第二十話 同じ夢、二人の交差
サクラは小さく息を吐き、重たいVRゴーグルをゆっくりと外した。
途端に、薬品の匂いと、バイタルモニターの規則正しい電子音が、彼女を現実へと引き戻す。
窓の外には、長泉町を覆う灰色の深い霧。ここは、彼女の命を繋ぐための絶対安全な特別病棟だ。
コンコン、と控えめなノックの音がして、病室の扉が開いた。
「サクラ、まだ起きていたのか」
姿を見せたのは、父である天見託次だった。臨床工学技士の白衣を着た彼は、どこかひどく疲労した顔をしていたが、サクラを見ると、無理に作ったような優しい笑顔を浮かべた。
「うん。オンライン学校の課題をやってたの。……お父さん、なんだか疲れてるね」
「なに、ちょっと機械の調整が長引いただけだ。心配するな、サクラのデータは……お前は、お父さんが絶対に守るから」
託次は、サクラの頭を大きな手でそっと撫でた。その手は少しだけ冷たくて、微かに震えているように感じた。
(お父さんが、私を愛してくれているのは本当だとわかる。でも、この優しい手が、私を永遠に病室に閉じ込めている)
サクラは胸の奥を刺すような罪悪感に耐えながら、「ありがとう、お父さん」と、幸せな娘の笑顔を作って見せた。
分厚い防音扉が閉まると、病室には再び、機械の電子音だけが残される。父が残していった僅かな温もりも、冷たい空調の風にすぐさらわれて消えてしまった。
ベッドサイドのデジタル時計が、静かに時間を刻んでいる。
『午前 一時五十五分』
サクラは、まだ「全部被ってやる」と約束してくれた彼の言葉の熱が残るVRゴーグルに、祈るように両手を伸ばした。
(タケル君……)
彼女はそっと目を閉じ、深い深呼吸と共に、再びデジタルの海へとダイブした。
深夜の横浜は、精巧なスノードームの内側のように、静謐で、どこか非現実的な冬を纏っていた。街路を彩るパステルカラーのLEDが、舞い落ちる粉雪を宝石の破片のように変え、監視ドローンは星を模した青い光を点滅させながら、優雅にビルの隙間を縫っていく。表面上は、何もかもが整えられた、嘘のように美しい平和の風景。
だが、タケルの住む古いマンションの室内だけは、その虚飾を拒絶するようにしんとしていた。コンクリートの壁は冷たく引き締まり、窓ガラスに刻まれた氷の結晶が、外の世界の柔らかな光を鋭く屈折させて、暗い部屋の床に瑠璃色の影を落としている。
自室は、マルチモニターが放つ青白い光に支配されていた。
指先を走るキータッチの音だけが、クリスタルのように澄んだ空気の中で小さく反響する。タケルはサクラのいる特別病棟のファイアウォールに、針の穴を通すような精密さでバックドアを仕掛けていた。
(HEHRの書き換え……天見託次、あんたがこの綺麗な世界の裏側に隠している真実は、どこにある?)
脳内の奥底の知識が、時折バグのように意識を侵食し、視界が激しく明滅する。そのたびにタケルは、右手の甲を強く噛んで現実へと踏み止まった。
その時、モニターの端でチャットアイコンが静かに瞬いた。
サクラとの約束の時間だ。
サクラ:夜遅くにごめんね。いつも、同じ夢を見るの。暗くて、すごく冷たい水の中に沈んでいく夢。でも、不思議なの。水は生温かいのに、心だけが凍えるみたいに冷たくて。
「……っ!」
タケルの心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。呼吸が止まり、全身の血が逆流するような感覚。
サクラ:息ができなくて、すごく苦しいのに。でも、隣に誰かがいるの。その人の手がすごく力強くて、温かくて。私、その手に縋りついて、いつも泣きながら何かを祈ってる。
タケルは息を呑み、無意識のうちに自分の右手を強く握りしめていた。震えが止まらない。なぜだ。なぜ、サクラが。俺が目覚めるたびに指の間から零れ落ち、ただ右手だけが熱いという感覚だけを頼りに探し続けている、あの狂おしい夢を。なぜ、彼女が、全く同じ色と温度で知っているんだ。
(水は生温かくて、心が凍える……。隣にいる、誰か……)
タケルの脳内で、封印されたはずの記憶が激しく振動する。
視界が白く反転し、十年前のあの日の残像がフラッシュバックした。
砕けるガラスの音。肺を圧迫する水の重み。そして、絶対に離さないと誓って握りしめた、細い、小さな手の感触。
タケル:その誰かは、何か言ってなかったか?
震える指で、それだけを打ち込む。
サクラ:顔は見えないの。でもね、その人は私を呼んでた。「……お」って、今にも消えそうな声で。
サクラ:タケル君、怖いよ。私の名前はサクラなのに、どうしてそんな響きで呼ばれるの?
「……お」
美桜。名前の最後の一文字が、タケルの中の誰かを激しく揺さぶる。
呼びかけの残響が、魂の底にある記憶の執念を、今のタケルという器に流し込んでくる。
(サクラ、お前の隣にいたのは……。お前の手を握っていたのは……)
タケルは、青白いモニターを睨みつけた。
サクラが洗脳されていないのは、天見託次がデータを偽装しているからだけではない。彼女もまた自分と同じ。誰かの記憶を、その身に抱え続けているからだ。
タケル:サクラ。その夢は、お前の妄想じゃない。俺も、同じ夢を見てる。
画面の向こうで、サクラが激しく息を呑む気配がした。
タケル:真っ暗な海の中で、誰かの手を絶対に離さないと誓っている夢だ。お前を呼んでいるその声が、もし俺のものだとしたら。
タケルの瞳には、もはや十七歳の少年の迷いはなかった。失われた過去の代わりに、目の前の共有された痛みが、彼に戦う理由を与えていた。
タケル:俺が、何度だって助けに行く。その夢の終わりを、俺たちの手でハックしてやるよ。
モニターの向こう側で静かに雪が降り積もるような、透き通った沈黙が流れていた。
タケルの宣誓――「あの夢の終わりをハックしてやる」という言葉が、回線を通って長泉の特別病棟へと届く。
「入力中……」のサインが、これまでになく速い周期で点滅した。いつもなら、壊れそうな硝子細工を扱うような、慎重でか細い言葉が返ってくるはずだった。だが、そこに並んだのは、タケルの網膜を鋭く射抜くような、全く色の違う言葉だった。
サクラ:次は落ちたりしないでよね。ちゃんと、フラグごとへし折って来なさいよ。
「……っ」
タケルはモニターを凝視したまま、息を呑んだ。「落ちるな」「フラグを折れ」。
サクラという、父に守られ、外の世界を知らずに育った少女が使うはずのない、強烈な信頼を孕んだ不敵な物言い。それは、タケルの中に眠る記憶の魂に、これ以上ないほど鮮烈な火を点ける言葉だった。
だが、驚愕に浸る間もなく、画面上の文字が激しく乱れた。
サクラ:ちょっと、私ったら何を!
サクラ:今の無し! 絶対に無しだから! 消しとく! 変なこと言った、忘れて!
「ふっ、あはははは!」
サクラが慌てて消去のコマンドを連打しているのだろうか、チャットウィンドウの文字が震えるように明滅している。タケルは暗い自室で、こらえきれずに声を上げて笑った。
サクラ:不思議なの。
サクラ:タケル君の言葉を読んでいると、右の頬がすごく温かくなるの。誰かの冷たい指先に、すごく優しく撫でられているみたいに。
タケルの心臓が大きく跳ねた。
彼は無意識のうちに、キーボードから右手を離し、モニターの向こう側にいる彼女の顔に触れるように、そっと虚空へ手を伸ばしていた。夢の中で、冷たい海の底で、誰かの頬を撫でた時の切ない感触が、タケルの指先に電流のように蘇る。
タケル:泣いているのか?
サクラ:うん。怖い夢の話をしているのに、すごく安心して、涙が止まらないの。
タケル:安心しろ。フラグごと地獄に叩き落として、お前をその檻から引っこ抜いてやる。今度は絶対に、お前の手は離さない。
タケルは、その強気な文章を画面に打ち込んだ後、送信ボタンの上に指を置いたまま、数秒間、動けなくなった。
(俺に、そんなことができるのか?)
相手は国家だ。自分はただの高校生で、部屋から一歩も出たことのない少女一人を救い出せる保証なんて、どこにもない。指先が、恐れで微かに震える。
だが、タケルは奥歯を強く噛み締め、目を閉じた。怖がっている場合じゃない。俺が強がらなくて、誰がサクラを安心させるんだ。
タケルは祈るように、そして自分自身を鼓舞するように、震える指で思い切りエンターキーを叩きつけた。
サクラ:バカ。待ってる。
チャットの明滅が止まり、タケルは深く椅子に背を預けた。
窓の外では、政府が演出する平和な冬のパステルカラーが、雪を照らしている。
だが、二人の間には、もはやどんな欺瞞も届かない。
「待ってろよ、美桜……いや、サクラ」
初めて口にしたはずのその名前は、驚くほど熱くタケルの胸に馴染んだ。だが、彼は強くかぶりを振り、モニターの向こうで震えているはずの『今の彼女』の姿を脳裏に結んだ。
過去の亡霊に突き動かされているわけじゃない。俺が助け出すのは、今を生きるサクラだ。天見託次の嘘も、政府の『天国』も、すべてを瓦解させるための最深部へのダイブを、タケルは開始した。
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