灰白色の神官
「ナツメ、古代竜が肉を所望している。今すぐ首を縦に振ってくれ」
ミライの剣幕にナツメはしばし呆ける。
大きな手がナツメの両肩を掴み、軽い痛みにそこを見やる。
捲り上げられた袖からのぞく腕は筋肉の線が露わになり、目線で辿ると逞しい肩と均整のとれた太い首に繋がり、更に目線を上げると紺色の髪の青年が暗群青の双眸に真摯な色をたたえていた。
興奮で潤んだ、彼の瞳に鼓動が跳ね上がる。
泣いたばかりで、心の柔らかな部分が剥き出しになったままの心臓に悪い。
動揺を悟られないように、ナツメは平常心を装う。
「許可も無く女性に触れるのが王立騎士団の礼儀なのかしら?」
問われたミライが心底不思議そうな顔をした。
「女性? ……あぁ、すまない。そんなことよりも古代竜が」
ナツメから手を離したミライは話しをやめない。
ナツメの片頬が引き攣る。
背後より軽い羽ばたきが聞こえ、それでナツメは全てを把握した。
騒めいた心は気恥ずかしさから怒りに変換され、背後に向かって声を張り上げた。
「クォーツ! どこほっつき歩いていたのよ」
「あ~ナツメ、ただいま」
クォーツと呼ばれた古代竜は、表情豊かにおっとりと微笑んだ。
ミライの肩が大げさに痙攣する。
探るような視線を受けたナツメは半眼で彼を見返す。
仕返しのように先ほど引きつった側の頬を上げて、親指で竜を指した。
「ただの使い魔ですけど?」
その時の衝撃を、ミライは何と表せばいいのか分からなかった。
激しい感情が突き抜け、まずいと思った時には勝手に口角が上がっていた。
もう一人の自分が目を細める。
それが表情に出てしまうと、もう制御が効かなかった。
綺麗に笑うミライに、ナツメは目を見張る。
なぜ、と思う間に彼の口元が薄く開き、さえざえとした瞳から青みが抜ける。
縦に絞られた瞳孔に加虐的な色が宿り、吹き付けるような覇気に冷や汗が流れた。
気圧された自分を打ち消すように、ナツメは魔力を込めて睨み返す。
腕が粟立ち、緩い旋風が肩で切りそろえた赤い髪を持ち上げた。
その瞬間、異様な顔でミライが嗤った。
まるで別人のような笑みにナツメは狼狽する。
四肢にまとわりつく禍々しい瘴気は、彼女の動きを絡め取ろうと更に圧力を増した。
―― 何、この人。
「僕のために喧嘩しないでー!」
膠着した空気を割って、白い塊が飛び込んできた。
歓喜に溢れた声音にナツメは唐突に我に返る。
同時に圧力が消え、呼吸が楽になった。
知らず全身にかいた汗がネバつく。
不快感より安堵が勝り、ナツメは奥歯を噛んだ。
何と不吉で凶悪な魔力なのだろう。あれは一介の人間が出せるものなのか。
彼女の表情に気付かず、呑気な竜はヘラヘラと笑った。
「言ってみたかったの。あと僕は使い魔じゃなくてユリス様の守護竜だよ。戻られるまではナツメの保護者。そういえば、お兄さん誰?」
クォーツに問われたミライが、表情を取り繕いながら利き手を胸に当てる騎士の礼を取る。
微笑もうとして失敗した自分に苦笑するような、ぎこちない笑顔だった。
「お初にお目にかかります。王立騎士団・第二小隊隊長、ミライ・ブレイザーと申します」
「王立騎士団……腹筋が割れている美男子が山ほどいて、つまみ食いし放題の桃源郷なんでしょ?」
「あの……その評価は妥当では無いかと」
困ったように目を細める彼に、すでに不審な様子はない。
暗群青の瞳から読み取れるのは、複雑そうな心情だけだ。
「え、つまみ食い出来ないの? 僕はすぐにお腹が空くから羨ましいと思っていたのに。ユリス様の勘違いかなぁ」
曖昧な笑みを作るミライに、クォーツは日向に寝転ぶ猫の様に目を細めた。
「僕はクォーツ。ちょうど千代目の森魔女、アニスレッド様の御生誕の際に授けられた竜だよ。僕はアニス様と一緒に生まれたから、よく覚えていないんだけど……ええっと、12歳のオスです」
「120歳でしょ」
割り入ってきたナツメの声に、クォーツはつぶらな瞳を2度瞬いた。
「竜年齢を人間に換算するとそうなるって、ユリス様が」
「あんたは何でも母さんの言うことを間に受け過ぎなのよ」
「えへへ、そうかなぁ」
まるで褒められたかのように、クォーツは嬉しそうに微笑んだ。
毒気を抜かれたナツメは、諦めたようにため息をついた。
「で? 明日のパンはどこ」
クニクニと動いていた竜の尻尾が、途端にピンと上を向いた。
「え、あれだよね、うん。パン、買ったけど……」
小さな瞳が左右に泳ぐ。
言葉を濁し、気まずそうに視線を彷徨わせる。
わかりやすい動揺に、ナツメは一文字ずつ言い聞かせるようにはっきりと発音をした。
「怒らないから言いなさい」
「……帰ってくる途中で野生のウルフに襲われちゃって……身代わりになってもらったの」
へへへ、とクォーツが力なく笑う。
「ク・ォ・オ・ツゥ~?」
地を這うようなナツメの声に、小竜の瞳が恐怖で潤んでいく。
「でもほら、ミライが焼いたお肉があるよ! すごく僕好みで」
「……なんですって?」
柳眉を寄せたナツメがコッコの元に駆けていく。
すぐに彼女の絶叫が聞こえ、場に残されたクォーツとミライは顔を見合わせた。
彼女の喚く声が聞こえるが、内容までは聞き取れない。
「……僕、行ってくる。ああいう時のナツメは厄介だから、ミライも覚悟が決まってからおいで」
肩を落としたクォーツが飛んでいく。
見た目に反して軽やかな身のこなしだが、どこかで見たことがあると思ったら、後ろ姿が幼児向けに発売されている古代竜のぬいぐるみにそっくりだ。
ミライはふと笑みをこぼすが、その表情はすぐに強張る。
「……制御、できなかった」
風にさらわれた独り言は、誰の耳にも届かなかった。
服の上からきつくドッグタグを握り締める。
爪が食い込む痛みに、ミライはそっと目を伏せた。
白い廊下を、アーリーは一心不乱に駆ける。
片手では持ちきれない書類の束を、落とさぬよう細心の注意を払いながら胸に抱き抱えるように走った。
長い前髪で隠すことができないほど、色素の薄い灰白色の瞳には焦りが色濃く浮かんでいる。
すれ違う人の訝しげな視線を受け、しかめた顔を追い越し、ついには叱責が飛ぶが、返答の時間すら惜しかったので結果的に黙殺になってしまった。
邪魔な長衣を自室の椅子に放り投げてきたせいで不完全な制服姿だったから、それが原因だろうと弾む息の合間に薄く考える。
気ばかりが焦り、足がもつれるが辛うじて体勢を立て直す。
焼け付く喉が痛みを訴え、飲み込む唾液すら乾ききってしまった頃、ようやく簡易応接室の扉の前に着いた。
荒い息を整える間に久しぶりにかいた汗が額から流れる。
長衣を置いてきて正解だったと大きな息をつき、ノックもせずに部屋に踏み込んだ。
「お待たせして、申し訳ありません」
「遅いぞ」
先客は、アーリーの不調法よりも待ち時間を咎めた。
「めいっぱい、急いで来ました」
滴る汗を行儀悪く袖口で拭きながら、胸に抱えていた書類をサイドテーブルに広げる。
来客用のティーカップを払い除けるように退かすと、それを慌てて受け止める手がある。
「気を付けろ」
諌める若草色の瞳を、アーリーはイライラと見返す。
「どれほどの猶予がお有りだと思われます? 今夜にも危ないというのに」
備品の一つぐらい破損した所で、たかが知れている。それよりも解決すべき難問の期限が近い。
アーリーの言葉に、訝しげな顔をした男は挑むように睨む。
「筋道を立てて説明しろ、アーリー・ノーザン」
「威圧的な性格は相変わらずですか、リュード・トレイル」
不服そうな口調に皮肉で返し、書類の束を慎重に崩す。
その中から、大人の手の平ほどの青い小瓶が二つ、横になって現れた。
それを見たリュードの顔が驚きに変わる。口を開こうとする彼を、アーリーは目線で制した。
煩雑な手続きをいくつも踏まないと持ち出しの許可が降りないそれは、リュードがどうにかして手に入れようと思案していた聖水だった。
アーリーは声を潜めて呟く。
「……ミライに悪魔憑きの容疑がかかっています」
この国で悪魔憑きと言えば、薬物中毒者を指す。
常人には理解し難い言動をとる様が、悪魔に取り憑かれているように映るからであり、また禁止薬物の密売の隠れ蓑であった異端宗教――国民の大半が信仰するテュール教は、創世神テュールを奉る教会の教えのもとに栄えており、それ以外の宗教はこう呼ばれる――が悪魔信仰であったことから、そう呼ばれるのが一般的であった。
悪魔信仰は、非道な行いを是とし、世界を混沌と絶望で溢れさせ、弱者を贄とし嘆きを悪魔に捧げる危険性の高い宗教であったことから、これも法律で固く禁止されている。
リュードは腰を据えたまま、苦々しくため息をついた。
「もう噂になっているのか」
「あなた方を敵視する人物が多すぎて」
リュードの若草色の瞳が、ティーカップの中の琥珀色の液体に注がれる。
伏せた睫毛が、彼の顔に影を落とす。
「今回の森魔女訪問の意図は別にある。ミライ隊長の監視と、悪魔憑きの証拠が手に入り次第、速やかに処刑することだ」
悪魔憑きは大罪人と呼ばれ、即刻処分されることも珍しくはない。一度中毒症状が出てしまえば、更生は困難だ。
リュードは組んだ両手を握り締めながら続ける。
「彼の言動を逐一見張っていたが、薬物を常用している跡も様子も見受けられなかった。大罪人など、若くして隊長職に就かれたミライ隊長を妬んで、愚かな幹部共が言いふらしているだけだ」
「……それが存外、間違いではないのです」
リュードは咄嗟に目の前の白い胸ぐらを掴む。
弾みでティーカップが音を立てて砕けた。
「アーリー、口を慎め。いくら同期でもその先は許さない」
「閉口術の存在を知っていますか。機密保持の観点から、特に重要度の高い案件に関わった者にかけられ、それは特定の意思の伝達を阻害します。言わば、呪いのような」
「何の」
話だ、と問おうとして、リュードは強い瞳に射抜かれる。
「ミライのことを本当に考えておられるならば、あなたは引きずってでも連れ帰るべきだった」
「……何だと?」
アーリーの口が、音の無い言葉を発する。
すぐに悔しそうに口を噤み、言葉を探して眼球をせわしなく動かした。
「人は、言葉の本来の意味よりも、それに含まれた相手の意向を汲み取って会話を成立させます。時として、その想像力は徒になる」
静かな口調で、灰白色の瞳はすがるようにリュードを見る。
「いいですか、大罪人ではない。罪名に間違いはない。お伽噺ではない」
訴えるような視線に急かされ、リュードは頭脳を回転させる。
―― 薬物中毒者ではない。悪魔憑きに間違いはない。お伽噺では……ない。
「悪魔……憑き……悪魔など、まさか」
「……私は頷くことさえできない。軍神の加護の真偽は、あなた方が一番よく知っている。それは相対するものが存在するからこそ成り立つとは思いませんか、陽光と月光のように」
アーリーは瞑想し、脳内を探る。それは、とても恐ろしい記憶。
あれはミライが竜騎士団長に就任する前。
今よりも幼さが残る彼の顔を、アーリーはよく覚えている。
古戦場の墓地の整備を命じられたミライは、小隊長として任務に就いた。
異様な噂が多く、近隣の村では不審な死を遂げる者が多いために、国はその哀訴を退けることができなかった。万が一に備え、教会からは当時の最高神官と新人であったアーリーの同行が許された。
中途半端に口を噤む住人からようやく入手した情報によると、樹の洞の中に何かを祀った祭壇があり、不用意に触れると呪われるという。
墓地の後方に鎮座する大樹の中に、確かにそれはあった。
最高神官の指示の下、祭壇を守るように伸びた枝を払い、一抱えはあろうかというそれを取り出すことには成功したが、素人が見てもわかるほどの禍々しい瘴気に、若者を中心に編成された小隊には怖気づいた空気が流れた。
萎えた士気を鼓舞しようと、小隊長のミライは総責任者が自分であることを祝詞に則り明言した。もし呪いじみた何かがあれば、全て自分が被るという宣言であった。
彼の配慮に周囲からは不服の声が上がったが、それに安堵が含まれることを見通して事も無げにミライは笑った。
こうして小隊は、何とかその場に踏みとどまることが出来たのだ。
すぐに浄化の儀式が執り行われたが、それは不完全であった。
気象状況や方角、時刻などの悪条件が揃った上に、最高神官は癒着する貴族より多額の賄賂を受け取っており、著しく聖力を衰えさせていた。それが発覚したのは、全てが終わった後であった。
祭壇は焼却の措置が取られ、造作もなく燃え上がる炎に周囲が安堵したところで、近くに居た隊員の腕に何かが当たった。
炎が爆ぜたと同時であったため、それは木屑だと思われた。
払おうとした隊員は、自らの腕を見て動きを止める。水分を失い渇れて黒ずんだ腕は、炭のようだった。
彼の絶叫が響くのと、祭壇から黒い礫が次々に飛び出してくるのは同時だった。
当たった場所から枯渇するように次々と彼らは炭化していく。
目を見張るアーリーの前で、最高神官が絶命した。
まるで意思を持つ虫のように真っ直ぐと向かってくる礫に、アーリーは己の最期を確信する。
目を瞑ることも忘れたアーリーを、引きずり倒す腕があった。
守るように覆いかぶさる胸に、小隊長の胸章が見えた。
殴るような激しい破裂音が連続して起こり、上がる煙にアーリーの見開いた瞳から涙が溢れた。
生存よりも、周囲と同じように炭化していくだろう幼馴染を見届ける前に己もそうなりたいと渇望した。しかしその嘆願が受け入れられる前に衝撃が収まり、ついに自身の体には一つの礫も当たらなかった。
助かってしまえば命があることが嬉しく、独り残されたことに戦慄いた。
己の浅ましさにアーリーは慟哭する。
「無事か、アーリー!」
驚きで涙が止まるなど、初めての経験だった。瞬くと目尻に溜まった涙が流れていく。
澄み切った視界が捉えたのは、記憶の中と一篇の狂いもない幼馴染の姿だった。
「ミ……ライ」
今度は嬉し涙が溢れ、苦笑するミライの顔が歪んで見えなくなった。
すでに人の形を無くした炭の中から、ミライは鎖を拾い集めていく。
二枚の長円形のプレートがついているそれは、騎士を拝命した際に、教会から賜る認識票――通称、ドッグタグだ。
姓名・血液型・所属部隊などの個人情報が打刻されており、殉職した際には一枚を戦死報告用、もう一枚を判別用として遺体に残す。
しかし今回のように遺体の損傷が激しく、どこまでが個人か認識できない場合には、この通りではない。
「お前のおかげだ、アーリー」
庇われたのは自分で、どうして彼がお礼を口にするのか分からなかった。
「彼らと俺の違いは、これだ」
集めたドッグタグを、ミライは両手に握り締める。
素手で拾い集めていたために、彼の指は黒く汚れていた。
「まさか……そんな」
ありえない、とアーリーは思った。
ミライのドッグタグに加護を付与したのは自分であり、それは初陣と呼べるくらいに緊張したアーリーをほぐそうとして、ミライがいたずらっぽく提案したものだった。このような事態に陥る可能性は極めて低く――それは意に反して起こってしまったが――彼の心遣いに感謝して引き受けた。
一方、炭化した彼らの合同祈祷を執り行ったのは最高神官だ。彼の能力に勝る者はないとされ、磨き上げられた聖堂で祈祷する最高神官が纏われた厳粛な空気は、神々しささえ感じさせた。
どうせ数えはしない、と献上する箱の中から自身のドッグタグを放り投げてよこしたミライの思い切りのよさに、アーリーは別の意味で顔を青くしたのを覚えている。
それならば幼い頃から生傷が絶えない彼のために、せめて擦り傷の数ぐらいは減らしてやろうと真剣に祈祷したのは事実だ。
しかし未熟すぎる己を知るアーリーは、どうしても納得がいかずに唇を噛み締める。
「やるべきことを、やろう」
ポツリとミライが呟いた。
その落ち着いた声音にアーリーは彼を見る。
何事かを思案する彼が、ふとアーリーに問う。
「祭壇の浄化は、完遂していると思うか?」
「……わからない」
正直に答えると、彼は静かに祭壇を見つめた。すでに鎮火したそれは、消し炭のように燻っており、焚き火の跡のように見えた。
「浄化の手順を思い出そう。アーリー、手伝ってくれ。きっとお前ならできる」
強張った顔で、ミライは笑う。
それに答えるように、アーリーも引き攣る口角を無理やり持ち上げた。
無事であった聖水が三本も見つかり、アーリーは幸運に感謝した。
浄化の儀式と言えば堅苦しいものを想像するが、要は聖水に祈祷者の聖力を媒介させ、対象物に振りかけるだけである。
自分の微々たる聖力であろうとも、聖水が三本もあれば念入りとも言える浄化ができる。
祭壇であったものの前に立ち、聖水の小瓶を握り締めたアーリーは祝詞を唱える。
「廣く厚き仁慈を持って 罪人なるわれらを清き御心に許し給え 軍神の御名の下に 遺る穢は不在と宣り給う 」
聖水の小瓶が、微かに光った。
驚愕を隠せないアーリーが小瓶を取り落としそうになり、慌てて胸に押さえつける。
ミライを見ると、彼も確かに見たのか、力強く頷いた。
緊張の糸が途切れぬ前に、アーリーは祭壇にそれを振りかける。
初めは中心に小さく、次は全体にかかるように大きく円を描き、終わりに垂らすのはほんの一滴。
始終、腕が震えたが、それでも手順を間違えることは無かった。
同じように繰り返し、最後の一滴を垂らし終えた時には、すでに日が傾いていた。
「アーリー、よくやったな」
労うミライの表情が硬い。
何か言いたげな様子に、アーリーは続きを待つ。
「それで……お前にばかり負担をかけるのは申し訳ないのだが……」
歯切れの悪い彼は、無意識に上着の左側に手をやった。そこには、殉職者のドッグタグが入っている。
察したアーリーは、寂しげに笑った。
「うん、君の同期も居るんだろ?」
弾かれたように顔を上げた彼が、頭を下げる。
「……頼む」
ミライとは幼馴染ではあるが、アーリーの方が一つ年下であり、更に神官になるために二年間の専修学校に通っていたため、入隊は彼と比べて三年遅い。
そのために、今回の小隊の中で友人と呼べるのはミライだけであったが、ミライの幼馴染というだけで彼らはとてもよくしてくれた。
それはミライと彼らを繋ぐ太い絆の証のようにも思えた。
死者を弔うことに関しては畑違いではあったが、それで彼が慰められるのであればと一生懸命に教典を思い出しながら、創世神に殉職者の魂の慰めを祈祷した。
隣で俯いた彼の表情は窺い知ることができないが、祈るように組まれた両手の汚れが、静かに落ちる雫で洗い流されていく光景に、胸が締めつけられた。
油断していたと言われれば、それまでであった。
村に預けていた馬を取りに行こうと二人が祭壇に背を向けた瞬間、それは起きた。
突如背後から沸き起こった瘴気は同時に彼らを振り返らせる。
あまりに巨大すぎる漆黒の蛇が、一直線にミライの方へと跳躍した。
いやにのんびりと過ぎる一瞬の間に、衝撃から吹っ飛ばされた彼にかじりついた影が吸収されていくのを見た。
叫び声を上げたのはアーリーで、鈍い音と共に地面に叩きつけられた彼は、すでに気を失っていた。
無我夢中でミライを抱えながら村に辿り着いた頃には、すっかり動転していた。
事情を説明できずに喚くアーリーは、村人の手で半ば無理やりに睡眠作用のある安定剤を飲まされ、次に起きた時には見慣れた自室の寝具の上であった。
茫然としたアーリーの顔を覗き込んだのは昏倒していたはずのミライであり、軍医を呼んでくると走っていった彼にいっかな病人の気配は無い。
軍医から六日間も寝たきりだったと言われ、次いでミライが事件の翌日には早馬で騎士団本部に助けを呼びに行ったと聞き、己の体力のなさと不甲斐なさにただ顔を赤くするしかできなかった。
軍医が去り、ミライと二人残される。
寝具の傍の小さな椅子に、ミライは腰を下ろす。
口を開こうとして止めることを二、三度繰り返す様子に、アーリーは堪らず声を掛けた。
「ミライは……大丈夫、なの?」
目が合ったのは一瞬で、すぐに彼は視線を落とす。何に対しての問いなのかは、伝わったと思えた。
膝の上で握るこぶしの色が白い。
「……ミライ?」
「俺は」
上げた顔は悲嘆で満ち、意志の力で無理やりに固定された瞼が震える。
「……死ぬのが、怖い」
絞り出す声は震え切って、その暗群青の瞳から涙が落ちてこないのが不思議なほどだった。
彼の表情に釘付けになったアーリーは、不自然に明るい声を出す。
「誰だって怖いよ。でも、こうして生きているじゃないか」
彼の表情に変化はなく、アーリーの言葉はいっかなミライの慰めにはならなかった。
「……今から俺が言うことに、お前の責任は無い。これは俺の勝手な要求であるから、もちろんお前が従う義務はないし、少しでも聞きたくないと思ったらいつでも止めてくれ」
「前置きが長すぎるよ」
ぎこちない笑顔を作るアーリーに、彼は意を決して口を開く。
「明日、俺は自害する」
「なんで?」
飛躍しすぎる話に、無意識に疑問が口をついた。
ミライの、肩の力が少しだけ抜けた。
「俺の体内にはあの黒い大蛇がいる。夜毎に暴れ出し、俺の意識を混濁させようと蠢いているのがわかる。正気を失くすのは時間の問題だと思われるために、上層部がそう判断を下した。これは決定事項だから覆らない。大蛇が放つ瘴気が教会内で抑制されることから、聖力には弱いと見える。だから明日、最高神官の立ち会いのもと、それが決行される。……名誉ある死だそうだ。殉職者の列に加えてもらえるらしいから、安心して死んでくる」
「え……でも、最高神官は……」
「うん。次代にそうなるお方が、だけどね」
疲れたように彼は笑みの形を作る。隠しきれない隈が目の下に浮き出ていることに、今更ながらに気付いた。
「ちょっと待って、浄化は出来ないの?」
アーリーは視線をうろうろと彷徨わせる。いつの間にか、白いシーツをキツく握り締めていた。
「聖力に弱いんでしょ? その次代のお方の力で、何とかならないの?」
相変わらず他人任せな己に、アーリーはかぶりを振る。
違う、言いたいのはそんな事ではなく。
「僕は嫌だよ、どうして君が死ななくてはならないんだ。一緒に別の方法を探そう。何とかなるよ、だから待って、えぇと、まずは神官長様に」
焦って寝具から降りようとするアーリーを、ミライは手で制す。
「もう、決まったことだ……ごめん、帰るよ」
彼が、行ってしまう。二度と会えぬ遠いところへ。
身を翻した彼の腕を慌てて掴もうとして、寝具から転がり落ちる。
萎えた足は言うことを聞かず、自分の体すら満足に動かせない無能な自分に腹が立った。
アーリーを受け止めようとして失敗したミライの腕が、アーリーの下敷きになっていた。
「……いたい」
「ごめん、ミライ」
上から退くと、踏み潰していたミライの腕を今度こそしっかりと捕まえた。
「俺の勝手な要求って何? まだ最後まで話しを聞いてないよ」
その手に力を込めて逃がす意志が無いことを示すと、彼は微かに苦笑した。
「本当に、断られる前提の話だけど……最高神官の他にもう一人神官が立ち会うことになるから、俺が選んでいいって」
「それで……それで、僕に君の死まで背負えと言うのかい。そんなに強いわけ無いじゃないか、知っているだろ! い、今だってこんなに情けなくて」
「君はもっと自信を持つべきだ。俺が今ここに居るのは君のおかげだ……本当に、いままでありがとう」
「や、やめろよ、もう会えないみたいな」
「待てアーリー、すごい顔だぞ」
「そういうミライこそ!」
いつの間にか涙でベタベタになった顔を見合わせて、二人は同時に吹き出した。
床に座り込みながらの攻防戦が、急に馬鹿馬鹿しく思えた。
笑い声を上げながらそれでも溢れる涙を見ないふりをして、親友との別離を受け入れようと踠いた。
介添え人には、王立騎士団の団長自らが名乗りを上げた。
虎の二つ名を持つ彼は強面で、いつも威圧的な雰囲気を纏っている。
アーリーは直接話したことは無かったが、傍にいるだけでなぜか怒られているような気持ちになってしまうので、できるだけ近寄りたくはないなと、こっそり思っていた。
柔らかな陽光が差し込む大聖堂には厳粛な空気が漂う。
壁についた小さな扉は控え室に繋がっており、アーリーは慣れない正装に着られながら緊張した面持ちでその扉を開ける。
思ったよりも広い部屋の窓際に、正礼装に身を包んだミライが座っていた。
金の飾緒は片肩から前部にかけて吊るされ、様々な綬章が肩や胸を飾り、腹部にまで花や八芒星を模った勲章が付いていた。
団長と何やら話しをしていたが、アーリーに気付くと嬉しそうに笑った。
団長はアーリーに柔らかい目線を向けると、アーリーが入ってきた扉とは別の扉から退出した。
「来てくれたのか」
「……当たり前だろ」
すでに涙声のアーリーに、ミライが慌てて手を振る。
「やめろ、つられる」
「せっかくの正礼装が台無しになるよ。……よく、似合っている」
「お前もな」
「僕は着られている感しか無いよ」
「うん、そこがアーリーらしいかなって」
冗談を言って、密やかに笑い合う。
嘘みたいに穏やかな時間であった。
それでアーリーは、決行の瞬間に立ち会っている自分を想像することが出来なかった。
就任したばかりの最高神官が、仰々しく祝詞を唱える。
粛々と進んでいく儀式に、皆の表情は硬い。
その中で、隅でひっそりと立っているだけのアーリーが、最も青白い顔をしていた。
いよいよ、その時が訪れる。
瞼を軽く閉じたミライは柔和な顔で頭を垂れる。
豪奢な宝飾を施された短剣を両手で握り、切っ先を左胸にあてがう。背後に立つ団長が、抜刀して構えた。
静寂が支配する場に、ミライが大きく息を吐く音が響いた。
彼は一度も躊躇う事無く、短剣を己の胸に突き立てた。
それとほぼ同時に団長が剣を振り下ろす。
絶対に見届けると決意したアーリーは、瞼に渾身の力を込めて目を見開いた。
鳴り響いた金属音は二つ。
アーリーの左頬を薄く裂いて壁に突き刺さったのは、団長が振り下ろしたはずの剣の刃であった。
頬の傷が熱を持ち、膝が崩れてズルズルと壁にもたれかかる。
「殺してくれ、早く!!」
最初に立ち直ったミライが絶叫する。
ミライが手する短剣には、柄しか残っていなかった。
団長がミライを床に押し付け代刀を握るが、彼に刃が届くことは無かった。
獣のように吠えるミライの背中から黒い靄が立つ。
瘴気にあてられた団長は、苦しげにミライの上から飛び退いた。
はっきりと姿を現したのは黒い大蛇だった。
誰も彼も身動きを忘れ、その禍々しい風貌に見入る。
慟哭するミライの嘆きだけが、聖堂に反響していた。
こうして閉口術をかけられるに至ったアーリーは、ミライに黒い大蛇が憑いていることを胸の内に秘めてきた。
ミライに課せられたのは極力月光を浴びぬ事と己を律し理性の強化に努める事、週に一度教会へと通う事などが連ねられた。
ミライに幾重も加護を付与することにより、大蛇はほぼ封印できたとも言えた。
ところがここにきて事態は急変し、上層部は再びミライを殺す計画を立てる。大蛇の力が年々強まってきたためである。
こんな遠回りな方法しかない、とアーリーは喘ぐ。
キツく閉じていた目を開き、未だ半信半疑の表情をするリュードに向き直る。
「上層部はミライの采配の手腕を見くびっていました。今日中に戻ってきたあなた方を見て緊急会議を開くほどに。竜騎士に対し聖水の携行を許可しないなど、尋常ではありません。加護が月光により消滅していくことはご存知でしょう。考えられることは一つ。あなた方の足止めです」
「足止めをして、どうなる」
「ミライは、加護の力で理性を保っています。月光により加護が消滅すると――が――になる」
「推理ゲームの始まりか」
目線で頷き、アーリーは続ける。
「……軍神である竜王フェンリルは魔王ハデスに打ち勝った。古今東西、伝説で悪魔を食い殺すのは竜です。竜の本能に訴えかけるつもりか、はたまた森魔女の力を借りるつもりか。今なら先代・先々代の森魔女も存命です。全ては、彼を迅速に抹消するために」
ああそうか、とアーリーは思う。
ただの自分の仮定を話す分には、こんなにも口が動く。
伝えられないのはおそらく、黒い大蛇がミライに憑いていることと、それが悪魔と思しき力を持つことの二点のみ。
「しかし、ミライ隊長に悪魔が憑いている様子など無かったぞ」
そしてリュードが最適な受け答えをすることにより、会話は成立する。
「陽光を浴びていれば滅多な事は起こりません。しかし夜が来れば、きっと彼は耐え切れない。街にさえ居れば、近隣の教会の聖力が働き、それは抑制されます。しかし何もない森の中では、例え微弱であろうとも月光を浴びた瞬間にその均衡は崩れます」
そして、とアーリーは続ける。
「そうなってしまえばそれを止める方法はありません。人の手に余る力は、脅威となってしまう。ミライが留まった場所に森魔女がいることが不幸中の幸いです。彼女達は聖力を凝縮させる宝具の製作に長けている。それが借り受けられれば、――の抑制が可能になる」
リュードの若草色の瞳を、アーリーは力を込めて見返した。
「私の思いつきがどこまで通用するか分かりませんが、やってみる価値はあります。しかし事は一刻を争う。同期のよしみで、手を貸していただけませんか、リュード・トレイル」
ミライが大蛇に憑かれた日のように、赤黒く熟れた太陽が腐るように落ちていく。
夜が、やってくる。