悪魔は囁く
毎日きちんと洗濯された綺麗な服を着て、朝と夜の二度お腹が膨れるだけのご飯を食べて、暖かい寝具に包まれて眠ることの出来る生活は、客観的に見ればきっと、幸せな生活に分類されたのだと思う。
申し訳程度の神力が発現して、巫として教会に売られたのは四つになるかならないかの頃だったから、生まれた家の記憶はあまり残っていないけれど、薄暗い部屋の中で常に腹を空かせていたこととだけは覚えているから、少なくとも飢えぬまま十六まで育つことが出来ただけでも、随分と幸運なことだと理解はしている。
教会の巫、といっても私は、下っ端中の下っ端だ。
高位の巫になると、大掛かりな結界を張ったり単身で悪魔を祓う事も出来るけれど、私程度の力だと悪魔はおろか、直接穢れを祓うのも難しく、出来ることといえばせいぜい、効果の薄い聖水を作り出すことくらい。それも限界まで神力を使い切っても、一日の食事がぎりぎり稼げるかどうか、という微妙なもの。
けれど一日の食事だけではなく、清潔な服を支給され、日に一度の湯浴みすら許され、十年以上の長きに渡って教会で育てられてきたのは、全てのものに慈悲をと説く教会のありがたい教えのおかげ。
力ある高位の神官たちが哀れな子供たちを引き取って保護するのも、十分な衣食住を保護して育てるのも全て慈悲によるものであり。
なぜだか下級の巫には見てくれの良いものしか存在しないのは教会の慈悲の賜物であり、時や場所を選ばず神官が望めば、一部の高位の者を除いて全ての巫は、速やかに足を開いて受け入れなければならないのも、慈悲の為せる業。
なぜなら力ある神官が弱い巫たちを憐れんで自ら、貴重な時間を割いて力を直接体に注ぎこんでいただけるのである。慈悲深きその行為を有難く受け止めこそすれ、拒否するなんて罰当たりな行動をしてはならない。
無論そのような、溢れんばかりの慈悲に包まれた幸せな状況を不服に思う巫なんぞ存在するはずがなく、万が一にも逃亡を企てる者があればそれは、悪魔に憑かれたからに他ならず、速やかに処分しなければならない。市井に悪魔憑きを放たないための、慈悲である。
慈悲、慈悲、慈悲慈悲慈悲慈悲慈悲。
まったく本当に。
ありがたくってありがたくって反吐が出そうなほどに。
(ばかばかしくってやってられない)
だから、敬虔な信徒が集う教会の広間から薄い壁一つ隔てた隣の部屋で。
ぶくぶくと太った神官に慈悲を賜り、感極まって思わず胸の中で毒づいた時。
『俺と、契約しないか』
教会に現れる筈のない悪魔が。
人の敵であると幼い頃から教え込まれてきた、その悪魔が。
まるで人のような形をしていながら、人とはまったく違う心を持つ、美しい漆黒を纏った悪魔が。
突如として部屋の中に出現し、途端に縮み上がり震える神官には目もくれず、私へと伸ばした手を。
『富でも復讐でも名誉でも。望むものを全てお前に与えてやろう』
掴み取らない選択が一切浮かばなかった程には。
私は、教会というものに、うんざりしきっていたのだった。
「なあなあ、復讐しねえの? 教会のやつ全部ぶっ殺して、血祭りにあげたくねえの?」
「めんどい」
「ああもう、くっそ! あてが外れた!」
さて、神官の目の前で悪魔の手を取った私が、やすやすと見逃される筈もなく。
ただの下っ端巫が一気に教会のお尋ね者まで上りつめ、教会の威光が届く範囲全てに即刻滅するべしとのお触れが回ったため、私は悪魔の力に頼って隣の大陸まで逃げださねばならなかった。
悪魔はすぐにでも私が復讐に走ると思っていたのか、少々戸惑った様子ではあったものの、ゆっくりと準備をして改めて実行するつもりだと勝手に勘違いして、あっさりと望みを叶えてくれた。
けれど落ち着いたとある小さな街で、せっせと新たな生活に向けて準備を整え、順調に街に溶け込み始めている私の姿を見てようやく、不審に思ったらしい。
そろそろ復讐を、とせっついた悪魔に、そんな気が毛頭無いことを伝えた時の表情は、悪魔のくせになんとも人間らしくて笑ってしまった。
「だってお前、そんなどす黒い濁りきった魂してるくせに! 人殺して高笑いしそうな魂してんのに! なんでだよ!」
最初は仰々しい物言いをしてたのに、復讐しないと伝えてからはかなり砕けた言葉になったから、そちらが素なのだと思う。力ある悪魔を自称しているけれど、なんとなく、まだ若い悪魔のような気がする。
悪魔によれば、私に契約を持ちかけたのは、私の魂があまりにも真っ黒に染まり穢れきっているから、らしい。悪魔に堕とされた人間でもそこまで穢れた魂は珍しく、力を渡してやれば勝手に面白い事態を引き起こすだろうと期待していたのに、いつまで経っても動き出さないから、焦れたようだ。悪魔のくせに、堪え性がない。
はっきりと復讐する気がない事を伝えてからは、あれやこれやと具体例をあげてどうにか私を動かそうと唆してくる。復讐でなくても、富を求めるのでもいい、国を滅ぼしてもいい、何なら目に付くやつを片っ端から血祭りにあげてってもいいなんて言い出すけれど、いまいちそそられないので聞き流している。
私が彼をまだ若い悪魔だと思ったのは、砕けた話し方もあったけれど、肝心の悪魔の仕事が下手くそすぎるからだ。
たとえば復讐を唆すにしても、国取りを囁くにしても。
もうちょっとその気にさせるような言い方があるだろうと思うのに、いつも直球でやろうぜ! と言ってくるだけ。そんなもんで乗り気になる訳がない。
教会では悪魔というものは、甘言を弄して人の心を操ると言われていたけれど、この悪魔にはとてもじゃないけれどそんな器用な真似が出来そうに無かった。
「んー、もし、国中の人間虐殺しなきゃこの生活送れなくなるって言われたら、そりゃヤるけど」
「おおっ! それいいな! そうしようぜ!」
「でも残念でしたー、もう『教会のない遠い国で暮らす』って契約結んじゃってますぅー、今更遅いですぅー」
「あああああ! くっそ腹立つ! あの時は一旦落ち着いて作戦練りたいって事だと思ったんだよ! 後から新しく契約結べばいいって!」
「あはは、あほだねえ」
「っばーかばーか!」
ただ、契約を重んじる、という点においては、目の前の悪魔と教会で教えられた悪魔は共通していた。
悪魔にとって人間やそれに近い知能のある存在っていうのは遊び道具兼おやつみたいなもので、楽しく遊んでいるうちに力加減を間違えてうっかり滅ぼしてしまう事が多々あったため、契約という枷が設けられたようだ。
そのおかげか私の元に現れた悪魔は、きゃんきゃんと鬱陶しく纏わりついてくるものの、私名義で勝手に人を殺してくることもないし、教会にちょっかいをかけようともしない。
正直言って、こんなふんわりぼんやりとした契約なんて、穴をつつけばいくらでも悪魔の望む方向に誘導できそうなものなのに、私の悪魔はそういう能力がからっきしだ。悪魔のくせに。
「んな真似すんのはよっぽど変わったやつくらいだぞ」
あまりにも私の悪魔が不甲斐ないので、教会で教えられた悪魔の話をしてやれば、きょとんとして首を傾げられる。
教会では悪魔とは言葉巧みに人を唆し堕落させるもの、とされていたけれど、実際そこまで手間隙かけて遊ぶ悪魔は少数派のようだ。わざわざ澄んだ魂を堕落させずとも、最初から堕ちた魂に力を与えてやれば、何もせずとも面白い事態を勝手に引き起こしてくれるから、私の悪魔も含め、大抵の悪魔はそっちを選ぶらしい。なのに教会では少数派が悪魔の本質であるように語られているのはおそらく、そちらの希少な悪魔の方が人間と関わる期間が長いからだろう。
私の悪魔も、この方法で常に成功していたから、私との契約もすぐに成果が出ると思っていたらしい。『力が足りないだけの魔王』と称された私の魂からして、面白い見世物になると考えていたのに、私がやることと言えば毎日毎日無難に生活しているだけだから、焦ってせっついて、それでも上手くいかないから最近では、すっかりふてくされて拗ねてしまっている。
「わっかんねえ。なんで復讐しねえの? お前の魂からして、『そんな酷いことできなーい』とか『教会全部が悪いわけじゃないもんっ』とか言い出すタマじゃねえだろ?」
そんな、もっと最初に聞いておくべき事柄にようやく私の悪魔が触れたのは、契約してから季節が二つ巡ってから、ようやく。
今更そこか、と少々呆れたものの、特に隠す理由もないのに正直に答える。
「だって、悪魔との契約って、私の魂が代償になるんでしょ? なのになんで教会のために使わなきゃなんないの、ばかばかしい。全部私のために使い切るわよ」
「……っあー、そうか、くそっ! そっちだったのかよ!」
私の返答に対する私の悪魔の反応は、ちょっぴり意外だった。
そっちって一体どっちよ、と首を傾げると、口に出して聞いてもいないのに進んで説明してくれる。
曰く、魂が穢れるのは己の欲にいかに忠実であるかとその欲の種類に大きく由来していて、基本的には利己主義な人間がそうなる傾向が大きいらしい。その中でも私は極端にそこが特化していて、自分以外の存在を虫けら程度にしか思っておらず、わざわざ虫のために労力を割かない性質。自分以外心底どうでもいいと思っているため魂は黒く染まりきってはいるものの、面白いことを引き起こす事割合は低いため、悪魔が好んで契約する種類のものでは無かったようだ。
騙された、とぶつぶつ文句を言う私の悪魔に、私は改めて呆れ返ってしまった。
悪魔云々を差し引いても迂闊すぎるし、今の今までそこに気づいてなかったなんて節穴すぎる。
別に私は悪魔相手に取り繕ってなんていなかった。教会には未だ私と同じような巫たちが山のようにいるはずだけど、助けようなんて気になったことは一度もないし、自分だけが教会から逃れた事に後ろめたさを感じたこともない。快適に暮らすために必要なだけ愛想よくしているけれど、面倒ごとの臭いを嗅ぎ付ければさりげなく距離をとってきたし、傍から見れば親しいと呼べる存在もいくつか出来たけれど、いざとなれば築いたもの全てを切り捨てる事にためらいもない。
悪魔相手に振りまく愛嬌なんて持ち合わせていないから、そんな性質は包み隠さず見せてきたはずだったのだけど。はっきりと言葉にしないと気がつかないなんて、ほんとに今まで悪魔としてやってこれたのか疑問に思ってしまう。
「人間の考えてることなんて分かる訳ないだろ」
開き直った私の悪魔はそう言っていたけれど、この分だと、今までの契約でも気づいてないだけで、いいように使われてた可能性もありそうだ。
だって、魂の穢れの基準があまりにも人間の理性に寄りすぎている事を疑問に思って口にすれば、「ここ、人間の魂の養殖場だから当たり前だろ」なんてあっけらと、セカイの秘密めいたものを教えてしまうし。悪魔が人間と契約するのは、玩具兼おやつを得る事に加えて、適度に人の世を混乱させて魂を飼育する目的もあって、だからこそ遊びに夢中になって絶滅させてしまったら本末転倒なので、枷が設けられたのだなんて裏話も得意げに話してくるし。おそらく人間である私が知ったらまずそうな情報を、ちょっと誘導しただけで躊躇いもなくぽんぽんと投げ返してくれる。
迂闊すぎて、聞いたこちらの方が頭が痛くなる事も多い。それでよく、今まではうまくやってたなんて胸を張れるものだ。もしも本当にうまくやれてたなら、単純に、運が良かっただけだろう。
私の本質を理解してからも、悪魔はどうにか私をその気にさせるべく、日々頑張っている。
その内容が国取りや復讐を唆すものから、徐々に変化していったのは、契約を交わして季節が五つ巡った頃。
一方的に誘いをかけるだけだったのが、猫なで声を習得して駆使するようになり、甘えた物言いで小賢しく言葉を弄するようになった。
けれどいくら小手先の技を覚えたって、私の本質が変わらないままだったように、私の悪魔の妙に単純で素直な所は変わらないまま。そっぽを向いてさりげなさを装っても、期待の入り混じるその瞳の煌きは、いつまで経っても隠せてはいない。
そして、私の悪魔は囁く。
「なあなあ、悪魔にならねえ?」
ふと思いついたと言わんばかりの、わざとらしい様子で。
「お前の魂なら、すげえ力のある悪魔になれるって。俺が保証してやる」
期待を隠せず、勢い込んで。
「まあ最初はよわっちいまんまだろうから、力つけるまでは俺が守ってやってもいいけど?」
せっつきすぎたと気づいて、どうでもよさそうに横をむいて。
「あ、そうだ。俺のもんになれば、最初っからある程度の力は使えるぞ」
ぽんと手を叩いて、さも今気づいたと言いたげなふりをして。
「人間風に言えば俺の嫁? みたいなもん?」
とうとう我慢しきれなくなったか、嬉しそうにひゅんひゅんと私の周りを飛び回って。
「いいぞ-悪魔は。楽しいぜ! お前は人間より悪魔に向いてる!」
悪魔らしからぬ、満面の笑みを浮かべて。
まったく。
相変わらず私の悪魔は、唆すのが下手くそで、何にも分かってなくて笑ってしまう。
手管の全てを私が教えた事も忘れて、それとなく誘導された事にも気づかないで、無邪気に誘ってくる様子はいっそ、馬鹿すぎて可愛らしい。
私は、私以外の存在を、心底どうでもいいと思っている。それは正しい。
けれどどうやら、私の物だと、私の一部だと認めた存在に関しては、ずっと手元に置いておきたくなる性質でもあったようだ。
教会に居たときは、私の物だと言える物なんて一つも無かった。私自身ですら、私が自由に扱える物では無かった。
しかし、悪魔と契約を果たした時、初めて私は私を取り戻し、そして。
私の、私だけの悪魔という、私の物を手に入れた。
契約が続く限り私から離れられず、少しの誘導で簡単に思い通りに動いてくれる、私の悪魔。
たかだか契約が切れた程度で私の物でなくなるなんて有り得ないし、今後一切、他の人間にくれてやるつもりもない。万が一そんなことが起ころうものならそれこそ、利用出来るものは全て利用し尽くし、いくらでも命を奪って魔王と呼ばれる存在にもなろう。私の悪魔の望むがまま、国取りでも復讐でも、何でもしてやろう。
それで私の悪魔をずっと私の物に出来るなら、悪魔になる事に躊躇いがあろう筈も無い。
けれど今のところは、積極的に動かずとも、私の悪魔は、私を唆す事で頭がいっぱいだから。
悪魔になるのなんて、私の中では既に決定事項であるのも知らず、必死になっているから。
他の事に目を向ける余裕なんて、残してあげていないから。
「なあなあ、いいだろ?」
「んーまあ、気が向いたら?」
「えー! いつになるんだよ!」
すっかりと私に捕われてしまった、私の悪魔の囁きを適当に聞き流すふりをして。
「悪魔って、楽しい?」
「おお! その気になったか!」
「うーん、微妙かなあ」
「なんでだよ!」
「ふふふ、もっと頑張らないとその気になれませーん」
「くっそー……」
今日も今日とて、私は、囁く。