#5「風の中へ」
知らない道を走る。
目に映るのは。
親が運転する後部座席でもなく。
モニター越しの景色でもない。
突き上がったサドルの上。
視界を遮るフロントガラスは無くて。
エンジンはわたしの身体。
ふたりで走る、風の中。
ブルーとグリーンとグレーの3色を駆け抜けていく。
ふたりの瞳に映る海岸線のコースラインは7色の極彩色。
この道の先がどんなラインかなんて、わたしも、姉も知らない。
知らない道で、知らないゴールを目指す。
不安が一握り。
輝きは胸いっぱい。
知っているのは今日という日は最高だってこと。
……70km地点まではそう思っていた。
センダイからマツシマまでは30km、マツシマからオナガワまで40km。あと10kmくらいで今までの1日での最大走行距離を更新する。
朝の5時に出発して、今は10時ちょうど。
家から85kmぐらいの場所
姉もわたしも、2本ずつ持ってきたボトルの水は少なくなってしまい、1本はからっけつで、残りのもう1本は半分以下で頼りなくパチャパチャと水が揺れている。
ためらいなく喉に流し込むのはもう許されない。
今走るのは地図上でどんな名前かなんてわからない。ずっと同じ景色が続くから何十キロ走ってもここがどこなんかなんて分からない。
姉もわたしも、しばらく地図を見ていない。
分かれ道が無かったからでもあるけど、一番は現実を知りたくない。今が何キロ地点で、ゴールである旅館まであと何……じゅ……何100キロあるのか……。
いつ、たどり着けるのか。
あとどれだけ走ればよいのか。
この絶え間ないアップダウンはわたし達を打ちのめすのをいつになったらやめるのか。
「……はっ……はっ……」
「……はっ……はっ……」
「ねぇ……はっ……お姉ちゃん……」
「なん……? ありやちゃん……」
「次自販機あったら、そこで絶対休憩ね……」
「……ありやちゃんも、もう水無いんやな……」
「ちょっとはあるけど……、お姉ちゃんは……?」
姉が口元を苦くしてダウンチューブからボトルを引き抜くと、蛍光色から透けて見えるのは空気と水滴のみ、すでに水を飲みきっていた。
乾いた喉と身体での運動は辛く、深刻だ。
わたしが持つ残りの水をあげようと差し出すけれど、姉は手を軽く振って断った。
だから、わたしは軽く一口飲むフリをしたあとに姉に強引に押し付けた。
姉はボトルに軽く口を付けて、控えめに飲むつもりだった様子。けれど遠慮は出来なかったみたいだった。
姉のそんな姿に胸が少し痛む。
最後に自販機で水を足した時から20km以上走っていて、その時は「どうせ自販機なら道中にいくらでもあるやん!あるでしょ!」という軽い気持ちでそれぞれが買ったのは500mlのペットボトルを1本ずつ。
500mlの水は20kmの間で瞬く間にカラッポになった。
わたし達はここまでいくつかの誤算があった事を思い知った。
1つ目は、5時台である早朝帯の気温と9時以降の日中帯の温度はかなり差があった。出発時から比べて大体5度か8度以上も上がっている。
2つ目は気温と共に容赦なく体力を奪う日差しだった。ミヤギの6月はもう夏。ほぼ夏。快晴の海岸線は最高のサイクリング日和だった、だけどそれが百数十キロ続くなら話は違う。
3つ目は……全く水や食べ物を補給できない……ということ。
わたしはこの海岸線べったりコースの中に、自販機もコンビニもいくらでもあって、好きな時に好きなモノを好きなように食べたり飲んだり出来ると思っていた。
実際それは当たっていた。70km地点のオナガワまでは。
しかし、そこから先というものの、コンビニは愚か、自販機にすら一向に遭遇しない。車の交通も無い、民家も無い、公園の水道も無い。ただあるのは道と標識とアップダウンだけ。
もしかしたら、あとちょっと走れば自販機ぐらいあるかもしれない。
もしかしたら向こう数十キロは何も無いかもしれない。
この、あるのか、ないのかという不安が乾きと消耗のスピードをギアアップさせる。
わたし達は今、舗装された砂漠を走っていた。
「お姉ちゃん、ポッケにヨーカンあったよね、多分少しは水分になるよ」
走行中、それを聞いた姉は返事を返すまでもなく背中のポケットからヨーカンを取り出してもぐもぐと頬張った。乾いた喉で食べるヨーカンは飲み込みづらそうで、むせながらなんとかの思いで口に詰め込んでいた。
どんな時でも、ひょうひょうとしていて、おおらかで、ケロっとしていた姉の目元が暗い。
姉は疲労のピークだった。
終わらないアップとダウン。
いつの間にかわたしの右手はギアをシフトダウンした。
あれ、わたしも疲れてるのかな。
喉が乾いていた。
手先が痺れていた。
足の裏が張り詰めていた。
肩が重い。
水は無い。
口の中が固い。
体重でペダルを踏み込む。
けれどスピードは乗らない。
わたしも思いついたようにヨーカンを頬張るけれど、水なしのヨーカンは喉を通らず。いつまでもガムのように噛みつづけた。
走り始めの極彩色はどこへいったの。
視界の彩度は次第に落ちてゆく。
12時を回った、海岸線の何処の道。
ここ数分と続くキツくうねる長い上りの中、私が前を走っていて、姉の様子を伺おうと後ろを見ると。
姉がいない。
胸騒ぎが沸き立つ。後ろの景色のカーブの向こうにすらいない。倒れた? 事故を起こした? 走れなくなった? 怪我をした? 押し寄せる不安はようやく進んだ上りを下って引き返すのに躊躇はさせなかった。
2分ほど下って姉をみつけた。
トップチューブに跨って、息を切らしてペダルから片足を離して突っ伏している。
「ありやちゃん……ごめんな……、ちょっと休ませてな……」
何か手当をしたくて、水をわたそうにもカラッポで、ヨーカンもゼリーもシリアルバーもすべて食べきっていた。
何も出来ない。
「お姉ちゃん、ちょっと日陰で座って休もう!」
「そ、やな……」
景色ばかりが開けたウォータフロントの道。
右は青一色、左は緑。
誰も歩くことのないだろう歩道に自転車を横倒しにして、縁石に腰掛けた。
少しここで足を休めようと話をして、わたしは、姉に手を貸しながら腰をついた途端に背中が一気に重たくなって、視界から色がどんどん消え失せて。
胸が苦しくなって。
左半身にゴツゴツと当たるアスファルトが痛い。姉がわたしに何度も揺すって声をかけるけど、わたしは今とても眠かった。
太陽は真上にある昼間なのに、とても暗かった。
・
・
・
体中に充満した不快感が眠気を上回って、まぶたを開けた。わたしは倒れていたんだ、アスファルトの上で右手には横倒しのアトゥがあって。
となりに姉がいない。
姉のアトゥも無い。
急に怖くなって、惨めな気分になって、涙が溢れてきて。
どうすればわからないまま。不安の大波が押し寄せてきた。お姉ちゃんが置いていくなんてしない、どうしていないの? あれからどれだけ時間が経ったの? わからない、わたしはどうすればいいの? わからない。
はっとしてクライアントモバイルを開いて姉と通話しようとしても、アンテナは圏外。
でも、ディスプレイには1枚のメモ画面が開いている。
" ありやちゃん、そこで待ってて
少し先に行って水とかジュースとか買って戻ってくる
怖い思いさせてごめんな "
と、だけ書いてあった。固くなった身体をなんとか起こして、わたしも前に進んで、戻りに来る姉の負担を減らそう。そうしたんだ。
涙と鼻水を砂埃で汚れた腕で拭う。
アトゥに跨って、ビンディングペダルにシューズを嵌め込もうとしても、あの簡単なバネの抵抗さえひと踏ん張りだった。
なんとか走り出す。
ひとりの道。
このサイクリングの残りは90km、引き返す事は出来ない。
お姉ちゃんの負担を減らしたい思いよりも、早くお姉ちゃんに会いたい気持ちが背中を押す。1人で走るのがこんなに寂しいなんて、2人で走るのがあんなに心強いなんて今知ったから。
そんな思いをきっとお姉ちゃんも感じているんだろう、それを早く短くしてあげたい。
だから目一杯回した。
涙が出そうになるほど目元が熱いけど、乾いて何も出ない。鼻の奥がツンとしても、鼻水は出ない。
やがて坂を4つ超えた所で前に影が見えた。腰を上げて体重移動でペダルを踏むサイクリストのシルエットは姉だった。
姉はわたしを見つけるなりラストスパートのように踏み込んだ、わたしも力いっぱいクランクを回す。
わたし達ふたりは近付いて、お互い自転車に跨ったままペダルから足を離して、抱き合ってわんわん泣いてしまった。何度も名前を呼び合って汗と砂埃まみれの体でずっと。
「おねえちゃーーうぇえ”え”え”え”え”え!」
「あ"あ"あ"あ"りやちゃあああん、ごめんな”ぁ~~~!ウチが水飲んだからあ"あ"あ"あ"あ"」
「いいのお”お”お”お”お、あやまんないでぇぇぇええええ」
すると……ん? わたしが姉の背中に手を触れて違和感に気付いた。
姉の背中がモッコモコに膨らんでいるのだ。そしてゴツゴツして硬い。ん? お姉ちゃんこんなにマッチョガールだったっけ?
そのゴツゴツは丸みがあって硬くて、とてもひんやりしていた。
「向こうに無人ガソリンスタンドがあってな、そこに自販機があったんよ。1000円札突っ込んで両手でバンバンスイッチを押しまくってきたんよ」
自転車を横倒しにして全身ピチピチタイツ姿で自販機のボタンを両手で太鼓のように連打する姉の姿を想像すると笑わずにいられなかった。
「そんでどこにも収まらんから背中につめてきたん」
そう言って姉は背中からひょいと取り出して、得意げに缶ジュースを開けると喉を鳴らしてマウンテンデューをグビグビ飲み始めた
「お姉ちゃん、なにそれ、もう、いいからなんかちょうだいよ」
ほいよ、と渡されて手にしたのは……おしるこ……ってチガーウ! 冷たくて甘そうなのが欲しくて姉の背中に手を突っ込んでゴソゴソ、スポっと手にしたこれはキリリと冷えたコーラ。
力の入らない指先でプルタブをプシッっとあけて飲んだ。
うえ、お姉ちゃんの汗で飲み口がしょっぱいや。
しかし一口目の冷感が唇を超えたその瞬間、ぐらりと目が眩んでしまうほどの恍惚が全身を突き抜けた。
コーラってこんなに甘かったっけか、コーラがこんなにも喜びを表現した味覚だったっけ。
舌の上を流れる炭酸はシロップのように濃厚で、そしてとめどなく喉に流れ込んでゆく。
1本目のコーラをわずか10秒程度で飲み干してしまった。まだ……足りない。もう1本飲みたくて姉の背中をまさぐる
「お姉ちゃんなんか自販機みたい」
「ありやちゃんが呼ぶと来るんやで、あ、でもちゃんとお金払ってな」
「アタシクレカシカナーイ」
「ウチVISA対応やで、おでこに当ててみ、ソレ」
冗談のつもりでクレカをペタっと姉の額に当てると、もそもそ角ばった動きで姉は背中からジュースを取り出してわたしに渡した。
マウンテンデューだ。
「なんか当たり機能とか無いの?」
「せやなぁ……ダララララララ、チャチャーン!」
コーンポタージュ……。
角ばった振る舞いで渡されたソレを無言で姉の背中にわたしは戻した。
さっきの自販機ごっこにあえて突っ込みはせず、姉を横目にプシッっと開ける。
2本目を飲んで気付いたのは、今わたしの味覚は壊れていて、何を飲んでも同じ味だった。
さっきのコーラとマウンテンデューに味の違いがない。
何か違うとすればお姉ちゃんの汗味か否かだった。
ひとしきり飲んだ所で縁石の上に置いたおしるこを眺める。思えばおしるこってアンコだし、栄養補給に最高なんじゃないだろうか。今この飢餓状態でおしるこって実は名采配なのでは?
わたしはおしるこで、お姉ちゃんはコーンポタージュを手にした、ふたりで目を合わせると、無言の中で同時にそれを飲んだ。
ダメだ、ただのおしるこだコレは。
姉も一口飲んで、ピタっと止まった所から、こればかりは今の味覚でもその通りの味しかしなかったようだ。
でもこのおしるこ、お姉ちゃんの汗のしょっぱさなのか、おしるこの塩なのか判然としないのがなんかモヤモヤする。多分汗の味だコレ。
その後、飲みきっていないそれぞれのジュースを全部ボトルの中へ味もめちゃくちゃに注ぎ込んで、空き缶をそれぞれ背中に詰め込んでわたし達は出発した。
しばらくして、姉が太鼓叩きした無人ガソリンスタンドの自販機に出会った。
自転車をとめてふたりで背中の空き缶をゴミ箱に詰めていく中で、何を思ったか、わたしは自販機に手を合わせてしまった。なんかゴチソーサマを言いたかったのだ。
お姉ちゃんも自ずとパンっパンっと2拍子。
それはお参りだから……。まいっか。
足は少し重いけど、視界ははっきりくっきりで、色味を取り戻した美しい景色が再び訪れる。
どんな景色も、見る瞳でこんなに違うんだな、って思った。
ふたりで一緒なら、どんな景色も、どんな場所でも、駆け抜けていける。
その気持ちは自然とエネルギーに変わり、いつのまにかペダルに伝わってホイールを回転させていた。
この自転車は、こんな気持ちや思いもエネルギーにしてしまうんだ。
「ねぇ、お姉ちゃん、旅館についたら最初に何する?」
「おふろ!風呂以外なしっ!!」
「わたしもっ!」
横目に流れる海辺の景色は再びスピード感を取り戻した。
ゆるりと続き書いていきます。