嘆きの空に / 鑑定士リオナ
自身の瞳がじりじりと焼かれているような感覚が、頭蓋の奥まで焦がしていく。痛みをごと唾を飲み、張り付いた口をゆっくりと開く。
「グリセル・コークスグルト……」
自身の声が、いやにか細く小さく聞こえた。ヴィンズが後ろを支えてくれてはいるが、あの神官長ですらも震えるようにそちらを見ていた。
杭の矢で仕留められた一つ目巨人の遺骸とそれに潰された異形の群れ。それらを陽光騎士だったものが、ゆっくりと踏み越えてきた。死んだはずの恐狼がのろのろとそれに続く。その後ろには数多の遺骸が蠢き、続いていた。濃密な死の魔力が黄土色の灯りとなって、リオナには見えた。彼らは死霊騎士より大分遅れているが、それは肉体の損壊が大きいせいだろう。
見渡せば、死者達の包囲は闇と城門の間に怪物を押し込めているようだった。
「ふぅぅむ。まさに追い込み漁だった、と」
「網は、アルディフか。なんと、まあ、ぞっとせんな」
ガドッカと“鉄の瞳”の団長はすでに正気に返っていた。オークの巨漢は防衛の算段を立てているようで、顎を撫でていた。ぎっと鈍色の瞳を引き上げて、ギーロはぐるりと背を向けた。
「少し離れる、この場は頼むぞ、押さえてくる」
「あい、分かった」
ガドッカが頷きながら、蒸気を一つ吹いた。瞬く間に石弓を巻き、鉄杭を番え、弾く。音が爆ぜて、矢が放たれる。
おそらく狙いは死霊騎士ではない。その後ろに控える遺骸の群れだ。鉄杭ならばいつもの遺骸を刺し貫き、破壊できる威力を持っている。文字通り、釘付けにできる。多少の時間が稼げるはずだ。
しかし、直ぐさま、死霊騎士が間に入り、盾の上を滑らせるようにして杭を軽々とはじき飛ばす。
ざざっとそのままの足で、グリセルだったものが怪物の群れに切り込んだ。牛頭鬼から一角兎まで無差別に、一方的に斬られていく。疲労した様子もないのはアンデッド特有のものだ。死者は肉体の酷使に無分別だからだ。
そうして、怪物の群れを割っていく。怖気を覚える黄色い光をぼんやりと纏い、悪寒と魔力と垂れ流しながら、城門へと突き進んできていた。たとえ、頑強な鉄の門であったとしても、飛来する鋼鉄の塊を裂くものに、どれだけの障害になるだろうか?
ざわっと総毛立つ感覚がリオナの上を滑り抜けた。恐怖と混乱の合いの子が、痛み止めを踏み越えてきた。
それらがリオナから離れて、ざわめきとして城門を駆けめぐる。声にならない怒号を吠え立てるもの、ひたすら困惑のまま立つだけのもの、呆然と武器を手放すものまでいた。
災害の後にもそれは似ていた。違うのは今から突き立てられることが分かっていることだろうか。
肩の上から震えが伝わり、リオナは思わず見上げてしまった。神官長が固く冷たい顔のまま、ヴィンズは静かにリオナの肩から手を離した。
そして、ゆっくりと城門の正面にまで歩き、その上に跪いた。
腕に巻いていた貝殻の形をした宝石の数珠に少しだけ、視線を向けた。少しだけ、ほんの少しだけの空に掲げる。淡く柔らかい緑の光を放つそれは“畑の男”の祭器たる“蛙の皿”だ。リオナの瞳は、その奥に素朴で優しげな農夫の姿を幻視した。
ヴィンズは天に向かって吠えるように、泣くように祈りの言葉を捧げた。
「偉大なる収穫者、知恵の解放者にして我らが始祖よ、その大いなる慈悲によって、邪悪なる者達より、我らの家を御守りください」
声に答えて、宝玉が一つ、また一つと淡い緑の光となって消えていく。そして雲一つない夜空から、星のように輝くものが一滴、二滴と大地に落ちてくる。リオナには力強い生命の波動が緑色の光輪となって映る。
枯れかけた低木がその一滴に触れただけで、青々とした葉を取りもどした。その一滴が動き回る死人に触れれば、生命の力が不死を洗い流し、大地へと還してた。
緑色の光が、ヴィンズから夜空を覆うように満ちていくと、小さかった雫はざあざあと唸る大雨と変わり、帳となって降り注いだ。
雨に当たった死者の群れは崩れて倒れ、声もなく溶けるように大地へと還っていく。生きている怪物達は傷を癒されると、狂乱を静かに納めた。そして我先にと死者の囲いから抜けだしていく。
ざわめきも動揺も流されて、雨音が城門へと染み込んでいった。かがり火がぱちりぱちりと爆ぜて、雨を静かに弾いた。その雨の中でも消えることもなく、火勢は僅かに強くなっていた。
夜闇の中に賑やかな静寂だけが浮かび、冒険者達はほうっと息をついた。
だが、その静寂も一瞬だった。
緑色の光、生命力の塊ともいうべき雨の帳。それを引き裂いて、粘液のようにたゆたう黄色い光が近付いて来ていた。
ただ一人、銀糸の外套を目深に被って、魔力の雨を避けている。グリセル・コークスグルトの亡骸に他、無かった。それは一度だけ辺りをぐるりと眺める。そして視線を真っ直ぐに、ヴィンズ神官長へと向けた。
そして、疾走。いや、跳躍の繰り返しともいうべきか。ただ一歩、そのただ一歩が遥かに広い。
正気に返った射手達が死霊騎士に向けて、矢を放つ。だがそれも、盾の上を滑るか、あるいは切り払われ、地にだらりと落ちていくだけだ。
リオナは、夜からも逃げることも出来ないのに、こんな城門の上で何の意味もないのに、後ろに下がった。足がもつれて、濡れた石畳の上に滑った。支えていたヴィンズは今はいない。
だが、鉄の塊がそれを押さえた。その腕は冷たく、雨で輝いている。ガドッカは雨音の静けさに蒸気を吹き上げて答えていた。機械の神官は体を支えながら、リオナをしっかりと立たたせる。屈んで、リオナと目を合わせた。兜の奥、硝子で出来たガドッカの感覚器官に情けない萎んだ顔が映った。
「なぁにッ! 外套さえ外せばこちらのものッ! 拙僧に任されよッ! 」
言い聞かすような声、表情のないはずの鉄仮面の奥が震えた。それも一瞬、ガドッカは素早く立ち上がる。そして、城壁の縁を越えて、外へと跳び出した。
「雷神ザオウよッ! 拙僧に偉大なる御力を貸し与え給えッ!!」
鉄棒に雷光が走り、落下と同時に振り上げられた
その真下には死霊騎士グリセル、全身の重さと勢いをのせて叩きつける。
纏った速度、威力。おそらくガドッカが出せる全力の一撃。だが、それも大地に刺さり、柔らかな泥と電光を飛び散らすだけだ。
ただ怪しく黄色く輝く、一本の剣にそれは無力だった。
「闘気ッ!? 流されッ!」
悲鳴のようなガドッカの声は殴打によって吹き飛んだ。只の盾を叩きつけるだけの一撃で、鋼鉄の体が飛び、城壁にめり込んだ。石が砕けて爆ぜて、固い音ともにガドッカの頭に堆積した。曲がった胴体から、電光を散らし、蒸気が黒々と漏れ出でる。
「ギィ、ガ。まだ、ダァッ!」
潰れたような声を上げながら、ガドッカはまた城壁から体を引き起こす。雨に叩かれて、機械の体はぢぢぢと鳴く。生命なき生命であるガドッカの体は治らず、下には油混じりの雫がこぼれ落ちる。
それでもガドッカは黒い煙を噴き上げて、叫んだ。
「ライジン、ザオウ、よッ! おチカラを、か、かしあたえ、タマえッ!!」
手放さなかった鉄棒にさらに強い雷光を走らせ、槍のように突き掛かる。踏み込みと同時に歪な音が機械の神官から鳴り響く。それでもなお、踏み込みは続いた。
死霊騎士はその一撃を黄色い闘気を纏った剣で弾く。勢いは流されて、横に反れる。雷光は虚しく霧散し、ただの一当てで加護を失った。
そして、胴の開いたガドッカに魔剣と化した一刀が薙ぐ。
ガドッカは逡巡することもなく、沈むように踏み込む。それでもなお避けきれず、左肩が剣の柄だけがかすった。ぬめりがある閃光が辺りに爆ぜて、ガドッカはそのまま前方まで押し流された。
泥の大地に顔面から引きずられて、街道の縁でやっと止まった。
「ガ、グ」
泥だらけのガドッカ、その左腕から胴が抉られていた。辺りにばらばらとネジと鉄板がひしゃげて、散乱していた。
ガドッカは動かない。動けない。ぱちりと電光が爆ぜて右手が少しだけ持ち上がるそれだけだった。
リオナは必死にクロスボウを構えた。間に合うはずもない、効くはずもない。だが、何もしないという選択はなかった。必死に巻き上げた。髪からは雨粒がだらだらと落ちて、顎に伝う。
死霊騎士は悠然とガドッカに向かうと、その黄色い刃を頭に目掛けて振り下ろした。閃光、そして破砕音。
「あ、ああああ」
目を瞑ってしまった。暗い視界の中に、自らの放棄した責任とガドッカの死が浮かび上がる。その後悔が重く、濡れた目蓋を無理矢理に引きはがしてくれた。
開けば、ガドッカの姿はない。
ただ、ただ、緑。
「い、ば、ら?」
茨の壁がガドッカのいるべき場所を覆っていた。さすがの死霊騎士も固まっていた。そこから鞭のように数多の茨が、グリセルであった者に叩きつけられる。
死霊騎士は後ろに跳び距離を取りながら、追撃は切り払う。飛び退いた後では、明らかに先程とは構えが違っていた。警戒が、彼の動きをすっかり守りの方向へと変えているようだった。
「間一髪、かしらね」
落ち着いた女の声が雨の隙間から届いた。彼女はのっそりと人影が茨の中から現れた。
土気色の顔色、目の下に隈を浮かべた、くすんだ金髪の女。首には醜く残る火傷の後。杖を悠然と構えたその姿。
「ウィードッ!」
「はいはい、話は後でね」
そう言って、にこりと微笑むとかつての仲間と呪術師は相対した。
「ねぇ、グリセル。生命溢れるこの場所で、“今の貴方”が私に勝てるかしら?」
その言葉無視して、死せるグリセルは動いた。
ため息を吐くと呪術師は死霊騎士に向かって、杖を一振りした。それだけで茨が繁茂し、大気を裂く。攻撃ではない。壁のような茨を大量に埋めていくだけの行動だ。
だが、掠りもすれば、その身を守る銀糸の外套は裂かれる。となれば生命の雨の中で死者は安寧に沈んでいくしかない。
切り払おうと刃を振るう死霊騎士。もはや見るのも出来ぬ剣が、穢れた闘気を走らせる。しかし、それはただ茨の壁にめり込んだ。闘気さえ、喰らいながら茨は剣を伝い、彼を飲み込むように繁茂していく。
死霊騎士は咄嗟に剣を引き離し、下がる。
武器を失ったグリセルは生前から使っていた、予備の短剣を構えながら、じりっと盾をかざしてきた。
ウィードは杖を相手に向けながら、彼をにらむ。周囲には彼女がいるだけで、いくつもの草が繁茂し、小さな花を咲かせている。
植物を司る呪術師であるウィードならば“畑の男”の力が降り注ぐ中であれば、英雄たるグリセル相手であっても力負けはない。
そう主張するようにウィードは強く、一歩、グリセルに近付いた。
死霊騎士は動かず、ウィードを見据えているようだった。しかし、ぱっと跳び退いたかと思うと、雨の外に消えていった。
「やれやれ、ね」
ウィードが呟くと、茨の壁と繁茂した草木が、溶けるように枯れていく。後の残ったのは、ぼろぼろのガドッカだった。吹き上げる煙は黒から白へと戻っていた。まだ、彼は生きている。
リオナはへたり込むと、安堵の、言葉にならない声を上げた。涙が少しだけ顔を出して雨に流されていった。




