白金の竜
蒼天に一筋の雲が走った。
それは後より枝分かれし、六本の筋となる。
子供が空を見上げ、歓声を上げた。
つられて見上げた大人が一人、また一人と空を指差す。
停滞した人ごみに眉をしかめ、胡散臭げに見上げた青年の口がだらしなく開いた。
昼日にさらされた影は濃く、次々と彼らの上を通過していく。鳥のようだが、鳥ではないことを国民は知っている。
掲げるレリーフが王家の証、莫大な金と名誉の象徴。
興奮冷めやらぬ街の声を背に、六騎の竜は王城を目指す。
「そこの」
掛けられた声に、リュードはすぐさま膝を折る。
それは竜騎士にとって、嫌というほど聞き慣れた声であり――比喩ではなく、本当に嫌だという思いがリュードにはあったが――まだ幼さを残す少女の声音であった。
胸中の苦い思いから目を逸らすように、リュードは回廊に敷かれた赤い絨毯を睨む。
そうするうちに軽い足音が眼前で止まり、低頭した真上からまたその声が降ってきた。
「ミライはどうした」
―― 面倒くせぇ
心中で悪態をついたリュードだが、裏腹に歯切れよく答える。
「ハッ。御下命を賜り、責務に従事しております」
「くだらぬことを。遊びの駒が責務と抜かすか」
その凛とした声音の、何と耳障りなことか。
「父上は華美を好むのでかなわぬ。只の通路をこうも豪奢に飾られる」
淡々と言葉が綴られていく。
独り言のようだが、そうではないことをリュードは知っている。
只の通路が行き着く先は王の間。
年若き貴女が従者も付けずに徘徊して良い場所ではないが、変わり者と称されている第二王女を、咎められる者はこの場には居ない。
答えあぐねたリュードが沈黙していると、また冷たい響きが振ってくる。
「面を上げよ」
表情筋を制御し、リュードは従う。
感情を殺した若草色の目に、彼女の容貌が映り込んだ。
一般的には、美しい部類に入るであろう少女が、気品を携え、佇んでいた。
表情が乏しいせいで、精巧なアンティークドールのようにも見える。
ひときわ異彩を放つのは、銀糸の髪に銀の瞳。
この国で、その姿に畏怖せぬ者は少ない。
その最たる理由が、世界の成り立ちを司る創世神テュールの御姿が、銀糸の髪、銀の瞳であると言い伝えられているからだ。
しかしリュードはその姿に畏怖せぬ数少ない者の一人であったがために、彼の目には齢14の少女でしかない。
「お飾りの竜騎士団など解団してはどうだ。その顔ならば欲しいという婦人も多かろうに」
王立騎士団の第二小隊、いわゆる竜騎士団は、竜に乗れる騎士が少ないため、他部隊と比べると小規模である。
竜自体が賃貸契約である事から、国の主要行事や式典、大規模な祭りに華を添える役目が主であり、訓練等は他部隊同様に馬で行う。
竜は軍神フェンリルの末裔であると考えられるために国民からの人気は高いが、経費がかかる割りには有事の際に期待できる働きはごくわずかである。
それを憂いてか、何かにつけて執拗に解団を迫る王女だが、彼女に王立と名がつく集団の解散の権限は無い。
その腹いせのように、公の場でミライに膝をつかせ、慇懃無礼な物言いで彼を貶める王女を、リュードが快く思うはずはない。
変わり者王女の新しい遊びだと、宮中では囁かれている。
「そもそもブレイザー公爵家の次男が隊長などとは笑止千万。金で買った地位にのさばる愚者の何とも醜いこと。不義の幻想を抱くには長けるが、我が国に金で買える褒章はあったかのう」
幼さの抜けきっていない顔で淡々と話す様は侮られぬように模した精一杯の虚勢に見え、リュードの嘲笑を買うには充分だった。
―― たかだか十四の小娘に、ミライ隊長の何がわかる。
許せぬ存在ならば関わらねばよいものを、会えば当然のように権威を振りかざしてくる。
彼女の心中にある、無視できぬ何かに、リュードは勝手に結論付ける。
―― 気を引きたいだけのクソガキが。
わざと慇懃な礼をして、第二王女を視界から追い出す。
「御高説、痛み入ります」
「庇い立てもせぬか。統率が取れておらぬ部隊の維持とは、誠に難儀なことよの」
沈黙を通すリュードに、侮蔑の眼差しを向けて王女は言い放つ。
「私の代にはおらぬ宿命。せいぜい父上のご機嫌取りに勤しむがいい」
ほのかな精油の香りを残し、衣擦れが遠ざかっていく。
―― 貴様の代など来るか。せいぜい残り少ない王国暮らしを楽しんで二度と会えぬ場所へと嫁に行け。
気配が完全に消えるまで床を睨んでいたリュードは、苦々しく立ち上がると振り返らずに歩き出した。
そよ風で木々がざわめき、足元の木漏れ日が模様を変えていく。
「奇形のイタチね。王立研究所には報告のみで検体は不要よ」
「突然変異の可能性が高い。生態系調査のため検体は必須だ」
尻尾が二本あるイタチの処遇がまとまらない。ナツメはミライを睨むように見上げた。
「邪魔にならない約束よ」
「すまない。こちらも仕事だ」
誠実そうな丸い瞳が番犬を思わせる。
「それじゃ、あなたが捕まえてね」
あっさりと踵を返すと、次の罠に向かって歩き出す。どうせ素人が野生の獣を捕まえられるはずがない。
―― 食べられない上に仕事だけ増えるなんてかなわないわ。
案の定、背後からミライの動転した声が聞こえ、捕獲は失敗に終わった。
次の罠に向かう間、シュンとしょげた犬がうっとおしい。
我関せずの姿勢を突き通していたナツメだったが、木々の間に何かを見つけて急に走り出す。
「コッコが掛かっているわ!」
追いついたミライが見たのは、大きな丸い野鳥が、錆びた鉄籠の中で歩き回る姿だった。
見事な尾羽は黒々と天を指し、丸い体は空よりも陸に適応させたため、飛ぶことはできない。
ナツメは膝を付いてじっくりと鳥を観察する。
コッコはその視線から逃れるように下まぶたで円い瞳を覆い隠した。
―― まだ蹴爪が短い。生後一年ほどだわ。
野生のコッコは基本的に硬くて調理に手間と工夫が必要だが、若鶏となると話は別だ。締まった若い肉はプリプリとした弾力と柔らかさが相まって、最上級の食感を生み出す。
この付近ではベリーの実が豊富なので、それを食したコッコの肉は甘い。
血抜きのために数刻吊るすのを考慮しても、夕飯には間に合うだろう。
シンプルな丸焼きが一番好きだが、半分は燻製にしてとっておきたい。果実の原木で作ったスモークウッドは、納屋に充分に残っている。
隣国では生食の習慣があるが「野生の獲物はよく火を通せ」と母から耳にタコができるほど聞いていたので、加熱調理が大前提だ。
この時期のガラスープは三日持てば良い方だから、お湯は少なめにして味を濃くしよう。これで炒め物にも一味加えられる。
茶色の羽毛に映える赤黒い大きな鶏冠は、茹でるとコリコリとして癖になる一品だ。
漆黒の長い尾羽は、綺麗に洗浄して街に売りに行こう。
人里離れた森の奥の更に奥に住む森魔女にとって、肉付きが良い野鳥は貴重なタンパク源である。
先月から空振りが続いていただけに、ナツメは高揚していた。
「あぁ……美味しそう」
決めた、今すぐ帰ってコッコを吊るす。畑の野菜を収穫して、出来うる最高の料理法を吟味しなくては。
沸き立つ歓喜は鼓動を早め、彼女の顔を生き生きと輝かせる。ナツメは両手を握り締めて勢いよく立ち上がった。
両足を紐で括られたコッコは、二刻ほど屋敷前の低木に逆さ吊りになった。
人の気配に身じろぎはするものの、すでに瞼を持ち上げる力はない。
ナツメは満足気に頷くと、並べていた刃物から大振りの包丁を手にした。
柄は短いが、抜き身の刃は分厚く、四角い。
鈍い輝きが切れ味の良さを連想させる。
重量感にあふれるそれを、小柄な少女は颯爽と握って歩く。
「コッコの首を落としたことはあるの?」
ミライの胸に、えも言われぬ感情が駆け上がってくる。覚悟をしたとはいえ、少女の口から発せられるには、重い言葉だった。
彼女が野蛮な行為で命を繋ぐ事実。
自分が綺麗事の中で生きてきた事実。
突きつけられた実情を、ミライは苦く感じる。
「いや……無いな」
正直に答えるが、これがまた予想外に勇気がいることだった。自分の罪を白状させられている心地になる。
実のところ、ミライはかなりの名家の生まれだった。
皿の上に綺麗に並ぶ「料理」には見慣れているが、店頭に並ぶ「食肉」ですら馴染みが薄い。
そんなミライの葛藤をよそに
「そう。じゃあコッコの体を抑えていて」
拍子抜けするほどに軽い口調で、彼女は続けた。
「羽の根元を掴むの。あなた、一応騎士なのだから力だけはあるでしょ?」
言うが早いか、彼女はコッコを吊るした縄を断ち切った。
抵抗もなく地面に落ちた鳥に、ミライは息を飲む。しゃがみこんでその体を抑えると、何かを察した鳥は急に暴れだした。
自警団の役割を兼任する騎士団は、犯罪鑑識に関することも行っており、当然ミライも現場の事後処理に当たったことがある。
この場所はのどかな木立で囲まれ、殺伐とした事件現場とは程遠いが、背筋がヒヤリとするあの感覚はとても似ていた。
―― 彼女と正当な契約を結ぶ
任務の一環だと考えるならば、何も迷うことはなかった。
音もなく包丁を振り上げた彼女は、空いた手で鳥の目を抑えながら、その頭を引いて首を伸ばし――
一息に断頭した。
沈黙と静寂が訪れる。予想よりもはるかに少ない出血量に、ミライは詰めていた息を吐いた。知らず、こわばった手から力が抜ける。
「だめ!!」
「――!?」
胸に何かが当たり、反射的に目を閉じたミライは顔面から血糊をかぶった。思わず尻餅をつき、真っ赤になった視界を慌てて拭う。ミライは瞬き、眼前の光景に目を見張った。
コッコが暴れている。
体だけになった鳥が、血糊をばらまきながらのたうちまわっていた。
鳥の首が膝の上に乗っているのを見つけ、反射的に立ち上がるとそれは音も無く草の上に落ちた。
ミライの胸にコッコの首が当たったのも、そこから血しぶきが勢いよく吹き出したのも、暴れる体が弾き飛ばしたせいだった。
逆さ吊りにされている間に、鳥の小さな首には体中の血液が集まっていた。
それは本来、捌く側が血糊を回避するための処遇であったのだが。
「何を呆けているの、捕まえなさい!」
鋭い声で我に返ったミライは表情を引き締めるが、そのおぞましい光景に目を逸らしたくなる。
ナツメの方を見ると、さすがの彼女も鳥から飛び退いて焦っている。
自分よりも慌てている相手を見ると冷静になれるな、とミライはどこか呑気に思い、鳥の暴れ回る方向を予測して地面を蹴った。両手をいっぱいに使って鳥を押さえつけると、次第に動きが弱まってきた。
完全に動きが止まったのを確認して、ミライはチラリとナツメをうかがう。血糊でゴワゴワとした前髪が少し邪魔だった。
大きな息を吐きながら冷や汗を拭ったナツメは、疲れた顔でようやく頷いた。
ぐらぐらとお湯が煮立っている小鍋に、事切れたコッコの体が投げ込まれた。
しかしすぐにナツメは大きな網ですぐに掬いだした。
これから羽を毟るらしい。
麻袋の上に置かれた湯気の立つコッコを不思議そうに眺めていたミライの耳に、聞こえよがしのため息が聞こえた。
目線を上げると、ナツメが手の平を突き出している。
「血まみれの人間と食卓を囲む趣味はないの」
白を基調とした王立騎士団の制服は、防水浸透性素材のためあらゆる汚れに強い。現にあれだけ飛び散ったコッコの血ですら、かすかな擦れだけを残して玉がほどけるように落ちていった。
しかし当然の如く、服から出ている生身の部分にその恩恵が受けられようはずもない。
ナツメは微かに探るような目をミライに向けた。
「裏手の川を使いなさい」
「仰せのままに」
事も無げに返答したミライを、訝しげに見やる。
井戸を使用させず川を指定するなど、どう考えても異常だ。
しかしミライには全く気にした様子が見受けられない。
一礼をしたミライが当たり前のように下流に足を向けたところで、慌てて制止の声をかけた。
不躾に彼を注視するが、不思議な顔で見返されるだけで、暗群青の瞳には憤りも翳りもない。
「正気なの?」
我ながら、あんまりの言い草だと思った。
指示をした本人が思うことではないのかもしれないが、好んで川に入る輩などいないはずだ。
それを聞いたミライは少し考える素振りを見せ、何を感じたのか瞳を優しく細めた。
「ここには、君に逆らう大人はいないよ、ナツメ」
幼子に安心感を与えるような優しい口調で諭す。
ミライの極端な態度の変化に、息をのんだナツメの顔が強張る。
「子供扱いはやめなさい」
「……女性に対する礼節をわきまえていると捉えてはどうかな?」
「今のが!? 馬鹿にしないで」
声を荒らげたナツメに、ミライはいたわるような眼差しを向ける。心底心配しています、と声が聞こえそうな表情に、ナツメは奥歯を噛み締めた。
「その顔、不愉快だわ」
「それでは、どのように振舞えばいいのか御教示願えないだろうか」
あくまで柔らかく問うミライに、ナツメがグッと言葉に詰まる。
そもそも、こんなに顔に出る男ではないはずだ。
明らかにわざと作った表情で、包容力のある大人を演じている。それくらいすぐにわかるのに、わかっているのに証拠がない。
こんなにわかりやすい演技ですら見抜けない鈍い子供だと見下されるのは癪だ。しかし、どのように指摘するのが最善か、考えがすぐにはまとまらない。
これ以上続けるのは不毛だ。
こちらが大人になり負けてやるべきなのか。
しかし結果的にミライにおだてられてうまく操縦されたように見える。
それでは自分は、ワガママがどこまで通用するか試す愛情不足のひねくれた小娘ではないか。
グルグルと回る思考に、ナツメは苛立つ。
せめて、当てつけに嫌がらせをしているという誤解を解かなければ。こういうことになるなら、相手の反応など試さずに、最初から全てを告げておけばよかった。
胸に起きる敗北感に苛まれながら、ナツメは不機嫌な声音で呟いた。
「……川の上流を使いなさい」
「それでは川が汚れるだろう?」
至極当たり前な疑問だったが、今のナツメには耐えられなかった。
「あなたが思っているほど非道じゃないわ。いいからさっさと行きなさい!」
そっぽを向いたナツメに、ミライは苦笑して会話を切り上げる。
言われた通りに上流を目指し、歩いていくことにした。
彼の気配が完全に去ってから、ナツメは地団駄を踏んだ。
―― 何なのあいつ!
どうやら彼はこちらの対応次第で傷つく矜持を持ち合わせていないどころか、試されていることに勘付くと逆に仕掛けてくるほど図太い。
新たに得た情報を反復するが、ムカムカと怒りがこみ上げてくる。
「何が、何が『御教示願えませんか』よ」
荒い息を繰り返しながら、ナツメは落ちてきた赤い髪を乱暴に掻き上げた。
「見てなさい、絶対に本性を暴いてやるわ」
子供扱いを続ける様なら、子供じみた仕返しでもしてやろうか。
―― 鳥を捌くのは初めてだと言っていたわね。
自分も初めて捌くのを見た時は、夜中に鳥のお化けにうなされたものだ。笑顔でザクザクと切り分けていく母に、それはそれは恐怖を感じた。
精神が弱れば、必ず本性が露呈する。
閃いた悪意あるアイディアが徐々に良いものに思え、ナツメは鼻歌まじりでコッコに向き直った。
屋敷の左手に、半円状のゆるい下り坂があった。下に行くにつれ、草地から砂利道へと変わる。
耳でせせらぎを拾ったミライの前に、澄み渡った青く雄大な渓流が現れた。
河原から見る屋敷は、崖の上に立つ形となり荘厳さが際立つ。
向こう岸は緑に覆われた崖が連なり、渓谷のような情景だった。
ミライは岩石が転がる河原を上流へと進む。
川中に鎮座する大岩には苔が生し、日光が降り注ぐと黄緑色の光沢を放つ。
しばらく歩くと、水面が霞がかってきた。
どういうことだろう、と更に近づくと、水面から立ち上がる煙が湯気だと見当がついた。その仮定を検証するために手を入れる。
「……温かい」
地熱で温められた川の存在は知っていたが、実際に見るのは初めてだった。
それでようやく納得した。少女のあの態度は、照れ隠しだ。
察するに、彼女の本質は何の変哲もない年相応の子供だ。それも、わざと突き放すような態度をとる、冷血を装った詰めの甘い子供じみた子供だ。
所持する莫大な力は己を過信させ、憂いを取り除くことに夢中になるあまり、目的から遠ざかっていくことに気付きもしない。
偏狭な視野で挑まれても、こちらが身構え、策略を立てる前にことごとく自滅していくというのに。
「王城にも一人いたな」
呟きながら豪快に衣類を脱いでいき、手頃な岩の上に服の山を作る。
頭を振って髪を払うが、固まった血糊が邪魔をして視界は晴れない。
動きに合わせて、首から下げた鎖が揺れた。
先端に通る銀のリングは二個。それぞれ長円形のプレートと繋がっている。
つや消しされたプレートは中央がクロスにカットアウトされており、下部や側面にこの国の言語が黒く羅列する。
騎士を拝命した際に、教会から賜る認識票――通称、ドッグタグだ。
姓名・血液型・所属部隊などの個人情報が打刻されており、殉職した際には一枚を戦死報告用、もう一枚を判別用として遺体に残す。
大きな戦は長らく起きておらず国交も正常であることから、本来の目的に使われることは少ない。
軍神・古代竜フェンリルの加護が付与されていることから、慣例として携行が義務付けられているが、竜騎士にとっては加護を失った途端に竜から振り落とされるため、命に直結する問題だった。
おとぎ話のようだが、事実ドッグタグを持たぬ者や加護が失効した者を竜は頑なに拒む。
これは軍神の末裔である竜族が、フェンリルの意志の元に行動しているからだとも言われ、また気高き竜王の血筋から、加護を持つ者だけを同族と同様に見なすからだとも言われている。
この不思議な現象から軍神の加護の信憑性は高いが、竜騎士以外で重視する者は少ない。
結局、実用性が無い者からすれば、数ある携行品の内の一つに過ぎなかった。
ドッグタグの隅に浅黒い染みを見つけ、ミライは眉をひそめる。
加護を失う恐れがあるため、穢れは禁忌だ。
動物の絶命時に出た血液など、不浄の一言でしかない。
鎖骨を触るとヌルリとした感触があり、爪に沿って滴る赤い露に重苦しい息を吐く。
防水浸透性素材が売りの王立騎士団制服には、首筋を伝う血液は防げないという意外な弱点があったらしい。
ドッグタグに加護を付与する方法と言えば、第一に国立の教会に依頼することが挙げられる。
最寄りの教会が遠方の際には、加護を込めた聖水を用い祝詞を唱えることにより一時的な効果が認められている。
しかし緊急用の軍の荷物の中には最低限の必需品しか組み込まれておらず、小規模な竜騎士団のための聖水など端から品目には入っていない。
聖水の携行を求めた彼らに対し、国立教会は首を縦に振らなかった。
陽光により生成される加護は、月光により消滅していく。
その不安定さを訴えてはみたものの、迅速な行動の元に不慮の事態はいくらでも防げるというのが返答だった。
その裏にはレンタルドラゴンの費用を抑える狙いもありながら、森魔女に対して恩を売るためにどうしても竜で訪問する必要があったのだ。
ミライは裸足で浅瀬の川底を踏みしめて歩く。
水をかき分け中央に進むごとに水深と水温が下がっていく。
水位が腰に達したところで、ドッグタグを流水につけ指で汚れを擦り落とす。
黙々と洗浄をするミライの胸の内で、衝動的な声が響いた。
―― 手遅れだ、加護は失われた。
「この程度、全く問題はない」
―― 嘘。身の内で強まるアレの力を感じるだろ。
「月光を浴びぬように過ごせば大丈夫だ」
―― いつまで持つかな。
「今までも乗り越えてきた。悪運の強さを信じよう」
―― それよりも、ほら。
「……」
―― いっそ手放してしまえば、全て終わるとは思わないか。
二枚のドッグタグがかち合う音に、ミライはハッと顔を上げる。
やけに後ろ向きな思考に自笑するしかない。
今できる事は、最善を尽くすだけだ。不浄の血糊を洗い落とし、身を清める。
お辞儀のような体勢で髪を洗っていたが、そのうちに面倒になり水に潜った。澄んだ水の中で、小さな魚の群れや沢カニを見る。
陽光をいっぱいに受けとめた水面が、鏡のように輝いていた。
その中をくぐるように浮上すると、世界はキラキラと瞬き、美しさにあふれていた。
幻想的な光景に、ミライは幼馴染の神官のことを思い出す。
色素の薄い男で、それを気にして白い髪を顔が隠れるほど伸ばしていた。
それが日差しを浴びると鏡のように輝くので、綺麗な色だと言ったら大層驚かれたのを覚えている。
彼は竜騎士の自分を、とても気に掛けてくれていた。
あれは確か団長に就任したばかりの頃、珍しく訪ねて来た彼が祝詞を授けてくれたことがあった。
『もし貴方が何かの拍子に加護を失うようなことがあれば、認識票を太陽の光にかざしてください。僅かばかりですが、加護を付与することができます。軍神は、常に貴方と共に』
ミライは頭を振って水気を飛ばすと、プレートに指を這わせる。深呼吸をし、ドッグタグを陽光に掲げると彼に教わった祝詞を唱えた。
―― 廣く厚き仁慈を持って 軍神の貴き御心の下に加護を授け給え 穢れなき光を持ち この神具を浄化し奉らん
気休め程度の術だが、さきほどに比べて心は軽い。
蒼天を仰ぎ見ながら、濡れて濃紺になった髪を掻き上げる。
ミライの背筋を伝う雫が、木漏れ日に照らされてつややかに煌めいた。
「遅いわ」
捌き方を伝授し、あわよくば内臓の処理をさせようと思っていたのに、完全に当てが外れた。
湯気を上げていたコッコの体はすでに冷え、樽の上に置いたまな板の上で鶏皮に包まれた肉の塊と化している。これ以上作業を遅らせると夕食に間に合わないどころか日が落ちて辺りが見えなくなってしまう。
今日中にガラスープの仕込みまでやっておきたいナツメは、天を仰いで熟考する。
―― もう待てないわ。
いくら考えても、結果は同じだった。
半ば口を尖らせながら丸鶏を捌きにかかる。コロンとした丸いフォルムが可愛くて、美味しそうで、幸せすぎて笑みがこぼれる。
二ヶ月前から研いでおいた出刃包丁は文句無しの切れ味だ。まるでようやく日の目を浴びたことを喜んでいるかのようだ。
モモを切り、手羽をバラし、蹴爪と内臓の処理にかかる。充分に血抜きされた肉は美しい緋色で、あばらを剥がすとうっすらとゼリーに包まれた内臓が現れた。
橙黄色の脂肪と食べられない部分を慎重に取り除く。破れてしまうと肉に臭みがついてしまうため、作業には丁寧さが求められる。廃棄用を包丁でまな板の隅に寄せて、コッコの解体は完了した。
「すごいな」
掛けられた声に驚愕してナツメは顔をあげる。そこにはスッキリとした顔のミライが立っていた。
「手際がよくて驚いた」
「戻ったのならどうして手伝いに来ないの」
多少ムッとしながら返すと、珍しくミライが言いよどんだ。
ハッとしたナツメは、湧き上がる笑みをあわてて咬み殺す。
鳥の内臓は鑑賞には値しない。そのグロテスクさは初見で遠慮したい部類に入るだろう。
―― 今夜は鳥のお化けにうなされればいいわ!
ナツメが勝ち誇った顔でミライを見ると、彼は控えめに口を開いた。
「とても良い笑顔で切り分けていたから、楽しんでいるところを邪魔しては悪いと思って」
空いた口がふさがらないとは、まさにこのことだった。
―― だいたい、あなたが遅いから。
野鳥を捌く趣味はない。食べるために、生きるために仕方なく処理をしているのだ。
知らないだろう、わからないだろう目の前の男が、ナツメは急に憎らしくなった。
「好きなわけ、ないじゃない」
この年で自給自足を余儀なくされた。
庇護してくれるはずの親はいない。
いることはいるが、美男子漫遊に出かけていって帰ってこないので、概ね居ないのと一緒だ。
鼻にツンとした刺激が走り、慌てて下を向いた。
すると血に汚れた両手がうつり、一気に気分が下降した。
―― 臭いし、汚いし、最悪。
一旦自己嫌悪が始まると、加速していく一方だった。
―― お腹空いたし、嫌がらせは失敗したし、狂人みたいに言われるし。
息を吸うと、胸にできた空洞が冷えていくような錯覚に陥る。
震える唇を噛み締めるが、視界が潤んでいくのを止められない。
近づいてくるミライが、戸惑っているのがわかった。
「すまないナツメ、無神経だった」
大きな手が頭に伸びてくる気配に、ナツメは思わず頭上を振り払う。
「触らないで! また生臭くなりたいの?」
叫んだ弾みで涙腺が崩壊する。
きっと先ほどのセリフも、うまく発音ができていないだろう。
膝が崩れて、地面にへたりこんだ。
手の甲にパタパタと水滴が落ちる。力いっぱい草を握ると、ブチブチと何本かが千切れた。
いたわるように背中に手が置かれたが、身をよじって払いのけた。
憎いのか、腹立たしいのか、悲しいのか、すでに判別がつかなかった。
溢れ出した感情に任せて、ミライの胸を握り締めたこぶしで殴る。
微動だにしないのが悔しくて、何度も何度も力任せに叩いていく。
渾身の力で殴打したところで、不意に気力が失せた。
虚無感に力が抜けた体を、頑丈な腕が支える。
投げやりな気持ちで体重を預けると、規則正しい心音が聞こえた。
力強い鼓動に聴き入っていたナツメは、唐突に我に返り、とっさにミライの胸を押し戻した。
―― わたし、今、なんで
彼の顔を見ることができない。彼に顔を見られたくない。
上がる体温を感じながら、その原因と至近距離に居ることが耐えられず、ナツメは井戸の方向に飛ぶように走り出した。
ミライの表情が見えない位置まで来ると、振り向きざまにありったけの声で叫ぶ。
「ちゃんと焼いておきなさいよ!」
捨て台詞のようになってしまったが、涙を流しきったおかげでいやに清々しい気分だった。今日は食べまくると決めて、ナツメは残り一息で井戸まで走りきった。
不覚にも泣かせてしまったことに、硬い表情でミライは立ち上がる。
残る罪悪感が足取りを重くする。
社交界で培った公爵家の血筋としての意地が、腹の探り合いに手加減を許さない。
相手はたった十三の少女で、しかも爵位を持たぬ庶民だというのに。
警戒も牽制も逆効果だ。
波風を立ててどうすると、あの時にこの口が諌めたばかりではないか。
職務の遂行を、自分が妨げるのか。
己の失言を回想し、遺恨の情にかられる。
もっとうまい言い方は無かったのかと考え、次いで完全に八つ当たりであったことに思い至る。
―― 任務の一環だということを心に刻め。
己に言い聞かせると、ささくれ立つ心を押し殺していく。
大きく深呼吸をすると、先程よりいくらかマシになったような気がした。
そうして丸鶏に対峙すると、任務に取り掛かるべく考えを巡らせる。
―― 『焼く』とは火に炙って熱をとおし、食べられるようにすること。
以前に遠征先で地元の人がくれた焼き芋を思い出した。
「この中に落とせばいいのか」
ミライはゴウゴウと轟く焚き火を見つめ、確信を持って頷いた。
肉が爆ぜる香ばしい匂いが辺りに漂う。すぐに表面が黒ずんできたので、もう焼けたのか、と鳥を引き上げにかかる。
細長い二又の串があったので、それで丸鶏をぶっ刺した。
滴る肉汁が炎と相殺しあい、ジュウジュウと騒がしい。
皿の準備がまだだったので、串刺しの丸鶏は一旦まな板の上に戻す。ベチャリと赤い汁が滲んだ。
「うわ~美味しそう!」
後ろから陽気な声が聞こえ、ミライは違和感に動きが止まる。
声音が、ナツメよりだいぶ幼い気がする。
振り向くと同時に本能的な間合いと取ると、白くて丸いものが宙に浮いていた。
ツルリとした体は丸鶏より二回りほど大きく、背にはちいさな白金の翼。がっちりとした後足とは対照的に、ちょこんとついた前足が短い。
「古代……竜……?」
軍神フェンリルの一族は最も古い竜族であることから古代竜と呼ばれている。
体の割合に対して翼が極端に小さい特徴的な姿で、馬に近い現代の姿とは一線を画す。
王立騎士団の標章にも起用されており、ミライが帯刀する剣の柄や鞘にも咆哮する姿が雄々しく刻まれているが――お腹があんなに柔らかそうに前に突き出しているとは、知らなかった。
小さな竜は小首を傾げ、牙の覗く口から流暢な人語を発した。
「ねぇねぇ、それ食べていいの?」
軍神・古代竜フェンリルは気高き竜王であり、史実で描かれる御姿は、そのどれもが精悍で猛々しい。
友好的な古代竜の存在に、軍神を信仰しているミライは切実に悩む。
―― まさか加護とは、このような軽い気持ちで付与されているのだろうか。
彼の胸の内など知らない竜は、期待の篭ったつぶらな瞳でミライを見つめる。その熱い視線に、ミライは弾かれたかのように我に返る。
何にせよ、古代竜から返答を求められているのは事実だ。
「すぐに所有者に確認を取って参ります」
利き手を胸に当て、騎士の礼を尽くす。
ミライの竜騎士としての本質が、白金の小竜を崇拝させた。