第4話 怪物(後編)
「やっぱりそう来たかっ!」
私は一目散に逃げ――既にねこすけがむき出しのふくらはぎに噛みついているっ!!
「痛痛痛痛い痛い痛い痛痛い痛い痛い!! 死ぬ死ぬ死ぬって死にゅぬにゅ死ぬってっ!!」
「ねこすけ、もういいのです。戻るのです」
ねこすけが私の脚から離れ、もくれんの足元へと駆ける。そして青白い光の粒子へと変わり、その場から消えていった。
「先生、ケガはしてないですか?」
私は痛みに顔を歪めながら、怪物に噛まれた自分の脚を確かめる。
出血どころか、傷ひとつ無い。むしろ普段よりつやつやで健康的な気さえする。転移加護、恐るべし。
……でも、だったらなんで痛みはそのままなの!? そっちも軽減されないとおかしいでしょっ!!
「おお、全然ケガしてないのです。『健康』の加護、凄いのです」
もくれんはしゃがみ込み、興味津々なご様子で私の脚を見つめたり触ったりしている。
……うん。
「ねぇ」
「はいなのです」
私は顔を上げた少女の眉間にチョップを喰らわす。
「あいたっ」
「よくもうおおおうおおおああああうううおぉぉぉぉあぁぁぁぁぁっっ!!!!」
もくれんの眉間に攻撃が当たった瞬間、私の全身に激痛が走った。
ねこすけに噛まれている時の痛みに勝るとも劣らない、なんと言うかああもうなんだよこれ痛いわ痛すぎだわどうにかしてよもう! 本当になにこれなにこれああもうぅ!!
「大丈夫なのです?」
「うぉぉぉぉ……」
私はしばし地面を転がり、悶絶する。痛みは徐々に治まっていき、体感1分ほどで完全に消え失せた。
苦悶から解放された私は、ゆっくり息を整える。そして立ち上がり、服や皮膚に付いた汚れを払い落とした。
「早くも治まったのです?」
「早くない、全然早く無いって!! ていうか、なんなの今の痛みはっ!?」
「たぶん、私にチョップしたからなのです。オトモが召喚主を攻撃すると、激痛が走るのです」
「そういえばそんなこと言ってたわ……」
「それで、どうして先生は私にチョップしたのです?」
「いきなり召喚獣に攻撃させたからでしょ!? あんなに噛みつかれたら、普通はめちゃくちゃ出血するから! 私が大量出血で死んだらどうするつもりだったわけ!?」
「大丈夫なのです。この世界では、人間は病気と寿命以外で死なないのです」
「は?」
また新しい設定が出てきた。
「死なないって、ケガもしないってこと?」
「ケガはするに決まっているのです。先生だけ例外なのです」
何が当たり前で何が当たり前じゃないか分からないんだよ、この世界!
「この世界の人たちは、ケガとかで死んだら適当な場所で蘇るのです。だから死なないのです」
「リスポーンあるのね、この世界……」
というか、やっぱこの世界ゲームでしょ? VRヘルメットかぶって遊ぶフルダイブ型のゲームでしょ? 私の記憶が操作されているだけで、頭のこの辺に見えないヘルメットが……こっちの方かな? いや、まずは首元にあるパーツを取るとか?
「ユリサキ先生、なにしてるのです?」
「このゲームの世界から強制退去するためにVRメットを外そうとしてるの」
「こんなリアルな世界がゲームなわけないのです。いい大人がそういう空想をするのは恥ずかしいのです」
いやいやいやどう考えてもここはゲームの世界だよラノベやアニメでよくあるタイプのさぁ!
でもそういう結論はフィクションと現実を混同していると言われれば、それはそれでぐうの音も出ない!
どうしろと。
「この世界さぁ……現実なの? 夢なの? ゲームなの? なんなの?」
「そんなのどうでもいいのです。私は現実だと感じているので、現実でいいのです」
テキトーなようで、もくれんの言葉にも一理あった。
自分の五感が現実だと感じている以上、この状況は現実として受け入れるべきなのかもしれない。この世界の各種システムにはすごい納得いかないけど、世界を偽物だと疑い続けるよりはずっと健全な気もする。
「……わかった。とりあえずは、現実だと思うことにする」
「それが良いのです。所詮、胡蝶の夢なのです」
なんか頭良さげなこと言ったよこの子!? バカだと思ってたけど、もしかして違うの!?
「それで、私の召喚能力についてはわかってもらえたのです?」
「うん。怪物怖い」
「怪物じゃないのです。ねこすけなのです」
「アレは怪物でしょ……少なくとも猫じゃない」
「そう見えちゃうのが悩みの種なのです。だから先生には、もっと上手なネコさんを描いて欲しいのです」
そう言いながら、彼女は召喚書を差し出してきた。私はそれを受け取ってパラパラとページをめくり、内容を確かめる。
うん、小学生以下のラクガキ帝国だ。
「よし、先生が本当の猫を描いてあげよう。絵を描く道具はあるよね?」
「もちろん準備しているのです」
もくれんが鞄から鉛筆と消しゴムを取り出し、私に渡す。最低限の道具だけど、色を塗る気も無いしどうにかなるだろう。
私は地面に座って、召喚書に線を描き始める。
「わくわくなのです」
猫はやっぱり、顔に愛嬌がなくちゃいけない。だからこう……
……なんか輪郭が違うな。
もうちょっとこう……むぅ……?
「まだかなまだかななのです」
瞳の大きさってこんなんだっけ……鼻もなんか違うような……
いや、まず全体の輪郭を描こう。こういうシルエットで……
……いや、ちょっと違う気がする。こうかな? ん? ん??
「先生、苦戦しているのです?」
「ちょっと待ってて。黙ってて」
そのまま20分ほど描き続け、私は鉛筆の動きを止めた。
「……」
「完成なのです?」
もくれんが、召喚書に描いた私の絵を覗き込む。
「それが、ネコさんなのです?」
「違う……こんなの、猫じゃない……!」
私が描いた猫。
顔の大きさが胴体に対してちょっと大きすぎて、瞳と鼻、口のバランスがおかしい。胴体、4つの脚も違和感がある。実際の猫の脚は、こんな形じゃない。尻尾もこんな、ただくっ付いているだけのものじゃない。
全体的に見ると、それは猫のような怪物であった。
「思っていたのと違うのです。ひどいのです」
私から召喚書を取り上げ、もくれんがグサリと刺さる一言を放つ。
だが、的確な評価であった。
「ためしに召喚してみるです?」
「やめてっ!」
そう叫んだ後、私は地面に手をついて、うずくまった。
「私は、猫1匹まともに描けない……」
「おお。たしか、夏目漱石の言葉なのです」
「葛飾北斎だよっ!!」
猫は、数える程しか描いたことが無い。だから、下手でも仕方ないのかもしれない。
でも、描いているうちに気付いた。描くのが猫じゃなくて、大好きなあのキャラやあのキャラだとしても、私はきっと本物とどこか違う、違和感のあるヘタクソな絵しか描けないだろうということに。
思えば私は絵を描くとき、資料をちゃんと見て、上手く見えるよう頑張ってきた。でもそれは自身の外にあるものを自身の外へ出力する作業であり、自分の中にイメージを構築する努力では無い。
つまり、私の中には描きたいものについての、明確なイメージが無いのだ。
「ああぁぁぁ……」
自己嫌悪に、頭を抱える。
努力して、他人に評価される絵を描こうとした。でもそれを続けるうちに自己表現という、自分の世界を出力することの本質を忘れ、自分の世界を作り上げるという最も大切な努力を怠ってしまった。
こんな人間の、どこが、絵師だと言えるのだろうか。
「うううあぁぁぁぁ……」
「そんなに落ち込まないでくださいなのです。先生が絵の上手い人なのは知っているのです。練習すれば、きっと可愛いネコさんを描けるのです」
「だめ……今の私じゃ……」
「だからこそ、頑張るのです。先生なら、頑張れば出来るのです。それに描いてくれないと、私が困るのです。大損なのです」
「……」
もくれんの言い方はちょっとイラついたけど、少しだけ前を向く力をもらえた。
私は、資料があればもっと上手い絵を描ける。そこから成長して、資料が少なくても上手い絵を描ける人間、自分の中にイメージを構築できる人間になればいいだけの話なんだ。
出来るか出来ないかは分からない。でも自分の至らなさを痛感してしまった以上、それを直さずにはいられない気持ちが確かにあった。
それはきっと、私が私であるために、無視してはいけない想いなんだろう。
「……2週間、いや、1か月ください」
「1か月でネコさんが描けるようになりそうなのです?」
「頑張ります。お願いします」
私はもくれんに土下座し、懇願する。情けない姿だが、今の私にはお似合いだと思った。
クライアントの希望に答えられない、絵師未満の底辺。そんな私は、どんな無様をさらしてでも、成長しないといけない。
絵を描けるということが、私のプライドなのだから。
「わかったのです。ただし、冒険者としての依頼もちゃんと手伝ってもらうのです」
「もちろん。生活費を負担してもらうわけだしね」
「ユリサキ先生が今はヘタクソさんでも、私は昔の絵を知っているから切り捨てたりしないのです。だけど、できるだけ早く上手になって欲しいのです」
「……1か月で、どうにかするから」
私は立ち上がり、顔を上げる。
もう、液タブと大量の資料があった世界じゃない。
鉛筆と現物の世界。
何もない、それ故に自分自身を磨かなければいけない世界。
曖昧な怪物を描いてしまう自分から脱却しなければならない世界。
そんな世界で生きるための1か月が、こうして始まったのであった。