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森魔女  作者: 黒いたち
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金の悪魔

 魔石ませきとは、魔力を含んだ石である。


 おもに地中深くの岩盤から発掘され、希少価値が高い。


 見た目はどれも一貫いっかんして、砂糖をまぶした飴のよう。

 しかし、魔石の種類や純度により、保有する魔力は、すべて異なる。


 魔力を貯めることも、引き出すこともでき、いろいろな用途に使用できる。

 便利な反面、扱いが難しく、使用や加工には、専門的な知識や技術が必要だ。




 そんな魔石を、まるで調味料のように、あつかう少女がいた。


「しわ消し……は、これ、とこれ、あとは薬草か」


 薄暗い地下室の作業場で、ナツメは飴色の食器棚から、魔石がつまった瓶をひょいと取り出した。


 人里離れた森の奥の更に奥に住む森魔女は、長閑のどかな生活を想像されることが多いが、実は結構、忙しい。

 害獣の攻撃を受けにくい伝書鳥でんしょどりが、週に一度、仕事の依頼書を運んでくる。 

 とある高貴な方々より寄せられる相談内容に、そぐう薬品を製作する仕事だ。

 森魔女にとって、造作もないことでありながら、破格の報酬が手に入るおいしい仕事だ。


 作業場が、地下室である理由は、二つ。


 ひとつは、陽光が当たると性質が変わる、繊細な物質を取り扱っているから。


 もうひとつは、この部屋が、とても安全であるからだ。


 地下室に通ずる道には、盗人除けのトラップが仕掛けられており、悪意ある者はたどり着くことが出来ないらしい。

 らしい、と言うのは、千代目の森魔女、アニスレッドがほどこした術だからだ。

 そのおかげなのか、一度も盗難に遭ったことはないが、そもそも、訪問者が極端に少ないので、効果のほどは、いまいちよくわからない。


 代々受け継がれてきたレシピを思い出しながら、必要な道具をそろえていく。


 とは言っても、基本的には、魔力を込めて、混ぜるだけ。


 魔石に、許容量を超える魔力を流すと、砂になる。

 薔薇の蒸留液(ローズウォーター)と、依頼主が好む芳香植物を加え、乳鉢でゴリゴリと混ぜ合わせていく。

 その際、魔力を込めてつぶやくのは、

しわよ、消えろ」

で、ある。

 おまじないのようだが、これで効果絶大だから、不思議だ。


 精製せいせいした液体を、華やかな装飾そうしょくがほどこされた小瓶に移す。

 一見、香水のようだが、見た目にこだわる依頼者たちの要望を、取り入れた結果だ。

 運搬に耐えうる頑丈な小袋にそれを入れ、最後に封蝋ふうろうして、完成だ。




 クォーツに手伝わせることも多いが、この家に同居人が増えたことを、ナツメの母親のユリスに報告に行ったために不在だ。


 竜は夜目が利く。

 

 クォーツの道中を案じることはないが、今日初めて会った男性と、いきなり二人きりにされる、こちらの身にもなってほしい。

 異性として見られてはいなくとも、他人と一夜を共に過ごすというのは、緊張を強いられるものだ。

 ミライの部屋を自室から一番遠い場所にしたのも、そういう理由からだ。


 クォーツに、明日にしたらと提案したが、

「オスに関することは、当日中に必ず報告しろと言われているから」

 満面の笑顔で答えたクォーツは、ユリスに会えるのが嬉しくて堪らない様子で、ウキウキと出かけていった。


 クォーツはユリスによく懐いており、ユリスの命令は忠実に執行する。

 その主な仕事は、お茶くみ、肩もみ、その他雑用。

 思い返すが、クォーツが守護竜らしいことをしているのを、見かけた記憶がない。


 呼ばれた、と言っては飛んでいき、報告、と言っては飛んでいく。


「完全に、使い魔じゃない」

 

 身軽すぎるクォーツに、ナツメは毒づく。

 わずかながらに口惜しさが混ざるのは、森魔女特有の事情があるからだ。


 つがいを持たぬ森魔女は、森から出ることができない。

 どうしてか、そのように、なっている。


 かろうじて、森に囲まれた近隣の町までは出歩けるが、それ以上は、目に見えぬ何かにはばまれてしまう。


 つがいを持てば、つがいの居る場所に、行くことはできる。

 しかし転移魔法を使用するため、道中の観光などは、不可能だ。


 この世界は、広い。


 遥か彼方には、魔石で出来た岩場や、魔力を吸収する砂に覆われた砂漠があると言う。

 見た者が居ないために信憑性には欠けるが、実在してもおかしくないとは思っている


 本で得た知識は、絵空事のように思える。

 だからこそ、自分の目で確かめたい。


 いつか、旅をしてみたい。


 しかしそれが叶うのは、ものすごく後になることを、ナツメは知っていた。


 この、森魔女の呪い・・だが、一生このままというわけではない。 

 子を成し、それが十を過ぎると、魔力の半分が、子に移る。

 それと同時に、子が、森魔女を襲名する。

 これは自然の摂理であり、どうやっても、避けられない。


 魔力の半分と、子供の自由を代償に、ようやく解放されるのだ。


 歴代の森魔女が、己の意義に疑問を持つこともあったが、陽気な性格の者が多かったために、深刻にとらえられることは無かった。

 考えたところで結論が出る問題でもなし、千代目の森魔女が天より守護竜しゅごりゅうを授かったことで、彼女らの威厳が損なわれることはなかった。




 ナツメは小さく息を吐き、残りの依頼書を順番に読んでいく。

 口に出すのは、頭を切り替えるためだ。

「シミ消し、代謝促進、育毛剤……」


 それにしても、美を追い求める依頼者達の欲求は、なんと多様なことだろうか。

 

 同じ作業を三度繰り返し、軽い疲労感を覚えたところで、今日の作業に見切りをつけた。

 手の平に残った魔石の粉を払うが、汗で張り付いたそれは簡単には取れず、手の平がきらめく粉で装飾された。

 完全に落とすには魔力を込めた水が必要となり、作り置きの分は昨夜で無くなったことを思い出した。今から井戸まで行くには時間が遅すぎる。断じて、お化けが怖いからではない。

「どうせ、寝るだけだし」

 ドアノブや枕が少しくらいキラキラしたところで支障は無い。それよりも、見通しが悪い夜にわざわざ井戸まで出歩く方が危険だ。

 もう一度両手を払ってはみたが、やはり煌めいたままであった。




 泥の様な雲が、夜風でちぎれ、もやのように広がる。

 ミライは、扉の真横の壁にもたれ、おぼろ月を忌々(いまいま)しげに見やる。

 窓から最遠の距離を保つが、低い月はミライの努力を嘲笑あざわらうかのように視界に入ってくる。

 ドッグタグと触れ合う皮膚が脈打つ感覚に、嫌な予感がぬぐえない。慣れない場所で神経が高ぶっているだけだと結論付けるには不安材料が残り、どうにも眠れそうにはなかった。


 あてがわれた部屋は二階の奥。

 広い部屋に大きな寝具があり、鏡台と椅子が一つずつ並ぶ。

 どう見ても客間で、ここに泊まるわけにはいかないと一度は辞退したが、そこしか空いている部屋が無いと言われた。その上クォーツが、広すぎて寂しいのならと添い寝を提案してくれたので、丁重ていちょうに断り、今に至る。


 昼間の過失かしつを反復し、額に手を当てる。

 ナツメが、古代竜を使い魔としょうしたのを聞いた瞬間、激情げきじょうに駆られた隙をついて、体のかじを奪われた。

 記憶が途切れているわけではない。

 情動じょうどうが起きると、四肢ししかせめられ、あたかもろうの中から自分を見ているような感覚に襲われる。

 その要因はあの日にとり憑ついた黒い大蛇に違いなく、ふと気を抜いた瞬間に恐ろしいほどの力で理性を絡めとろうと暗躍あんやくする。

 それは森魔女と対峙した頃から頻繁に起こるようになり、ドッグタグが穢れるまではさほどの脅威も感じられずに優位を確信していたのだが。

 制御を可能にしていたのは加護の力で、理性とは余りに脆弱ぜいじゃくなものであった。

 特に、彼女の魔力を感知した大蛇は強烈な反応を見せる。渇望とも呼べる感情は深い根を張るようにミライの心を侵食していく。

 ―― 彼女と正当・・な契約を結ぶ。

 駆り立てる願望は欲望にも等しく、気付くと頭の中が契約の二文字で占められていく。

 それは王立研究所と森魔女の契約だろうか。

 違和感に首を振ると、身の内でひっそりと笑う声が聞こえた。

―― 血の盟約めいやくを。


 それは何だ、と己に問おうとして、手の甲に黒い痣あざを見つけた。

 影にしては違和感があり、思わず凝視する。

 まるでインクをこぼしたかのような模様が、くっきりと浮き出ていた。

 ぞわりと皮膚を這う感触に、慌てて袖そでを捲まくる。

 腕はまだらになっていた。

 目に飛び込んできた異端な色彩に息が詰まり、冷や汗が吹き出す。視界が定まらずに、ひどい耳鳴りがした。

 黒い染みは水が流れるように広がり、腕全体を覆っていく。

 すがるように引きずり出したドッグタグはすすけており、ミライは加護の消滅を察する。

 胸を突き破るような鼓動が苦しくて堪らない。

 脂汗が滴る口元に手をあて、手を付いた先に鏡台きょうだいがあった。

 鏡は月光を反射し、極限まで散大さんだいしたミライの瞳孔を直撃する。

 神経が焼き切れるほどの焦熱しょうねつに、四肢が痙攣けいれんして強張った。

 気が遠くなる浮遊感に、視界はかすみ天地が混ざっていく。

 鏡台に両手をついて体を支えるが、崩れた膝を床に打つ。

 薄れゆく意識の中で見た鏡の中の自分は、金の瞳をぎらつかせながら、知らない顔でわらっていた。


「眠っていろ……実体を手に入れさえすれば、お前にもう用は無い」

 鏡台に向き直り、あごに手を添える。

 長年人間と共存することで、彼は言語を会得していた。実際に発音するのは初めてではあったが、言葉が喉を通ってしまえば、それは造作のないことに思えた。

 軽快に指を鳴らすと、黒に覆われた顔が、一瞬で人間の皮膚の色に戻る。

 金の瞳を閉じ、親指と中指の腹で左右のまぶたを撫でる。

 開けた瞳は暗群青をしており、下がる眉尻とは対照的に口角が上がっていく。限界まで引き上げられた口元から除く牙は犬歯の領域を超えていた。

 邪魔な首の鎖を引きちぎろうと握った瞬間、業火が彼の手を焼いた。

 反射的に手を引くとすぐに炎は消え、じんわりと手の平を苛さいなむ痛みだけが残る。

 触れようとするたびにドッグタグは燃えるような熱を放つために、捨てることを諦めた。どうせ残存している聖力などたかが知れている。

 服の上に有る分には熱を感じなかったので、そのうちに月光で汚染されていくだろうと思考を切り替えた。


 彼は窓を開け放つと生温い風を纏まといながら月光を浴びた。

 魔力は月光から生成され、陽光により消滅していく。

 人は、体内に魔力を留める器を持つ。

 それは同時に聖力を留める器でもあり、限界値はその人間の収納能力により定まる。


 ミライの器は、常に限界まで聖力で満たされていた。

 そのために保持できる魔力は微々たる量でしかなく、それは全てながらえることに使用された。

 狭い檻ミライから抜け出そうと画策する彼は、砂を一粒ずつ拾うような作業の末に、蓄積した魔力を循環させながらミライの意識を乗っ取る機会を待った。


 やがて好機は訪れた。

 ミライが街から遠ざかるたびに、戒めが解ほどけていく。

 時間とともに聖力は消滅し、断末魔を含んだ怨念おんねんが彼の力を増幅させた。

 そして莫大な聖力が消失した今、残ったのは空っぽの器だった。

 常に限界まで聖力を注ぎ込まれ続けてきたミライの器は、長年飽食にさらされた胃のように膨張していた。

 人としての限界値はあれども、それは彼を喜ばせるには充分な容積であった。


 現身げんしんは大蛇であったが、人の姿の利便性を知った彼は、人型の実体を望んでいた。

 まとうろこは固く、変化へんげには適さない。

 次の脱皮に備え、早急に安定した魔力の供給が必要だった。

 実体を形成するにも魔力が必要であり、彼が上質な魔力を莫大に保持する森魔女に魅ひかれてやまないのも当然であった。


 血の盟約めいやくとは、契約主に魔力を提供してもらう代わりに使役されることだ。

 しかしその期限を、次の脱皮までと定めてしまえば問題は残らない。

 森魔女と血の盟約を交わし、人型の実体を手に入れ、魔界に帰る。

 それが当面の目的であり、現世にいとめられた悪魔の悲願であった。




 作業を終えたナツメが地下室から抜け出るころには、太い三日月が顔を出していた。

 自室を目指し、一人廊下を歩く。

 今夜はやけに月が明るい。

『お化けの宴会は月夜の下』と母が良く歌っていたので、こんな夜はさっさと寝てしまうに限る。


 月光に影が浮かびあがり、ナツメは寸でのところで悲鳴を飲み込んだ。

 壁にもたれて腕を組み、こちらを眺めていたのはミライだった。

 ナツメの様子を見て、彼はニコリと笑む。

「驚かせてしまったかな」

「……別に」

 それだけ告げると、憮然ぶぜんとして歩行を再開する。

 考え事をしていたせいで直前まで気配を感じ取れなかった。

 何でもない風を装い、驚きから早まる鼓動に静まれと暗示をかける。

 彼の前を横切った直後に大きく心臓が跳ね上がり、感じた違和感に不審を抱く。

「いい匂いがする」

 え、と思った時には、手首をつかまれた。

 意図せず振り返る体に、ナツメは転倒を予想して体をこわばらせる。

 ぶつかったのは、床よりも弾力がある温かい場所。

 反射的に瞑った目を急いでこじ開けると、白い服が上から聞こえる呼吸音に合わせて微かに上下していたので、人の胸部だとわかった。

 下がる鎖が小さく鳴り、すすけたような色がやけに目に付いた。


 布越しに伝わる体温が熱い。

 ミライの手の温度が尋常ではないことに気を取られ、湧き起こったいくつかの疑問が霧散むさんした。

 ナツメは、彼を押し戻しながら見上げる。

「体調が悪いのなら、フラフラ出歩かずに寝ていなさい」

 それを聞いたミライは、何がおかしいのかゆっくりと目を細める。

「そういえば……何だか熱いな」

 ナツメを拘束している手とは逆の手で、彼はえりくつろげる。

 掴まれたままの手首を見やり、ナツメは吐き捨てた。

「からかうのもいい加減にして」

「先ほどまで、一体何を?」

 噛み合わない会話に、ナツメは思わずミライを仰ぐ。

 やっていたことと言えばただの製薬だが、老化を遅らせる薬が彼に必要だとは思えない。

 目線を合わそうとして、彼の目の焦点がわずかに合っていないことに気付く。彼の視線は間違いなくナツメの方に向いていたが、その意識は彼女を通り越してどこか遠くにあった。


 ミライが、急にナツメに向き直る。

「とてもかぐわしい……どこから」

 暗群青あんぐんじょうの瞳が溶けるように艶めく。

 何かに酔いしれるようにナツメの首元に顔を近づけると、スンと鼻を鳴らした。

 熱い吐息がうなじにかかり、濃厚となった色香にナツメは飛び退くように体を引いた。

 ミライの手を剥はがそうと爪を立てるが、距離を詰められ背中が壁に当たる。冷たさに首をすくめると、熱い手が伸びてきた。

 反射的に閉じたまぶたがなぞられる。

 頭を振って目を開くと、ミライは視線を彷徨わせていた。

 とろける瞳で、何かを探すようにナツメの体に視線を這わす。

 右手首を掴む力が強まり、ナツメの喉から悲鳴が漏れた。


 ミライはナツメの手に焦点を合わせると、突然その場にひざまずく。

 はずみで力は弱まったが、拘束が解かれることはなかった。

 ミライの思考が読めず、一挙一動から目が離せない。

 ナツメは生唾を飲み込み、息を潜めながら紺色の髪が揺れるのを見守る。

 ミライはナツメの利き手を愛おしげに撫でると、その手に躊躇ちゅうちょなく舌をわせた。


 腹の底から這い出る悪寒が背筋せすじを伝い、ナツメはそのむず痒さに身をよじる。

 熱い舌が通ったあとの冷たさが濡れた感触だと分かり、カッと顔が熱くなる。

 泣きたくなるような感情を持て余し、身の内で魔力が燻くすぶった。

「ぃ……や」

 知らず漏れた声に、ミライが顔を上げる。斜め下から見上げる彼の瞳は、月と紛まごうばかりの黄金・・で――


(違う!)


 彼女の叫びが引き金となり、圧縮された魔力が閃光と共に放出された。閉じた瞼の裏までもが色を失くし、耳をつんざく爆音に聴力が飽和状態となり音が消えた。




 暴発した魔力は壁を爆破し、後ろに倒れたナツメは瓦礫がれきと共に水面に叩きつけられた。

 痛みに耐えながら、水を飲まないように息を止める。

 水中の瓦礫がれきで視界が悪く、月光で光る水面を目指して必死に手足を動かした。

 顔を出し、喘ぎながら肺に酸素を送る。

 せわしなく視線を動かしながら岸に泳ぎ着くと、すぐに背後に目を凝らす。

 夜に湯気が白く浮かびあがる。

 あちこちに瓦礫がれきが引っかかっていた。


 川の中ほどに人の姿が見え、ナツメは瞬時に居竦すくむ。

 黒い服を着たそれは、大きな水音を立てて振り向いた。

 ナツメは、その黒い色が服では無いことに気付いた。

 闇のように黒で塗り潰された人型は、黒い顔の中心で光る金の眼をニィィと細めた。

 ナツメは疾走した。

 あれだけぎこちないと思っていた手足はもつれることなく彼女の意思に従う。

 心臓が体内で痛いくらい反響している。

 迷わず森に飛び込み、本能のおもむくままに走った。


 疑問が湧く暇もなく、彼女は脳内で魔力を構築していく。

 それは攻撃ではなく防御だった。

 森魔女と呼ばれ、莫大な魔力と天性の才能で、国に召し抱えられるなど些細ささいなことだと自負していた。初めて感じた畏怖いふの念は、矜持きょうじを叩き折られたことに気付くいとますら与えてくれなかった。

 走って走って走った先に、見えるはずのない黒い影が見え、狂いそうになる思考を無理やり抑えて防御魔法を開放した。

 魔力の殻に聖力を媒介させたそれは、一切の攻撃を防ぐと言われる完全防御であった。


 発光する殻に閉じ篭こもる瞬間、足首から不気味な感触が登り、背筋が一気にこわばった。


 泥がまとわりついている。


 それは意思を持つ蛇のように彼女の足を這い上がる。

 ざっと目で追うと、驚くほどに長い。

 その先は見ないほうがいいと脳内で警鐘がなる。しかし絶望だと理解していても、正体を確認せずにはいられなかった。

(あぁ……)

 ナツメはその長い根元が黒い人間であることを見た。

 足がとてつもない力で引っ張られるのを、どこか遠くに感じていた。


 強烈な体の痛みで、ナツメの意識は浮上した。

 視界いっぱいに三日月が広がり、背中にはゴツゴツとした地面の感触があった。

 気絶していたのはほんの一瞬のことで、すぐに引きずり倒されたことを理解した。

 防御魔法は完璧に構築した。

 しかしそれは何の役にも立たなかった。

 事実を悲観するだけの知力は残っていなかった。

 この絶大な感情が、絶望なのか恐怖なのか、彼女には判断がつかなかった。

 ただただ、体の震えが止まらなかった。

 抜き身の剣を地面に引きずりながら、彼は一歩ずつ確認するように近づいてくる。

『森魔女』

 黒い人間から発せられた言葉は、緩慢かんまんな音程を持っていた。

『血の盟約を』

 月光を受けた白刃の煌きに、目を瞑ることすらできなかった。

 振り下ろされる瞬間、ナツメは柄に彫られた王立騎士団の標章が綺麗だと思った。


 不協和音が森に響いた。

 固い地面にめり込んだ刃が、ギリギリとしなる。

 瞳を瞬くと、唐突に耳に音が戻った。

 束縛が解けている。

 ―― 今のうちに逃げなくては

 分かっているが、震える膝が全くいうことを聞かない。這うように後ずさるが、ひじまでもが崩れ落ちて派手に転んだ。

 反射的にを見ると、いまだ同じ場所でうずくまっている。

 ナツメがせわしなく視線をさまよわせるうちに、黒い塊の色が変化し始めた。

 徐々に薄くなる黒に、彼女は息をこらして目を見張る。

 闇に慣れた彼女の目に映るのは、白い裸体だった。

 まるで懺悔ざんげをするかのように地面に丸まり、ビクビクと痙攣けいれんを繰り返す。

 人とは思えぬ咆哮ほうこうを発する様は、瀕死ひんしの獣のようだった。

「ナツメ……」

 呻き声の合間に自分の名が聞こえた。

 焼け付く喉に荒い息で酸素を送る。

 返事など、できなかった。

 彼の爪が地面を削る音が、静寂を割り砕いていく。

「月が……出る前、に……俺を、殺せ!」

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