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深く静かに確かめ合う

1.

 なぜ歩き出してしまったのだろうか?

 空は濃淡も無く平たく間延びし、ただ青い。だらしなく続く砂利道の先は遠くの山の緑に飲まれ霞んでいた。

 暑い。

 道の左右は荒れた休耕地が広がり、日差しを遮るものは何もなく、風さえ吹かなかった。

 ネットで事前に航空図を見ていたが、自分がいかに小さい存在なのか、その縮尺を実際に歩き始めるまでは自覚できていなかった。

 気まぐれに駅から歩き始め、人気のある駅前や小規模な住宅地を抜け、小さな鉄橋を渡った後から、いくら歩いてもこの空と道と山だけの密度の低い景色が続いた。

 眩暈がしてくる。

 周りには誰もいない。何の気配もない。振り返っても、越えてきた鉄橋はもう無いのではないだろうか。

 やはりこれは罰だ。

 段々と自分という存在が、この何もない風景に溶けて拡散していく気がする。消えてなくなりそうだ。消えてなくなりたい。

 そう翼が思ったとき、視線の先を小さな白い点が穿った。

 

 道の先の小さな白い点は徐々に大きくなっていく。近づいてくる。ガリガリと砂利を踏み鳴らす音が聞こえる頃には、それが白く四角いミニバンだとわかった。

 とぼとぼと惰性で歩き続けていたが、道幅は狭く、このままバンとすれ違う事は難しそうだった。翼は仕方なく立ち止まり、道の傍らの茂みに退いた。

 バンのスピードが落ちていく。翼の脇でバンは完全に静止していた。助手席の窓が開いていて、運転席の男が似合わない大きめなサングラス越しにこちらを見る。

 何か言われるのかと身構える。辺りにあまりに人気が無かったのは、ここが勝手に入ってはいけない場所だったからだろうか?それとも自分みたいな子供が一人歩いているので咎められるのだろうか?自分が何か間違っているのではないかと少し不安になる。

 男はしばらく黙ってこちらを見ていたままだったが、そのまま何も言わず、スマートフォンを取り出して何か操作した。少ししてから翼のズボンのポケットの中でスマートフォンの着信音が鳴りだす。画面を確認すると”牟田睦”、家を出る前に母から教えられた叔父からの着信だった。

 顔を上げると車の中の男が自分のスマホ画面をこちらに見せて、不器用に口元を歪めている。笑っているのかもしれない。男が手に持ったスマホの画面には、”ノヅキ ツバサ”と翼のフルネームが片仮名で表示されている。「駅で待ってるのかと思ってたんだ」

 そういう予定だったかもしれない。憂鬱で母の話をあまり聞いていなかった。大事な話は一度しかしない母だから、その一度を聞き逃したのだろう。

 「まぁ、とりあえず乗ってくれ」叔父である男がそう言って、体を伸ばして助手席のドアを開けた。


 車は一度、まっすぐそのまま進み、橋を超えて大通りに出た所でUターンして元の道に戻った。他人の家の車に乗ることなど滅多に無かったので落ち着かない。

 叔父の顔を横目で見やる。車をUターンさせてからサングラスは外していた。想像していたより随分若く感じる。母の弟と聞いていたから、当然母より若いはずだが、叔父という響きで何となく年寄りを想像していた。

 父の葬儀の時に会っているのだろうが、いくらその顔を見ても何も思い出せない。随分前の事だから、そもそも殆ど記憶に残っていない。今までそれ以外に親戚という人種に会う事も無かったから初対面に近かった。それは向こうも同じはずだ。

 「暑くないか?」叔父がちらとこちらを見る。

 じろじろと横顔を眺めていた事を悟られないように顔を背けて「平気」と答えた。実際には吹き出した汗でタンクトップが肌に張り付いていた。道が狭いせいか車はとろとろと走り、窓から入る風はぬるい。もう少し愛想よくした方がいいのだとわかってはいたが、これ以上口を開く気にもなれなかった。

 男の背後に母の姿を見ているせいもある。母から自分の事をどう聞いているのか考えてしまい、気分が塞いだ。もしかしたら夏の間中、こんなつまらない気持ちで過ごす事になるのかもしれない。

 背けた顔で外を眺めた。車中から眺めても、景色は変わらず空と道と山だけだ。

 「ここら辺、何もないだろ」また運転席から声がかかる。

 「空と道と山がある」それから雑草だらけで放置された田畑。無視するか迷った末に口を開いたが、これなら黙っていた方がマシだったと後悔する。

 「目の付け所がいいな。あと川ぐらいならある」

 「ふーん」会話が続いてしまい、できるだけ素っ気なく返した。こんな態度を取られて気分を害さないのだろうか?振り返り、顔色を伺う。スマホ画面を見せた時より、口元が自然な笑みに見える。気を使っているのかもしれない。むしろ癪に障る。

 「あれが家だ」

 「え?」

 視線を前にやると、今まで山の緑に飲まれていた山裾の景色が見えるようになっていた。すそ野を沿うように道が折れ曲がって続いていて、その道と山へ続く木々の間にぽつんと一件の平屋がある。

 辺りに他の家は無く、完全に孤立している。「本当に?」思わず口にしていた。地図で見た時も何かの間違いじゃないかと思ったが、実際に見てもひどい場所だ。

 「そんなに悪い所じゃない。買い物も車があれば困らないしな」

 「車じゃなかったら?」

 「ここは陸の孤島だ」

 言い草にぎょっとする。つまり夏の間中、閉じ込められてるも同然ということだ。

 「いや、言い過ぎた。その気になれば徒歩でも人の生活圏まで脱出は可能だ。俺にはそんなガッツは無いが」

 翼の反応を見てか、ごにょごにょとフォローのようなものが加わる。しかし、途中まで歩いて来た実感では、翼も徒歩でどこかに辿り着けるような気はしなかった。例え辿り着いても駅前に小さな商店がいくつか軒を連ねているだけだ。わざわざ行く甲斐は無い。


 叔父の家は近くで見ても印象が良くなることは無かった。

 建設現場のプレハブ小屋を少し大きくした程度の四角い家だ。見た目もプレハブ小屋と大差が無い。古びてはいないものの、ベージュの壁は砂埃で白茶けている。

 家の前の道は休耕地を走る道とは違いアスファルトで舗装されていて、舗装された道と家の間には塀もなく、また砂利敷きのスペースに変わり、車はそこに横づけされた。

 先に車を降ろされた翼は軽く辺りを見渡したが、道中と変わる事無く見所は何も無い。アスファルトの道はカーブして山陰に消えていくため、その先に何があるのかわからなかった。

 車のエンジンを切り、叔父が車を降りてくる。「荷物はそれだけなのか?」

 見てわからないのだろうか?「必要な物は後で送るって、……お母さんが」だから二三日分の着替えと簡単な物をリュックサックに詰め込んだだけだった。

 「ああ、何かそんな事言ってたな」叔父がちゃらちゃらと手に持った車のキーを鳴らしながら、家の正面左端にある茶色いアルミサッシの玄関を開き、中に入っていく。

 立ったままサンダルを脱ぎ、視界から消える。開いたままの玄関からその様子を眺めた。しばらくして叔父がひょこっと顔を出す。手に茶色い液体の入ったグラスを持っている。「何してんだ?あんま外にいると体に悪いぞ」

 「う、うん」少しむっとする。確かに暑さで頭が茹だりそうだったが、好きで突っ立っていた訳ではない。どうぞとも何も言われなかったから入るのに躊躇していたのだ。 

 叔父がまた姿を隠す。

 こうしていても仕方がない。玄関に向かって歩き出す。まだ躊躇がある。躊躇の理由を探す。何となくここを超えたらもう元の場所へは戻れなくなるような気がしていた。


 2.

 土間は狭く、段差が殆ど無い。さっき脱ぎ捨てられた叔父のサンダルと、一足の汚れた運動靴だけが転がっている。左手の壁に薄い靴箱がつけられているが、中身は空なんじゃないかと思えた。

 あまり行儀よくするのも馬鹿らしく、翼も足を揃えて立ったままサンダルを脱ぎ、家にあがった。

 玄関はそのまま8畳ほどのダイニングキッチンになっていて、家の正面側の壁に沿ってキッチン、というより台所があり、右手の壁際に冷蔵庫、中央に小さなダイニングテーブルと、それを囲んで4脚の椅子が置かれていた。

 部屋の奥は型板ガラスのはめ込まれた4枚の引戸で仕切られていて、真ん中2枚の開いた部分から横に伸びた板張りの廊下と向いにある閉じられた襖が見えた。

 叔父はダイニングテーブルと冷蔵庫の間に立ち、ペットボトルからグラスに麦茶を注いでいる。「飲むか?」と翼に気づいてグラスを差し出す。

 手に持っているグラスはさっきも持っていたグラスだ。一杯目の麦茶を飲んだ後、洗いもせずに二杯目を注いだように見える。首を横に振る。

 「いや、飲んどいた方がいいぞ。かなり汗をかいてる。熱中症になったらどうしたらいいのか、俺は知らないんだ」自信ありげに頼りない事を言う。何だか間が抜けている。

 「喉、」乾いてない、と言いかけて、「……わかった」と突っぱねるのも面倒になり、グラスを受け取った。嫌悪感はまだ残っていたが麦茶をあおる。実際には喉が渇いていた。「叔父さん、一人でここに住んでるの……?」

 母が弟の所に行けと言った時、祖父祖母に関する話が出なかったので、ここが母の実家でない事は察していた。家の様子から他に人気も無い。何よりこの調子では結婚などしていそうには思えなかった。

 「おじ……」

 「……何?」

 「いや、親族関係の表現として使ってるのはわかるんだが、そういうのまだナーバスな年頃というか、ついにナーバスな年頃というか」

 「おじさん?」ナーバスとは何だろうか?

 「ああ。背筋が寒くなる」

 本気で暗い顔をしている。嫌がっているのはわかるが、事実叔父なのだから仕方がない。「だってカツオだってタラちゃんの叔父さんでしょ?」

 「でもタラちゃんはカツオの事、カツオ叔父さんとは言わないでカツオお兄ちゃんって呼ぶだろ?」心なしか語調が強くなっている。少し怖い。「いや、すまん。怒っている訳ではなく、理不尽な時の流れに恐怖しているだけなんだ。許してくれ」

 「う、うん。……じゃ、じゃあ、何て呼べばいいの?」流石にお兄ちゃんと呼ぶのは抵抗が強い。

 「いや、好きに呼んでくれて構わない」

 「おじさん」

 「それはダメだ」

 「じゃあ、……睦?」

 「む……」

 「だって親戚を苗字で呼ぶのっておかしいでしょ……?みんな同じ苗字なんだから」母は自分の親類の話を全くしないので、どんな家族構成をしているのかわからないが、大半は同じ苗字になるはずだ。そうなると睦しか無難な呼び方は思いつかない。

 「なるほど。確かにそうだ。じゃあそれでいい」

 叔父、睦が麦茶のペットボトルを冷蔵庫に仕舞う。”さん”付けにしなかった事には気がつかなかったようだった。


 「狭い家だが一応案内しておく」

 そう言って睦が廊下へ出る。後について翼も廊下に続く。床材がビニールから板張りに変わる。幅は人一人分の細い廊下だ。ダイニングキッチンから出て左手はどん詰まりで、ダンボール箱が3箱縦に積まれ壁が殆ど見えなくなっている。隙間から光が漏れているので、その奥に明り取りの窓が付いているようだった。睦はもう右手に伸びる廊下を進んでいる。

 廊下右側、襖が並んだ空間から少し離れた所に内開きの扉が開いていて、睦がその中を指す。「とりあえず、ここがお前の部屋だ。うるさくしなけりゃ好きに使っていい」

 睦に追い付き、中を覗く。扉から左奥に向かって部屋は広がっている。ダイニングキッチンより少し狭い6畳程の洋間で、床にはさつまいもの皮のような古臭い赤紫色のカーペットが敷き詰められている。窓のある奥の壁にベッドが寄せられ、左の壁と廊下側の壁の隅に化粧台とセットの椅子が置いてある。家具らしき物は他にプラスチック製の丸いゴミ箱ぐらいしか無い。右手の壁には収納スペースがあるようだが、そこは和風で襖になっていた。

 視線の先に合わせるように「元々、雑に物を置く部屋に使ってたんだ。適当に転がしてあった荷物を無理矢理押し入れに詰めて場所を作った。中は見るな」と睦が言う。

 確かに絨毯にダンボール箱の底のような四角い跡が何か所か残っている。廊下の端にあったダンボール箱も元はこの部屋にあった物なのかもしれない。

 「ベッドは使えるかわからん。少なくとも布団とシーツぐらいは一度干した方がいいだろうな」

 「え」

 「この家を借りた時に置いてあったままなんだ。そこの化粧台もそうだ。問題があれば言ってくれ」

 そう言われると部屋全体が少し埃っぽい気がしてくる。今日からここで寝起きするのだろうが、すぐに使えるのだろうか?

 こちらが不安になっているのを余所に睦は部屋から離れていく。逃げていくようにも見える。

 狭い廊下で翼と無理矢理すれ違い、反対側、扉もなく、青い暖簾だけがかかった場所に入っていく。ダイニングキッチンの隣の空間。リュックサックを降ろし、仕方なく後を追う。

 脱衣所だろうか?中に入ると右手に洗面台があり、その脇に籐製の脱衣籠のような物が置かれている。しかし、それらが目に入る前に天井に張り巡らされた紐からぶら下がった大量の洗濯物に視界が阻まれる。男物のパンツやシャツ、父が亡くなってから家では見かけなくなった物。睦は既にそれらの先に行っている。顔をしかめ、身を屈めて洗濯物を避けながら先に進む。非対称に扉が二つ並んでいる。一つは右側の奥まった所にある丸ノブのついた細い扉で、もう一つは残りの壁の殆どを埋める磨りガラスの引き違い戸だ。睦が細い扉のノブに手をかける。「トイレだ」開いた先の狭い空間に洋式のトイレがある。壁は地の板が剥き出しであまり綺麗には感じられないが、もしかしたら和式便所なのではないかと思っていたので少しほっとする。それからもう一つの扉、引き違い戸を開く。「風呂だ」

 「温泉みたい……」

 「いや、銭湯じゃないか?」そう言われても銭湯には行った事が無かった。温泉もあまりないが、要するにこの家には不釣り合いな程、立派な風呂場があった。

 青味がかった黒いタイルが壁と床を覆っている。奥の壁に凹凸ガラスのルーバー窓があり、左手の壁の中央に流し場がある。そして浴槽は埋め込み式ではなく、床が四角く掘られている。広さも足を伸ばせるどころか、翼なら軽く泳げそうな程だった。

 「ここを建てた爺さんの趣味だったんだろうな。俺もこれを見て借りるのを決めた。実際にはお湯を張るのに時間がかかって面倒臭くて殆ど使ってない」

 「勿体ない」

 「お湯の方が勿体ない」

 「使ってもいい?」

 「使った後の掃除を任せてもいいなら」

 「わかった」


 洗濯物と暖簾を潜り廊下へ戻る。「中は大体こんな感じだ」睦はそう言って廊下の先にあった細い外開きの金属扉を開く。裏口だろう。睦の背に阻まれた四角く開いた空間から、明るい外の景色が覗けた。

 睦が外に出るので、翼も後に続こうとして足が止まる。「ああ、悪い。ちょっと待っててくれ」睦が引き返してきて、廊下を戻りダイニングキッチンへと消えていく。視線を扉の外へ戻す。顔を出して足元を見ると草臥れた玄関マットがあり、日焼けしたピンク色のサンダルが一足だけそこに置かれていた。サンダルを履き、外へ出る。丁度睦が玄関からサンダルを履いて、家の表を抜けて戻ってきた所だった。

 「どこまでなのかわからんが、庭らしい」睦が辺りを見渡して言う。

 家の背後にある山の木立と家の表側を走るアスファルト道の間に、白茶けた剥き出しの地面が広がっている。恐らくその空間が庭なのだろう。物干し台が二つ並び、その奥に家庭菜園の残骸のような物がある。裏口の脇、庇の下には、日焼けして白くなった洗濯機が置かれていた。

 「後はまぁ、大したものは無いな」

 それから睦はアスファルト道の先を指し、「何かあって助けを呼ぶならあっちに行った方がいい。買い物ならT駅の方が近いが、こっちへ行くと家が何件かある。こっちの方が近い」と言い、家の裏手に回った。

 家の背後は木々の影になり薄暗く、家から数歩離れると、すぐに地面は緩やかに傾斜し始めて、林が山に続いている。

 アルミ製の背の高い物置が家の壁伝いに置かれていて「釣り竿と虫取り網が入ってるが、他に危ない物も入ってるから、勝手に開けるな」と睦が歩きながら注意する。あまり興味が湧かない。物置の影には室外機とゴミ袋の山が隠れている。

 家を半周し、表へ戻ってくる。目の前をこの家までやってきた砂利道が伸びている。「あそこを真っ直ぐ行くと沢がある」言われて振り返る。背後の山の木立に切れ目があり、殆ど起伏のない道の様なものが奥へと続いていた。「昼間なら迷う事も無いだろうから行ってもいい」


 中に戻ってから遅めの昼食を摂った。「子供ってどれくらい食べるんだ?自分が喰う分しか作らんからわからん」と、袋に入った3人前のやきそばを叔父が焼く。「どうだ?多いか?少ないか?」「普通」「そうか。俺、この3袋入ったやきそば、いつも2袋喰うから、半端で困ってたんだ。丁度いい」この手のタイプのやきそばは冷凍保存が効く。余るのなら冷凍しておけばいい。翼は今朝までいた川崎の家の冷凍庫の中身を思い浮かべたが、口には出さなかった。

 食事中、他に会話もなく、テーブルの上に置かれたポータブルTVだけが音を立てた。テーブルの上には他に、醤油や塩、ガラス製の灰皿などが置かれている。睦は煙草を吸うのだろうか?母は煙草を吸わないし、死んだ父も多分吸っていなかったから、身近に煙草を吸う大人はいない。嫌な臭いがするというが、本当だろうか?吸い殻は無い。

 食後、睦が後片付けを始める。廊下の向こうにある襖の部屋が案内されていない事に気づく。「ねぇ、あの部屋は?」「あ?」洗い物をする睦が頭だけ振り返る。「消去法でわかるだろ?」少しイラっとくるが、確かにその通りだ。中はどうなっているのだろう?

 3.

 食後、部屋の掃除をした。窓を開け、空気を入れ替える。山の方から喧しく蝉の声が響く。ベッドの布団は翼が思った通り埃っぽかった。その下には毛布とタオルケットが重なっている。掛け布団と毛布は、夏場に必要ではない。邪魔なのでどこかに仕舞おうと、中は見るなと言われていた押し入れを黙って開けた。上下二段の収納に、みっしりとダンボール箱が詰まっている。何が入っているのか、手前のダンボール箱を開く。男性向けの古臭いポルノコミックが出てくる。興味に抗えずページを捲ろうとして、廊下に人の気配を感じる。慌てて元に戻す。「おい!」開きっぱなしにしていた扉から、手に雑巾を持った叔父が顔を出す。

 「布団、使わないから仕舞いたい」平静を装うためにわざと不機嫌な声を出した。ドキドキしながら顔を睨んだ。

 ダンボール箱の中身まで覗いた事はばれずに済み、「プライバシーという概念を理解しろ」と注意を受けただけで、掛け布団と毛布がダンボール箱と天板の隙間に押し込まれると、押し入れは閉じられた。

 その後、タオルケットとシーツを洗濯し、物干しに干した。なぜ物干しがあるのに脱衣所に洗濯物を干しているのだろう?

 マットレスを外へ出して貰い、壁に立てかけ日に当てた。シーツがかかっていたのでそれ程埃っぽく感じなかったが、一応、手で叩く。布団叩きは見つからなかった。

 部屋に戻り、良く絞った雑巾でカーペットを拭いた。床から剝がしたら洗濯できるだろうか?かなり大変だろうし、元に戻す自信も無く、諦めた。最初は足が黒くなるほどだったが、床全体を二度拭きしたら、気にならない程度になった。作業に飽きたとも言える。

 ついでに化粧台も拭く。小さな白い化粧台で、これは悪くないと思った。引き出しの中には使いかけの化粧品が残っている。

 いつの間にか夕方になり、外に出していた物を取り込んだ。ベッドを整えてひと段落すると、夕食になった。

 特に会話もない。掃除の間も、押し入れの件とマットレスを運ぶ時以外で会話は無かった。家を案内した時点で必要な事の説明は済ませたので、特に話をする気もないのかもしれない。その方が翼としても気楽だった。あまり干渉されたくない。

 風呂の沸かし方だけ教えてもらい、お湯を張った。確かに言われていた通り、時間がかかった。

 

 浴槽の縁に頭をやり、手足を伸ばして体を浮かせる。気持ちがいい。この浴室を写真に撮り、母に送りたくなる。浴槽の2面に段差があり、腰掛ける事も出来た。本当に温泉みたいだ。

 くたくただった。そうしていると眠気で瞼が重くなるので、翼は浴槽のお湯で顔を洗い、半身浴に切り替えた。それから母に本当にメッセージを送るか考える。

 気が重くなる。

 あれから殆ど母とまともに口を利いていない。喧嘩をして、お互い口を利かなくなる事は過去にもあったが、今回はよく分からない。母は怒っているのか?確かに自分が悪いような気もする。馬鹿な事をした、という罪悪感はある。

 りんこちゃんはあれからどうしているのだろう。どうなったのだろうか?二三日の間、クラスメイトたちがあれこれと嘘か本当かわからない事まで含めて、色々とメッセージアプリで翼に情報をくれたが、返信する気になれず、新しいメッセージが来ても読む事もしなくなっていた。今では誰もメッセージを送ってこない。新学期の事を考えると今から憂鬱になる。

 ふぅ、と溜息をついてもう一度顔を洗い、肩まで浸かった。一日中、汗で張り付いた服を着て暑い中過ごしたので、湯船に浸かるのが本当に心地良かった。

 ……どうしよう。

 ループするようにまた母について考えている。

 普通、子供一人でどこかに出したら、無事に着いたかどうか心配して、電話の一つもかけてくるものじゃないだろうか?

 やはりメッセージを送るのはやめよう。

 それとも叔父が、母に何か連絡したのだろうか?だから母から何も連絡が無いのだろうか?


 風呂上り、パジャマに着替え、今日着ていた服や下着を外の洗濯機に放り込んだ。翼は夏場にあまりパジャマを着ない。家では大抵、部屋着をパジャマ代わりにして過ごしていたので、本当に余所の家にいるという気分になる。

 ダイニングにまだ明かりが点いているので顔を出す。叔父が廊下側の椅子に座り、文庫本を読んでいた。

 「……お湯、そのままにしておいたから」給湯器の使い方を教わった時に、後で入るからそのままでいいと言われていた。

 睦は文庫本から顔も上げずに「ああ」とだけ答える。今更、夏の間、この叔父とやっていけるのかと考える。母からは名前と住所以外何も教えられていない。

 「麦茶、飲んでもいい?」

 「ああ。好きにしろ」欠伸を挟んだ以外、さっきの調子と何も変わらなかった。

 キッチンの水切りカゴから切子の入ったグラスを取り、冷蔵庫から出したペットボトルの麦茶を注ぐ。グラスに口をつけながら「ねぇ、睦って何してる人なの?」と聞いた。

 「何ってなんだ?」睦がようやく文庫本から顔を上げる。

 「仕事、……とか?」仕事を尋ねる以外の意図は無かったが、ついぼかしている。

 「してない」

 「え?」

 「今はしてない。逆に聞くが、おまえは何をしてる人なんだ?」

 「いや……、小……学、生?」そんな切り返し方をされるとは思わず、戸惑いながら返す。

 「そうか。多分、そうなんじゃないかと思ってた。当たってたから嬉しい」

 「う、うん」

 それ以外の可能性があるだろうか?中学生に見えるとは思えない。睦はまた文庫本に視線を落とす。

 「……仕事って、しなくて大丈夫なの?」

 「ああ。貯金があるからな。金があるなら仕事はなるべくしない方がいい。現代の生産はほとんど破壊と同義だ。趣味じゃない」

 「ふ、ふーん」言ってる意味はよくわからなかったが、要するに無職という事だろう。そんなに胸を張って言う事だろうか。

 麦茶を飲み終わり、シンクの蛇口でグラスをゆすぐ。ゆすぎながら、まだ何か聞こうか悩む。どう相手をしていい男なのか、段々わからなくなってきていた。背中に目をつけたように背後の叔父を警戒する。

 「ねぇ、……お母さんから連絡あった?」考えあぐねて結局、そんな事を口にしていた。

 「ん?俺にか?いや、無いな」

 「そ」

 ゆすぎおわったグラスを水切りカゴに戻し、蛇口を閉めた。


 4.

 ……音が違う。匂いも。

 蝉の声が五月蠅い。木が多いから蝉も多いのだろうか?外を走る車の音がしない。電車の音もしない。TVの音がしない。母の立てる音が無い。

 土の匂いがする。それから刺々しい埃っぽい臭いがまだ残っている。消臭剤やポプリ、いつもしていた名前のつけられない匂いが無い。

 タオルケットもいらなかった。今日は昨日よりも暑いのかもしれない。ベッドの上で寝返りを打ち、翼はスマホで時間を確認した。9時20分。平日だったら1時間目がとっくに始まっている時間だ。外で何かがガタガタと物音を立てた気がして随分前に目を覚ましたのだが、何の予定も無いせいで、今まで起きる気が湧かなかった。本当だったら今頃、何をしていたのだろう。遅く起きた母と朝食を食べ、どこかへ出かけていたかもしれない。友達の家に呼ばれていたかもしれない。

 寝汗で額に張り付いた前髪を払い、仕方なく身を起こし、ベッドに腰掛けた。空腹だ。叔父はまだ起きていないのだろうか?気配はない。

 そっと部屋を出る。ダイニングの戸を開け、閉める。

 テーブルの上に昨日は置かれていなかった食パンを見つける。食べてもいいのだろうか?多分、ダメとは言わないだろう。

 冷蔵庫を開け、マーガリンを見つける。他にも色々目につくものはあったが、どこまで勝手にしていいのかわからず、マーガリンだけ取り出し、テーブルに置いた。

 袋を開け、食パンを手に取る。冷蔵庫の上へ視線を向ける。高い。冷蔵庫の上に親子亀のように電子レンジとトースタが重なっている。電子レンジは辛うじて操作できる高さにあるが、その上にあるトースタは、手は届くものの操作できる高さではなかった。

 一応、食パン片手に背伸びをしてみたが、無駄な足搔きだった。諦めてテーブルにつき、生の食パンを齧った。妙に硬い。パサついている。袋に書いてある消費期限を見ると3日も過ぎていた。


 引戸のガラスの向こうで襖が開き、人影が現れる。ようやく起きだしてきたらしい叔父は、ガラス越しにしばらくこちらを見て、廊下の先に消えていった。模様の入ったガラス越しなので良くは見えなかったが、下着姿のようで、翼は固まってしまった。

 またしばらくすると廊下の先から戻ってきて、今度はダイニングの戸を開ける。上はシャツ一枚着ているものの、下はそのまま、毛の生えた脚を見せている。最悪だ。

 「何で生で食パン齧ってんだ?」眠そうな目をして不思議そうに言う。顔を洗ってきたらしく、短い前髪がまだ少し濡れている。

 「……生の方が好きだから」恨みがましく答える。

 「変わった奴だな」睦はそう言って首を傾げ、冷蔵庫からトースト用のチーズを取り出した。袋から消費期限の切れた食パンを二枚引き抜き、その二枚を少し迷った仕草を見せてからテーブルの上に直に置いた。翼がテーブルに出しっぱなしにしていたマーガリンを、パックの中でバターナイフを使って練ってから食パンに塗る。チーズを乗せ、トースタにセットする。「ああ」納得したように呟く。「お前も焼くか?」

 今見た光景が信じられなかった。普通、食べ物をテーブルの上に直に置くだろうか?パックの中でマーガリンをねちねちと練る姿はとても汚らしい。正気を疑う。首を横に振る。大体、もう半分以上食べてしまっているのに、今更焼くかと聞かれても困る。そして、残りを食べる食欲も失せてしまった。


 椅子の上に素足で胡坐をかく男を眺めながら、何とか残りの食パンを胃に押し込み、脱衣所で顔を洗って部屋に戻った。

 服を着替え、鏡の前で髪を梳かして纏めると、もうする事が無くなってしまった。

 ベッドに横になり、スマホをいじる。

 アンテナは立っていない。圏外だ。昨晩、部屋に戻ってから気づき、ダイニングに取って返すと、この家の中では携帯電話は繋がらないと言われた。「山陰にあるせいか、電波が届かないんだよな。まぁでも、家からちょっと歩けば繋がる。wifiのパスワード教えるけど、設定の仕方わかるか?」

 パスワードを書いたメモを貰い、wifiに接続すると、とりあえずの不便は無くなったが、流石に驚いた。本当に人の住むところではない。

 スマホのホーム画面からメッセージアプリを起動し、通知をチェックする。未読のメッセージは溜まっているが、昨日今日のメッセージではない。

 それから少しだけゲームをする。学校の友達たちとやっていたゲームだったが、学校に行かなくなってから起動しなくなっていた。そういう気分ではなかった。今やっても、何が面白かったのかわからなくなっている。

 ゲームアプリを終了する。ログイン履歴を友人たちに知られるのが鬱陶しく思え、アプリをアンインストールした。そんなことをしてもアカウント情報は残っているので、履歴が消える訳ではない。嫌なものを隠しただけだ。

 しばらく自己嫌悪で何もできなくなる。

 結局、スマホを放り、うつ伏せになって、丸めたタオルケットに顔を埋めた。家に置いてきたムーの手触りが恋しくなる。

 帰りたいと思い、同時に帰りたくないと思った。気に入ったあらゆる物だけを持って、どこかへ行きたい。それが駄目なら全てを元に戻して欲しい。

 溜息をつき、背を丸め、タオルケットに更に顔を押し付ける。罪悪感と同じくらい理不尽さも感じている。

 息苦しくなり、タオルケットを離して大の字になった。いつの間にか体中が汗ばみ、着替えた服もべた付き始めていた。

 今一番欲しいのはエアコンかもしれない。

 部屋には扇風機さえ無い。窓は全開にしていたが、喧しい蝉の声が入り込んでくるだけで少しも涼しくはならない。

 また溜息をつく。今度はただの排熱かもしれない。さっきまで何を考えていたのか、急にわからなくなった。シャツの胸元を掴んで上下させ、風を送る。暑さで落ち込む事さえ難しい。

 こうして寝転んでいても、暑さでバテてしまうだけだ。

 ぼーっとしかけた頭で体を起こした。お風呂にでも入ろうか?この家で唯一気に入ったものだ。水風呂にしたら、ちょっとしたプールみたいになるだろう。

 しかし、昼から風呂に入るのは少し気が引ける。

 それに風呂から上がっても着替えが無い。風呂上りにこの汗まみれになった服をもう一度着る事を考えたら、急に気持ちが萎えてしまった。

 「……暑い」そして、退屈だ。

 せめて涼しい所へ行きたい。

 

 廊下で物音がしたので、部屋を出ると案の定台所には叔父の姿があった。「どうした?」冷蔵庫を覗き、身を屈めていた睦が振り向いてこちらを見る。

 「沢に行っていい?」

 翼がのぼせた頭で出した結論がそれだった。昨日聞いた時には興味が湧かなかったが、きっとあの部屋にいるよりは涼しいだろう。

 「ん、ああ。別にいいぞ。あそこを真っ直ぐ行くだけだ」

 「どれくらいで着く?」

 「んー……、10分か20分ってとこか?計った事無いからわからん。別にそんなかかんないな。一緒に行った方がいいか?」

 「いい」

 「そうか」そう言って、睦は視線を冷蔵庫に戻すと、中から昨日の昼食と同じ3袋入りの焼きそばを取り出した。「昼飯、またやきそばなんだけどいいか?」

 「いい」

 「おう」小気味よく返事をして台所へ向かう。

 違う。そういう意味じゃない。「お腹空いてないからいらない」

 「え?」

 「お腹空いてないからいらない」もう一度繰り返す。

 振り向いた睦の顔が信じられないという表情で固まっている。あんな遅い時間に朝食をとって、何でもうお腹が空いているんだろう?それに暑さと朝の様子を思い出すとで、食事をする気にはなれなかった。

 「じゃあ、行ってくるから」荷物も特に必要ない。そのまま外に出ようと玄関に向かった。あまり褒められた態度じゃないことは翼にもわかったが、人に好かれたい気分ではなかった。

 「いやいやいや、待ってくれ」

 制止され、サンダルを履いたところで、一応、立ち止まる。返事もせずに顔を上げ、ねめつけた。

 「いや、……虫よけくらいかけた方が、いいぞ。それと、水筒貸すから待ってくれ」

 「……わかった」

 部屋に引き返していく叔父の姿を見ながら、自分が今、あまり人と一緒にいたくないのだと翼は自覚した。特に大人とは一緒にいたくない。近づきたくない。そういう状態だ。ついイライラしてしまう。

 睦が小ぶりな水筒を持って部屋から戻ってくる。中を濯ぎ、麦茶を詰めた物を受け取る。「目ぇ、瞑ってろ」靴箱の上にあった虫よけを全身にスプレーされる。嫌な臭いが身体を包んだ。部屋で嗅いだ埃っぽい刺々しい臭いに、同じ臭いが混ざっていた。

 「もういい?」

 「ん、ああ。……あんまり遅くならないようにしろ。暗くなると道がわからなくなる」

 「わかった」


 玄関を出て、木々の切れ目から山に入り、しばらくは無心で先に進んだ。10分か20分程度で着くと言われたが、もうそれぐらいは歩いた気がする。それは大人の歩幅での話だったのかもしれない。

 ショートパンツのポケットからスマホを取り出し、時間を確かめる。いつの間にか昼をとっくに過ぎていた。急に空腹を感じたが、今更引き返す気にはなれない。

 山の入り口付近では道の傾斜や、地面を這う太い木の根に四苦八苦したが、この辺りは比較的なだらかで周囲も拓けていた。気分も落ち着いてきて、翼は少し歩を緩め、周りを見渡した。

 どちらを向いても木と藪が青く茂っていて遠くは見えない。立っている道自体も、その密度が少し薄いだけで、実際、殆ど周りと変わらない。獣道とはこういう道の事を言うのだろう。

 翼が視線を巡らした先に、節くれだって幹が白く粉を吹いたような木が何本か立っていた。その根本に女性物の薄汚れた黄色いサンダルが片方だけ放られている。山に入ってから人工物を見たのはこれが始めてだった。こんな所にやってくる人が他にもいるのか。

 カーンとどこかで音が響いている事に気づく。

 道を外れたそんな場所になぜ片方だけサンダルが落ちているのか、その経緯を何とはなしに考えて、足が止まっていた。

 今度は音に気を取られて顔を上げる。何時から聞こえていたのだろう?

 音は木霊して聞こえ、どこから聞こえてくるのかわからない。

 それほど大きな音ではないので、距離は遠そうだった。一定のリズムでコーンとも聞こえる音が響く。

 規則性があるので、人の存在を感じさせる。過去に誰かがいただけでなく、今もこの山のどこかに人がいるのだ。

 その音を聞きながら、再び歩き出す。更に距離が開いたからか、徐々に音は小さくなっていく。

 何度も聞いている内に、それが斧の音だとわかった。カーンと聞こえるごとに木に刃を打ち付けているのだろう。


 視界がひらけたのは突然だった。

 音に気を取られていたのと、道が曲がりくねって起伏し、先が見えなかったのもあり、何を目指して歩いていたのかさえ、翼は忘れかけていた。

 唐突に道が消え、眼下の窪地に山を裂くようにして岩場が横たわっていた。その岩場の間をちろちろと静かな音を立てて水が流れている。

 足元に気をつけながら岩場に降りた。木々の天幕の下を這いだし、直接日光を浴びる。それだけでも気分が良い。不揃いな岩や小石の上をバランスを取りながら進み、水流に面した大きな平たい岩の上に辿り着く。

 水面を覗いた。底は浅く、流れは穏やかで水は綺麗だった。岩陰に小さな魚が何匹か泳いでいる。上流の方では岩の段差が重なり、岩場全体の傾斜と共に水流が山奥へと続いている。下流の先と対岸は、斜めに張り出して伸びた木々の陰に隠れ、鬱蒼として、どこも苔むしていた。

 落ち着けそうなのはこの辺りだけのようだった。下手に動いて帰り道を見失っても困る。翼は一度振り向いて、自分が出てきた場所を確認し、その場にしゃがみ込んだ。

 俯いて、顔を水面に近づける。爽やかな匂いがする。生臭かったり、不快な臭いはしない。指先で触れるとひんやりとして心地良かった。見た目通りに綺麗な水のようだ。

 しばらくそうして、小さな黒い魚たちが尾を振ってその場に静止しているのを眺めた後、サンダルを脱ぎ、足を浸した。程よい水温の水が、足首から下を舐めるように流れていく。

 ふぅと一息ついて、水筒から麦茶を飲み、横になった。

 ようやく一人になれた。空を流れる雲を眺めながらそう思った。母とのここ数日の関係や、よく知らない叔父から離れて、急に緊張が解けたみたいだった。

 思った通り涼しい場所だ。段々と力が抜けていく。足元から水の流れに自分が溶けだしていくのを想像した。それは悪くない想像だ。目を閉じて、瞼の上に腕を重ねると、本当に自分がそのまま消えてしまえるような気がした。


 5.

 翼が瞼を開くと、燃えるような陽の色と肌寒さに辺りは包まれていた。眠ったつもりはなかった。ただ瞼を閉じて、時が過ぎ去るのに任せていただけのつもりだったが、事実としては眠ってしまっていたのだろう。体を起こして、剥き出しの肩を撫でた。冷えすぎている。いつの間にか足は水から引き上げていて乾いていた。

 帰らなくちゃ……。憂鬱にそう思った。頭を切り替えなくてはならない。

 ……カーン。斧の音がする。もしかしたら、この音のお陰で目が覚めたのかもしれない。夕暮れの色合いのせいか、急に寂しげになった景色に混ざるように、斧の音が定期的に響いている。いつから鳴っていたのか、どこから鳴っているのか、ここへ来た時と同様にわからないが、そんな事を気にしている場合ではなさそうだった。叔父の言葉を思いだす。『あんまり遅くならないようにしろ。暗くなると道がわからなくなる』。

 帰り支度をしようと、腰掛けていた岩の上に置いたサンダルを探した。寝返りでも打って落としたのか、揃えて置いておいた筈の左のサンダルが見当たらなかった。岩に腰かけたまま、身を乗り出して辺りを探す。そんな遠くには無いはずだ。空を見上げなくても、だんだんと日が傾いていくのがわかった。少し焦りが出てきて、横着せずに立ち上がり、右手に片方のサンダルを持ちながら、岩の陰や川の底を覗いた。見つからない。川の下流へ視線をやると、もう日の光は精彩を失い、全てが灰色がかって何も判別できなくなってきている。

 諦めた方がいい。振り返ると、出てきた木立の切れ目さえ周囲と見分けがつきづらくなっていた。

 素足のまま、岩場を渡る。不安定な足場で転びそうになりながら、地面の露出した斜面に辿り着き、よじ登って、何とか出てきた道へと戻った。

 昼間でさえ薄暗かった道は更に暗さを増していて、思わず足が止まった。行きの記憶を思い出す。少し時間はかかったが、確かに一本道だった。まだ完全に日が落ちた訳ではなく、目が慣れてくると、立ち並ぶ木々や藪によってできた道は、ぼんやりとだが識別できる。気をつけてさえいれば迷う事もない。今ならまだ帰れるはずだ。考えるよりは急いだほうがいい。

 恐る恐る歩き出して、気づけば足早になっていた。進めば進むほど辺りは暗くなっていく。素足で土を踏む感触が気持ち悪い。固い地面を歩いている時はいいが、柔らかく湿った地面を踏む時、虫やよくわからないものがそこから纏わりついてくるように思え、肌が粟立った。

 一歩一歩踏み出す度に、闇が深くなっていく。しばらく歩くと闇に慣れた目も限界だった。日は完全に沈み、周囲に光を発するものは何も無くなっていた。何も見えない。足がどんどん重くなっていき、ついには一歩も動けなくなってしまった。そのまま蹲りそうになる。風で木の葉が鳴るだけで、何か得体の知れない者の気配に感じられた。

 スマホを持ってきている事を思い出し、ショートパンツのポケットからスマホを取り出した。闇の中、手探りで電源ボタンを操作する。スリープ状態から立ち上がった端末画面が光を放ち、その明るさが目に焼き付いて、瞬間、周囲の闇を一層深く重くした。闇は不定の存在で、そこにはありとあらゆる危険が蠢いているような気がした。そこに潜んでいる者を想像し、そして想像すらできず、形にならない物に圧し潰されそうになり、体が震えた。恐怖に耐えながら、スマホの操作を続け、やっとの事で背面ライトをつけて辺りを照らした。意識して息を深くし、気を落ち着けて、周囲に視線を向ける。

 どこだろう、ここは……?

 元々見慣れた場所ではないし、目印になるような物もない道だ。ぐるりと見渡してみても、昼間とは全く雰囲気が違って見え、知らない道に迷い込んでしまったようだった。まさか本当に違う道なのではないだろうか?岩場から山道に戻った時に、うっかり別の道に入ってしまったのだろうか?まだ記憶は鮮明だが、そもそもよく知らない場所の事で、確かな自信は持てない。同じ道だとして、自分は今どれほどの位置にいるのだろうか?あとどれくらいこの闇の中を彷徨えば、知っている世界に辿り着けるのだろう……?

 時間間隔が吹き飛んでいる。どれだけ歩いてきたか考えても、まるで始めからここに置き去りにされていたようで心許なかった。

 カーン……。

 まだ斧の音が響いていた。

 斧の音、人工的な音、人。人がいる。この山のどこかに人がいる。

 意識すると斧の音は相変わらず一定のリズムを刻んでいた。こんなに暗くなったにも関わらず、昼間と変わらず作業を続けている。

 耳を澄ます。やはり音が木霊しているせいで、どこから聞こえてくるのかはわからなかった。

 考えている内に息が詰まってくる。こんな所に一人でいるのはもう限界だった。

 「あ、あのっ……」喉から声を絞りだした。体が震えていて、自分でも聞き取れないような声しか出ない。カーン。鳴り続ける斧の音を確認し、翼はもう一度声を上げた。「あのぉ……っ!」今度は上擦った声が闇の中を突き抜けていった。

 唐突に斧の音が止んだ。わたしの声が聞こえた……?辺りを見渡す。闇が耳を澄ませているような奇妙な静寂。何か反応が無いか、しばらく呼吸も止めて様子を伺った。何秒にも何分にも思える時間が過ぎる。さっきまでしていた斧の音は幻聴だったような気さえしてくる。「誰かいるんですか?どこにいるんですか!?」縋るような気持ちで叫ぶ。何だか馬鹿らしくさえ思えた。声が届くかどうかもわからないし、どんな相手かもわからないのだ……。

 カーンッ!

 突然背後で大きく響いた斧の音に、心臓が凍りついた。

 え、何!?

 ……カーンッ!

 今度は前方から音が響く。

 カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 再開した斧の音はテンポを早めて鳴り続けた。音は強く、距離が近い。咄嗟に音源を探し、スマホのライトを左右に振った。

 カーン!カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 翼を取り囲むように周囲の闇に斧の音が満ちていた。何も見えない。音だけが響き続け、肌を裂くほど空気を震わせている。

 何……?どういうこと?音はすぐ周囲でしているのに、明かりの一つも見えないなんてありうるだろうか?異常だ。何も見えない闇の中で斧を打ち続けるなんて……。

 カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 異常な斧の音が徐々に激しくなっていく。

 「やめてっ……!」思わず叫んだ。

 カーンッ!一際高い斧の音が背後で鳴り響き、斧の音が止む。

 ……見られている。体中の皮膚が粟立った。

 振り返る。何も見えない。けれど、そこには何かがいる。……人影?

 それが何かもわからない内に前に向かって駆け出していた。斧の音が再び鳴り始める。

 カーン!カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 どれだけ走っても、音は周囲で激しく鳴り響き、気配は常に背後に迫っていた。

 自分が何を見たのか本当にわからなかった。張り出した枝や葉がたまたま何かの形に見えただけかもしれない。それでも何かが自分を追ってきているし、斧の音は鳴り止まない。

 すぐに息が上がり、心臓も肺も破裂しそうになった。体が燃えるように熱く、汗が止まらない。藪に突き当たっても、そのまま通り抜けるしかなかった。どうしたらいいかわからず、いつの間にか涙が溢れていた。

 右足に衝撃が走り、「あっ!」と叫んだ時には、既にバランスを崩していた。地面から剥き出しになっていた木の根に、足を取られたのだとわかった。つま先が痺れ、脚の付け根まで激痛が走った。次の瞬間にはどうしようもなく、地面に倒れ込んでいた。

 カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 斧の音は際限なく大きくなっていき、他に何も聞こえなくなる。

 顔を上げると、手から抜け落ちたスマホのライトに辺りが照らされていた。周囲は平坦で起伏がなく、幹に醜い瘤がぼこぼことできた太い一本の木だけが立っていて、他には草さえ生えていない。背後には既に気配が迫っていると、なぜか見ないでもわかった。

 逃げようとしても疲労した脚が痙攣し、咄嗟に立ち上がる事もできず、掌と膝をついて、四つん這いで這うしかなかった。

 どちらに行けばいいかもわからず、背後の気配に追い立てられるように、瘤のできた木の根本へと進む。視界の左端に鈍い金属の光がちらついた。斧の刃が闇の中でぶらんと揺れている。脚の痙攣は震えへと変わり、黒くさえ見える斧からただ逃れようと縺れ、木の根元に達した時には仰向けに尻もちをついたような姿勢になっていた。

 カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 斧の音。

 それに負けない位に激しく、制御不能な心臓の鼓動、吐息。それだけで体が壊れそうになる。

 やだ、来ないで。

 目の前の闇の中に影が立っている。視界にちらついていた斧がはっきりと現れる。

 木に阻まれ、それ以上進めないのに、後ろに退いた。背がごつごつとした幹に触れる。

 来ないで。

 影が、斧の刃が、近づいてくる。

 脚や腕を闇ががっちりと掴んでいるような感覚に、全く身動きが取れない。

 カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 斧の音。

 影が右手に持った斧をゆっくりと頭上へ掲げていく。

 鋭く重く硬い金属塊の前に、どうしようもなく柔らかい肉塊としての自分の姿が、無防備に晒されている。

 やめて。声にならない。

 カーン!カーン!カーン!カーンッ!

 斧の刃先が天を差し、止まる。それも束の間で、微かに揺らぎ、急加速して振り下ろされる。

 ギロチンの刃が滑り落ちるように、それを阻むものは何もなく、ストンと翼の腹を裂き、臓物を断って、骨を砕いた。

 絶叫。また斧の音に掻き消される。

 カーンッ!

 やがてそれも聞こえなくなる。

 

 揺れている。揺られている?激しい吐息。これは自分のものではない。熱い。瞼を開く。赤い。枝葉の陰のフレームに赤い空が収まっている。視界の右を覆うのは……、喉、頸、顎、これは……、叔父の、「睦……?」

 確かめるように右手で顎の稜線をなぞった。指先に熱と、やすりに触れた様な感触が残る。

 顎が動き、こちらを見下ろした顔と目が合う。……揺れが段々と収まっていき、叔父の口から漏れていた吐息と胸の鼓動が緩やかになっていく。

 「大丈夫か?意識あるか?」

 喉が渇いて張り付いた。「えっと……、わたし……」頭が痛い。影、斧、体が激しく震えた。

 「おい?おい!しっかりしろ!」睦が叫んでいる。

 焦点が定まらない視点の中に現実を探していた。睦の顔、太い腕、その両腕で抱えられている自分の体。ここは、山だ。沢へと続く道?夕暮れの空。腹の上で組んだ両掌の下に、バックライトが点きっぱなしになったままのスマホが挟みこまれている。そしてその下は。震えたままの掌を退ける。シャツの薄い生地が汗で肌に張り付いて、滑らかに丸みを帯びた腹と、臍の窪みを見せている。

 裂け目は……、無い。突き刺さった斧も無い。混乱。「お腹……、斧……」瞳が潤み、余計焦点がぼやける。

 「斧?」睦が繰り返す。

 もう一度叔父の顎に手を伸ばした。頬に触れた。掌にかいた自分の汗と叔父のかいた汗がひとつの雫になって腕を伝い、脇へと流れ落ちてくる。

 「おい、なんだ?どうした?」睦が首を傾げ、赤く染まった耳が近づく。

 「本物」……だ、ここは。

 「何?落ち着け、一旦、降ろすぞ」そう言われ、近くの木の根元に凭れるように降ろされた。しゃがみ込み、顔を覗き込んだ睦の掌が翼の額に触れた。「……わかんねーな。吐き気は無いか?どこか痛いか?」

 辛うじて首を横に振る。吐き気は無い。体はあちこち痛んだが、頭痛は去っていた。

 「熱中症かもしれん。ここで待ってろ、救急車呼んでくる」

 立ち上がろうとする睦の腕を掴む。「……待って、行かないで。もう、大丈夫だから」やっとまともな言葉になった。置いていかれたくない。中腰になったままの叔父の背に縋って、腰を上げる。少しふらつく。足元を見ると素足のままだった。

 「おい、無理するな」腰に手を当て、また抱えあげられた。「わかった。このまま帰ろう」

 「うん」何も考えないようにして答える。

 「一応聞くけど、蛇に噛まれたりした訳じゃないな?」「うん」「蜂とか虫は?」「違う」「……わかった」

 まだ何か言いたげに不安そうに黙り込む。顔を上げ歩き出すと、山の出口はすぐだった。赤みがかっていた空が、また薄墨色に変わっていった。

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