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スライム亡き後の異世界で  作者: 深海周二


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第二章 歴史を辿る

 老婆の息子に、北への道を聞いた。

 息子は宿の帳場から地図を出してきた。手書きで、何度も書き直した跡がある地図だった。北に向かう街道は一本、途中に三つの町がある。最初の町まで二日、次の町まで三日、その先の大きな町まで五日ほど。

「図書館があるのは、一番奥の大きな町ですか」と彼は聞いた。

 息子は少し驚いた顔をした。

「母から聞きましたか」

「ええ」

 息子はしばらく地図を見た。

「あります。古い建物ですが、よく整備されています。旅人も入れます」

 それだけ教えてくれた。それ以上は何も言わなかった。

 彼は礼を言って、宿を出た。


 最初の一日は、ただ歩いた。

 街道は整備されていた。路面は均一で、橋も頑丈だった。すれ違う旅人は、互いに軽く頷く程度の挨拶をした。それ以上でも以下でもない。安全な道の礼儀、というものがあるとすれば、これがそれだろうと彼は思った。

 道の脇に、時々石碑がある。距離を示すものもあれば、名前を刻んだものもある。彼は通りすがりに読んだ。どれも似たような文体だった。「この地に」「もたらした」「記す」。様式が決まっている。

 一枚だけ、様式が違う碑があった。

 文字が荒い。石の質も悪い。誰かが急いで刻んだように見えた。碑文はこうだった。

「あの人が来たとき、わたしの父は反対した。父は正しかったかもしれない。しかし今、わたしはこうして道を歩いている。どちらが正しかったのか、まだわからない。」

 署名はない。日付もない。

 彼はその碑の前で少しの間立っていた。どちらが正しかったのか、という問いが、答えを出す気配もなく石に刻まれたまま残っている。

 歩き続けた。

 一日目の終わりに、小さな集落に宿を求めた。

 宿というより農家だった。客間を貸している、という程度の場所だ。夕食を一緒にとりながら、老いた農夫が話した。

「北に行くのか」

「はい」

「何のために」

「古い記録を読みに」

 農夫は少し考えてから言った。

「あの人の話か」

「そうかもしれません。どんな人だったか、ご存知ですか」

 農夫はしばらく黙った。それから言った。

「わたしは知らん。わたしの祖父の時代の話だ。ただ——」

 農夫は自分の手を見た。

「この畑の作り方は、あの人が持ち込んだ方法だと言われている。三圃式、という言い方をする。三つに区画を分けて、順番に休ませる」

「うまくいっていますか」

「うまくいっている」

 農夫は言った。

「だから、いい人だったんだろうと思う」

 それだけだった。農夫にとって、前期転生者の評価はその一点に集約されていた。畑がうまくいっているかどうか。

 彼は夕食を食べた。野菜の煮物と、固いパンだった。


 二日目の午後、最初の町に着いた。

 町は賑やかだった。市場が開いていて、声が飛び交っている。前の町より規模が大きく、石造りの建物が何棟も並んでいる。その中に、少し古い様式の建物があった。壁の石の色が周囲と違う。

 宿を探す前に、その建物に近づいた。

 扉に看板がかかっていた。「記録所」と書いてある。

 中に入ると、薄暗かった。棚が並んでいて、巻物と綴じた書類が積まれている。奥に机があって、中年の女が何かを書いていた。

「旅人ですか」

 女は顔を上げずに言った。

「はい。古い記録を見せていただけますか」

「何の記録ですか」

「この地に来た転生者の記録です。ずいぶん昔の」

 女はそこで手を止めた。顔を上げて、彼を見た。

「それはここにはありません」

「そうですか」

「図書館に行きなさい。北の大きな町の。ここには行政の記録しかない」

 彼は礼を言って、出ようとした。

「待ちなさい」

 女が言った。彼は振り返った。

「あなた、どこから来たんですか」

「南の村から歩いてきました」

「そうじゃなくて」

 女は言った。それから何かを考えるように、少し黙った。

「いえ、なんでもない。北の図書館に行きなさい。司書のガレスという老人がいる。この件なら、その人が一番知っている」

 ガレス、と彼は頭の中で繰り返した。

 女は何も言わなかった。


 その夜の酒場で、彼は隣に座った男と話した。

 男は四十代で、商人だった。酒が入っていた。一人で飲んでいた。

「北に行くのか」

 男は聞いた。

「はい」

「図書館か」

「はい」

 男は酒を飲んだ。

「あの英雄の話を調べに行くやつが、たまにいる。学者とか、物好きとか」

「あなたはどう思いますか、あの人のことを」

 男はしばらく黙った。それから言った。

「あの人が作った制度のせいで、うちの家業は一度潰れた」

 彼は何も言わなかった。

「祖父の時代の話だ。あの人が通貨制度を整えた。それまでは地域ごとに独自の交換比率があって、その差を使って商売していた。統一されたら、その差がなくなった」

 男は続けた。

「公平になった、とみんな喜んだ。でも公平になったら、うちみたいな商売は意味がなくなった。祖父は仕方なく別の商売に変えた」

「恨んでいますか」

「恨んでいない」

 男はすぐに言った。

「そんな昔のことを恨んでも意味がない。ただ——」

 男は杯を見た。

「いい人だったとか悪い人だったとか、簡単に言えない、ということだ。あの人が何かを良くするとき、必ず誰かが割を食った。あの人はそれをわかってやったのか、わかっていなかったのか、それが知りたい気もする。まあ、もう聞けないが」

 男は残りの酒を飲み干した。

「北に行ったら、わかるかもしれないな」男は言った。

「わかっても、どうにもならないが」


 その夜、記録所の女——名前はセラといった——は、帳簿を閉じた後しばらく机に座っていた。昼間の旅人のことを考えていた。

 変な旅人だった。目的がはっきりしているのに、どこか途方に暮れているような顔をしていた。

 あの人の話を調べに来る旅人は、時々いる。学者が多い。学者は最初から「英雄の伝記を書く」とか「制度の起源を研究する」とか、目的が言葉になっている。この旅人は違った。何のために調べるのか、自分でもわかっていないような顔をしていた。

 それが、少し気になった。

 セラの祖母は、あの人を直接知っていた。祖母はあの人について、ほとんど話さなかった。一度だけ、こんなことを言った。

「あの人はいつも何かを決めようとしていた。決めた後も、まだ決めようとしていた。決め終わることが、なかったんだと思う。」

 セラにはその意味が、長い間わからなかった。

 今でも、完全にはわからない。

 ただ、昼間の旅人の顔を見て、少しだけわかった気がした。あるいは、わかった気がしただけかもしれない。


 三日目と四日目を歩いて、二番目の町に着いた。

 この町には、神殿があった。

 大きな建物だ。石造りで、正面に柱が並んでいる。扉は開いていて、中からかすかに香の匂いがした。

 彼は中に入った。薄暗い堂内に、像が立っていた。

 人物像だ。石で作られた、高さ二メートルほどの像。顔は広場の銅像より細部が丁寧で、表情がある。穏やかな、しかしどこか遠くを見ているような顔だ。台座に名前が刻まれている。同じ名前だ。

 像の前に、花が供えてあった。新しい花だった。今日か昨日、誰かが持ってきたものだろう。

 参拝者がいた。老いた女が二人、像の前に立って、何か小さな声で言っていた。祈りの言葉だろうと彼は思った。

 神殿の隅に、若い僧侶がいた。彼が近づくと、僧侶は頷いた。

「参拝ですか」

「少し話を聞かせてもらえますか。この像について」

「もちろんです」

 僧侶は言った。若い、二十代前半に見える。

「あの方は、この地域の守護者として祀られています。魔物との和平を結び、作物の豊穣をもたらし、病の知識を伝えた方です」

「あなた自身は、どう思っていますか」

 僧侶はきょとんとした顔をした。

「どう、とは」

「信じていますか」

 僧侶はしばらく考えた。正直に考えている顔だった。

「信じています」

 僧侶はそう言った。

「ただ——わたしが信じているのは、あの方そのものというより、あの方が作ったものかもしれません。この神殿も、制度も、道も。形として残っているものを、信じています」

「あの人が何を考えていたかは、わかりますか」

「手記が一部、図書館に保管されています。読んだことがありますが——」

 僧侶は少し言葉を選んだ。

「正直に言うと、思っていたのと違いました」

「どう違いましたか」

「もっと確信に満ちた人だと思っていた。でも手記を読むと、迷っている。何度も迷っている。それが意外でした」

 彼は像を見た。

 石の顔は迷っていない。石の顔は何も迷わない。

「手記は、図書館に行けば読めますか」

「一部は読めます。傷みがひどくて読めない部分もあるようですが」

 彼は礼を言った。


 神殿を出ると、石段の下に老人が座っていた。先ほどまでいなかった。いつから座っていたのか、わからない。

 老人は彼を見た。目が鋭かった。年齢の割に、よく動く目だった。

「中を見てきたか」

 老人は言った。

「はい」

「像は立派だろう」

「立派でした」

「あんなもの、本人が見たら笑っただろうな」

 彼は老人を見た。

「直接知っていたんですか」

「知らん」

 老人はすぐに言った。

「わたしは孫の世代だ。ただ、じいさんから話を聞いた。じいさんは、あの人が嫌いだった」

「なぜですか」

「じいさんの村が、あの人の戦争に巻き込まれたからだ。戦争といっても、あの人が始めたわけじゃない。あの人が来る前から続いていた争いだ。ただ、あの人が動いたことで、戦場がじいさんの村の近くになった。村人が何人か死んだ」

「それは」

「あの人のせいじゃない、という言い方もできる。じいさんもそれはわかっていた。わかった上で、それでも嫌いだった。理屈じゃないんだな、そういうのは。あの人が動かなければ、という仮定が、じいさんの頭からずっと離れなかったらしい」

 老人は立ち上がった。膝が悪いらしく、ゆっくりと。

「英雄というのは、動く人間のことだ。動けば、何かが変わる。何かが変われば、誰かに何かが起きる。起きたことが悪いことだった人間にとって、英雄は英雄じゃない。それだけのことだ」

 老人は歩き去った。

 彼は石段に腰を下ろした。像の顔は見えなかった。扉は閉まっていた。


 五日目と六日目を歩いた。

 道は広くなった。すれ違う人の数が増えた。商人の荷車が何台も通った。道の整備が行き届いている。定期的に距離標が立っていて、次の町まであと何里かが常にわかる。

 誰かがこの道を設計した。距離標の間隔が均一なのは偶然ではない。旅人が迷わないように、疲れを計算できるように、誰かが考えた。

 彼はその設計の痕跡を歩きながら、何かを感じようとした。感じたかった、というより、何かを感じるべきかどうか、判断できなかった。


 六日目の夕方、大きな町に着いた。

 城壁がある。城門がある。衛兵が立っているが、旅人をとがめる様子はない。門をくぐると、広い通りがあった。両側に商店が並んでいる。人が多い。

 宿を探して入った。宿は大きく、食堂が独立していた。夕食を食べながら、彼は宿の主人に図書館の場所を聞いた。

「明日の朝は開いていますか」

「開いています。司書の老人がいます。ガレスという人で、朝から夕方まで必ずいますよ」

 ガレス、という名前を、記録所の女セラも言っていた。

 翌朝、図書館に行った。

 建物は古かった。石造りで、外壁に蔦が絡んでいる。扉は重く、軋んだ。中に入ると、紙と埃の匂いがした。

 棚が幾列も並んでいる。書物、巻物、綴じた書類。天井まで棚が続いている場所もある。

 奥に人がいた。

 老人だった。白髪で、小柄で、眼鏡をかけている。眼鏡の形が、この世界のものとは少し違う気がした。気のせいかもしれない。

「ガレスさんですか」

 老人は顔を上げた。目が細く、しかし視線が鋭かった。

「そうだが。旅人か」

「はい。古い記録を読みたいと思って来ました。転生者の手記と、転生者についての記録を」

 老人はしばらく彼を見た。

「学者ではないな」

 老人は言った。

「違います」

「では何のために」

「わかりません」と彼は言った。

「ただ、知りたいんです」

 老人はまた彼を見た。それから小さく頷いた。

「正直な答えだ。座れ。見せるものがある」


 ガレスが持ってきたのは、薄い冊子だった。革の表紙が傷んでいる。

「手記の写しだ。原本は別の場所で保管している。これは十年前に写したものだが、手記の中でも最もよく読める部分を抜粋してある」

 彼は受け取って、開いた。

 文字が並んでいる。読める。


「三日間、何もしなかった。

ただ草原に座って、空を見ていた。何かをしなければならないとわかっていた。でも何もできなかった。怒っていたからだと思う。あるいは、怖かったからかもしれない。どちらか、今でもよくわからない。

この世界に来る前、俺は怒っていた。いろんなことに。時間を奪われていたこと。認められなかったこと。疲れていたこと。その怒りが、何かをさせた気がする。三日目の朝、理由なく立ち上がって歩いた。理由なく、というのは正確ではない。ただ、怒りが足を動かした、としか言えない。

この世界の最初の一年は、怒りで動いていた。今思えば、それがよかったのかもしれない。怒っている間は、迷わない。」


 彼は手記から目を上げた。

 ガレスが向かいに座って、本を読んでいた。

「続きはありますか」

「ある。ただ、断片的だ。前後がつながっていない部分が多い。何年かかけて書いたものだから、最初と最後では文体も変わっている」

「全部読んでいいですか」

「ここで読む分には構わない。持ち出しはできない」

 彼は続きを読んだ。


「制度を作るのは、何かを決めることだ。何かを決めるということは、別の何かを捨てることだ。俺は何度も決めて、何度も捨てた。捨てるたびに、捨てられた方の人間が生まれた。それを知りながら決めた。知らなかったわけではない。

知りながら決めることは、知らずに決めることより正しいのか。俺にはわからない。正しいかどうかではなく、決めなければならなかった、というのが正確だと思う。」


「最近、疲れている。疲れていると書くと弱く見えるが、事実だから書く。何百回と決めてきた。決めるたびに、何かが積み重なる。積み重なったものの重さが、最近よくわかる。

時々、誰かに全部渡せないかと思う。渡せる相手がいればいいのだが。」


「この世界で死ぬことを、今日初めて真剣に考えた。怖くはなかった。ただ、やり残したことがあるかどうか、数えた。数えられなかった。多すぎて。」


 最後の一文の後に、文章は途切れていた。

 彼は冊子を閉じた。しばらく、閉じた表紙を見ていた。

「やり残したことが多すぎた、ということですか」

「読んでの通りだ」

 ガレスは本から目を上げずに言った。

「完成させる時間がなかった。あの方は忙しかった」

「あなたはどう思いますか、あの人のことを」

 ガレスは本を閉じた。

「わたしは司書だ。評価はしない」

「評価ではなく」

 老人はしばらく考えた。

「偉大な人だったと思う。同時に、孤独な人だったと思う。孤独だったから偉大になれたのか、偉大になったから孤独になったのか、それはわからない。手記を読む限り、本人もわかっていなかったようだ」

「やり残したことを数えようとした」

「そうだ。あの方は常に何かをしようとしていた。しかし——」

老人は少し止まった。

「何かをしようとする人間がいるためには、何かがされていない状態が必要だ。あの方がすべてをしてしまったから、次に来た者には、何もする場所が残らなかった」

 彼は何も言わなかった。

 ガレスは続けた。

「もっとも、あの方にそれを責めることはできない。あの方は、すべきことをしただけだ。誰かのためにではなく、自分が動かずにいられなかったから、動いた。それが結果としてこういう世界を作った。意図ではなかった」


 夕方まで図書館にいた。

 手記の写しを全部読んだ。それから、転生者について書かれた他の住人の記録も読んだ。記録は多かった。英雄として称えるものも、批判的なものも、淡々と事実だけを記したものもあった。

 同じ出来事が、書いた人間によってまったく異なる出来事として記されていた。

 ある記録では、転生者が魔物との和平交渉に臨んだことを「勇気ある決断」と書いていた。別の記録では、同じ交渉を「一方的な妥協であり、魔物に不当な権利を与えた」と書いていた。

 どちらも、同じ日の、同じ出来事だった。

 彼は記録を棚に戻して、出口に向かった。

 ガレスが声をかけた。

「明日も来るか」

「来ていいですか」

「もちろんだ。ただ——」

ガレスは言った。

「一つ聞いてもいいか」

「はい」

「あなたは何を探している」

 彼はしばらく考えた。

「わかりません」と言いかけて、止まった。

 それから言った。

「なぜ、あの人にはできて、俺にはできないのか、ということを、理解したいのかもしれません」

 ガレスは眼鏡を少し直した。

「能力の話ではないだろうな」

 老人は静かに言った。

「能力の話ではないと思います」

「では何の話だ」

 彼には答えられなかった。答えは、まだそこまで来ていなかった。

 ガレスは頷いた。

「明日も来い。まだ見せていないものがある」


 宿への帰り道、夕暮れの町を歩いた。

 商人が店じまいをしている。子供が走っている。誰かが夕食を呼ぶ声がする。

 整然とした町だった。道は均一で、建物は清潔で、人々は穏やかだった。争いがない。大きな欠如がない。誰かが設計したものが、百年後の今もきちんと機能している。

 彼は歩きながら、手記の言葉を思い出した。

「怒りが足を動かした、としか言えない。」

 そして、もう一つの言葉。

「次に来た者には、何もする場所が残らなかった。」

 ガレスの言葉だ。手記の言葉ではなく、ガレスが静かに言った言葉。

 彼は立ち止まった。

 何かが、形になろうとしていた。まだ輪郭がない。名前もない。ただ、何かが来ようとしていた。

 宿に帰った。夕食を食べた。味はよくわかった。

 それが少し、意外だった。

 

 ガレスは夜、図書館に一人で残ることがある。

 司書として長く働いてきた。この建物が好きだ。紙の匂いが好きだ。

 今日の旅人のことを考えていた。

 名前を聞かなかった。明日聞こうと思っていたが、忘れた。あるいは、聞く必要を感じなかったのかもしれない。

 あの旅人は珍しいタイプだった。英雄の伝記を書きに来た学者でもない。制度の起源を調べに来た官吏でもない。巡礼でもない。

 ただ、知りたがっていた。

 手記を読む顔が、ガレスには気になった。英雄伝を読む顔ではなかった。何かを自分と照合するような読み方だった。自分の中の何かと、手記の言葉を照らし合わせているような。

 ガレスは棚から別の書類を取り出した。

 転生者が直接書いたものではない。転生者が残した制度の設計書だ。この国の道路管理、橋の保守、穀物の備蓄率。細かい数字が並んでいる。

 ガレスはこの書類が好きだった。英雄譚ではなく、数字が好きだった。数字は評価しない。数字は記録するだけだ。

 明日、この書類も見せてみようと思った。

 英雄の話ではなく、数字を見たときに、あの旅人がどんな顔をするか、少し見てみたかった。


 翌朝、また図書館に行った。

 ガレスはすでにいた。昨日と同じ場所に、昨日と同じ姿勢で座っていた。

「来たか」

「来ました」

 ガレスは立ち上がって、棚から書類の束を取り出した。

「昨日は手記を見せた。今日は別のものを見せる」

 受け取ると、数字が並んでいた。

 道路の維持にかかる労働力の計算。橋の耐用年数と修繕の周期。穀物の備蓄量と放出基準。病が流行したときの隔離区画の設計。

 一つ一つが、具体的だった。抽象的な理念ではなく、誰かが実際に考えた数字だった。

「あの人が作ったんですか」

「一部はそうだ。一部は、あの方の考えをこの世界の人間が発展させたものだ。どこまでがあの方の発想で、どこからがそうでないか、もうわからない」

 彼はページをめくった。

 ある頁に、書き込みがあった。

 設計書の余白に、小さな文字で書かれている。

「これで合ってるかどうか、正直わからない。でも、動かさないよりマシだと思う。」

 転生者の手書きだろうか、とガレスに聞いた。

「そうだと思っている。文字の癖が手記と同じだ」

 彼はその一行を、もう一度読んだ。

「これで合ってるかどうか、正直わからない。でも、動かさないよりマシだと思う。」

 神殿の石像は迷っていなかった。広場の銅像も迷っていなかった。しかし設計書の余白の文字は、迷っていた。

 確信に満ちた英雄ではなく、わからないまま動いていた人間の筆跡が、そこにあった。


 図書館を出たのは昼過ぎだった。

 ガレスに礼を言った。

「また来るかもしれません」

「来ればいい。ただ——」

「はい」

「一つだけ言っておく」

 ガレスは眼鏡を直した。

「あなたが何を探しているのか、わたしにはわからない。ただ、あの方の記録を読んで、何かを理解しようとしているのはわかる」

「はい」

「理解することと、できることは、別だ」

 ガレスは静かに言った。

「あの方がなぜできたかを理解しても、あなたが同じことをできるようになるわけではない。それは——」

 老人は少し止まった。

「それは残酷かもしれないが、事実だ」

 彼は頷いた。

「わかっています」

「わかっているなら、いい」

 扉を押して、外に出た。

 光が強かった。目が慣れるまで、少しの間そこに立っていた。


 その日の午後、彼は町を歩いた。

 目的なく歩いた。市場を通った。職人の通りを通った。子供が遊んでいる広場を通った。

 どこに行っても、整然としていた。機能していた。欠けているものがなかった。

 あの設計書の数字が、この町に実装されている。橋の耐用年数。穀物の備蓄。道路の管理。全部が、計算された上で動いている。

 彼はある路地に入って、立ち止まった。

 路地は狭く、両側に古い建物が迫っている。人通りがない。

 静かだった。

 手記の最後の言葉を思い出した。

「この世界で死ぬことを、今日初めて真剣に考えた。怖くはなかった。ただ、やり残したことがあるかどうか、数えた。数えられなかった。多すぎて。」

 多すぎて数えられなかった人間が、それでも動き続けて、この世界を作った。

 その世界の路地に、今、自分が立っている。

 何かが、来た。

 まだ形にならない。まだ名前がない。ただ、何かが来て、路地の静かさの中で、少しだけ留まった。

 彼はそれに、名前をつけようとしなかった。

 名前をつけた瞬間に、何かが変わる気がした。まだ変えたくなかった。

 路地を出て、また歩き始めた。


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