死の解放 / 盗剣士ダスイー
鼓動が遠い。荒い息を押さえ込むように、水袋を口に含んだ。うまく飲み込めず、ぼたぼたと水がこぼれ落ちてしまった。駆け寄ってきたリオナが予備の水袋を受け渡してくれた。
「大丈夫?」
「まあ、なんとか、なぁ」
ぼうっと問いかけに答えた後、押しつけるように折れたカタナをリオナに渡す。頼む、とだけ短く言う。寂寥がいまさらにダスイーの中を走った。長く、手になじんだ、祖父の遺品はとうとう失われたのだ。
「任せて!」
場違いに大きな声をリオナが出して、肩を強く叩く。笑みを静かに浮かべている。無理がにじんだ笑い方だが、それでもダスイーは鼓動が落ち着いていくのを感じた。
そうして息を整えながら、視界だけはガドッカ達の戦いに向ける。
“悪魔”が大仰に拳を振るっていた。機械の神官が雷光をまとった錫杖でそれを力任せに受け流す。流れた拳は大地を砕かれ粉塵を巻き上げた。
受け流された悪魔の腕は、雷光によって炭化して崩れ落ちた。だが、それもすぐさま巻き戻されるように戻っていく。
それを不愉快な赤い口を開いてゲタゲタと笑う。そして、また拳を振り上げていく。
“悪魔”が繰り返しているのは、だだをこねるような単調でしかない、攻撃の繰り返しだが、それ故に大剣使いも、狐目の男も近づけないでいる。
「ぬうううううッ!」
それをさばくガドッカの体から濁った煙が漏れた。ぽたりぽたりと黒いコゴリが、溶け出しては落ちている。油とゴムの混合物が、焼け落ちていた。人間で言えば軟骨が壊れ始めたといったところだろうか。
ぎしぎしと鳴る体を直すこともなく、ガドッカはますますどっしりと構えた。気合いが、黒い煙を吹き散らす。そうであっても信仰によって作り出された雷光は勢いを失いはじめていく。
「無視するんじゃぁねぇッ!」
巨漢がさすがにしびれを切らして斬り込む。無謀は理解しているが、それでも行かなければガドッカから食い破られる。
それを嘲るように、“悪魔”は歯を剥いた。待ち望んでいたような笑い。
無造作に振るわれる拳に向かって、巨漢はすり抜けて、踏み込んだ。回るように大剣を操り、胴に向けての剣閃を逆袈裟に振り上げた。切り込みは、深くその体を分かつほどだった。
故に防ぐ気はない。巨漢に向けて、無造作な蹴りが同時に入る。無理な体勢から放たれた膝は、“悪魔”自身の肉体を破壊しながらも、大剣使いの胴を穿った。
血を吐きながら、砲弾めいた勢いで弾きとばされる巨漢。魔剣は手放され、投げ出されたように宙を舞った。
「契約を成せ、泥の従魔、受け止めろッ!」
それを狐目が魔術で以て受け止めた。乾いた赤土から不自然に泥が盛り上がり、人型となって大剣使いを柔らかく受け止めた。鎧がへこみ、胴を圧迫しているのが見えた。あのままでは、近いうちに死ぬだろう。
ここで巨漢が死ねば、相手に戦力を与えることになる。そもそも見捨てるのも業腹だ。息はよし、心拍も落ち着いた。闘気も少しなら使えるだろう。短剣を片手にダスイーは立ち上がる。
「くそっ、面倒くせぇなッ!」
悪態と共に前に出ようとする盗剣士に女騎士が合わせていた。生命力を大きく失ったダスイーよりも先んじて盾を構え、剣を引き抜いて進む。
「一人で行かれるつもりですか?」
「ついてきてから、言うんじゃねぇーよ」
軽い口調で言いながら、ダスイーは彼女の背を追った。
「このままじゃあ、じり貧だ。いいか、奴の名を解放する。詠み上げてくれ」
オリエルは静かに頷き、答える。
「兄さんが来るまで時間がかかりますが」
「それぐらいはオレらで稼げんだろ」
「いえ、倒しきってしまいましょう」
不敵な笑いを残して、オリエルは面頬をおろし、一気に踏み込んだ。全身から黒煙を吹き上げるガドッカの前に立ち、雄々しく“悪魔”と相対する。
乱雑に腕を振り上げていた怪物に、オリエルは臆さず声を張り上げた。
「古き支配者よッ! 汝が名を再び呼ぼう」
動きが止まる。“悪魔”は赤い口を開き、かあああっと息を吐く。大地に腕をついて、かがむようにオリエルをのぞき込む。
「“死の司”カラナザール」
女騎士はなぞるようにその名を紡いだ。
一瞬、音が消え、すべての動きが止まった。周囲、いや世界ともいうべきものが停止したような感覚だった。何かがはめ込まれる音が、それを消し去り、現実を引き戻す。固い金属のようにも思える幻聴は、じんじんと脳の奥にまで響く。
朝日が輝いていた空に黒いヒビが走った。そこから夜の闇が滲むようにひろがり、太陽を覆い隠し、日食のようなわずかな光を漏らすだけになった。赤い大地は白く冷たい塩を吹き上げてきた。
神々が行ったという戦場の構築だろう。自身の有利な土地へと世界を張り替えていく。“魔法”にもっとも近い神々の秘奥だ。
「あ、ああああ」
“悪魔”から女の、場違いなうめき声が響く。ずるりと溶けるように鉛の板、トロールの鎧だったものが大地へと落ちていく。すると“悪魔”の体が、ミシリっと割れた。さなぎのように背から縦に裂ける。
そして、黒々としていた隙間から、白い翼が三対、ふわりと現れた。中から立ち上がったのは冴えた月のように青白い肌の女がいた。体躯は“悪魔”のまま、巨大である。それでも、体を覆うほど長い蒼い髪とまとった薄衣のせいか、華奢に見える。
その女、“死の司”カラナザールはこちらに、にぃぃっと笑いかけた。犬歯の伸びた口は赤々としたザクロのようだ。
「感謝するぞ、小さきものよ」
しぃんっと響く声だ。あの“悪魔”とは違う、静謐さえ感じるものだ。黄金の瞳を細め、笑った。視線を向けられるだけで体が重く感じられた。冷然と告げる女の顔は美しいものだった。
「貴様らに、我が軍門に下ることを許す。従え」
魂を振るわせるような、重い響き。だが、その言葉にダスイーは思わず笑いたくなった。
「なんだぁ、こいつは」
「ダスイー殿?」
笑いの混じってしまった声に、オリエルが思わず声を上げた。いや、上げることができた。そうだ、もはやダスイー達には“悪魔”に対する恐れは消えている。
笑いの声に、ぴしりと鞭打つような声をカラナザールが振り下ろした。
「小さきものよ、不敬であるぞ」
「ハッ」
ダスイーは鼻で笑う。のどの渇きは感じない。確かに圧迫感はあるが、赤銅竜ほどでもない。言葉が通じる。確かに強大な存在ではあるだろう。しかし、“悪魔”というには、もはや地に足が着いている。
「底が見えるぜぇ、カラナザール。あんたは、弱っている。信仰もされてない神なら。そんなもんだろうがよぉ」
“悪魔”としての不死性を失っている。そして真名を解放された今は本来の力も失った零落した神にすぎない。魔術師に行使される、人間に扱える程度の存在に落ちてきた。不死身、正体の分からないの化け物ではなくなった。そのことが、これほど気楽だとはダスイーは思ってもいなかった。
「片付けるぞ」
「兄さんを待つまでもなかった、ですね」
剣闘士らしく、オリエルは挑発するように盾を剣の腹で叩く。金属音が広がると、不快そうに“死の司”カラナザールが腕を上げた。
「愚かな、小さきものよ。ならば、裁こう。我は“死の司”カラナザール、三相をうち捨てしもの。苦界すべてに終焉を与えるものなり」
ギィンと虚空から降り注ぐように現れた金色の鎧、それがカラナザールに装着された。それでも付けられた場所は局所ばかりだ。物理的な守りにはとても見えない形だった。おそらく戦装束か、あるいは魔術的な守りだろう。
そして大地がひび割れて、ゆっくりと一本の鎌が現れた。血に塗れた月のように、赤々とした光を放っている。神の武器らしく、巨漢の魔剣とは格が違うことは分かる。カラナザールはそれを握りしめて、一つ振った。
「ここに死は解放された」
カラナザールは厳かに宣言するが、ダスイーはにやりと返した。
「そうだな、おめぇの死がなッ!」
冷や汗が走る背中、得物は心許ない短剣、体力はもはや絞りかすといってもいいだろう。周囲は相手のために作られた戦場でもある。しかし、肉もあり、死ぬ存在と零落した“悪魔”だ。勝てない戦いではない。
ダスイーは自分に言い聞かせるように、ずぃっと一歩踏み出して、オリエルの横に立った。キィンっとオリエルの剣を打ち、やるぞ、と短くいう。オリエルは静かにうなずくと、カラナザールへと刃を向けていった。




