第一章 到着
死ぬとき、何も思わなかった。
それが少し意外だった。もっと何か思うものだと、漠然と考えていた。後悔とか、未練とか、走馬灯とか。でも実際には、ただ暗くなっただけだった。電灯のスイッチを切るみたいに。
気がついたら、草原にいた。
空が青かった。
それ以外に言いようがない。雲が数片、ゆっくり動いている。風が吹いている。草の匂いがする。遠くに山脈が見える。山の頂には雪があって、それが午後の光を反射して白く光っている。
美しい場所だった。
彼はしばらく、ただ立っていた。座ろうとも、歩こうとも、叫ぼうとも思わなかった。空を見て、風を感じて、草の匂いを嗅いだ。それだけのことを、どのくらいの時間やっていたのか、わからない。
それから、自分の手を見た。
五本の指がある。爪がある。右手の人差し指の付け根に、ペンだこがある。消えていない。死ぬ前と同じ手だ。
彼は手を握って、開いた。
何も起きなかった。
ステータスを確認しようとした。
確認する方法がわからなかった。宙に手をかざしてみた。何も表示されなかった。右手を握り込んで「スキル」と念じてみた。何も起きなかった。声に出して「ステータスオープン」と言ってみた。草が揺れた。風のせいだった。
やめた。
やめてから、少し恥ずかしくなった。誰も見ていないのに。
歩くことにした。理由はない。立っていてもしかたがないと思った、それだけだ。
草原を横切ると、やがて地面が踏み固められた道になった。街道だった。幅は二間ほど、轍の跡がある。荷車が通る道だ。どちらの方向に進むか、一瞬考えた。太陽の位置から西と東を確認した。特に根拠はなかったが、東に向かった。
三十分ほど歩いたところで、石碑があった。
道の脇に、ひとの背丈ほどの石が立っている。碑文が刻まれている。彼は近づいて、読んだ。
読めた。
読めることへの驚きは、思ったより小さかった。どこかで想定していたのかもしれない。あるいは驚く余裕が、まだなかったのかもしれない。
碑文にはこう刻まれていた。
この地の平和と繁栄は、遥か異境より来たりし者の知恵と勇気によって礎を置かれた。その名を永く記す——
名前が刻まれていた。彼には何の意味もない名前だった。
彼は碑文を最後まで読んだ。それから石碑の裏に回った。
裏にも、文字があった。
表の碑文より小さく、丁寧さに欠ける字で、誰かが後から刻み足したように見えた。
——あの人はここで三日間、何もしなかった。ただ座って、空を見ていた。わたしたちは何かを待っているのかと思ったが、そうではなかったらしい。三日目の朝、あの人は立ち上がって、北へ歩いていった。それが始まりだった。
署名はなかった。日付もなかった。
彼は裏の文字を二度読んだ。それから表に戻って、名前をもう一度見た。
三日間、何もしなかった。
彼が今日一日で感じたことと、その言葉が、どこかで響き合った。響き合った、というのが正確かどうかわからない。ただ、何かが引っかかった。
村が見えてきたのは、陽が傾き始めた頃だった。
二十軒ほどの家が集まっている。畑がある。鶏がいる。井戸がある。煙突から煙が上がっている。夕食の準備をしているのだろう、と思った。
村の入り口に差し掛かると、水を運んでいた若い女が振り向いた。彼を見た。
驚かなかった。
ただ「旅人か」という顔で一瞥して、また歩き始めた。
それだけだった。
彼は村に入った。子供が走り回っている。老人が木陰に座っている。誰も彼を特別に見ない。旅人が通ることは、珍しくないのだろう。
宿を探した。看板を見つけた。扉を開けた。
宿の主人は四十代の男で、首の太い、黙って仕事をするタイプに見えた。
彼は正直に言った。金がない、と。
主人は値踏みするように彼を見た。それからこう言った。
「薪が割れるか」
「割れます」
「日が暮れるまで割ってくれたら、今夜と朝飯の分は出してやる」
「わかりました」
それだけだった。交渉でも施しでもない、ただの取引だった。
彼は斧を受け取って、裏庭に積まれた丸太を割り始めた。割れた。体が覚えている動作というものは、意外と転生をまたいで残るものらしいと思った。もっとも、薪割りを得意としていた記憶はないのだが。
日が暮れる前に終わった。主人は無言で薪を確認して、「飯にしろ」と言った。
食事は共同のテーブルで、他に二人の旅人がいた。毛皮の商人と、その助手らしい若者だ。
スープと黒パンが出た。スープは温かく、豆が入っていた。
彼は食べながら、商人の話を聞いた。商人は助手に向かって一方的に話し続けていた。北の町の相場が下がっていること、街道の一部で橋の修復工事があること、去年の霜で果物の収穫が少なかったこと。
彼は時々、質問した。この国のこと、近隣のこと。
商人は気前よく教えてくれた。国の名前、隣国との関係、最近の出来事。
大きな戦争はない、ということだった。魔物との深刻な衝突も、この十年ほどはない。「いい時代だ」と商人は言った。自分が若い頃は違った、とも言った。「昔はもっと物騒だったが、今は旅がしやすくなった」。
彼は頷きながら、スープを飲んだ。
その夜、彼は長い時間眠れなかった。藁の匂いと、虫の音と、どこかで家畜が動く気配の中で、天井を見ていた。
何を解決すればいいのか、という問いが頭を浮遊していた。
答えが出てこなかった。答えを出そうという気力も、それほどなかった。
老婆は夜中に目が覚める癖があった。
長く生きると、眠りが浅くなる。息子はそれを心配するが、老婆は気にしていない。夜中に起きて、水を飲んで、また眠る。それだけのことだ。
台所に降りると、宿泊客の一人がまだ起きているのが気配でわかった。
男だ。若い。
老婆は水を汲んで、音を立てずに飲んだ。男の部屋の方向を、一度だけ見た。
久しぶりだ、と思った。
あの頃のことを、老婆はまだよく覚えている。子供の頃の記憶というのは、消えないものだ。あの人が村に来た日のこと。あの人の目のこと。あの人が去っていった朝のこと。
似ている、と思った。目が。
でも違う、とも思った。
あの人の目には、何かが燃えていた。怒りとも悲しみとも違う、もっと明るい何かが。この男の目には、それがない。燃えていない。ただ、途方に暮れている。
老婆は自分の部屋に戻った。
明日、少し話してみようか、と思った。それとも、やめておこうか、とも思った。
どちらでもいい、と思いながら、また眠りに落ちた。
朝食の場に、老婆が現れた。
宿の主人が「母です」と短く言った。老婆は彼の向かいの席に座り、スープを少しずつ飲んだ。商人と助手はすでに出発した後だった。
彼と老婆の二人だけだった。
しばらく無言だった。老婆は食べていた。彼も食べていた。
それから老婆が、顔を上げずに言った。
「あなたのような人が来たのは、ずいぶん久しぶりだ」
彼は手を止めた。
「どういう意味ですか」
老婆は答えなかった。スープを一口飲んだ。それからこう聞いた。
「どこから来たの」
「わかりません」と彼は言った。
「気がついたら、草原にいました」
老婆は小さく頷いた。それ以上でも以下でもない頷きだった。
「昔もそういう人がいた」
老婆は言った。
「遠くから来て、世界を変えようとした人が」
「その人は、どうなりましたか」
老婆は少し間を置いた。
「変えた」
そこで止まった。
続きを待ったが、老婆は何も言わなかった。スープを飲み干し、立ち上がり、部屋に戻っていった。
彼は残ったパンを、どこかうわの空のまま食べた。
町へ向かう道を、一人で歩いた。
街道は整備されていた。轍の深さが均一で、路肩の草が定期的に刈られている。どこかに、道を管理する仕組みがある。誰かがそれを制度として作った。
町は村より大きかった。
石造りの建物が並んでいる。市場がある。鍛冶屋がある。薬師の看板がある。人が行き交っている。活気がある、という言葉が正確かどうかわからないが、少なくとも機能している。
広場に出たところで、彼は足を止めた。
銅像があった。
台座の上に、人物の像が立っている。剣を掲げた姿だ。顔は様式化されていて、特定の個人の顔というより、英雄の顔の概念を形にしたような表情をしている。台座に名前が刻まれている。石碑と同じ名前だ。
通行人は誰も銅像を見ていない。
子供が台座に登ろうとして、母親に叱られた。母親は子供の手を引いて、銅像には目もくれずに歩いていった。
彼は銅像の前に立って、その顔を見た。
何も感じなかった、というのは正確ではない。何かを感じたが、その何かに名前をつけられなかった。
「初めてですか」
声がした。
振り向くと、老人が立っていた。白髪で、背が低く、荷物を持っていない。ただ通りかかった風ではなく、最初からそこにいたような立ち方をしていた。
「この町に、という意味ですか」
「銅像を、という意味だよ」
老人は言った。
「初めて見る人間の顔と、何度も見た人間の顔は、違う」
「そうですか」
老人は銅像を見上げた。
「あれを作ったのは、わたしの祖父の世代だ。祖父は、あの人を直接知っていた」
「どんな人だったか、聞いていますか」
老人はしばらく銅像を見ていた。
「変な人だったと言っていた」
老人はそれだけ言った。
「いい意味でも、悪い意味でも」
それから老人は歩き去った。
彼は老人の背中を見送った。
変な人。
その言葉が、様式化された英雄の顔と、噛み合わなかった。噛み合わないまま、彼の中に残った。
宿を探して、今度は金を工面した。市場で荷運びを手伝って、夕方までに一夜分の宿代を稼いだ。荷主は礼も言わなかったが、約束通りの金は払った。
夕方の酒場で、彼は耳を傾けた。
旅人たちの話に、英雄の名前がいくつか出てきた。各地に伝わる英雄譚だ。遥か異境から来た者たちの話。魔物を討った者、国を建てた者、技術をもたらした者、制度を作った者。
聞いていると、話の細部に奇妙なものが混じっていることに気づいた。
ある英雄が戦で使ったという戦術の話を、退役した兵士らしき男が語っていた。包囲と分断、補給路の遮断。その説明の言葉の選び方が、どこか——どこかで読んだことのある文体に似ていた。
翻訳された言葉に似ていた。
どこかの言語から、この世界の言葉に翻訳したときに残る、わずかな不自然さ。彼は自分がそれを感じ取れることが、少し意外だった。
退役兵は気づいていない。周りの人間も気づいていない。ただ英雄譚として語られている。
英雄が伝えた言葉が、英雄の痕跡が、この世界の日常の言葉の中に溶け込んでいる。
彼はしばらく酒を飲んだ。酒は薄かったが、体が温まった。
夜、宿の部屋で、彼は窓から空を見た。星が多かった。星座は知らない形をしていた。
頭の中に、老婆の顔があった。
「変えた」という一言の後の、あの沈黙を、繰り返し思った。
続きがあったはずだ、と思った。老婆が飲み込んだ続きが。
あるいは、続きなどなかったのかもしれない。「変えた」——それだけが事実で、その先は老婆にとっても言葉にならないものなのかもしれない。
どちらかはわからなかった。わからないまま、その問いが頭の中に居座っていた。
翌朝、宿を出る前に、主人に聞いた。
「お母さんに、もう一度話を聞かせてもらえますか」
主人は少し考えてから、「聞いてみる」と言った。
待っていると、老婆が出てきた。昨日と同じ椅子に座った。
彼は聞いた。
「昨日の続きを、聞かせてもらえますか。遠くから来て、世界を変えた人たちの」
老婆はしばらく黙っていた。
それから言った。
「長い話になる」
「時間はあります」
老婆はまた黙った。窓の外を見た。朝の光が、老婆の皺の深い顔に当たっていた。
「わたしが子供の頃に、あの人はここに来た」
老婆は言った。
「名前は、広場の銅像と同じだよ」
彼は頷いた。
「あの人は世界を変えた。本当に変えた」
そこで老婆は止まった。
昨日と同じ止まり方だった。続きを待ったが、老婆は窓の外を見たまま、何も言わなかった。
彼はその沈黙の中に、何かがあると思った。言葉にならないから沈黙なのではなく、言葉にする必要がないから沈黙なのかもしれない、と思った。あるいは、言葉にしてはいけないと老婆が判断しているのかもしれない。
どれが正しいのかは、わからなかった。
老婆は立ち上がった。
「気をつけて行きなさい。街道は安全だから」
それだけ言って、部屋に戻っていった。
彼は空になったカップを両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
窓の外では、朝の支度をする町の音がしていた。荷車の車輪の音、誰かが呼ぶ声、金属が触れ合う音。何百年も続いてきた朝の音かもしれない、と思った。あるいは、ある日から始まった朝の音かもしれない。
どちらでもいい、と思いかけて、止まった。
どちらでもよくない、と気づいた。自分でも意外なほど、はっきりと。
なぜかはわからなかった。老婆の話を聞いたからかもしれない。石碑の裏の文字のせいかもしれない。銅像の前で老人が言った「変な人」という言葉のせいかもしれない。
何かが始まる前の、静かさだった。
カップは、もう冷たかった。




