特能
人が落ちた。
葉島が弾かれたように駆け出し、綴も我に返った。
「葉島さん!?」
「い、急げば、急げばまだ間に合うかも……!」
我に返った綴とは反対に、葉島は完全に我を忘れていた。老人の元へ無我夢中で向かって行く。
しかし、いくら葉島が治癒する能力を持っているとはいえ、あの老人の様子はもう手遅れだ。頭から血が止まっていないし、首は真横に折れ曲がっている。
落下音に気づいた人々が事態を把握し、小さな悲鳴をあげる。騒ぎは伝播し、恐慌へと派生していった。
「おいお前! そこで止まれーっ!」
背後から男の声が響く。
さっきすれ違った男だ。確か、究助と呼ばれていた。モジャモジャ髪で赤インナーの。究助は車道に飛び出し、走行中の車を手で制止しながら駆けつけた。
究助の声が聞こえなかったのか、無視したのか、葉島は老人の側にしゃがみ込み、治癒の能力を使おうとした。手元に水溜まりのような歪みが見えた。
治癒の能力を使っているが、究助がたどり着いて葉島を引き離す。彼の仲間と思しき男たちが遅れてやって来た。
綴は震える脚を叱咤して、葉島たちのところに走り出した。
野次馬の喧噪は徐々に大きくなっていくが、まるで遠くの場所での非常に小さいもののように聞こえていた。
「離してください! わたし、わたしならまだ、彼を……」
「見りゃ分かんだろ! もう……死んでる! 触るな!」
綴は究助に向かって必死に叫ぶ。
「あ、あなたこそなんなんですか!? 葉島さんを放してあげてください!」
「……お前……さっきの」
近くに来て、改めて察する。
ほんの数歩先に倒れているのは、死体だ。インクの染みのように広がるのは、人体の中にあったはずの血液だ。
「うぅっ……!」こみ上げる吐き気をなんとか抑える。
「──俺は刑事だ。県警の刑事部、捜査一課の、最上究助。お前らがどんな奴か知らねぇが……今、この場は事件現場になった。そしてその老人は、被害者だ。触るな、って話だよ」
「け、刑事……」
究助は懐から警察手帳を取り出し、綴と葉島に見せつけた。紛れもなく本物だ。
「……そういうあんたは? 何もんだ?」
「え……えっと、探偵、八見綴……」
動揺していたためか、つい素直に言ってしまった。
「探偵? ほえー……」
究助は彼の仲間たちに「野次馬たちを遠ざけろ!」と声をかける。非常に若そうに見えるが、物怖じせずに指示を飛ばしている。刑事たちは手早く群衆を死体から遠ざけた。
「──よし、俺、上見てくる!」
言うが早いか、究助は葉島を刑事の1人に預け、マンションの中に向かって行った。そして、振り返る。
「おい! お前もついて来いよ!」
それが自身に向けられた言葉だと、綴はなかなか気づけなかった。
「ぼ、僕!?」
「ああ! ……えーっと、八、はち……ハチミツ!」
「いや、八見……ええー!?」
究助とマンションの階段を駆け上がる。究助は無線を介し仲間と通話をしている。
「ふーん。どうやら老人がいた部屋は404号室らしいぜ。走れハチミツ。エレベーターより走った方が速いぜ」
「あのっ……ひい……なんで僕まで……」
「だってお前、探偵なんだろ? 『犯人はお前だー!』って言って、ズバァっと解決できんじゃねぇーの?」
「で、できませんよ! こんな人が死ぬ事件なんて扱いませんし……」
探偵の仕事はせいぜい浮気調査か、逃げたペットの捜索くらいなものだ。
「やっぱそうかー」究助は陽気にけらけら笑っている。「まあ、俺だけじゃいろいろ見逃しそうだし、もう1人、人手が欲しかったんだよなー。他の刑事には下で騒ぎを収めてもらいてーしよ」
「ひい……」
ドアの前までやって来た。究助はドアノブをガチャガチャ動かすが、開かない。
すると遅れて外国人が階段を上ってきた。
「刑事サン! 部屋の鍵デス!」
「お、どーも! つか、あんた誰?」
「ここの管理人デス! ジーコ・ブーケンと申しマス」
管理人はかなり背の高いヨーロッパ系の人だった。究助は礼を言って鍵を受け取る。管理人は巻き込まれたくないからか、さっさと階段を降りて戻っていった。
鍵を開けて中に入る。律儀にお邪魔します、と綴は言う。部屋に特に違和感はない……と思ったのも一瞬で、部屋の奥が少し荒れていた。それと、どこからか嫌な臭いが漂ってくる。
小さな下駄箱の上に鍵が置いてあった。
「……流石にか……」
「? なにか、変なことでも?」
「いや。もし誰かが突き落としたんだったら、まだこの部屋にいるかもしれねーと思ったんだけどよ。流石にいねぇか……」
「え! あ、あのお爺さん、誰かに突き落とされたんですか!?」
「そうと決まったわけじゃねぇよ? けど……あのよ」
究助は綴に意見を求める。
「俺はちゃんと見てねぇんだよ。お前、なにか見てねぇか? 被害者が落下した瞬間……」
「それなら、見ました!」
ばっちり、目撃者だ。不運なことに。
「そりゃいい。でよ、俺も近くにいて、声だけは聞いてたんだよ。あの爺さん、悲鳴を上げてなかったか?」
「あ……はい」
綴は思い出していた。被害者は手すりからじりじりと這うように乗り出し、やがて悲鳴を上げながら落下した。
メモとペンを取り出し、思い出したことを書き記す。すべて書こうとすると時間がかかるが、綴のメモは一瞬だ。傍目にはペンをほんの少し振っただけに見えるだろう。だが実際は、瞬間的に文を書き上げているのだ。
「悲鳴を上げていたってことは自殺じゃねぇだろ? じゃあ事故か殺人だ。
ってか、お前、今……なにした? メモ書いてた? なんか残像が見えたけど……」
「あ、その、これ、僕の異能力で……人よりちょっとだけ素早く、文字が書けるんです」
「うおーっ!? なんじゃそれ! めっちゃスゲぇ能力じゃねぇか!」
究助は場をわきまえず能天気な調子で言う。
「そ、そうですか……?」
ここまで目を輝かせられたのは、初めての経験だった。不思議な気持ちだが、正直なところ、悪い気はしない。
「じゃあどんどんメモしてってくれよ! よっ、名探偵!」
「変なおだて方しないでください!」
室内を抜けて、問題のベランダに出る。玄関からベランダまでの距離は10mくらいだろうか。手すりから下を覗くと、たくさんの人々が見える。立ち入り禁止のテープが貼られ、誰もマンションには近づけない。老人の遺体を刑事が囲んで検分している。血だまりがまるで落下したアイスクリームのようだ。
究助は手すりに触れる。なにも異常はない。少し柵は低く、転落事故の可能性はない、とは言い切れなかった。洗濯物は干されていない。葉島が済ませているのだろう。
足下に不自然なものはなかった。ただ、部屋のゴミが外にまで散らばっている。
ベランダよりも気になるのは室内の荒れ具合だ。机は斜めを向き、上に置かれていたと思われる物が床に落ちていた。カーペットがよれている。
「究助さん。1つ、いいですか」
「ん」
「この部屋、少し荒れてますよね。誰かと争ったということになるんでしょうか」
「そうとも限らねぇんじゃねぇか? あの爺さんが片付け嫌いだっただけかもしんねーぜ」
綴は高速でメモを残しながら喋る。
「いえ、さっき究助さんが押さえてた女性、葉島さんというんですが、彼女は老人のホームヘルパーだったんです。こんなふうに荒れていたら片付けるはずですよ」
「じゃあ葉島が外にいる間に荒れたってわけだ」
「それから、部屋は無秩序に荒れているように見えましたが、よく見れば、ベランダにゴミが散らばっています。一方で玄関はあまり荒れていない。つまり、部屋の奥に行くにしたがって荒れているんです」
「確かに……けど、それってどういうことだよ?」
「老人は部屋を荒らしながらベランダに向かったということです。何者かが部屋に侵入し、老人はベランダに逃げ、何者かがそれを追いかけた……あたりでしょうか」
究助は目と口を丸くした。彼も葉島のように、感情が顔に出やすいタイプのようだ。
「おー! マジか! スゲぇ推理だ!」
「か、可能性の話ですよ。たいした推理じゃないし……」とはいえ、これまた悪い気はしない。
「じゃあ殺人か。でもこの部屋、鍵かかってたよな? しかもその鍵は、下駄箱の上にあった。
……あっ!」
「ど、どうかしました?」
「さっきの管理人! あいつなら鍵持ってたじゃねぇか! あいつが部屋に押し入ってベランダから落としたんだ!」
究助はいかにも「事件解決!」と、単純な調子で言った。
しかし、そんな簡単な話で済む事件ではなさそうだ。
「いえ、それは……バツです」
綴は呟く。
「……? なに? 罰?」
「あ、いえ……」咄嗟にかぶりを振る。「えっと、僕が見た感じなんですけど、被害者はなんていうか、まるで自分から落ちるように、手すりを越えていたんです」
「はっ? 自分から?」
「見間違いじゃないと思います。誰かが突き落としたりとか、まったく確認できませんでした。背後に誰もいなかったんです。しかも、管理人さんは背が高かった。手すりの下に隠れてたというのもなさそうです」
そう言いながら、綴は自分の発言もメモに残しておく。探偵業は長くないが、それでも経験として得たことがある。後から「言った」「言ってない」の問答ほど不毛なものはない、ということだ。とにかくメモに残しておく。そんなものいくらでも偽造できる、と突っかかられることもあるが……。
「おいおい、何者かが侵入したかもってお前が言い出したんだろ? いや、俺もそう思うけどよ。誰もいなかったらそれは事故ってことになるぜ」
「謎ですね……」
「……でも、流石、探偵だな。頼りになるぜ!」
究助は肩をばしばし叩いてきた。綴の小柄な体はそのたび揺れ動く。
「もうちょっと協力してくれよハチミツ!」
「協力は別に構いませんけど、ハチミツ呼び……」
「いいじゃねぇか。呼びやすくて!」
八見や綴の方が短くて済むのに? きっとそう言っても、呼び方が変わることはないのだろうという確信があった。
「──ってか、なんか外、また騒がしくなってねぇか? 応援でも来たかな……」
廊下の方で、複数の靴音が規則正しく鳴り響いている。それはカツカツと勢いよく、この部屋に近づいてくる。
ドアが開け放たれて、軍隊のように隊列を組んだ男たちが入ってきた。
彼らの胸には三日月をあしらったバッジが光っている。
「えっ!? だ、誰……」
先頭に立つ男は、不敵な笑みを浮かべた。
「貴様ら、全員ここから出ろッ! ここは俺たち、『特殊異能力犯罪対策班』、通称『特能』に任せてもらおうか!」
まるで鞭を振るうように一喝する。
突如として現れた軍勢に圧倒される。究助は心の底から不快そうな表情をしていた。
「げっ……テメェら特能! な、なんで来てんだよ! このヤマは関係ねぇだろ!」
男は歯を凶悪に剥き出す。
「そうは行かないんだよッ! 通報があった! 異能力者が人をブッ殺したってなぁッ!」
「はあ? 通報? 異能力者?」
「おいッ!」
男は背後に命じた。
すると、奇妙な《黒い鎖》に縛り上げられた、制服の少女が引っ張られてきた。その真後ろには、外国人管理人のジーコ氏がいる。
「こ、この子デス! この子ナラ、尾割さんを殺せマスゥ!」
綴は少女の首元、制服の襟に黒いハートマークの、異能力者バッジが付いているのを見つけた。ということは彼女は異能力者で、この状況はつまり。
「そ、その子が、異能力で被害者を殺したって言うんですか!」
「おいおい、お前ら現場もろくに見てねぇじゃねぇか……」究助が男に詰め寄る。「適当なこと言ってんじゃ──」
「無礼だぞッ!」
男が叫び、両手を突き出す。
袖口から、黒く長いものが風を切って宙に舞った。
「うおーっ!? なんじゃそりゃ!?」
まるで蛇だ。しかし宙で静止すると、全容が判明した。男の袖から飛び出したのは、少女の体を拘束しているものと同じ、黒い鎖だ。
「ま、まさか、あなたも……」綴は恐々とする。今日だけでなんと、4人目だ。
「こいつは《異能力犯罪》だ! この場は、俺たち特能が仕切る。テメェらは俺たちに従うしかねぇんだよッ!」
少女は涙目でもがいている。
老人を殺したのが、あの子?
「俺の名は妻崎豊、特能のエリート様だッ! ザコは失せろッ!」




