇ」
はあーっと頭をかくリオナ。火の、特に溶岩の魔術しか使えなかったのは、それが理由らしい。彼女ほどの高位の術者であれば、あと一柱、大いなる神格との契約もできる魂の余白はあるだろう。しかし、かの神、埋め火の王はそれが気にくわないようだ。くつくつと笑う大蛇がリオナへと近づいただけで、ぼうっとリオナを中心に炎が燃え上がった。腕白小僧でも見るかのように、リオナは苦笑した。
「ごめんなさいねぇ」
「「かまわぬ。古きものの気配は心地よい。異教なれど、共に争い、競ったものよ。かつては友というには遠く、今すでに敵というには近い。そうだ、懐かしい顔であったな。よい、よい」」
しゅるりと鳴く大蛇は、赤い口を少しだけ開いた。歪に切った傷のようなそれは、不気味な風体ではあるが、笑いを浮かべようとしているに違いない。
「「対価は、我らが民に願え。かの神への道行きも“境界の司”が知るだろう」」
言うべきことは終わった、とばかり、すぅっと体を消していく大蛇。空間の位相がずれて、神殿が幻のように揺らめいた。彼の神が空間を裂かず、こんな湾曲的な手段をいるのは、自分自身が呪い、囲んだグルグ・アガー自身を封じる結界を守るためだろう。
神殿がゆっくりと消えた後、広がったのは白く薄い霧で包まれた空間だ。神々の住む地と、そして人の住む世界の隙間だ。足元すらふわふわした感覚がするのは、薄板一枚先は世界の外、混沌だからだろう。
「ああ、なるほど世界の“床下”だったのね。どおりで」
「その表現はやめろ」
思った以上にのんきなリオナの言い草に、呆れた声をぶつける。二人にはサブア自身とリオナしか見えない。白い霧に触れていても濡れることもないのは、それ自身も都合のいい幻だからだ。世界の外、混沌とも近い地だ。何かおかしなものを“認識”して呼び込んでしまうかもしれない。それゆえに、混沌から視線を外すための白い幻が置かれているのだ。
その幻の中がゆっくりと立ち消え始めた。すると次第に空間が重なり、降り積もる雪とわずかな春の残る広場が浮かび上がってくる。そんな中でも鮮明に見えるのは爬虫人類に囲まれた“悪魔”の姿があった。
そしてようやく大地が二人を捕まえた。ようやく戻ってきた足の感覚、それを感じてようやく、サブアは長々と息を吐きだしていった。




