第十八話 壊れゆく友達
タケルは、震える手でキーボードを叩いた。
タケル:サクラ、エミリ。山本先生の話は、嘘じゃない。もしこの世界が消えても、俺が二人を連れていく。俺の手で、外の世界へ連れて行ってやるよ。あいつらが手を出せない、新しい世界にな。
エミリは、その言葉に反応することなく、虚空を見つめている。
サクラは、長泉の病室で、そっとタケルのメッセージに返信を打った。
サクラ:信じてるよ、タケル君。この霧が晴れる日を、ずっと待ってる。
タケルは、ラウンジに映し出されたエミリのアバターを凝視し、無意識に奥歯を噛み締めていた。数ヶ月前まであんなに色鮮やかだったピンク色のうさ耳アバターは、いつの間にか初期設定の無機質なグレーへと戻されていた。装飾品はすべて消え去り、その顔面には笑顔のエモートが張り付いたまま、ピクリとも動かない。
「ねえ、サクラちゃん。タケル君」
スピーカーから漏れ出してきたエミリの声に、タケルの指先が凍りついた。
以前の活発で、少しお調子者だった彼女のトーンとは、明らかに違っていた。抑揚というものが削ぎ落とされ、まるで深い夢の中を漂っているかのような、不気味なほど穏やかで平坦な声。
エミリのアバターは、銀色の栄養バーを口元に運ぶモーションを機械的に繰り返しながら、静かに言葉を紡ぐ。
「これ、すごく美味しいんだよ。お母さんも最近こればっかり食べてて、昔みたいに怒らなくなって、ずっとニコニコしてるの。私たちも早く大人になって、パパのいるヘブンに行きたいね」
「……っ!」
スピーカーの向こう、長泉町の特別病棟から、サクラが激しく息を呑む気配がノイズ混じりに伝わってきた。画面の中の、白いワンピースを着たサクラのアバターが、目に見えてガタガタと震え始める。彼女がどれほど凄まじい恐怖に射すくめられ、背筋を凍らせているか、タケルには痛いほど分かった。サクラはエミリの純粋な狂気に圧倒され、言葉を失って硬直している。
「エミリ、お前、それ以上その栄養バーを喰うな」
タケルはマイクに向かって、地を這うような低い声を出した。
勝田台の山田家は、もう手遅れだ。母親もエミリも、政府の最適化という名の精神解体スキームに完全に呑み込まれている。家族の不信感ごと、あの銀色の劇薬で脳を麻痺させられたのだ。
「え? どうして? タケル君は、ヘブンの何がダメなの?」
エミリの声には、怒りも、疑問もなかった。ただただ、空虚な多幸感だけがスピーカーを満たしていく。
「お父さんも、お爺ちゃんもお婆ちゃんも、みんなあっちで待ってるんだよ。お母さんももうすぐだし。この重たい体を捨てちゃえば、痛いのも、悲しいのも、全部なくなっちゃうのに……。サクラちゃんのお父さんも、早く一緒にいければいいね」
「だめ!」
サクラが、悲鳴のような声を絞り出した。彼女が胸元を強く押さえる仕草に連動して、アバターの周囲のエフェクトが激しく乱れる。長泉の病室で、彼女のバイタルがパニックで危険水域に達しているのは明白だった。
タケルは激しい焦燥感に突き動かされ、キーボードを叩きつけた。エミリの通信セッションを強制的にミュートし、サクラとの一対一のホットラインを開放する。
「サクラ! エミリの言葉を聞くな、画面を見るな! 深呼吸しろ。俺の声だけを聞け!」
タケルの叫びに、サクラの荒い呼吸音が小さく重なる。
「タケル君。……怖いよ。エミリが……エミリじゃなくなっちゃった……。あの栄養バーが、エミリの心を……全部、食べちゃったみたいで……」
「分かってる。俺がアイツの回線を切った。お前は安全だ、長泉の檻はまだ破られてない」
タケルはモニターの光の中に、怯えるサクラの影を強く抱きしめるように視線を注いだ。エミリをここまで変貌させた政府の悪意が、すぐそこまで迫っている。
(これ以上は、一歩も進ませない)
タケルの指先が、怒りで熱を帯びていく。失われた記憶の底から、かつて国家という巨大なシステムを相手に孤軍奮闘した執念が、十七歳の少年の肉体を通じて、確かな殺意へと変わり始めていた。
タケルはマイクをオフにしたまま、暗闇の中で静かに呟いた。長泉町の特別病棟にいるサクラ。そして、目の前で静かに壊れていくエミリ。世界がどれほど巨大な嘘に呑み込まれようとも、自分の中にくすぶるこの理由なき怒りがある限り、タケルはシステムの内側からその防壁を食い破る覚悟を決めていた。
不気味な静寂が戻った自室で、タケルは荒い息を吐き出していた。モニターの端で、サクラとの暗号化ダイレクトチャットを示すアイコンが、心音のように規則正しく明滅している。タケルは食い入るように画面を見つめる。
サクラ:タケル君、さっきはありがとう。少し落ち着いたから、話を聞いてほしいの。
文字の並びから、彼女の指先の震えが伝わってくるようだった。サクラは、先ほどラウンジで起きたエミリの異変、そして連日ニュースで流れる世界規模の熱狂について、隣室にいた父親の天見託次にすべてを打ち明けたのだという。
これまでヘブンの話題になると、決まって「心配するな」とだけ言って口を閉ざしていた父親が、今回は違っていた。サクラの怯えを正面から受け止め、真剣な眼差しで、静かにこう告げたらしい。
『オンライン学校では、これまで通り従順な生徒を演じろ。目を付けられるな』
『サクラがヘブンに行くことは絶対にない。だから安心しろ。――そのために、俺がHEHRを、測定の段階で書き換えている』
「HEHR」
その四文字のアルファベットが網膜に映った瞬間、タケルの脳髄を、高電圧の電流が駆け抜けた。
(あ、がっ……)
激しい頭痛。視界の端が白く明滅し、脳の奥底から専門知識の断片が濁流となって思考の表面へ噴出する。国家が徹底的に管理する絶対不可侵の生体データ。それを、ただの一介の臨床工学技士である親父さんが、国を相手にたった一人で書き換え続けているというのか。
夢の残像が、また不気味に歪む。砕けるガラスの向こうで、自分にシステムを託した男の、不敵な横顔。天見託次という存在の輪郭が、タケルの中で急速に巨大な影となって立ち上がっていく。
画面のテキストは続いていた。
サクラ:お父さんは、ヘブンの本当の恐ろしさを、全部知っているみたい。でも、私にはまだ隠してる。ねえ、タケル君。もしタケル君がヘブンの異常性を調べていて、その情報が必要なら、私、お父さんから強引にでも話を聞き出すよ? 私たちのために、あの人が何を隠しているのか、知らなきゃいけない気がするの。
「馬鹿野郎、サクラ……」
タケルはマイクがオフであることを確認しながら、押し殺した声で毒づいた。
サクラの文字の裏にある、焦燥と危うい決断力。彼女の中に眠る誰かが、真実を求めて身を焦がしているのが分かった。
だが、国家を相手に完全犯罪の綱渡りをしている天見から強引に秘密を暴こうとすれば、その安全な檻は内側から崩壊しかねない。何より、彼女を危険に晒すわけにはいかなかった。
タケルは、怒りと、それを上回るほどの強烈な庇護欲に突き動かされ、キーボードを叩いた。
タケル:無茶な真似はするな。親父さんは、お前を守るためにその嘘を抱えてるんだ。お前が壊れたら、親父さんの偽装も全部意味がなくなる。HEHRのことは、こっちで洗う。改竄不能なデータを書き換えるルートがあるなら、政府のサーバ側に必ずその綻びが残っているはずだ。俺の手で、それを見つけ出す。だからお前は、大人しく父親の言う通り、従順なフリをしていろ。
画面を見つめるタケルの瞳は、十七歳の少年のそれから、完全に大人の冷徹なエンジニアのそれへと切り替わっていた。
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