第二十七話 柿枝改二の抹殺
「嘘だ。こんなことがあってたまるか」
笹山智行が、魂を抜かれたように膝をついた。
「名前……? 記憶……? 冗談じゃない! 我々が欲しかったのは、永遠の命だ! 死人の感傷など、一銭の価値もないゴミだ!」
他の権力者たちも、信じられないものを見たという顔で次々と色を失っていく。彼らが十年の歳月と莫大な資産を投じ、一人の少女の人生を蹂躙してまで手に入れようとした聖典の正体。それは、彼らがかつて不要として捨て去り、今やどんな大金を積んでも二度と手に入れることのできない、あまりにも残酷で美しい『愛の証明』だった。
「ふっ、はははは!」
静寂を破ったのは、柿枝の乾いた笑い声だった。
彼は車椅子の上で天を仰ぎ、絶望に震える豚どもを嘲笑うように笑い続けた。
「ふざけるな……! 柿枝、貴様、我々をコケにするのも大概にしろ!」
静寂を切り裂いたのは、笹山智行の絶叫だった。
超並列AIクラスターが導き出した答えが、ただのホームビデオであったという事実が、彼のプライドと投資した巨額の資産を粉々に打ち砕いていた。
「名前だと? 愛だと? そんなゴミクズのために、我々がどれだけの便宜を貴様に図ってきたと思っている! 永遠の命というからこそ、法を曲げ、倫理を捨て、ヘブンやこのスマートシティを建設させたんだ!」
その隣で、より冷徹で、より毒々しい眼差しを向けている男がいた。
官房長官・笹山茂治。智行の父であり、この国の政界の裏を牛耳る家系の者だ。彼は、震える手でモニターの映像を消すと、車椅子の柿枝を見下ろした。
「柿枝総理。いや柿枝、君は致命的なミスを犯した」
笹山茂治の声は低く、蛇が這うような粘り気を持っていた。
「君を総理の座に据え続けてきたのは、君のカリスマ性ではない。我々に死の克服という夢を見せ続けてきたからだ。その夢が、こんな低俗な家族愛の押し売りだったと知れば……君を支える壁は一瞬で崩れる」
監視ルームに集まった他の権力者たちも、笹山茂治の言葉に呼応するように、次々と柿枝へ冷たい視線を投げかける。
「公にされたくなければ、今すぐ辞任しろ」
笹山茂治が、懐から一枚の書面を取り出した。既に用意されていたかのような、隙のない辞任届だ。
「この十年、君が私的に流用した国家予算、そして非人道的な実験の数々……すべてを表に出されたくはあるまい? 幸い、君を降ろそうとする意志は、ここにいる全員で一致している」
笹山茂治の瞳には、隠しきれない野心が燃えていた。彼は、ずっとこの瞬間を待っていたのだ。柿枝という天才の陰に隠れ、その椅子を狙い続けてきた十年間。
「君が潔く身を引くなら、君の余生だけは保障してやろう。どうだ? 賢明な判断を期待するよ」
柿枝は、自分を取り囲む権力者たちの醜い顔を、一人一人慈しむように眺めた。
その瞳には、怒りも絶望も、後悔すらもない。ただ、深い、深い深淵のような虚無だけが湛えられている。
「受け入れよう」
柿枝の口から漏れたのは、あまりにも呆気ない降伏の言葉だった。
「私の役割は、このビデオを君たちに見せることで終わった。不老不死などという欺瞞に縋りつく哀れな亡者たちに、相応しい幕引きを用意したつもりだったのだがね」
柿枝は震える手でペンを取り、辞任届に署名した。
「笹山君。君が望む総理大臣の椅子だ。存分に、その重さを味わうといい」
「ふん。賢明な判断だ」
笹山茂治は奪い取るように署名済みの書面を掴み、息子の智行と顔を見合わせて下卑た笑いを浮かべた。自分たちが勝ったのだと、この国の頂点に立ったのだと、誰もが確信した瞬間だった。
己の完全なる勝利を確信し、下卑た笑みを浮かべた笹山智行が、パノラマウィンドウへと傲慢な足取りで歩み寄る。眼下に広がるスマートシティの夜景を見下ろしながら、彼は多幸感に包まれた声で高笑いを上げた。
「いやあ、実に素晴らしい眺めだ。この伊豆の楽園も、ヘブンの利権も、すべては我々笹山一族のものとなったのだからな!」
新総理となった笹山茂治は、車椅子の上で微動だにしない悠一の前にゆっくりと歩み寄った。その手に持ったタブレット型のヘブン管理端末を、これ見よがしに悠一の眼前に突きつける。
「柿枝、貴様は実によくやってくれたよ。君のその神がかったカリスマ性のおかげで、国民という名の衆愚どもは何の疑いも持たずに『ヘブン』という名の屠殺場へ自ら進んで飛び込んでくれた。法を曲げ、倫理を捨て、この世界規模の搾取スキームを完成させられたのは、すべて君を神輿として担ぎ続けてきたからだ」
笹山茂治の口元が、蛇のように残忍に歪んだ。
「だが、夢を見る時間は終わりだ。君がかつて我々に約束した『不老不死の真のドキュメント』は、死人の感傷のようなくだらないビデオだったが、ロジックの根幹はすべて我々の手の中にある。つまり、国民から搾取すれば良いだけだ。……そして、君という神輿は、もう一銭の価値もないゴミクズになったということだ」
笹山茂治の指先が、管理端末の画面を冷酷にタップしていく。画面上で、赤く明滅する一つのシステムプロファイルが呼び出された。
『アカウント名:柿枝改二(管理者権限)』
「君は世間的には、すでにヘブンへ完全移行した最高尊厳ということになっている。ならば、その魂をシステムから完全にデリートしても、現実の国民は誰も気づきはしない。……柿枝、貴様は『ヘブン』からも永久追放だ。今、この瞬間に貴様の存在のすべてをこの世から抹殺してやる」
ターン、と軽い操作音がホールに響いた。
それは、ヘブンのマスターサーバ内に存在する『柿枝改二』のアカウント、およびその全アクセス権限の完全な消去を意味していた。世間的にはヘブンの中で永遠に生きているはずの総理の魂を、デジタルの奈落へと叩き落とす操作。
現実世界の肉体が崩壊し、公衆の前へ二度と出られない悠一にとって、このアカウントの削除は、自身の社会的・論理的な存在そのものを消し去る――すなわち、誰にも暴かれることのない合法的な殺人の執行に他ならなかった。
「これで終わりだ、柿枝。いや、死に損ないの化け物くん。余生をその車椅子の上で、せいぜい惨めに呪いながら過ごすことだな」
笹山智行が、嘲笑と共に手に持っていたシャンパングラスを悠一の足元へと投げ捨てた。クリスタルガラスが床の大理石に激突して甲高い音を立てて砕け散り、黄金色の液体が悠一の崩壊しかけた靴を汚していく。
「さあ皆、帰るぞ! 我々にはまだ、世界中から集まる天文学的な富と、伊豆の天国のような楽園が待っているのだからな!」
新総理とCEO、そして品性のない笑い声を上げる取り巻きたちは、満足げに背を向け、重厚な扉の向こうへと去っていった。自らが世界の王に君臨したのだと、この地球上のすべての利権を手に入れたのだと、誰もが微塵の疑いも持たずに確信した、まさに愚者の絶頂の瞬間だった。
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