碧
紺碧の髪がさらりと顔の前を横切る。
邪魔だな、切ってしまおうか。とでも言いたげに眉間に皺を寄せながらその髪を耳にかける少女は、すぅっと静かに息を吸い込んで、一つ声を出した。
紺碧の髪にふさわしい、澄んだ透明な声だ。
そしてその声に釣られるかのようにして草むらや林から綿色に輝く光の粒達が現れる。
昔はあんなに一人は嫌だったというのに、今では気づけば一人になり、こうして声を出しては彼等と遊ぶことに楽しさを見出している。
魔術や呪術などが蔓延るこの国ではそれらと戯れることは一応禁止事項とされている。
何故ならば綿色のそれらは、人間の欲望をその瞳に映すことができ、甘い言葉で拐かそうとする。
それは悪との契約に近いもので、生命を削ることに等しくなるからだ。
しかし彼女はそんな素振りを一切見せない。
拐かされるどころか、彼女にとって綿色のそれらは友になるのだ。
「碧。」
枯れてはいるが、それでも幾分か優しさの混じったように聞こえるその声は少女の名を呼んだ。
「なぁに」
柱からひょっこりと顔を出すと、名を呼んだその爺の顔が見える。
爺といってもまだ齢六十程度の若い爺だ。
その爺が何やら手に紙のようなものを持っている。
こんな貧困の時代に紙なんてお偉い方でもなけりゃあ使用できないだろうに、それもただのお偉い方じゃあ駄目だ。
この国の政治に関わるような人物達、または王家に関わる人材ほどの大物でなければ。
「それ…どうしたん?」
何となくだが嫌な予感がする。
女の嫌な予感というものは、無駄によく当たるようにできているようで、碧のそれも実によく当たるものだった。
良くも悪くもそれは言える。
「また来たぞ。お前宛てだろう。…ったく、お上もそろそろいい加減にして欲しいもんだな。」
そう呟く爺は明らかに嫌悪を顔に出している。
本来ならば碧の顔にそんな心情が浮き出てもおかしくないものなのだが、碧にとっては慣れたものだ。
鬱陶しくはあるが。
受け取った紙を見てみれば確かに宛名には己の名である文字が一つ、〈碧〉と記載されていた。
「そんな嫌そうな顔せんでよ爺。とりあえず内容見てみる。」
そうまるで気にしていないとでも言うようにコロコロと軽い声で爺にそう伝えるが、爺は嫌悪を顔に貼り付けたまま、元に戻す気は無いようだ。
全くしょうのない爺だ、六十にもなって嫌悪を顔に出すとは情けなく思わないのだろうか。
そんなことは思っていても口に出すものでは無いと、市内に住む水商売をしている美人な遊女たちから学んだので口を噤んでいようと思いつつ自室にこもる。
碧は王宮に住まうもの達が言う呼び名で言えば、賤民というものであり、賤民は一般市民よりも位が低いといわれている。
そして賤民に文字を読み書き出来るものはかなり少なく、どちらも出来る者は珍しいどころの話ではないだろう。
碧は読み書きどちらも出来る。
律儀に赤い紐で結ばれたその紙をぱらりと開くと、定期的にくるものと内容が全く変わらなかった。
(にしても確かに面倒臭ぇなぁ…)
もはや断りの文書を送ることすらも面倒になってきた。
その文書にある内容も文字も送り主の名さえも見飽きた。
顔も見たことの無い男の名だが、此奴は絶対お上職の男の中でも人気は低いだろう。
何せねちっこい。
執拗い男は嫌われるという言葉を知らないのだろうか、と愚痴ってもしょうのないような思いばかりが溢れてくる。
断りの文書を書くにあたって、紙なんぞ使えるはずもない身分にある故、送られてきた紙の裏側に淑女的な言葉遣いできっちりと断りの文を綴る。
(そろそろ本気で諦めてくれんかねぇ…。)
そうは思ってもきっと引き下がることは無いだろうとどこかで思ってしまっている節があることも否めない。
期待している訳では無いが、今までどんな言葉で断っても執拗にこうして手紙を送り続けてきているあたり、そう思えても仕方ないだろうと思う。
「爺、これ出してくる」
「おーう、二度と送ってくんなって書いたか」
そんな事書いたら私の人生はたかだか齢十五で仕舞いになってしまうだろう。
(そんなことはさすがに嫌だな)
そう思いながら、家を出た。