第三十七話 猟犬の矜持
自衛隊座間駐屯地。
完全武装で部隊を率いている鈴木諜報部長は、通信用モニター越しの寿命の限界を迎え、車椅子に沈み込む柿枝と回線を繋げていた。
「――総理、いえ、柿枝先生。世界は完全に終わります。もはや国家というシステムそのものが消滅しました。私はこれから残存部隊を率いて、最終防衛ラインへと向かいます」
『ああ……ご苦労だったな、鈴木君。君には感謝しているよ』
柿枝の口元から、黒い血がツーッと流れ落ちる。もはやクローン体としての肉体が限界を迎え、崩壊を始めているのは画面越しの鈴木の目にも明らかだった。
『鈴木君……最後に、私から一つだけ、頼みがある』
「頼み、ですか。私にお出しになる命令は、とうに終わったはずですが」
鈴木は眉を微かにひそめ、冷淡に突き放すように言った。自分たちをチェスの駒のように冷酷に使い潰し、この世界の破滅を仕組んだ悪魔からの言葉。だが、悠一が次に返した言葉と、その表情は、鈴木の予測を根底から裏切るものだった。
『命令ではない。一人の人間としての……身勝手なお願いだ』
柿枝は血を吐きながらも、その顔に、今まで鈴木が一度も見たことのないような穏やかで、悲しげな人間としての表情を浮かべた。
『私の個人的な復讐に付き合わせてしまった、何の罪の無い人々の魂を……あの施設で彼らが懸命に救おうとしている。……だから、守ってやってくれないか?』
その言葉に、鈴木は目を見開き、そして深く、ため息をついた。
国家の猟犬として、私情を挟まず冷徹に任務を遂行することだけを矜持として生きてきた鈴木。その彼に対して、今まで散々自分たちをチェスの駒のように冷酷に使い潰してきた最悪の悪魔が、最後の最後に『人間としての情』にすがりついてきたのだ。
「ずりぃよ、あんた。俺の立場を知ってて」
鈴木は忌々しげに頭を掻きむしり、そして、不敵な笑みを浮かべてモニターの柿枝を真っ直ぐに見据えた。
「勘違いしないでいただきたい。私は国家保安の任を帯びた諜報部長として、国家の最高機密であるあの施設を死守しに行くだけです。……貴方の安いお涙頂戴に付き合う義理は、ありませんよ」
『……ふっ、ははは。そうか、そうか。実に頼もしいな……』
柿枝は満足そうに微笑み、静かに通信を切った。
モニターが消えた後、鈴木は自身の愛銃の弾倉を強く叩き込み、傍らで待機する部下たちに向かって低く、力強い声で命じた。
「聞いたな。我々はこれより、自衛隊駐屯地のコアカプセル製造施設へ向かう。世界の終わりに乗じてあそこを破壊しようとするテロリストが必ず現れる。……いいか、何があってもあの施設だけは守り抜け! 一匹のネズミすら近づかせるな!」
それは、国家のシステムが崩壊した世界で、誇り高き猟犬が選んだ最期の意地だった。
御殿場自衛隊駐屯地の荒野。
コアカプセル製造施設へと続く一本道に、鈴木諜報部長は残存する精鋭部隊を展開させ、分厚い防衛線を敷いていた。
世界中の権力者たちがパニックに陥り、核のボタンを押して世界が崩壊しようとしている今。国家の猟犬である鈴木にとって、この最重要施設を死守することだけが、残された唯一の使命だった。
「来たか」
鈴木が鋭い眼光を向けた先。砂煙を上げて、一台の重武装したトラックとその周囲を飛ぶドローン、多脚ロボットの群れが、施設を目指して単騎で突っ込んでくる。
モニター越しに運転席の男の顔を確認した瞬間、鈴木の顔に獰猛な笑みが浮かんだ。
「王石聖……いや、かつて大物政治家に飼われていた殺し屋リー・キングストンか。十年前のインドと伊豆……あのふざけた暗殺の数々、忘れた日はないぞ。政治家の犬だった貴様に手が出せず、幾度苦汁を舐めさせられたことか。世界が滅びる最期に、特権階級の命令でこの施設を破壊しに来たテロリストとして、堂々と貴様を狩れる日が来るとはな!」
鈴木は、積年の因縁に決着をつけるべく、全火力をリーのトラックへと集中させた。
――しかし、天才ハッカーと兵器の融合は、鈴木の想定を遥かに超えていた。
圧倒的な電子戦と物理火力の前に、鈴木の部隊は文字通り全滅させられた。
紫煙と火薬の匂いが立ち込める中、全身を撃たれ、血塗れになった鈴木が、トラックの荷室でコンソールに向かうリーの背後にまで、執念で辿り着いていた。
だが、弾は尽き、立っていることすら奇跡のような状態だった。ガクンと膝が折れ、鈴木は冷たい荒野の土に倒れ伏す。
「ここまで、か。だが、国家の猟犬として、命乞いはせん」
鈴木は血の混じった唾を吐き出し、自らを破った因縁の殺し屋の背中を力強い眼光で睨みつけた。
「くっ……殺せ!」
職務に殉じた男の、誇り高き最期の言葉。
だが、リーは振り返ることすらなく、モニターを見つめたまま、無機質で冷淡な声を返した。
「殺す? なぜ私が、何の脅威でもない貴方の命を奪うという、無意味な行為をしなければならないのですか。……静かにしていなさい。施設を守る計算の邪魔です」
「なっ!? 貴様、施設を破壊しに来たのでは……」
「破壊? まさか。あそこには私が守護する神がいるのです。その邪魔をする者を排除するだけです」
鈴木は絶句した。かつて裏社会で恐れられた冷酷な殺し屋は、狂信者となっていた。鈴木の命にも、施設の破壊にも微塵も興味を示していなかった。彼の見つめる先にあるのは、空を引き裂いて降ってくる大陸間弾道ミサイルの群れだけだ。
その瞬間、鈴木はすべてを理解した。目の前にいるこの男は、政治家の命令で動くテロリストなどではない。自分と同じように……いや、自分よりも遥かに狂気的で神聖な覚悟で、空から降る終末の炎からこの施設を守るためだけに、単騎で駆けつけてきたのだと。
「ははっ。同じ目的で、殺し合っていたというのか……」
完全な敗北と、極上の皮肉。鈴木は血の海に沈んだまま、かつての因縁の男が、己の命を散らして神懸かった奇跡を成し遂げる姿を、ただ静かに、敬意と共に見届けるのだった。
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世界を地獄へ叩き落とし、狂気的な復讐を完遂した柿枝悠一。
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