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天国の嘘  作者: やまざかたかす
第八章 託次の選択

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第二十九話 復讐の巻き添え

 柿枝の声から、先ほどまでの冷酷な嘲笑が消えた。代わりに、重く、湿り気を帯びた執着が滲み出す。


「支配など興味はない。神になりたいわけでもない。私が欲しかったのは……あの、ありふれた朝だけだ」


 柿枝の仮面が、わずかに崩れた。その瞳には狂気的な光と、隠しきれない深い哀愁が混濁している。


「弟が淹れてくれた不味いコーヒーの匂い。解るかな? 不味いのだがね、私にはとても美味しかったのだよ。研究に行き詰まって、二人でくだらない冗談を言い合った昼下がりは特にね。……あの、何の変哲もない、輝かしい日常をもう一度だけ取り戻したかった。不老不死の技術があれば、サクラ君の脳内に眠るデータがあれば、私はあの欠落した時間を再構成できたんだ」


 柿枝は、窓に映る自分の弟の顔を見つめ、震える指先でその頬をなぞった。


「『兄さん』と、彼がもう一度、私を呼んでくれるだけでよかった。そのためなら、私は世界を、人類を、この身を、何度だって地獄に叩き落とせたんだよ……」


 その孤独の深さに、タケルは一瞬、言葉を失った。

 目の前にいるのは、世界を支配する独裁者ではない。二十年前のあの日から一歩も動けぬまま、弟の死体に縋りつき、世界を巻き添えにして無理心中を企てている、世界で最も惨めで、おぞましい亡霊だった。


 タケルの耳に届くその声は、あまりにも淡々としていて、かえって毛羽立った狂気を帯びていた。モニターの光に照らされた柿枝の横顔は、彫刻のように動かない。この男は今、数万人の命が消えゆくプロセスを、まるで古びた書類を整理するかのような手つきで実行しようとしている。


「貴様……自分もろとも、全員を殺すつもりか!」


 託次の悲鳴に近い叫びが、無機質な処置室に響き渡った。

 柿枝は、その絶叫を心地よい音楽でも聴くかのように受け止めると、ふっと唇を歪めた。


「弟が死んだあの日、私も死んでいたのだよ。……天見君、君だけがサクラという命に逃げることができた。……さあ、行きなさい。君たちは、死にゆくこの都市から脱出する権利がある」


 柿枝の視線が、ぐったりと横たわるサクラ、そしてタケルへと向けられる。その瞳の奥には、かつての弟――本物の柿枝改二が愛した『人間の可能性』の残火を惜しむような、奇妙な慈しみが宿っていた。


「タケル君、君のその名前は……里村やその優秀な後輩たちが最後に願った希望だ。それを、こんな地獄で終わらせてはいけない」


 タケルは、自分の中に眠る柚木の記憶が激しく疼くのを感じた。希望。名前。プレゼント。その言葉がタケルの魂を揺さぶり、沸騰させる。柿枝の言葉は一見、救済のように聞こえる。だが、その裏にある圧倒的な絶望を、タケルのハッカーとしての倫理が断固として拒絶した。


「待てよ」


 タケルは震える一歩を踏み出し、柿枝とスキャナーの間に立ち塞がった。


「ヘブンに囚われた人たちはどうなるんだ。アンタに騙されて、救いを求めてシステムに入った人達を……このままデジタルの藻屑にして見捨てるっていうのか。そんなことは、絶対にさせない!」

「彼らは衆愚だ、タケル君。弟を殺し、私にこの檻を作らせた共犯者だよ。彼らには、この美しき墓標の中で永遠の眠りにつく権利がある」

「勝手なことを言うな!」


 タケルは吠えた。視界の端で、サクラのバイタルが小さく、しかし確かなリズムで跳ねる。知識の濁流に飲まれながらも、彼女もまた抗おうとしている。


「アンタの復讐に、関係ない奴らを巻き込むな。デジタルだろうが肉体だろうが、生きてる奴には、その先を選ぶ権利があるはずだ。俺たちが名前をもらったのが希望だって言うなら、その希望をここで切り捨てて逃げるなんて、それこそ里村さんたちの願いを裏切ることになるだろ!」


 タケルの指先が、端末のキーボードの上で火花を散らすように動き始めた。柿枝がボタンを押す前に。この地獄のカウントダウンがゼロになる前に。

 タケルは、柿枝が築き上げた永遠の檻というシステムの深淵へ、自らの意志を叩き込もうとしていた。


 柿枝は、そんなタケルの姿を意外そうに、そしてどこか懐かしむような表情で見つめている。狂気に満ちた独裁者が不意に見せた、あまりにも人間臭く穏やかなその瞳に、タケルは背筋を這い上がるような薄気味悪さと戸惑いを覚えた。


「面白い。ならば、その希望とやらが、私の二十年の絶望にどこまで抗えるか……見せてもらおうか」


 柿枝は、浮かせた指先を踊らせるようにコンソールの端をなぞった。その瞳には、破滅を待つ者の虚無感ではなく、かつて研究に没頭していた頃の知的な好奇心が微かに蘇っているようにも見えた。


「一つ、ヒントをやろう。十年前、君たちの名付けの親が抗った痕跡を調べてみるのはどうかな」


「名付けの親……柚木と、美桜さんが?」


 タケルの指が、キーボードの上で一瞬止まった。脳裏を過るのは、先ほど見たビデオの中の二人。そして、自分の中にオーバーライドされている「柚木」の残滓が、柿枝の言葉に強く共鳴し、熱を帯びる。


「サクラ、聞こえるか! 二人が何かを残しているはずなんだ。暗号の中に、俺たちにしか見えない裏口があるはずだ!」


 タケルの叫びに応えるように、装置に繋がれたサクラの意識が、知識の濁流の中から一つの形を掴み取った。


『タケル、くん……見つけた。これ……生活記録ライフログの影に隠された、仮想的な居住区、生活コンポーネントだわ』


 サクラの声は、スピーカー越しではなく、タケルの脳内ネットワークに直接響いてきた。彼女の脳スキャンによって強制復号されたデータ。そこには、権力者が望んだ不老不死のコードではなく、二人の設計者が構築していた避難シェルターの設計図が含まれていた。


「生活コンポーネント……? 待てよ、まさか」


 タケルは、サクラから送られてきたデータの座標を、ヘブンのシステム深層部と照合させた。それは、デジタル化された魂をただ処理するだけの冷たいサーバ群の中に、ポツリと浮いた空白の領域だった。


「これだ……。柚木さんは、ヘブンのシステムに、住人の意識を一時的に退避させ、現実世界へと再接続するための架け橋を隠していたんだ。……でも、起動には二つの鍵がいる」

「二つの鍵……?」


 託次が、サクラの体を支えながら問い返す。


「サクラが持つ『美桜の記憶(情動プロトコル)』と、俺が持つ『柚木の意志(論理キー)』だ。二人が、俺たちに名前をくれた時に……この鍵を託していたんだよ」


 柿枝は、モニターに映し出されたその隠し階層を見て、満足げに笑った。


「やはり、里村は最後まで、私に何も言わずに完成させていたのだね。君たちが言う希望の本当の形を」


 柿枝はモニターの光に顔を半分埋めながら、どこか遠い場所を見つめるように言った。その声には、自身の計画が上書きされていくことへの静かな愉悦さえ混じっている。


「だが、そのブリッジを架けるにしても、残された時間は少ないぞ。タケル君」


 柿枝は、ひび割れゆく指先で窓の外、伊豆スマートシティの夜景を指し示した。


「私の復讐は二段構えでね。まずはあの豚どもへの処刑だ。彼らがこの私邸を出てスマートシティの中心部へ戻った瞬間、彼らの罪のすべてが全世界へ暴露される。そして同時に、伊豆のエネルギープラントは臨界を迎え、箱根の火山性ガスが伊豆全域を覆い尽くす。逃げ場のないあの都市で、彼らは富を抱えたまま永遠の静寂へと沈むのさ」


 局地的な地獄。伊豆スマートシティという檻は、最初から彼らを皆殺しにするための巨大なガス室だったのだ。

 だが、タケルが戦慄する間もなく、柿枝は愉悦に満ちた声でさらに絶望の蓋を開けた。


「そして、もう一つの仕掛けが世界だ。私はこの二十年間、世界の権力者たちの耳元で囁き続け、彼らの間に疑心暗鬼という名の火種を撒いてきた。今、私のリークによって『ヘブンの嘘』を知った各国の特権階級たちは、パニックに陥っている。終わるならすべてを道連れに……彼らが恐怖から核のボタンに指をかけるのは時間の問題だ」

「核、だと……!?」

「そうだ。自暴自棄となった権力者たちが、互いの都市を、互いの富を焼き尽くす。そうなれば、物理的な電力もネットワークも途絶え、ヘブンを構成するサーバ群すら灰になる。豚どもは伊豆で死に、世界は核の炎で自滅する。私が何もしなくとも、人類は勝手に地獄へ落ちていくのだよ。それでも君は、システムを繋ぐというのか?」

「当たり前だ」


 タケルの答えは即座だった。

 しかし、そう言い放った彼の表情には、拭いきれない焦燥がじわじわと浮かび上がっていた。指先が冷たくなる。エンジニアとしての冷徹な脳が、柿枝の言葉の正しさを理解してしまったからだ。どれほど華麗なハッキングでヘブンの城壁を崩そうとも、それを支える物理的なデータセンター、物理的なサーバそのものが核の炎で蒸発してしまえば、救い出したはずの数億の魂は行き場を失い、完全に消滅する。


 柿枝はそれを見透かしたように、ひび割れた唇の端を吊り上げた。


「君の言う生活コンポーネントもサーバの一部だと思うがね」


 逃げ場はない。クラウド上の楽園は、炎と共にすべて消え去る。

 電子の海に浮かぶ虚構の城は、物理的な破壊の前にはあまりにも無力だった。


(クソ、どうすればいい……! ネットが死ぬ。電力が消える。世界中のデータセンターが同時に灰になるんだぞ……!)


 タケルの脳内で、演算が狂気的な速度で空回りする。

 ヘブンの外へ逃がす? どこへ? 地上のどこに、核の炎からデータを守れる安全なストレージがあるというのか。

 外部ネットワークから完全に切り離されても、自立して記憶を維持し続けられる場所。 電源が喪失した暗闇の中でも、半永久的に魂の波形を保護できる、強固な物理的媒体。


(そんな都合のいいもの、この終わっていく世界のどこにあるって言うんだ……!)


 タケルが絶望に歯噛みし、完全に思考の手詰まりに陥った、その時だった。


「いや、方法はある」


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