表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天国の嘘  作者: やまざかたかす
第六章 記憶の共鳴

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/41

第二十話 同じ夢、二人の交差

 サクラは小さく息を吐き、重たいVRゴーグルをゆっくりと外した。

 途端に、薬品の匂いと、バイタルモニターの規則正しい電子音が、彼女を現実へと引き戻す。


 窓の外には、長泉町を覆う灰色の深い霧。ここは、彼女の命を繋ぐための絶対安全な特別病棟だ。


 コンコン、と控えめなノックの音がして、病室の扉が開いた。


「サクラ、まだ起きていたのか」


 姿を見せたのは、父である天見託次だった。臨床工学技士の白衣を着た彼は、どこかひどく疲労した顔をしていたが、サクラを見ると、無理に作ったような優しい笑顔を浮かべた。


「うん。オンライン学校の課題をやってたの。……お父さん、なんだか疲れてるね」

「なに、ちょっと機械の調整が長引いただけだ。心配するな、サクラのデータは……お前は、お父さんが絶対に守るから」


 託次は、サクラの頭を大きな手でそっと撫でた。その手は少しだけ冷たくて、微かに震えているように感じた。


(お父さんが、私を愛してくれているのは本当だとわかる。でも、この優しい手が、私を永遠に病室に閉じ込めている)


 サクラは胸の奥を刺すような罪悪感に耐えながら、「ありがとう、お父さん」と、幸せな娘の笑顔を作って見せた。


 分厚い防音扉が閉まると、病室には再び、機械の電子音だけが残される。父が残していった僅かな温もりも、冷たい空調の風にすぐさらわれて消えてしまった。

 ベッドサイドのデジタル時計が、静かに時間を刻んでいる。


『午前 一時五十五分』


 サクラは、まだ「全部被ってやる」と約束してくれた彼の言葉の熱が残るVRゴーグルに、祈るように両手を伸ばした。


(タケル君……)


 彼女はそっと目を閉じ、深い深呼吸と共に、再びデジタルの海へとダイブした。



 深夜の横浜は、精巧なスノードームの内側のように、静謐で、どこか非現実的な冬を纏っていた。街路を彩るパステルカラーのLEDが、舞い落ちる粉雪を宝石の破片のように変え、監視ドローンは星を模した青い光を点滅させながら、優雅にビルの隙間を縫っていく。表面上は、何もかもが整えられた、嘘のように美しい平和の風景。


 だが、タケルの住む古いマンションの室内だけは、その虚飾を拒絶するようにしんとしていた。コンクリートの壁は冷たく引き締まり、窓ガラスに刻まれた氷の結晶が、外の世界の柔らかな光を鋭く屈折させて、暗い部屋の床に瑠璃色の影を落としている。


 自室は、マルチモニターが放つ青白い光に支配されていた。

 指先を走るキータッチの音だけが、クリスタルのように澄んだ空気の中で小さく反響する。タケルはサクラのいる特別病棟のファイアウォールに、針の穴を通すような精密さでバックドアを仕掛けていた。


(HEHRの書き換え……天見託次、あんたがこの綺麗な世界の裏側に隠している真実は、どこにある?)


 脳内の奥底の知識が、時折バグのように意識を侵食し、視界が激しく明滅する。そのたびにタケルは、右手の甲を強く噛んで現実へと踏み止まった。

 その時、モニターの端でチャットアイコンが静かに瞬いた。

 サクラとの約束の時間だ。


サクラ:夜遅くにごめんね。いつも、同じ夢を見るの。暗くて、すごく冷たい水の中に沈んでいく夢。でも、不思議なの。水は生温かいのに、心だけが凍えるみたいに冷たくて。


「……っ!」


 タケルの心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。呼吸が止まり、全身の血が逆流するような感覚。


サクラ:息ができなくて、すごく苦しいのに。でも、隣に誰かがいるの。その人の手がすごく力強くて、温かくて。私、その手に縋りついて、いつも泣きながら何かを祈ってる。


 タケルは息を呑み、無意識のうちに自分の右手を強く握りしめていた。震えが止まらない。なぜだ。なぜ、サクラが。俺が目覚めるたびに指の間から零れ落ち、ただ右手だけが熱いという感覚だけを頼りに探し続けている、あの狂おしい夢を。なぜ、彼女が、全く同じ色と温度で知っているんだ。


(水は生温かくて、心が凍える……。隣にいる、誰か……)


 タケルの脳内で、封印されたはずの記憶が激しく振動する。

 視界が白く反転し、十年前のあの日の残像がフラッシュバックした。

 砕けるガラスの音。肺を圧迫する水の重み。そして、絶対に離さないと誓って握りしめた、細い、小さな手の感触。


タケル:その誰かは、何か言ってなかったか?


 震える指で、それだけを打ち込む。


サクラ:顔は見えないの。でもね、その人は私を呼んでた。「……お」って、今にも消えそうな声で。

サクラ:タケル君、怖いよ。私の名前はサクラなのに、どうしてそんな響きで呼ばれるの?


「……お」


 美桜サクラ。名前の最後の一文字が、タケルの中の誰かを激しく揺さぶる。

 呼びかけの残響が、魂の底にある記憶の執念を、今のタケルという器に流し込んでくる。


(サクラ、お前の隣にいたのは……。お前の手を握っていたのは……)


 タケルは、青白いモニターを睨みつけた。

 サクラが洗脳されていないのは、天見託次がデータを偽装しているからだけではない。彼女もまた自分と同じ。誰かの記憶を、その身に抱え続けているからだ。


タケル:サクラ。その夢は、お前の妄想じゃない。俺も、同じ夢を見てる。


 画面の向こうで、サクラが激しく息を呑む気配がした。


タケル:真っ暗な海の中で、誰かの手を絶対に離さないと誓っている夢だ。お前を呼んでいるその声が、もし俺のものだとしたら。


 タケルの瞳には、もはや十七歳の少年の迷いはなかった。失われた過去の代わりに、目の前の共有された痛みが、彼に戦う理由を与えていた。


タケル:俺が、何度だって助けに行く。その夢の終わりを、俺たちの手でハックしてやるよ。


 モニターの向こう側で静かに雪が降り積もるような、透き通った沈黙が流れていた。

 タケルの宣誓――「あの夢の終わりをハックしてやる」という言葉が、回線を通って長泉の特別病棟へと届く。

 「入力中……」のサインが、これまでになく速い周期で点滅した。いつもなら、壊れそうな硝子細工を扱うような、慎重でか細い言葉が返ってくるはずだった。だが、そこに並んだのは、タケルの網膜を鋭く射抜くような、全く色の違う言葉だった。


サクラ:次は落ちたりしないでよね。ちゃんと、フラグごとへし折って来なさいよ。


「……っ」


 タケルはモニターを凝視したまま、息を呑んだ。「落ちるな」「フラグを折れ」。

 サクラという、父に守られ、外の世界を知らずに育った少女が使うはずのない、強烈な信頼を孕んだ不敵な物言い。それは、タケルの中に眠る記憶の魂に、これ以上ないほど鮮烈な火を点ける言葉だった。


 だが、驚愕に浸る間もなく、画面上の文字が激しく乱れた。


サクラ:ちょっと、私ったら何を!

サクラ:今の無し! 絶対に無しだから! 消しとく! 変なこと言った、忘れて!


「ふっ、あはははは!」


 サクラが慌てて消去のコマンドを連打しているのだろうか、チャットウィンドウの文字が震えるように明滅している。タケルは暗い自室で、こらえきれずに声を上げて笑った。


サクラ:不思議なの。

サクラ:タケル君の言葉を読んでいると、右の頬がすごく温かくなるの。誰かの冷たい指先に、すごく優しく撫でられているみたいに。


 タケルの心臓が大きく跳ねた。

 彼は無意識のうちに、キーボードから右手を離し、モニターの向こう側にいる彼女の顔に触れるように、そっと虚空へ手を伸ばしていた。夢の中で、冷たい海の底で、誰かの頬を撫でた時の切ない感触が、タケルの指先に電流のように蘇る。


タケル:泣いているのか?

サクラ:うん。怖い夢の話をしているのに、すごく安心して、涙が止まらないの。

タケル:安心しろ。フラグごと地獄に叩き落として、お前をその檻から引っこ抜いてやる。今度は絶対に、お前の手は離さない。


 タケルは、その強気な文章を画面に打ち込んだ後、送信ボタンの上に指を置いたまま、数秒間、動けなくなった。


(俺に、そんなことができるのか?)


 相手は国家だ。自分はただの高校生で、部屋から一歩も出たことのない少女一人を救い出せる保証なんて、どこにもない。指先が、恐れで微かに震える。

 だが、タケルは奥歯を強く噛み締め、目を閉じた。怖がっている場合じゃない。俺が強がらなくて、誰がサクラを安心させるんだ。


 タケルは祈るように、そして自分自身を鼓舞するように、震える指で思い切りエンターキーを叩きつけた。


サクラ:バカ。待ってる。


 チャットの明滅が止まり、タケルは深く椅子に背を預けた。

 窓の外では、政府が演出する平和な冬のパステルカラーが、雪を照らしている。

 だが、二人の間には、もはやどんな欺瞞も届かない。


「待ってろよ、美桜ミオ……いや、サクラ」


 初めて口にしたはずのその名前は、驚くほど熱くタケルの胸に馴染んだ。だが、彼は強くかぶりを振り、モニターの向こうで震えているはずの『今の彼女』の姿を脳裏に結んだ。


 過去の亡霊に突き動かされているわけじゃない。俺が助け出すのは、今を生きるサクラだ。天見託次の嘘も、政府の『天国』も、すべてを瓦解させるための最深部へのダイブを、タケルは開始した。


お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ