惑いの夜 / “喪失者”サブア
「困ったことになった」
聞くものがいないとしてもそう呟くことしか、彼にはできなかった。
閉塞的な石の道、下り坂になっている中をひたすらに歩いている。背負う少女が重い。血で背がわずかに濡れ始めている。体力仕事なぞ、もう何年もしていない。衰えた脚と体力が忌々しい。
魔術にしても呪術にしてもそうだ。かつての自分ならば、格下に追い詰められて、厄介な親切なぞ押し付けられることもなかった。体力ばかりが原因ではないにしろ、理由をつけて怠った過去の自分を恨みながら、進んでいく。
周囲に広がる夜を、杖に括り付けたランタンを掲げながら裂いていく。辺りには灰色の石くれが転がり、道をところどころ塞いでいる。並んでいる朽ちかけた建物から崩れ落ちたものだろうが、彼は気にもかけず踏み越えた。
脆くなって石が砕けて足元がずるりと動く。そのまま、転びそうになるのを踏み出しながら体勢をなんとか引き戻す。舌打ちが思わず漏れる。
それに答えるのは澄んだ声だった。
「だい、じょうぶ?」
「悪いな、大したことはない」
少女が揺れで起きてしまったようだ。勝手のわからないまま、顔に巻いた包帯がほどけかけている。その隙間からはいつもの裂け目が痛々しく見て取れた。傷つけられて出来たわけではない。存在のずれ込みからできた隙間にすぎない。だが、見たままを放置しているわけにはいかない。
くだらないことをするようになったものだ。奥底から響く自らを嘲る思考をかき消す。魔術師は四方を眺めたが、休める場所を探した。闇と石壁ばかりが続く場所で少女を下ろし、床に外套を敷いてから寝かせた。自身も座ると、杖を置き、ランタンの位置をかるく調整してやる。いっそ魔力で光でも作りたいところだが、消耗を避けなければならない。
「我慢していろ、いいな」
白い顔に赤黒い断層が生まれており、彼女の輪郭ごとずらしている。それを無理やり人らしい形に戻そうと包帯を強く、無理やり巻きつける。断層が縮んで赤黒い空間そのものが膨れがって落ちる。ころんと固まると同時に痛みに彼女の顔が歪んだ。自らの顔もそうなっているのだろうか。
疑問をそのままに魔術師は立ち上がる。少女のために時間を稼ぐ費用がある。
「不本意だが、使わせてもらおう」
固まった断層、赤黒い欠片を拾い上げる。生命力が石となった血の宝玉だ。生命の石と呼ばれる命の原型である。じぃっとその塊を不機嫌に見つめる。痛みが塊になったようなものだ。
「ごめん、ね。サブア」
「気にするな、共犯者よ。私は“盟約”を成しているだけだ」
痛みを抑えようとふるふると跡を手でなぞる。いくら包帯で巻いても少女の顔は青く白いままだ。
「……君は、いいから休め」
「う、ん」
彼女は気絶するように休息に入った。
サブアは長く息を吐きだした。そうしてから腕輪をなぞる。銀によって月の装飾がされた、それに“生命の石”から血の色をした魔力を取り出して流し込む。
「盟約の力を示せ、移ろわぬ永夜の王、守りの月をここに掲げよ」
赤を食らって銀色の輝きが一瞬だけ広がり、波紋のように円を作り出す。この腕輪は魔術を疑似発動させる契約の器だった。本来は魔術を使えぬ人間が使うものだ。一種類の術式しか刻まれておらず、作成にも高価な触媒ばかりがかさむ。本来、魔術師にとっては本来不要か、あるいは対価に見合わぬものだろう。
だが、今はこれにすがるしかない。
作られた銀の円はちょうどサブアの足で十歩の位置で輝きを維持している。
光に寄せられた哀れな羽虫がその光に接触すると、ジィっと紙を裂くような音を立ててバラバラになった。名高い魔神“永夜の王”の結界であり、この位置から動かぬ限りは二人を守り続けるだろう。これを破るのは手間に違いあるまい。
一息つこう。
腰のボトルを取り出すと一口、あおる。ぬるいが強い酒が喉を焼く。手ずから作った蒸留酒だ。実験用のつもりだったが飲めなくもない。もう一口ほしいところだが、酒には強くない。量を飲むのは危険だろう。
衝動を押しとどめ、腰袋から大振りの葉を一枚、出して噛む。苦味があるが、すでに慣れたものだ。精製すれば麻薬にもなる木の葉である。疲れと空腹をごまかし、体を無理にでも動かすためのもので、鉱山などではよく使われていた。しかし、生命力に優れたドワーフやオークですら、中毒になるものだ。
危険はよく分かっているが、とにかく便利なのだ。仕方ない。
惰性を押し込んでから、葉を口の中でまとめてぺっと吐き出す。そのあと酒をもう一口あおり、苦味を流した。
軋みそうになる腕を握って開き、感覚を確かめる。薬が効きすぎていないか、よく確認した後に、胡坐をかいて座り込んだ。
疲れきった体を無理やり動かす薬物があるとはいえ、体力が戻るわけではない。所詮はごまかし、体力の前借だ。ツケは倍になって帰ってくる。その前にここから脱出する算段をまとめなくては。
肺の中身を思い切り吐き出し、ゆっくりと吸う。幾度も幾度も繰り返し、乱れていた自身の脈に魔力を這わせて同調させた。
そうして描け、と短い言葉に魔力を込めた。手から砂が現れて、周囲にさらりと広がっていく。パラパラと作り出されるのは砂の地図だ。大雑把に廃墟の群れを示している。
この道はいくつも途中で分かれてはいるが、一度だけ曲がって抜ければ鉱物が搬入された長大な通路へと入ることができそうだ。この都市が呪術に対する防護が薄くて助かった。他の古い街ではこうはいくまい。地図を作ろうとしたならば、呪詛返しの一つや二つ飛んでくるというものだ。
もう少し魔力を込めて作れば、奴の位置も探れるだろう。行わないのは呪詛返しを警戒する必要があるからだ。不出来な同門とはいえ、それぐらいの知恵も力もある。だからこそ、そろそろ動かなくてはならない。
立ち上がろうとした時にくらりとする不快な感触が走る。頭がゆれる感覚を抑え込みながら、杖を片手に立ち上がった。括り付けたランタンが自身の顔をうんざりするほど照らして、目が傷んだ。呻きを上げて体を引き上げようとして、崩れて落ちた。
抑え込んだ疲労が、とうとう頭蓋まで登ってきたようだ。半端な休憩をするんじゃなかった。後悔をしても、倒れたのは変わりない。
もう一度、ふうふうと息を吐き、虚空をにらむ。揺れる視界がだんだんと像を結ぶ。人影が一つ浮かんでいる。
人形だ。大仰な杖を構えている。杖は黄金の飾りとともに生命の石を悪趣味なほど、取り付けて、不愉快な硬い音を鳴らす。女性の体の線と、球体で出来た関節を持ち、素材は魔力の通しやすい樫を厳選して使っている。
そして、人形は備え付けられた陰気な女の顔でしゃべり始めた。
「情けないですねぇ、サブア先輩ぃ」
粘性を帯びた女の声がした。本体から人形を通しての通信だろう。人を馬鹿にするために無駄な魔力を使う。昔からそういう奴だった。
「今からならぁ、あ、あたしがぁ、せんせぇにぃ、許してぇ」
「いらん」
今更だ。切り捨てると杖を支えに必死に立ち上がる。魔力を練り上げて、手のひらに集めていく。
「ざぁんねんー、消さなきゃあ、いけないじゃないですかぁー」
油を流すような速度で言いと同時に、女の顔に仮面をかぶる。苦悶を浮かべて固まった老人の死に顔だ。仮面、そして人形の使い魔を介して、技術を模倣する。その上、自らが鉄火場に出る必要がない、やはり優秀な呪術である。呪術は。
「「砕けよ、我が名のもとに」」
老人と女の声がまじりあって響く。同時に生命の石が一つ砕け散って、呪術の白光となって放たれた。ドンっと頭蓋を押すような音が鳴り響くと“永夜の王”の結界、銀色の守りが大きく揺れて、ひびが蜘蛛の巣のように走った。一息に壊すことはできないとはいえ、時間の問題だ。
対抗するために練っていた魔力を握る、まだまだ光の矢にも出来はしない微々たる魔力だ。どうしようもない、諦観が降り注ぐのが分かった。
「その仮面、なかなか、いい選択だな。どうにも相性が悪い」
「「貴様に合わせて厳選してある」」
人格が仮面のほうに引っ張られているようで、硬い声で人形が言う。だから片手落ちなんだ、という場違いな感想が浮かんだ。
先ほどまでのゆっくりとした動きはすでにない。人形は手早く、杖を振り上げて叫んだ。
「「爆ぜよ、我が名のもとに」」
白い光が再び呪詛として放たれた。狙ったのは結界ではなく、近くに立っていた石の建物だ。耳が割れそうな轟音が響き、砕かれた建物が結界へと降り注いだ。ひび割れた結界が重量のあまり限界を迎えた。
傷だけの共犯者に向けて、何か言おうと口を開いていたが、もう遅い。
視界はすべて石と灰色の砂で固まっていく。意識はランタンの明かりとともに消えていった。




