#4「真夜中の回遊魚はシャワーに突っ込む」
「おつかれさまです、お先失礼しまーす」
PCをログオフし、座席下のバッグを纏めて周囲へ軽くご挨拶。
「はいおつかれさまー、鶴岡さん今日もあれ、お姉さんとこれから自転車やるの?」
わたしと姉が勤務する床材メーカーの主任、中年太りにヒゲも加わるザ・サラリーマンだ。キーボードを叩きながら、わたしが少し前に話した自転車趣味が気になるのか、様子をココ最近たまに聞いてくることがある。
「えぇ、まぁ、なんか楽しくなっちゃって……」
「仕事終わりになんて凄いねぇ、車少ないけど、事故とか気をつけるんだよ~」
この会社でわたしは資材調達部に、姉は企画広告部に配属された。
「はい!ありがとうございます~」
あの競技用自転車、カチア・アトゥ2台をリースで購入してからというものの最初は週末にちょっと海までとか、ちょっと近くの山まで~とか、あそこのテレビでやってた駅から遠いラーメン屋さんまで~だったり、走行距離としては30kmも無いようなご近所サイクリングに終始していたものが、やがて40km、60km、80km、山や海、北へ南へと欲しがるように長いコースを選ぶようになり、次第にサイクリング前に姉と相談していた、このミヤギの地を沿うコースライン上からは美味しい食べ物屋さんなどという、以前は必要だったかもしれない建前上の目的は回数を重ねる毎に姿を現すことは無くなった。
最初は転んでしまうかも、だなんて信号待ちの度に不安になりながら使用していたペダルとシューズがくっついてしまうビンディングペダルとやらも足癖に染み付いていて「安心しな、立ちゴケは誰しもがやるよ」なんて佐沼に言われたものだけど、わたしはその誰しもの内にはいないみたいだ。
今や走るために走り、全ての行いが走りと走りの間に過ぎないものとなりつつある、アトゥに乗ってから少しは生活が変わるかもしれないと思いはしたものの、1ヶ月と少し経つ頃にここまでドップリ浸かっているとは考えもしなかった。わたし達姉妹のこの変化は周囲から見ても露骨なようで、たまに職場の人から「アレやってるんだねー」だなんて言われることもしばしば。
こないだ主任に聞いてみたら「なんか前より元気出てるよ、不気味なくらいに、なんか鶴岡さん最初のイメージとぜんぜん違うから」と言われてしまった、最初のイメージとやらのわたしは一体どんな雰囲気なんだろう……。あまり考えたくもないけど。
仕事中に時間が空いた時、以前であれば競泳水着のサイトを見たり、別なプールを運営している体育館を探したりしていたのが、今や地図サービスで「次はどこを走ろうか」だなんて線ばかり引いている始末。
更につい数日前からは姉と決めて「仕事が早く終る日は3~4時間走ろう!」と決め込んだ有様。もう時間を見つけてどれだけ走るか、というのがわたし達姉妹にとって目下の考え事になってしまっている。
何故かというとわたし達姉妹は今突拍子も無い思いつきでとある事にチャレンジしようとしていた、今わたし達の1日での最大走行距離は80kmでもう少しで100kmの大台に届くか、というところ。
今度の連休で2日がかりでどこか走ってみたい、そう息が合ったようにわたしも姉も口付さんでしまったのが始まりだ。どこへ行こうか、どこの道がきれいだろうか、宿泊先はどこにしうようか、わたし達ケッコー走れるよね? じゃぁここなんてどう? とか話している内につい勢いで決めてしまったのが。
1日目センダイ~ケセンヌマ海岸線180kmコース
地図上で言うと海岸線にべったり張り付いて、常に海を眺めながら風と波の音の中で走る、いかにもオーシャンビューな道だ。走ったこと無いけど。こないだ90km走った時は5時間くらいで終わったし、早朝発で夕方に到着できるんじゃない?というイメージだ。
2日目ケセンヌマ~トヨマ~マツシマ~センダイ内陸120kmコース
さすがに1日目は疲れるだろうから2日目は内陸のだだっぴろい平坦をノンビリ走ってお家に帰ろー! というコース。これも早朝発で午後のオヤツの時間には家に着くんじゃない? という見込みで決定した。
2日間で合計300kmの走行距離となる。
どうしてこんなコースを選んだかと言うと、誰もやらなさそうな、わたし達だけで出来るチャレンジを何か達成したい、きっと走り遂げたら最高の気分になるんだ! いつもの知った道ではない、新たな道で楽しい自転車に2日間乗りっぱなしなんて、なんて楽しいんだろう、という思いで姉と一緒に地図に線をこねくり回して決まったのがこのセンダイ~ケセンヌマチャレンジなのだ。
カチア・アトゥに跨って車体を見下ろすと、自然と「走りたい、もっと」という意欲が湧いてくる。それはこの骨の特徴的なデザインからくる異質さがわたしに働きかけているように感じる。佐沼が言うには骨の一番上の棒をトップチューブと呼び、ハンドルの根本とフレームを繋ぐ部分をステムと言うらしい。このカチア・アトゥはそのトップチューブとステムとの間に段差が無い。
つまり、一番上の棒のサドル側の後ろから前のハンドルまで指でシューッと滑らかになぞって何にもつっかえる事無く先端に到達してしまう。
このスラッと尖ったシルエットが、何度見てもたまらない。
カジキマグロみたいで。
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もうとっくに日が沈んだ山間部の道路、アップダウンを繰り返しながら姉と今日一番の登りを目指す。
市街から数キロも西に出てしまえばもう山の中、500ルーメンの光を頼りにアスファルトをペダル越しに踏みしめる。
「はっ……はっ……はっ」
「はっ……はっ……はっ」
わたし達の一定の息遣いがぴったり重なってからもう5分ほど経つだろう。時速は12km……まさに登りの真っ最中だ。
「ちくしょー、ありやちゃん、ウチ、登り……だいっきらいや……なんやコレ……」
「お姉ちゃん、わたしも……登り……だいっきらいだよ……」
といいつつも何度も繰り返し走っているこの2kmに及ぶ登板車線をえっちらおっちらと、身体を左右に振りながら、ママチャリに乗ったオバチャン程のスピードで必死の思いを捻り出しながら右足、左足で踏む。
なんとかスピードが10km以下に落ちないように、もうダメだ、今にも足とが止まると一踏みごとに反芻しつつ心臓をばっくんばっくんさせて、前輪をフラフラさせてなんとかの思いで登っている。
「だめ……もうありやちゃん……もうダメ……」
「はっ……はっ……お姉ちゃん……わたしも……もう……っ~~~――!」
わたし達姉妹は二人揃って登りなんかだいっキライだ。このロードバイクが持つ爽快感やスピード感全てを犠牲にして行うコレはただの筋トレにしか感じない。そう、苦行なのだ。修行でしかない。
打って変わって平坦や下り道はもう最高。そのためだけに走ってると言ってもいい。特に平坦だ、ストレートの中を心拍や足のリズム、細かな筋肉の動きの機微を捉えながら最適な前傾姿勢で35~42kmを維持して先頭を交代しながら走るのは、わたしがこのロードバイクに乗る全ての喜びを感じる瞬間。
それこそがロードバイクの走りだ! どうだ! 人力で40km出して走り続けているんだ! すごいだろーっ! と誰に聞かすわけでもなく叫びたくなってしまう。
と、ふたりしてそう思っているのにも関わらず、なんでこんな山側のアップダウンを夜中の仕事終わりに走っているのかというと、今度の連休にやるつもりの2日で300kmサイクリングに向けて少しでも身体をロードバイクに慣れさせようと取り組んでいる。別に誰かに約束しているわけでも強制されてるものじゃないから、なんかツラそうだったらいつでもヤーメタってしたっていい。
けど、わたしもお姉ちゃんも、突拍子も無いこの計画に「やる」と言って、頭に浮かべてしまったからにはもう「やらない」なんて事はない。
やるかやらないかは、やった後に考えよう。
どんな物事でも姉妹で決めてしまった時はいつもこうだった。
京都の実家を出て、宮城で二人暮らしすると決めた時もそうだった。
きっといい方向に、いい感じになる、わかんないけど、ふたりなら楽しくやってける。
今までそうしてきたから、今もそうやっていける。と思ってきたけど、ダメだ。登りはダメだよ。いくらやったって楽しくなる気がしない。
「ああああああ~~~~~―――…………いややぁああああああ……登りはいややぁぁぁ…………」
ついにお姉ちゃんが壊れた。
もうペースも6~8km台に落ち込み、姉もわたしもコレ以上軽いギアは無いというのにギアダウンしようとシフターをベコベコと虚しく動かしている。
あ、わたしもダメだコレ。
まだまだ続く登板車線、左カーブの後にまだ坂、右カーブをしてもまだまだ坂、次で終わり、次を曲がったら確かてっぺんだったはず……!次で……曲がって……はい、坂~~っ!
カーブの度に心が折れかける。
心が3度折れて、気力が尽きた後にようやくてっぺんが訪れた。息も絶え絶えになってついには足をついて、胸に手を当てて呼吸を整える。夜間とはいえ春の季節、もう半袖で出歩いたっていい気温なのに、肺の内がヒートアップして、外気に晒されたわたし達が吐く息は白い。
このコース一番の登りを終えた、あとはギュンギュン下ってちょっと上がって平坦路走ってお家に突っ込んでお終い!
2つのライトと星空だけが頼りの真っ暗な山道、聞こえるのは風が木々を撫でる音ばかり。いつもより多くわたしからお姉ちゃんに話しかけてしまう。
「練習で何度もこのコース走ってるけど……、この登りはもう何度やってもダメだね」
「そやなぁ……、どんなにやっても慣れた気せーへんもん……」
姉はボトルのスポーツドリンクをブチューッと飲んではハンドルに突っ伏している。
息を整え、体が冷めない程度良い頃合い。
お互いに声を掛け合うでもなく無言でシューズをペダルに嵌めた。しん……と静まり返った夜道にパチンパチンと響く人口音。
姉が先頭で、私が後ろ。
表情は見えないけど、きっとワクワクしているに違いない。
だって私もそうだから。
そう、なんてたってこれからはお待ちかねの下りが始まるのだ。
夜中だから昼間ほどガンガン飛ばしはしないものの40~50kmのスピードで走り抜ける爽快感に期待が膨らむ。
10km……20km……35km……。
ギアを一番重くしてこれからのスピードに備えた。
38km……42km……。
35kmかそれ以下では、走る感覚がまるで違う。頬に当たる風の強さだ。
30kmではせいぜい生クリームの中を走っている抵抗感だとして、40kmを越えるとフルーツタルトのようにゴツゴツした風が頬を常に打つ。
これがたまらない。
水中では実現できなかった抵抗感の中を走る。
道は真っ暗、プラネタリウムの中で空気を切り裂いて走る。
真夜中を回遊するカジキマグロはこんな気持ちなのだろうか。
わたし達姉妹はマグロだ! マグロ!
下りの斜度が緩くなったタイミングで更に踏み込んで加速。
前傾姿勢で高速に駆け抜ける。
「ありやちゃん! うちらマグロやな!」
「あはは! これはマグロだよ!」
ごおごおとした風切り音の中で声は擦り切れて消えてしまう。姉の大声にきっとそう言ったんだろうと思って大声で返す。
誰か聞いてたらゴメンね。
50kmを出しながら大声を出すものだからよだれが頬をつたって後ろに伸びてしまうけどお構いなし。
ギュンギュンペダルを回して、踏み込みを止めるとジャァーーっと後輪のラチェット音が響き渡る。そしてまた回す。このリズムが繰り返される。
あぁ、下りっていいなぁ。
それから山を下りきって平坦を存分にこなした後、大きな幹線道路に合流してわたし達は2LDKに突っ込むように帰宅した。
家に着くやいなや部屋にアトゥを担ぎ入れてスタンドに嵌めて、お互い無言で汗とよだれや砂埃でまみれたウェアを脱衣所でポイポイ洗濯機に放り込んでボタンをピッピッピと手癖のまま動かして、すっぽんぽんになったら、二人でまとめて熱いシャワーを浴びる。
「あ゛ぁあぁぁぁぁ~~~~」
家についての第一声、ここで腹から出たシャワーの快感に二人でハモる。
最初の頃はどちらかが先に入ったあと、もう1人が後に入るという順番でやっていたシャワーだった、けれどこのシャワーを待つ時間が辛いのなんの。ベタベタムワムワしたウェアが徐々にじっとり乾いて行き、疲れ切った身体でなんともいえない不快感に耐え続けなければいけない。
この順番待ちの習慣が終わったのは、いつか姉がシャワーを浴びている時に私が我慢できずにガッと扉を開けて突入した日からだ。
それからは二人一緒に無言でシャワーに突撃が恒例になった。
熱いお湯が全身を洗い流していると、徐々に背中や両足全体にビキビキとした手応えを感じる。きっとあの道を走る他のサイクリスト達はもっと速いのだろう、多分わたし達はまだまだ未熟なままだ、だってビギナーだし、仕方ない。
「ありやちゃん、今日もめいっぱい回したなぁ……」
「……そだねぇ……うぇえぇへへ」えへへのつもりが呂律が回らずうぇへへになってしまった……。
シャワーのとき全身で感じる手応えが、その走りがわたし達にとってどれだけ最高だったかを思い起こさせてくれる。
この時になってようやく、あの登りも悪くなかったかな……なんて思うんだ。
この時だけね。
「お姉ちゃん、ケセンヌマの宿泊先……180km走った後の温泉楽しみだね……」
「あぁ……たまらんやろなぁ……海風の後の温泉……ええなぁ……」姉はシャワーのお湯を顔で浴びながら飲んでた……。
きっと、文字通り天にも登る気分になれそう……。
そう思うんだ……。
CACCIA・ATOUTのモデルは実在するメーカーのCARRERA・AR-01だよ。
ググると出てくるよ。