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幸福な鳥籠の壊れる音

作者: 藤紫
掲載日:2026/05/15

ランバート公爵家の嫡男、ヴィンセント・ランバートの婚約が決まった時、社交界は色めき立った。

当代随一の美貌と家格、そして何より、欠点一つ見当たらない誠実な人格。そんな彼に選ばれたのは、大人しく慎ましやかな侯爵令嬢、セレーナであった。



幼い頃から目立つことを好まなかった。

そんなわたくしが、社交界の至宝と謳われるヴィンセント様の婚約者に選ばれたという報せは、喜びよりも先に不安を運んできた。

この縁談には戸惑いしかなかった。鏡に映る自分は、黄金に輝く彼の隣に並ぶにはあまりに色彩が地味に思えたからだ。薄茶色の髪に、緑色の瞳。目立った特徴のない顔立ち。


けれど、初めての顔合わせでヴィンセント様が浮かべた微笑みは、そんな不安を霧散させるほどに穏やかで、慈愛に満ちていた。


「セレーナ嬢。俺は、君のような静かな気品を持つ女性を、ずっと探していたんだ」


その日から、わたくしの日常は彼によって丁寧に塗り替えられていった。


ヴィンセント様の献身は、社交界でも噂になるほどだった。

わたくしの誕生日には、彼の瞳の色と同じサファイアをあしらった首飾りが贈られた。季節が巡るたびに、流行の最先端でありながらわたくしの地味な好みを反映させた、贅沢な贈り物が届く。


「このドレスを、次の夜会で着てほしい。君を一番美しく引き立てるのは、この色だと確信しているよ」


贈られたドレスは、わたくしが自分でも気づかなかった魅力を引き出す魔法のようだった。

彼自ら選んでくれたという贈り物を身に纏い、夜会の会場に足を踏み入れると、友人たちは一様にため息をついて羨んだ。


ヴィンセント様の優しさは、贈り物だけに留まらない。わたくしのとりとめのない話に熱心に耳を傾け、体調を崩せば予定を放り出してまで見舞いに訪れてくれた。

そんな彼に、わたくしが恋心を抱くまでに時間はかからなかった。この人となら、穏やかで幸福な家庭を築けるに違いない――そう、信じて疑わなかったのだ。


その幸福に華を添えたのが、彼の妹であるエレノア様の存在だった。

初めてお会いした時、エレノア様はまだ幼さの残る、天使のように愛らしい少女だった。4歳年下の彼女は、兄と同じ金髪を揺らし、好奇心に満ちた瞳でわたくしを見上げていた。


「わあ、お兄様の婚約者様? とっても綺麗な方! ねえ、お義姉様って呼んでいいかしら?」


人見知りの激しいわたくしに、エレノア様は天真爛漫に懐いてくれた。彼女と庭園を散策し、お菓子を囲んで笑い合う時間は、わたくしにとって実の妹ができたような喜びであった。




結婚を1年後に控えた19歳の春。セレーナは次期公爵夫人としての本格的な教育を受けるため、ランバート公爵邸での同居を開始した。


「セレーナ、今日からここが君の家だ。何不自由なく過ごせるよう、全てを整えさせてあるよ」


ヴィンセント様の言葉に嘘はなく、用意された居室は至れり尽くせりであった。


公爵夫人の教えは、非常に厳格だった。


「セレーナ、ランバート家の女は常に誇り高く、揺るぎない芯を持たねばなりません」


時に厳しく、時に母のように優しく、わたくしに公爵夫人としての立ち居振る舞いを叩き込んでいく。わたくしもまた、愛するヴィンセント様に恥をかかせぬよう、必死にその期待に応えようとした。


そんな教育の合間、エレノア様がよくわたくしの部屋に遊びに来るようになった。


「お義姉様、お勉強中? ちょっと休憩しましょうよ」


彼女の天真爛漫な振る舞いは、厳しい教育の中での癒やしであった。




ランバート公爵邸での生活が1ヶ月を過ぎる頃には、わたくしの日常には甘い侵食が始まっていた。

緑の瞳を伏せて教本に向き合うわたくしの背後に、ふわりと甘い香りが忍び寄る。


「お義姉様! そのペン、とっても可愛いわ」


エレノア様が、背後からわたくしの首に腕を回し、頬をすり寄せてくる。


「エレノア様、今は勉強中ですよ」

「いいじゃない。ねえ、このペン、わたくしにくださらない? お義姉様のものが欲しいの」


彼女はわたくしの腕をぎゅっと抱きしめ、上目遣いで見つめてくる。その愛くるしさに毒気は微塵もなく、わたくしはつい「ええ、構いませんよ」と微笑んでしまう。

最初は、書き損じた羊皮紙や、使い古したリボンといった他愛のないものだった。

しかし、そのおねだりは次第にエスカレートしていった。


実家の父から贈られた細工物の小箱。ヴィンセント様からいただいた、季節の移ろいを感じさせる翡翠の耳飾り。


「わあ、お義姉様! このブローチ、今日のドレスにぴったりね。わたくしもつけてみたいわ」


エレノア様はそう言って、わたくしの胸元から迷いなくブローチを外すと、自分の胸に当てて鏡の前でくるりと回る。そしてそのまま、返してくれることはなかった。

少しだけ胸がざわつくものの、彼女の無邪気な笑顔と、夜にヴィンセント様から受ける「エレノアがまた我儘を言ったそうだね、すまない」という優しい抱擁が、わたくしの違和感を甘く溶かしていった。


ある日のこと。ヴィンセント様と3人でお茶を楽しんでいる中、エレノア様がわたくしの手元にあったお気に入りの扇を手に取った。それは、先日ヴィンセント様が「君によく似合う」と贈ってくれた大切な品だった。


「これ、素敵ね。わたくしにちょうだい、お義姉様」

「それは……ヴィンセント様からいただいた大切なものなので……」


わたくしが困惑していると、ヴィンセント様がいつもの穏やかな顔で口を開いた。


「こら、エレノア。セレーナに返しなさい」


その声はあくまで優しく、妹を諭す兄のそれであった。


「ふーんだ。お兄様のいじわる!」


エレノア様は頬を膨らませて見せる。


「怒るぞ」

「ちゃんと返しましたぁー!」


エレノア様はぺろりと舌を出して扇をテーブルに戻すと、わたくしの腕に抱きついてきた。


「冗談よ、お義姉様。怒らないで?」


その光景は仲睦まじい兄妹のやり取りであり、ヴィンセント様の眼差しには、妹を慈しむ情愛が浮かんでいた。


わたくしは、安堵していた。

ヴィンセント様のような誠実な婚約者と、可愛らしい義妹。厳しいけれど愛情深い公爵夫人。

この黄金に輝く鳥籠のような世界で、わたくしは一生幸せに暮らしていくのだと信じていた。


――その幸福の裏側で、静かに毒が回り始めていることに、わたくしはまだ気づいていなかった。


エレノア様が扇を返した瞬間の、わたくしを見つめる眼差し。

そして、ヴィンセント様がいつもわたくしに向ける微笑みが、あまりに隙がなく、平坦であったこと。

鳥籠を壊して現れる真実が、どれほど醜く、歪んだ愛に満ちているか。




その出来事は、ある夏の午後に起きた。

わたくしの手元には、亡き祖母から譲り受けた形見のロケットがあった。中には幼い頃のわたくしの肖像が入っている。それを愛おしく眺めていた時、エレノア様がいつものように隣に座り、わたくしの肩に頭を乗せてきた。


「見せて、お義姉様」

「これはダメですよ、エレノア様。大切な形見なのです」

「……ふうん、そうなの」


エレノア様はわたくしの手を解くようにしてロケットを奪うと、ふいに立ち上がった。そして、開け放たれた窓際まで歩いていくと、わたくしの目の前で、何のためらいもなくそれを外へと放り投げたのだ。

階下の石畳に硬質な音が響く。


「……あ」


わたくしの声は震えていた。急いで窓から見下ろすと、思い出の詰まったロケットは無惨にひしゃげ、バラバラに壊れていた。


「……ひどい。どうして……」


涙が溢れて止まらなかった。すると、エレノア様は慌てたようにわたくしの顔を覗き込み、悲しげに眉を下げた。


「ごめんなさい、お義姉様! わたくし、どうかしてたわ。……ああ、泣かないで、お義姉様」


彼女はわたくしの頬を包み込み、涙を指で拭う。エレノア様の瞳は潤んでおり、心から反省しているように見えた。しかし、その指先がわたくしの泣き顔をなぞる時、わずかに震えるような高揚感が伝わってきたのは気のせいだったのだろうか。


それ以来、エレノア様のおねだりは変質していった。

わたくしの物を奪い、わたくしが見ている時に、床に叩きつけたり、暖炉に放り込んだりするようになったのだ。

そのたびに、彼女は「ごめんなさい、もうしません」と縋り付いてくる。わたくしが泣けば泣くほど、彼女の甘え方は激しく、熱を帯びていった。


ある夜、耐えかねたわたくしはヴィンセント様に全てを打ち明けた。


「……そうか。それはエレノアが過ぎたことをしたね」


ヴィンセント様は翌朝、三人が揃った朝食の席でエレノア様を叱責した。


「こら、エレノア。セレーナに謝りなさい。大切なものを壊すなんて、ランバート家の娘として恥ずべき行為だぞ」

「……ごめんなさい。お義姉様」


エレノア様は涙を滲ませてわたくしに謝ると、ヴィンセント様を睨み唇を尖らせながら部屋を飛び出していった。


「やれやれ。あの子の子供っぽさには困ったものだ」


ヴィンセント様はため息をつき、困った顔でわたくしの頭を撫でる。


「君が寛大だから、あの子もつい甘えてしまうんだろう」


あまりに軽く、甘い対応。わたくしは言いようのない感情に胸がざわめいた。



その後も、エレノア様はわたくしの腕に抱きつき、「ねえ、お義姉様、許してくださる?」と甘えては、また何かを壊した。ヴィンセント様はそれを見つけるたびに、彼女の頭をコツンと拳で叩き、「またか」と呆れて見せた。


その繰り返し。

けれど、ヴィンセント様がエレノア様を本気で叱ることも、この屋敷から遠ざけることもなかった。



そうしている内に、結婚式の日がやってきた。

20歳を迎えたヴィンセント様とわたくしの結婚式は、ランバート公爵家の威信をかけた盛大なものであった。

純白のドレスを纏ったわたくしを、エレノア様は目を輝かせて見つめていた。


「お義姉様、なんて綺麗なの! 世界で一番美しい花嫁様だわ!」


彼女はわたくしのヴェールに触れ、陶酔したようにほめちぎる。その言葉に嘘はないのだと、わたくしにはわかった。


聖堂の祭壇の前、ヴィンセント様は、神聖な誓いの後、わたくしの顎を優しく持ち上げた。


「愛しているよ、セレーナ」


青い瞳が、どこまでも澄んだ色でわたくしを射抜く。

唇が重なった瞬間、参列者からの拍手が降り注いだ。

友人たちの暖かい眼差し、公爵夫人の満足げな微笑み、そして、最前列で誰よりも激しく手を叩くエレノア様。


わたくしは、溢れる多幸感の中にいた。

これまであった小さな歪みも、エレノア様の困った我儘も、この完璧な誓いの前では些細なことに思えた。

ヴィンセント・ランバートの妻としての人生が幕を開けたのだ。

わたくしを愛してくれる、完璧な夫。

わたくしを慕ってくれる、愛らしい義妹。

セレーナ・ランバートの心は、幸福な安堵感で満たされていた。

この美しい鳥籠の扉が、音もなく施錠されたことにも気づかぬままに。





翌朝、窓から差し込む柔らかな光の中で、セレーナは幸福な微熱と共に目を覚ました。

ヴィンセント様はすでに起きていたが、わたくしが目を覚ますと、すぐさま枕元に寄り添ってくれた。


「おはよう、セレーナ。身体は辛くないかい? 今日は無理をせず、ゆっくり休むといい」


寝台に腰掛け、わたくしの髪を愛おしげに梳く彼の手は、とても温かかった。昨夜の熱を思い出し、顔を赤らめるわたくしを、彼は抱き寄せ、額に優しい口づけを落としてくれる。この人と結ばれて本当に良かった。そう心から確信した朝だった。


それから一ヶ月後、公爵夫妻が隠居し、領地へと旅立った。

20歳にしてランバート公爵の家督を継いだヴィンセント様は、周囲の期待に応えるべく、誠実に、そして精力的に執務に打ち込んだ。わたくしもまた、新たな公爵夫人として家政を執り仕切り、忙しくも充実した日々を送るようになった。


夜になれば、彼は疲れも見せずわたくしを寝室で待ち受け、変わらぬ情熱で抱いてくれる。彼との甘い時間は、わたくしにとって何よりの安らぎだった。


しかし、唯一の綻びは、エレノア様のおねだりが結婚後も一向に止まないことだった。


ある日の午後、事件は起きた。

亡き母の遺品である繊細なクリスタル製の小鳥の置物。それをエレノア様が、わたくしと腕を組み甘えるような仕草をしながら、目の前の大理石の床に落としたのだ。


「あ……!」


粉々に砕け散ったクリスタルの破片を見て、わたくしは思わずその場に崩れ落ち、涙を流した。そこへ、騒ぎを聞きつけたヴィンセント様が執務の手を止めて駆けつけてきた。


「……何があったんだ」


惨状を目の当たりにしたヴィンセント様はエレノア様を叱責した。


「エレノア、どうしてセレーナの物を欲しがるんだ。なぜ壊す?」


エレノア様はヴィンセント様を見上げる際、唇を尖らせて不服そうに頬を膨らませた。


「だって……お義姉様の大切にしている物は、どれもキラキラして見えるんですもの。欲しくてたまらなくなっちゃうの」


兄に対するその態度は、どこか反抗的だった。しかし、わたくしの方を向き直ると、彼女は一変して今にも泣き出しそうな顔になり、わたくしの手に縋り付いた。


「ごめんなさい、お義姉様。わざとじゃないの、許してくださる?」


ヴィンセント様は小さく溜息をつくと、エレノア様の黄金の髪を、慈しむように優しく撫でた。


「……もうするんじゃないぞ。セレーナを悲しませてはいけない」


撫でられたエレノア様は、小さく「ふん」と鼻を鳴らして、そのまま部屋を走り去っていった。

ヴィンセント様はわたくしの傍らに跪き、ハンカチでわたくしの涙を拭ってくれた。


「すまないね、セレーナ。エレノアもまだ子供なんだ。俺がもっと言い聞かせておくから」


彼の言葉はいつも通り誠実で、わたくしを労わってくれている。

けれど、エレノア様の頭を撫でていた彼の大きな手のひら、その指先のわずかな震え。そして、大切なものを壊されたわたくしの痛みよりも、妹を宥めることを優先したようなその態度。

わたくしの胸の奥に、言葉にできないもやもやとした澱が、静かに溜まり続けていた。





季節は巡り、ランバート公爵邸はかつてない華やぎに包まれていた。

エレノア様の16歳の誕生日。それは彼女が正式に社交界へと足を踏み入れる、輝かしいお披露目の日であった。


「わあ、お義姉様! 」


準備を整えていたわたくしの姿を見つけるなり、エレノア様は周囲の視線も構わずに駆け寄ってきた。


「お義姉様、なんて綺麗なの……。今日のその緑のドレス、お義姉様の瞳の色にぴったり。わたくし、お義姉様が世界で一番素敵だと思うわ」


わたくしの手を取り、うっとりと頬を寄せてくるエレノア様。その無邪気な賞賛に、わたくしも自然と笑みが零れた。


「ありがとうございます、エレノア様。今日の主役はあなたなのですから、そんなにわたくしばかり褒めてはいけませんよ」


邸内の大広間には、数多のシャンデリアが星を撒いたように煌めき、名門貴族たちが色とりどりの衣装で集っている。その中心で、エレノア様は誰よりも光り輝いていた。

特注のドレスは白を基調とし、同じく白い糸で贅沢な刺繍が施されている。その姿は、まるで神話から抜け出した春の女神のようであった。


夜会が始まると、わたくしたち3人は公爵家の人間として、次々と訪れる来客たちと挨拶を交わした。

ヴィンセント様は、当主としての凛々しさと、新成人となった妹を見守る兄としての穏やかさを完璧に使い分けていた。隣に立つわたくしを「俺の自慢の妻だ」と紹介するその声には、相変わらず深い愛が籠もっている。


やがて、最初のダンスの時間が訪れた。

エレノア様にはまだ婚約者がいないため、最初のパートナーを務めるのは兄であるヴィンセント様だ。

黄金の髪を持つ二人がフロアの中央で手を取り合う姿は絵画のように美しく、会場中から感嘆の溜息が漏れた。ヴィンセント様はエレノア様の歩幅に合わせ、慈しむように彼女をリードしていく。


一曲が終わると、侯爵家の嫡男である青年が、緊張した面持ちでエレノア様にダンスを申し込んだ。


「お義姉様、行ってくるわね!」


エレノア様は楽しげに笑い、初々しい青年に連れられて再びフロアへと戻っていった。その微笑ましい光景に、周囲の貴族たちも目を細めている。


「……セレーナ。俺たちも踊ろうか」


ヴィンセント様に誘われ、わたくしも彼の手を取った。

音楽に合わせ、ゆっくりとステップを踏む。彼の腕の中は、いつだって温かく安全な場所だ。

ふと、ヴィンセント様の視線が、わたくしの肩越しに僅かに動いたのに気づいた。

彼が見つめているのは、先ほどの青年と楽しげに踊るエレノア様だ。その青い瞳に宿る光は、いつもの穏やかなものとはどこか違う色を含んでいるように見えた。だがそれも一瞬のことで、わたくしが視線を追おうとすると、彼はすぐに優しく微笑みかけてくる。


「どうしたんだい? ステップが乱れているよ」

「いいえ……なんでもありませんわ、ヴィンセント様」


ダンスが終わると、今度はさらに多くの貴族たちが挨拶に訪れた。その多くが、エレノア様との縁談を望む下心を隠しきれていない。


「エレノア様はなんと美しい。宜しければ、我が息子とのご縁を……」

「ランバート公爵、妹君の将来について、お耳に入れたい話がございまして」


ヴィンセント様は、それらを全てやんわりとした口調で断っていった。


「光栄な申し出ですが、あの子はまだ成人したばかりです。しばらくは家族の元で、ゆっくり過ごさせたいと考えております」


言葉遣いは丁寧だが、わたくしは彼の隣にいて肌が粟立つような感覚を覚えた。

ヴィンセント様は苛立っている。

表面上には微塵も出していないが、彼を包む空気が揺れている。


長い夜会が終わり、客たちが帰路についた後の静かな広間。

エレノア様は「楽しかった!」と、上気した顔でわたくしに抱きついてきた。


「お義姉様、聞いて! 一番最初に踊った殿方、とっても素敵な詩を教えてくださったのよ。それに、伯爵家の方も……」


エレノア様が喜々として語る姿を、わたくしも「良かったですね」と微笑ましく見ていた。


「やれやれ、エレノア。お前にはまだ早いと言っただろう。あんな薄っぺらな言葉に惑わされるなんて、困ったものだな」


ヴィンセント様は、呆れたような兄の態度で会話に割って入った。


「お兄様のいじわる! わたくしだって、もう16歳だわ」

「そうだな……。もう大人だったな。……セレーナ、エレノアを部屋まで送ってやってくれないか。今日は疲れただろうから」


ヴィンセント様はそう言うと、エレノア様の頭を撫でた。その手つきはやはり慈愛に満ちている。

エレノア様は不服そうに唇を尖らせたが、すぐにわたくしの腕を奪うように抱きしめた。


「ええ! お義姉様と一緒に寝たいくらいだわ。お兄様、おやすみなさい!」


わたくしに甘えるエレノア様を連れて廊下を歩きながら、ふと振り返ると、ヴィンセント様はまだ広間で一人、暗いフロアを見つめて立っていた。

その背中が、まるで夜の闇を全て背負っているかのように重く見えたのは、わたくしの気のせいだったのだろうか。



夜会の喧騒が嘘のように、公爵邸は深い静寂に包まれていた。


「セレーナ、今夜はゆっくり休むといい」


寝室の前で、ヴィンセント様はわたくしの額に口づけを落とした。いつもならそのまま共に部屋へ入るはずの彼が、今夜は「まだ少し片付けたい執務がある」と言って、背を向けた。


湯船に浸かりながら、夜会でのヴィンセント様の視線を思い出す。

寝支度を整え、薄い寝衣の上にガウンを羽織っても、胸のざわつきは収まらない。気づけばわたくしは、吸い寄せられるように部屋を出て、夜の廊下を歩いていた。


なぜエレノア様の部屋を目指しているのか、自分でも分からなかった。ただ、あの夜会の奇妙な空気から逃れたくて、身近な誰かに触れて安心したかったのかもしれない。

エレノア様の部屋の前に辿り着いたとき、厚い木扉の向こうから、微かな声が漏れ聞こえた。


「……やめ、て……!! いや!!」


それは、聞き慣れた義妹の、しかし聞いたこともないほど切羽詰まった悲鳴だった。

心臓が跳ねる。わたくしは半ば無意識に、音を立てぬよう、僅かに扉を開いた。


「……ああ!」


視界に飛び込んできた光景に、わたくしは呼吸を忘れた。

豪奢な天蓋付きのベッドの上、白く細い脚をバタつかせ、必死に抵抗するエレノア様がいた。その上に乗り上げ、力ずくで彼女を押さえつけているのは、わたくしの夫――ヴィンセント様だった。


「お兄様、離して! いやっ、いやぁ!!」

「なぜ嫌がる? エレノア」


ヴィンセント様の声は、どこまでも低く、陶酔したように甘い。彼はエレノア様の両手首を片手で封じると、もう片方の手で彼女の寝衣の襟元を掴み、無慈悲に引き裂いた。露わになった白い肩に、彼は貪るように食らいつく。


「誰か、誰か助けて……っ!」

「誰も来ないよ、エレノア。この屋敷の者は皆、俺の忠実な僕だ。主人が妹を可愛がっている最中に、無粋な真似をする者はいない」


ヴィンセント様は囁きながら、エレノア様の細い太腿の間に膝を割り込ませ、寝衣をずり上げていく。

わたくしは腰が抜け、その場にへたり込んだ。指先が震え、奥歯がガチガチと鳴る。

誠実で、穏やかで、わたくしを愛してくれていると信じていた夫。その夫が、実の妹を獣のような瞳で見下ろし、陵辱しようとしている。


「どうして嫌がるんだ? エレノア。お前の大好きなセレーナが、この世で一番大切にしているのは俺だ。欲しいはずだろう?」


ヴィンセント様の手が、エレノア様の震える柔肌をなぞっていく。


「いらない! お兄様なんていらない!! セレーナ様、助けて、お義姉様!!」


泣き叫び、首を振って拒絶するエレノア様。しかし、鍛えられた大人の男性に、力で敵うはずもなかった。

ヴィンセント様は彼女の口を自身の唇で塞ぎ、悲鳴ごと飲み込んでいく。


「俺を全てあげるよ、エレノア。お前を誰にも渡すつもりはない」


暴力的なまでの愛が、エレノア様の身体を貫いた。

部屋にはヴィンセント様の狂気に満ちた荒い呼吸が響き渡る。

扉の隙間からそれを見つめるわたくしの瞳からは、涙が止めどなく溢れていた。

恐ろしい。おぞましい。わたくしの愛した世界が、音を立てて崩壊していく。


けれど。


激しい絶望の渦中で、わたくしの心の底に、それとは別の黒い感情が鎌首をもたげた。


(ああ……エレノア様が、泣いている)


わたくしから、母の形見を奪い、祖母のロケットを壊し、夫との大切な思い出の品を目の前で捨てて笑っていた、あの残酷な美少女。

わたくしの大切なものを、無邪気に、そして傲慢に奪い続けてきた彼女が。

今、自分自身の一番大切なものを奪われ、ズタズタに暴かれ、救いを求めて泣き叫んでいる。

わたくしが味わわされた、あの引き裂かれるような喪失感と絶望を、今、エレノア様が味わっている。


「……あ、っ……」


わたくしの胸の奥で、例えようのない疼きが走った。

それは同情でも、怒りでもなかった。

自分を虐げてきた者が、より強大な力によって蹂躙される様を見る――それは、恐ろしいほどの悦楽を伴う毒だった。


逃げなければならないのに、目は釘付けになって離れない。

泣き叫ぶエレノア様の絶望的な表情が、わたくしの瞳に焼き付いて離れない。


「いい声だ、エレノア。もっと鳴いてくれ」


夫の狂った愛の囁きを聞きながら、セレーナは暗い廊下で、自分でも気づかぬうちに、歪んだ微笑をその唇に浮かべていた。


黄金の鳥籠の中で、三人の歪な関係は、もう後戻りのできない深淵へと堕ちていった。


ざ、ざまぁ……?

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― 新着の感想 ―
ヴィンセントの独り勝ちでは?
エレノアに限ってはざまぁかな。というよりこうなることを見越してセレーナに求婚したヴィンセントの独り勝ちというか。悪がより大きな悪に蹂躙されたというべきか。
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