暴食って七つの大罪の一つなんですよね。
夢中になって食べ続ける。きっとこれはそういう料理なのだ。
高級で上品で一口ずつ味わって食べるような貴族の料理とはまるで別物。いくら食べてもまだ食べられる原始的な幸福感。
だからこそこの量、この味付け、この食べ方か。しかしそれが分かったとしても、そういう料理をこの完成度で作るとは恐れ入る。
これだけ違うと、もはや異世界の料理であることは明白。この店が美食界隈に大きな波紋を巻き起こすであろうことは疑いようもなく、やがて大きな波となれば大国すら飲み込みかねない。
だがそんなことは関係なしに、私の目の前にはただ圧倒的なまでの「食」があった。
「くぅ……」
茹で野菜の牙城を崩し、麺の軍勢へと突貫し、獣脂輝くスープがようやく掬えるようになったころ。
私の胃が知らせる限界に、思わず声が漏れた。
魔女と言っても、ベースは人間だ。身体の構造はそう変わらない。
もちろん操り人形師や舞台役者のように己の魔法に合わせて体を改造したり、星詠みや大図書館のように在り方から変質してしまっている者もいるが、私はそこまでしていない。
……つまり、私のお腹の容量は人間の限界を超えていなかった。
もちろん、かなり食べる方ではあると思う。
それはもう、私は昔から良く食べた。たくさん食べて、普通の人の量では全然満腹にならなくて、だから口減らしで捨てられたほど食べる。
とはいえそれは体質の問題で、限界は無論あるのだ。
無理をすればまだ食べられる。しかし器に残っている量は入らない。
私はそう冷静に判断した。ふぅ、と息を吐く。
問題はない。私は魔女なのだから。
食べることは私の趣味だ。美味しいものをたくさん食す喜びは無上のものだ。
だからこそ、そのための魔法を私は習得した。
ゆえに、この程度の大食いで敗北などするはずなく。我が身は底無しの奈落となりて、全ての美食を喰らい尽くさんーー
「く……まだまだぁ!」
声が聞こえて、振り向く。二つ隣の席で、師匠が鬼の形相で戦っていた。
額に脂汗を流し、震える手で箸を掴み、覆いかぶさるようにして麺を口に運んでいる。
量は……すごい。私よりも食べ進んでいた。
彼ももう限界なのだろう。それでも気迫は衰えないどころか、むしろ凄みを増していた。まさに鬼気迫るというやつだ。
なぜそうまでするのか。食べることは生きることであり、楽しむことであり、幸せなことだ。なのになぜああも苦しそうになってまで食べ続けるのか。
わたしには、分かる気がした。
それは闘いだった。敵は己の限界であり、人の限界であった。
それは挑戦だった。山があれば頂上の景色を、海があればその向こうにあるかもしれない新天地を目指すように、立ち向かう理由などいらなかった。
世間一般から見たらバカな行為に思えるかもしれない。けれどそれは、わたしにはとてもとても尊い姿に見えたのだ。
いいのか?
自問が湧く。彼の横で、自分はのうのうと魔法を使っていいのだろうか。
余裕顔で、自身の健康を気にしつつ、ズルをして完食してしまっていいのか。
ダメだ。それは、なにかダメな気がした。一生日の当たる場所を歩けないような気がした。魂の奥底が違うだろうと叫んでいた。
箸を持ち直す。改めて向かうと、それは絶望という魔物であった。
エビルマウンテンらぁめん魔竜級。冠したその名は光の勇者が挑んだとされる神話そのものであり、かの勇者はこれほどの絶望に挑んだのかと畏敬の念を覚えるほど。
……そうだ。挑むのだ。挑み、打ち克つのだ。ここで奮起しなくてどうするというのか。私が魔女となったのは、ここでこのらぁめんを完食するためだったに違いないのだから。
麺を口に運ぶ。スープがよく絡んで、これだけ食べているのに飽きがこない。
輪切りの玉子を食べる。驚くほど味が染み込んでいる。
肉を口に放り込む。柔らかくて、噛むとしっかりとした旨味が口の中に広がる。
まだ。いける。
ゴホッ、と咳き込んだ。お腹が張って苦しかった。箸を持つ手が震えていた。なぜか涙が滲んでくる。じっとりとしたへんな汗が首筋を通って鎖骨のくぼみに溜まる。
私は何をやっているのだろう。そんな、正気の自分が一歩引いた場所から客観視していた。完食したところでなにがあるわけでもないし、ここでやめたところで誰も責めないのに、なぜ私はこんなに苦しい思いをしているのだ。
やめてしまえばいい。敗北を認めればいい。それで楽になれる。
腰紐を、緩めた。
はしたないのは分かっていた。下着が少し見えてしまうかもしれない。
けどそんなの、自分に負けることに比べれば全然気にならなかった。
食べる。
麺をすする。
なぜか頭痛がしてきた。
玉子を口に運ぶ。
目の奥がジワジワとした違和感を訴える。
肉を頬張る。
背筋が痛くて姿勢も保てない。
スープを飲む。
むせそうになるのを必死で我慢する。
さらに麺をすする。
味覚がおかしくなったのか、味が濃い料理なのにもう何を食べてるのか分からない。
麺を掴む箸先が、器の底に当たる。
あと、一口。
安堵と希望に震えた。大きく息を吐く。
勝った。そう思った。
それがいけなかった。
「あ……」
手が動かない。身体が、心が、拒絶するのを感じる。あとほんの一口を持ち上げることができない。小さな子どもがイヤイヤとダダをこねるかのごとく、フルフルと首を振って袖を引っ張るかのごとく、箸を持つ手は私の言う事を聞いてくれない。
終わりのはずだった。もう終わったのだと心を緩めてしまった。
「あ………」
涙がこぼれてきて、声が漏れる。
私は、この一口を食べたくないのだ。それがやっと分かって、そしたら悲しくて、自然と頬を伝ったのだ。
食べたくて、食べてきた。
お腹が減って、くうくうと鳴って、その音を聞くたびにひもじさを思い出して、それをごまかすために自分のお腹を殴りつけてごまかして、まるで屍肉喰いの不死族のように地面を見ながら食べられそうな物を探した。
食べたくて。おいしいものをたくさんたくさん食べたくて、涙したのだ。
なのに、今は苦しくて食べたくないだなんて。
「がんばれ」
声がした。私は顔をあげなかった。
泣き顔なんて誰にも見せたくなかったし、それを言った店主の顔を見るのも違うとも感じたのだ。
私は、まだ戦っているのだから。だから、勝つまでは目をそらしてはいけない。
手に、力を入れる。
ゆっくりと麺をつまむ。
身体は拒否して、心は悲鳴をあげて、苦しくて、涙が出て。
それでも食べるのだ。
そうしなければ、私は私に負けてしまうから。
チュルリと最後の麺をすする。時間をかけたせいでヌルくって、とっくに伸び切ってそれは、満腹もあいまって御世辞にも美味しいとは感じなかったけれど、しっかりとよく噛んだ。
ごくりと飲み下す。
拍手が起こった。
店主と、数人の客たちからの、ささやかな拍手。
汗だくで、泣き顔で、緩めたはずの腰紐はギチギチで、でも恥ずかしいとは思わなくて。
隣を見れば、好敵手もほとんど同じタイミングで食べ終わったのだろうか、目が合ってしまって。
思わず、笑ってしまって。
「うぷっ!」
油断で危うく戻しそうになって、二人で口元を押さえたのだ。