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この作品は、「NiOさんチャレンジ」参加作品です。
NiO様(https://mypage.syosetu.com/523626/)が考案されたネタを、参加者が各自アレンジして投稿したものです。
ちょっとあなた、怪我はない? ドアがほとんど閉まりかけたっていうのに、無理やり体をねじ込んで転がり落ちてくるんだもの。何事かと思っちゃった。
あんな無茶な降り方してたら危ないわよ。駆け込み乗車と違ってアナウンスは流れていないけれど、危険行為に変わりはないでしょ。一駅とはいえ、乗り過ごしたら困るっていうのは、まあ確かにわかるんだけれど。
あらやだ、顔が真っ青よ。
もしかしてあなた、吐きそうなの? えっと、待って待って。ここから一番近いトイレってどこだったかしら?
え、吐き気はない? でも具合が悪いのなら、駅員さんを呼んで、救護室で休ませてもらったほうがいいんじゃないの。鳥肌までたって、こんなに震えちゃってるじゃない。
いいの? 本当に?
もう仕方がないわねえ。
じゃあほら、そこのベンチが空いてるから座りなさいな。このまま死なれちゃ私も困るし、しばらく一緒にいてあげる。
何ごちゃごちゃ言ってるの、その顔を見れば誰だって具合が悪いんだってわかるわよ。細かいことなんて気にしないで安心して横になってなさい。良ければこのお水も飲んでね。大丈夫よ、まだ封も切ってない新品だから。
それにしても一体どうしたの。単純に乗り過ごしそうになったってわけじゃあないんでしょう。あの時のあなた、まるで何かから必死で逃げてるみたいだったわ。ストーカーだとか、あるいはタチの悪い借金取りだとか。さすがにドラマの見すぎかしらん。でもね、捕まっちゃいけないって感じがぷんぷんしてたもの。
え? 何駅か前から向かいのホームに、同じ人間がずっと立っている? しかも気持ち悪いくらいにやにやして、自分を見つめている? あれは人間なんかじゃない?
……ねえ、あなた疲れてるのよ。相手も、あなたと同じ人間に決まってるじゃない。いやだ、ちょっと睨まないでよ。わりと本気で言ってるんだから。最近、うまく眠れていないんでしょ。うたたねして、変な夢を見たんじゃないかしら。
ほら、何か悩みごとでもあるんじゃない? 誰かに何か言われちゃった? そうね、仲良しだと思っていた相手に、自分の悪口を言われちゃってたとか。
あら、全部当たってたの。ありがとう。占い師なのかですって? まさか。
さっき話したのはね、当てずっぽう。そんな格好で、こんな平日真っ昼間の電車にひとりで何時間も乗っているんだもの。訳アリなのかなって思っちゃうわよ。悪口を言われた経験のない人なんているわけないしね。
ああ、このピアスがそれっぽかった? 確かに大ぶりで珍しいものだから、ちょっと目立つかもね。面白いでしょ。アジアン雑貨のお店で昔買ったのよ。そうそう、ここがちゃんとくるくる回るのよ。マニ車って言ってね、何でも一度回すごとに徳が積まれるんだとかなんとか。そんなことで徳が高くなっても、人間性が変わるわけじゃないのにね。
大丈夫。そんなに怖がらないで。みんな普通のひとだから。少しだけ想像すればいいのよ。笑っているひとの、怒っているひとの、泣いているひとの、それぞれの顔の向こう側を。
たとえば、そうね。ほら、あのひと。前に立っていた女性を突き飛ばすようにして無理矢理、エスカレーターを駆け上がっていったひとがいるでしょ。あれはね、きっとお腹の調子が悪いの。今すぐトイレに駆け込まないと、漏れそうなくらいにね。手遅れかもしれないけれど。うふふ、残念ね。
だから、もしかしたら悪気はなかったのかもしれない。まさかあの女性が、妊婦さんだとは思ってもみなかったのかも。かばんにつけられたマタニティマークが、ほら、エスカレーターの下に転がり落ちちゃったわね。
ええ、あの女性ったらお気の毒で可哀想よね。理不尽よね。でも彼女が、学生時代の親友から彼氏を寝取って結婚に持ち込んでいたのだとしたら? 実はお腹の赤ちゃんは寝取った男性ではなく、また別の男の子どもだとしたら?
ほら、誰も倒れた彼女に手を貸さないでしょう。意外とざまあみろって思われていたりして。
失礼な奴だ? 憶測で嫌なことばかり言うなって? あら、ごめんなさいね。物事にはいろんな側面があるっていうそんな話だったんだけれど。
そう、例えば悪口を言っていたお友達は、あなたに対して腹に据えかねるものがあったんだとかね。あなたのその正義感を鼻にかけた言動が大嫌いだったのかも。直接あなたに言わない分、優しさと思いやりに満ちあふれていたんじゃないかしら。
やだ、図星を突かれて腹が立ったからって、やめなさいよ。ピアスをそんな風に引っ張ったら、耳たぶがちぎれちゃうじゃない! 痛いってば! やめて! 離して!
なんてひとなの。いいわ、そのピアス、あなたにあげる。あなたから欲しがったんだもの。いいわよね。見逃してあげようと思った私が馬鹿だった。やっぱり、あなたは、私によく似ているわ。
ええ、そうよ。あなたって、私とそっくりなの。あなたを見ると、イライラするのよ。だから、あなたに決めたのよ。
私みたいな嫌なことばかり言う奴と一緒にしないでほしい? あらやだ、そんな風に言われるとさすがに私でも傷ついちゃう。
自分は、ひとを傷つけたことなんてないだなんて、本気でそんなことを言ってるの? そんなこと、この世に生まれて来ることができなかった赤ちゃんですら言えないのに。宿ったばかりの命を憎む母親だっているのに、あなたはそんなことも認められないの?
ねえ、知ってる? あなたが生きているだけで、心穏やかではない人だって存在するのよ。あなたって、おめでたくって、甘ったるくてうんざりするのよ。
あえて言わなくていいことを、わざわざ指摘したことあるでしょう?
相手のためにやっているんだって、お節介を押しつけたことあるでしょう?
誰かが不幸になっているのを見て、自分はアレよりまだマシだって安心したことあるでしょう?
人間ってね、自分の痛みには敏感なのに、ひとの痛みには鈍感なの。こんなに傷ついたと叫びながら、他人を足蹴にして笑っているの。
あなたが蟻を潰して憂さ晴らしをしてきたように、ほかの人はあなたを潰してストレスを発散しているの。それのどこがいけないの?
あなたとあなたの嫌いなひとは、まったく同じ。何にも変わらない。
私はあなたが道端の蟻を踏み潰して遊んでいたことを咎めたりしないわ。だから私はあなたが誰かに蟻のように潰されたとしても、可哀想だとは思わないの。
私たちは、結局のところ誰かにとっての蟻でしかないのよ。
目に入る他人の顔がにやついて見えるのは当たり前なの。みんな誰かを潰して生きているのよ。それでもあなたは、自分だけは違うって思っているの?
ほらみて。次の電車がやって来るわ。あなたが降りたさっきの電車は、一体いつ迎えに来るのかしら。
ここの電車って果てしない時間を同じ場所で回り続けているのよ。くるくる、くるくる、このピアスとそっくりね。飽きるほど眺めることになるわ。そのベンチに座ったままでね。
いつかあなたも、バターになって溶けちゃうのかしら。それとも大事なことに気がついて、ここから抜け出せるのかしら。
心配することないわ。ここには、七人どころか、何十人も同じように立ち尽くしているひとがいるのだから。走り続ける電車の数と同じように。あるいは立ち並ぶ駅の数と同じように。
もちろん仲間がたくさんいるということに安心していたら、一生ここから抜け出せないのだけれど。
だから、しっかり考えてみてね。あなたが今まで一体何をしてきたのかを。一体どれだけのひとに嫌われて、恨まれているのかを。それさえわかれば、すぐに代わりが見つかるわ。ここから出られるわ。
さあ、おしゃべりはもうおしまい。やっと自由になったんだもの、また捕まる前にもういくわね。
それじゃあ、ごきげんよう。安心して、時間はたっぷりあるもの。どうぞ、ごゆっくり。