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双子のディープリム  作者: NAO
双子のディープリム
3/6

#3「あやしい佐沼」




 姉と一緒に店の中に入って、勝手のわからない店内をキョロキョロとしていると奥から店主の奥さんかな? という年ほどの女性がやってきて、「いらっしゃーい、電話で話してた鶴岡さんね~」の後に姉が「どーもー」と挨拶、私達二人を小さなガラステーブルとスツールに案内した。例の悪徳チャリンコ店員はすぐに来るらしい。


 さり気なくテーブルに差し出されたホットレモネードに、あぁ、女の人らしい気遣いだなぁなんて思った。


 ん? 電話で話してた……、そりゃ姉とこのお店の人は面識があるのだろうけど、さっきの女性の慣れた感触と姉のさりげないアイコンタクトがなんか怪しい。


「ねぇ、お姉ちゃん」

「ん?」と姉は軽く返したつもりだろうけど、普段通りに努めようとする態度がうっすらと見て取れる。


「なんか企んでない?」

「そそ、そんあワケないやろぉー」


 " そんあ "って横目がちに表情は涼やかながら発音さえまともに出来ていない所が凄い怪しい、なんかもーめんどくさいなぁ。


 天井からぶら下がった骨組みの数々の奥にある大きめのモニターにはロードレースのダイジェストが流れっぱなしで、ビキビキの男性選手が競技用自転車を漕いでいる様子をぼんやり眺めていると例の店員はやってきた。


 うわっ胡散臭っ。


 見た感じから40台前後だといいうのに短めのキンパツで自転車用のサングラスをスチャっと外してやってきた浅黒い肌をしたこの男。ありし日だった20台前後のファッション感覚がその御年になっても抜けていないらしい。


「お、来たね鶴岡さん、妹さんどうもはじめまして、店長の佐沼です」

「どーも鶴岡です」わたしは返品しにきたんだ、挨拶なんてこの辺でいいでしょ。


 あんた、店の奥からサングラス付けてやってきたけど、店の奥でソレ付けるシチュエーション無いでしょ、チャッっと外して登場したいから付けてきただけでしょと声に出ないように心の中で突っ込んだ。


「奥でソレ付ける必要あるんですか?」やっぱやめた。

「えぇっ? あぁっ、あるっちゃあるよ!」無いだろ絶対。


 すると店の奥からさっきの女性の声で「ないわよー!」の一声、ホラ見ろ!


 姉も加わって「ウチもはじめて来たときそれやってたもんな!」と証言、へぇ……こんな事毎度やってるの……もうなんか拍子抜けに加えてがっくりしてしまった、何故かと言うと今日わたしは競技用自転車なんかド素人の姉妹に、つまり姉に対してどう言いくるめたか知らないけど100万円を超える買い物をさせた店員と口論を厭わない腹積もりであったのに、いかにも卑しそうな人物を想像して来てみて、いざ出てきたのはなんだか気の抜ける風袋のグラサン男だったからだ、決めた、今日はちゃちゃっと終わらせるつもりだったけどチャラ男ならぬチャリ男に免じて手加減無しだ。


「わたしの姉が勝手に買ってきたあの自転車を返品しにきました、手続きをお願いします、スグ帰りたいんでスグお願いします。」

「え? 返品しちゃうの? あれ、そんな話……」と言うとその金髪チャリ男は姉を手招きして少し離れるとわたしに背を向けて二人でコソコソと話し合いをはじめた。なんか二人で事前に打ち合ってたんだろうなぁ、思わず薄いため息が唇の間から漏れてしまった。


 頬杖をつきながら指先でガラステーブルをトントンつついて待ってると二人がキョロっとこっちに向いてチャリ男が一言「あの自転車に乗ってここに来たんだよね」


 まさか一度乗ったら返品には応じないとか言い出さないでしょうね……。

「はい、そうですけど致し方ないのでそうしました、傷とか一切つけてないですよ」もし返品できましぇーんなんて言うならケイサツでもショーヒシャセンターにでも行って出るトコ出てやる。


「おぉっ、慣れないのによく走ってこれたね……で……アレ、楽しかったでしょ?」


 ん……まぁそりゃね……そりゃ……ちょっとは楽しかったよ。おぉっとダメダメ、わたしが話を逸らされた事に気付いて流れを戻そうとした瞬間に姉が「めっちゃ楽しかったで!」と切り出した。


「だろぉー!アレ俺が設計して俺が組んだんだから、そらそうよ!」

「なーグングン進んでスイスイ走るもんやからウチ、こんなのチャリンコやないって思ったんよ~」

「いいねぇ~、じゃ次ちょい向こうにあるアオバ山の方行ってみな、プチ峠みたいな道だからもっと楽しめるよ」

「ええなぁ!ええなぁ!」小脇を締めてワクワクポーズの姉。


 二人で勝手にわいのわいのと盛り上がりだして、本題を逸らされっぱなしのわたしは露骨にため息をついて「返品の手続きしてください」と遮ると姉は声こそ出さないものの「えぇ~」の表情で男はしょうがないか、という振る舞い。


「う~ん、ま、あんまり気に入らなかったなら仕方ないけど、少し前にお姉さんと話していてね、妹さんにとってもイイ機会じゃないかなって俺は思うんだよね」

「いい機会も何も、使ったお金はマイカー貯金なので」

「えっ?」

「120万の内80万はわたしのお金です」

「えぇっ?」

「姉がわたしに何の相談も無く買ってきたんです、困っているんです」


 するとチャリ男は姉を読んで二人でコソコソとまた作戦会議がまたはじまった、ふたりとも焦っているのか内容が丸聞こえだ。

(ちょっとお姉さん話が違うよ)

(いやいや佐沼のおっちゃん、ありやちゃん連れてきたら説得するゆーたやん)

(いやでもあの貯金の話はマズいって、俺怒られちゃうよ、あとおっちゃんじゃないよ)

(え?だめなん……いやでもおっちゃんやし)

(だめでしょ……おっちゃんじゃないよ……)


 ダメに決まってるでしょ……ガッタガタの作戦会議を一部始終を終えるまでガラステーブルの表面にクルクル指先で丸を描いて過ごしているとチャリ男が何か思いついたらしい。


(そうだ、お姉さんいい手があるよ)

(なん?なんなん?)

(任せて、これならいけるって)


 男がわたしに向き直るとある提案を切り出した。


「妹さん、返品するつもりでやってきて、思わず5キロも走り込んじゃうなんて相当この自転車を気に入ってくれたみたいだ、……待って! 待ってそんな怖い顔しないで! いやね、確かにコレは高い買い物だし、突然のお姉さんの行いでビックリしたかもしれない、そこで俺から提案があるんだ!」何を言い出すのやら……。


「ありやちゃん! 話を聞いてや!」そこに姉も加わる、絶対テキトーに言ってるでしょうし男が何を言うかも多分わかっていない。


「妹さん、リースなんてどうだい?」


 なるほどそうきたか、リース、それは企業や事業者が高価な設備を導入する際に行う、いわゆるレンタルのような購入手段だ、提供者が定める設備費用の満額分までレンタルが継続したら所有権が利用者に渡るという仕組み。わたしの会社でもたまにそうやって導入される機械があるからなんとなくはわかっていた。


 つまりレンタルで使い続けて、購入金額分までレンタル代が届いたらキミのモノ! という契約。


「俺はお姉さんから妹さんの話を聞いていてね、是非ともこの自転車に乗って欲しいと思うんだ」

「どーしてですか?」

「……水泳を長いことされていたみたいだけど、100m長水路のベストレコードを聞いてもいいかい?」


 その質問に姉が冷水を当てられたような表情で男を見た。もうなに、わたしを腫れ物みたいにしなくたっていいのに。


 へへん、まぁ、答えてあげるよ。

「57.79秒です」


 ちょっとだけ得意げに言ってしまったかもしれない自分が少し嫌になった。


 わたしの言葉の後、男は「なんてことだ」と呟いて額に手を当てて「県大会優勝レベルじゃないか……これなら、コレなら……」とブツブツ一人で続けている。


「ちなみにいつのタイムか聞いてもいいかい?」

「高校の時で、今は58~59の間をウロウロしてます」

「ウチのベストは57.88やで!」姉も割って入ったようけど、言うほど記録を気にしない姉のタイムは今の所1分跨いでる。


「オーーーゥ!カムナァァァウ!100m57秒台の選手が二人もこの店にやってくるだと……今日はなんて日だ……!」


 なんだだりゃ、その天井を仰いでオーウカムナーウ! って、この男のいちいち若そうに振る舞うひとつひとつが鼻につく。


「俺はね、今日まで自転車屋をやっていたのは君たち2人を待っていたんだと今理解したよ、その水泳で鍛え上げられた心機能と体幹を使えばその辺の草レースだったら2人で展開をメチャクチャにできる! 是非乗るべきだ!」


 そんな大袈裟な……、洗練さは愚か初めて口にしたようなセールストークを恥ずかしげもなくこの男は並べ立てた後に、ふと冷静に振り返ったのかワントーン下げて私に問いかけた。


「で、妹さん……コレに乗ってみてさ、楽しいって思った分だけ進んだだろ」


 思わずこの自転車屋さんまでの道程が思い起こされる、なんとなく、楽しいって思った分だけ進んだ、その言葉が離れない。


「それは……少し新鮮で楽しかったですけど値段が……、あの、別に競技用自転車についてどうのこうの悪くいうつもりはないんですけど、1台68万円もするような殆どプロみたいな人が扱う自転車はわたし達には持て余します」


 わたし達みたいなシロートにはそこに並んでる1台10万円とか5万円くらいのでいいのに、なんでお姉ちゃんはいきなりトビッキリのものを買っちゃうのかなぁ……。


 すると男は、ふん、と一息つくとわたしが乗ってきた競技用自転車を奥から引いて持ってきて、スタンドを外してわたしの手に「ほら、持って」と預けた、なにするつもりなんだろ。


「その自転車さ、持ち上げてみたことある?」

「いえ、そんなことしたことないです」

「やってみ」


 驚いた、まるで中身があると思って持ち上げた牛乳パックが空だったときのような印象。軽い、というか、自転車らしい重量を微塵も感じない。ぽかんと口を開けながら確かめるように何度も上げ下げをしてしまった、自転車なんだから、うんと力を入れて上げてみれば通学バッグ程の重さもなかったからだ。


 姉にも伝えようと振り返ってみるとちょっと向こうでぶらさがってる自転車を眺めている、もういいや。


「軽いだろ、それでも今の時代だとやや重めなんだ……大体6.8kgぐらい」


 この空力オバケ自転車は、なんか素人目に見て分厚く見える。いわゆるママチャリのように細いパイプで出来たようなシルエットじゃなくて、こういろいろクダをペチャンコにしたようなので成り立っていて、見た目の印象としてはゴツかった、けど裏腹なこの軽さに異様さどころか自転車競技そのものに対して恐怖を感じる。


 ここまでして自転車を軽くしたいのかって、この軽さに行き着くだろう果てしない執念の重みを感じた。


「実はさ、妹さんが気にしている購入代金の68万円の中身にこのフレームの代金は含まれていないんだ」


 フレーム……ってこの骨のことだよね。

「いくらぐらいなんですか?この骨」

「骨か、いいね、イイ呼び方だよ、正に骨だ」


 男は天井にぶら下がっている数々の中から一つを持ってきた、マットな質感の黒に差し色のスカイブルーが印象的なこれまたグネグネした骨だ。


「これだけで70万くらい」

「骨だけで?」

「そう、骨だけ、これだけで」

「理解できません」

「だよな」


 うんうんまぁいいさと男は手にしていた青い骨を天井にかけた後に語りだした、さて、妹さん、キミが乗ってきた自転車の代金は68万円で骨の料金は含まれていないとする、そうすると骨以外の部品だけで68万円に達することになる。


 いやな予感がした。


 骨だけで高いと70万円、とそれ以外の部品だけでも60万円を超える、全部足していくらぐらいになりそうかな?


 目眩がした……130万……150万……?


「そう、妹さんが思っているその辺の価格帯の車体で世界のレースで戦う機材になる」

「そんなん素人に売るなぁ!」


 こわいなぁーもう、転んだらどうするつもりだったの……この人……。思わずスタンドが元から付いていないが故にずっと手で倒れないよう押さえていた自転車をそっと立てかけた、こんなん怖くて触れない。


「妹さん、そのフレームになんて書いてある?」

「なんて読むんです、これ……」


 バシバシ貼られたロゴであるCACCIA……カッシア?キャッシア?聞いたことも見たこともない字面、全然わからない。


「カチアと言ってね、イタリアのメーカーで俺が前に勤めていた会社なんだ、でそこのちょっと下にモデル名でATOUTって書いてあるだろ?」


 ATOUT……あとうと?なんて読むの……。

 思えばこの自転車の名前、確かに「自転車」だなんて名前では無かった。


「それをネットで検索してみな」


 言われるがままCACCIA・ATOUTで検索してもCACCIAの関連記事や外国語のオフィシャルサイトは出るもののATOUTの文字はこれっぽちもヒットしなかった。代わりにCACCIA・DEMONEとかFLUIDOといったモデルは公式サイトにしっかり掲載されている。


「いまそこにある骨はCACCIA(カチア)ATOUT(アトゥ)というモデルでね、在職してた時に営業の連中が最後まで首を縦に降らなかった俺の設計をさ、会社を辞める前に腹いせで勝手に作ったんだよ、夜中に忍び込んで会社の設備を動かしてさ、そんなもんで値段は付かないんだ」


 いつのまにかこの男はサングラスを付けていて、わざわざもう一度スチャっと外して話を続けた。


「現存する5本の内、この店にある最後の2本だよ」


 5本って、随分作ったんだ……会社の設備で……。


「いいだろ?」


 何が。


「それ、いいだろ」


 まぁ、なんかちょっとは……プレミアっぽい……かも。


「最後のサングラスのやつが無ければ、ちょっとはいいかもって思ったかもしれません、他のはどうなったんですか? あとの3本」


 サングラスを外してキメるのはどうしてもやめたがらないらしい、あれさえ無ければ、話はちょっと面白かったのに。


「知り合いの店に渡してしまったよ、今はもう流れたみたいでさ、今頃誰か乗ってるかもしれないし、事故ってコナゴナになってるかもしれない」


 遠くを見つめるように、あっけらかんと話す。


「へぇー、結構無頓着なんですね、前職のお土産なのに」

「俺には野望があってさ、3本はこうするって決めていたんだよ」


 このサングラス男は語った、聞いてもいないのに。


 ある時代、カチアというメーカーが次世代を駆けるフラッグシップモデルのフレーム設計を開始したんだ、ワールドレースにも出るようなね、結果的に社内で2チームに分かれて、出来上がった2種類のフレームを色んな試験で評価して優秀な方を選抜して世に出すという方法で競うことになった。


 5年かけて俺はあらゆるモノを犠牲にして、諦めて、身の内にある全てを出し尽くして渾身のフレームを作り上げた、けど採用されたのはもう一方のDEMONE(デモネ)というフレームだったよ。


 正直言うと数々の指標の中、客観的に見ても俺が作ったATOUTの方が優秀だった、がDEMONEの方が作りやすかったんだ、それだけだ。 


 会社としてはどっちも同じぐらい強いんだったら作りやすくて安く仕上がる方がいい、そう判断したんだ……よくあるオチだった。


 カチアのユーザーに対するキャッチコピーがそこの公式サイトに書いてあるだろ「勝利を運命づけられた妥協なき製品」とさ。


 妥協なきだなんて言うのなら、俺のでいいだろって当時は不貞腐れたよ。


 でもな、ある時思ったんだ「妥協なき製品に勝利が運命づけられるのなら」とね。俺は会社の設備でATOUTを仕上げて世にバラまいた、DEMONEとATOUTがどの場所のどのレースでもいい、そこでATOUTがDEMONEに勝てばいいってね。


「卑屈すぎませんか」

「なんやこのおっちゃん、コソコソしてて往生際が悪いんやな」姉はお店の中を物色するのに飽きたらしい。

「お、二人して聞いてくれよ、俺今けっこう真剣に話すから」

「短くしてな」


 この店にあるような競技用自転車の事を一般にはロードバイクだなんて言ったりする。


 ロードバイクはさ、エンジンなんかついていない。

 言ってしまえば人力車でしかない。


 力が無ければ、いつまでも動かない。


 前に進む為には常に人の力が必要なんだ。


 だからロードバイクは人の力を求めている。


 でも、求めるばかりじゃ乗り手が消耗してしまうから、快適性だとか衝撃吸収だとか、足への跳ね返りだとかを計算してフレームを設計するんだ。


 それが大体その辺にあるフレームだよ。


 プロユースに近くなればなるほど、いわゆる硬いフレームだなんて言われる、つまり足にくるってことだね。


 だから、高度なフレームを乗りこなすにはそれに耐えうる優れたフィジカルが必要だった。


 このロードバイクはプロ選手が乗ってももちろん速いけど、そんなんじゃまるで意味がない。


 ド素人を最速で最高の存在に変貌させて行くための、成長させる為のフレームなんだ。


 俺が作ったこのフレームはさらに進化して、このロードバイクは餌食にするためのライダーをフレーム自ら作り上げるんだ。


 遂には乗り手の体力や生命力はおろか、魂まで絞り尽くして推力に変えるために洗練されてきたデザインさ。こいつは人間を食い物にして進むんだ。


 人間をエンジンにして、人間を燃料にして進む、その人間をフレーム自ら作り上げる、これこそが正真正銘のロードバイクたるロードバイク


 ま、メーカー勤めの時は「お前の言うエントリーモデル、値段が140万とか頭トんだか?」なんて言われたけどね。


 だからさ、俺の作った骨の5つの内最後の2本はかねてから俺が決めた奴に渡そうと考えていたんだ、そこで君たちが現れた。


 これはまさに運命づけられていたといってもいい、この骨はプロじゃなくて、初めてロードバイクというものに触れる素人にこそ使って欲しい骨なんだ。


「終わり?」あんまり真剣に話すものだから頬杖はつかないようにしていた。

「いやまぁ終わりだけど、妹さん結構興味無いことに対してかなり冷たいね」

男は少々しょげた様子だった。


「ありやちゃんが冷たい? そーでもないで、ウチの胸でメソメソ泣くくらい」そこまで喋った所でテーブルの下に手を忍ばして姉の手首をぎりりと握った。


「いえ、ちょっと面白かったですよ、こういうのって中々引けないのはわかります」

「お、わかるねぇ~、引けないんだよな自分からは決して、絶対的に叩き折られないと終われないんだ」

「いやいや、前の仕事でもう叩き折られてるやん?」


 少年のような笑みで語る姿に、いつまでたっても終われないと語るこの男に悲壮感は一切無かった。


 それから男が話すには今の日本で行われるロードレース事情は少し特殊な進化をしてしまっていて、プロレースについては過去から現在に至るまで男子一強で人気やファンも勿論あるけど、あんまり昔と変わらない様子らしい。


 打って変わって女子のアマチュアとなると話は変わる。


 とあるスポーツのweb中継を行っている会社が女子アマチュアロードレースの無料中継を気まぐれに始めてから新規の観戦者やファンがみるみる内に増えていって、ついには現地で有料指定観戦席を設けないと人で溢れかえるようになってしまったという。


 ロードレースといえば聞こえはカッコいいけど、昔から今も内情は資金繰りに次ぐ資金繰りのビンボーレースで、国内プロ選手ですらパスタに塩振って食べるような生活の文字通り自転車操業の中ででようやくレースを行っていて、勝者は少ない賞金をチームで山分けしてやりくりしていた。それを傍らに何故か日本の女子アマチュアロードレースだけが突然一般層にウケてしまった。


 ただでさえ競技人口が少なかったロードレース、さらに女子というと昔の風景は男子のレースは80人、女子は10人以下がザラだった、出場しただけで入賞……なんてこともあったそうな。


 という背景があって男子のレースでは世界共通規格のレギュレーションを満たした自転車のみが認められているけど、女子は出場してくれるだけでバンザイだったからトライアスロンモデル? とかタイムトライアルモデル? とか違いはよくわかんないけど他のレースでは一緒に走れないゴツい自転車も「それで出てくれるのなら」という理由でごちゃ混ぜで出場を許していた主催側の嘆きの残滓が今日まで残り、ワケのわからない形したゲテモノバイクとトラディショナルなロードバイクが同じコースを走る異様なレース風景もファンにとっては面白いとこ……みたい。


 店主の奥さん曰く、昨今の女子アマチュアロードレースについて「若くて健康的な子がピチピチウェア来て自転車乗ってたら男の人はスポーツ興味なくても見るでしょ」という、真にもっともらしい所感を頂いた。


 いや……わたしレース出るつもりなんて無いんだけど……と言うと男は「いやほんとカンタンに出れるからやってみ」と軽く口走るばかり。


 でもなんか、今日はじめて競技用自転車に乗って、いろんな話を聞いてみて……少しやってみたいなと思ってしまう気持ちを否定できない。


 確かにこの自転車で思いっきり走り回るのは絶対に楽しいだろうって感じるし、実際ここまで走ってきて楽しかった、また走りたいとも思う。


「どう? やってみない? 自転車」

「ありやちゃん、ウチ一緒にこの自転車でありやちゃんと走りたいんや……」


 お金がなぁ、なんか色々あって安くなっても68万円×2のリースなんてなぁ……、とお金の事で悩んでいるのを男は察したのか、わたしにある提案をした。


「今そのアトゥに履かせてるホイールを30万の純正から15万のにダウングレードさせるなんてどう?」

「30万っ!?そんなん渡すなぁ!!15万でも高いけど!!」


 そうか、骨以外で68万円だとすると車輪が30万してもおかしくはない……けど、だとしたら他の部品とは一体いくらに……。


 総額から2台分のダウングレードで15万×2が減って少し気が軽くなった所で、決断を迫られるようで戸惑っていると、高校時代のコーチとの会話をふと思い出してしまった「迷ったら、今より明るい方に進んでいきな」という言葉だ。


 水泳を繰り返していると、泳いでいる最中に進行方向が分からなくなる悩みを打ち明けた時の事だった。



 水の中より……風の中や、空の下の方が明るいのかもしれない。



 わたしはそう感じたんだ。



「決めました、ダウングレードして貰って、それでリースにしてください」


 7:3で姉の負担で。


 どうせ生活費も家賃も折半でそんなに苦しくないでしょ? 外食もそんなにしないし、という問いかけに姉は何も言えず、ええもん、ええもん……と呟いている。


 後から姉に聞いてみた、どうして急にロードバイクなんか初めたくなったのかを。わたしが水泳を続けるのが苦しそうだったから、ロードバイクなら新鮮な気持ちで色んな事を一緒に楽しめると思ったから、とここまではお姉ちゃんらしいなと少し世話焼きだと思う半分、ちょっと嬉しかった。


 その後に続く言葉に、わたしは少し緊張してしまった。


「なんかな、ロードレースの中継を見て気になってな、恐る恐るお店に一人で行って自転車に跨がらせてもらったんよ」


「うんうん」


「乗った瞬間に、今までずっと止まっていた砂時計がサラサラと落ち始めた気がしたんよ」 


「あ、そう……なんだ……」


 姉はわたしと一緒に今まで水泳をやってきた中でいつの日か自己ベストを追う事も他の人とタイムを削り合う事も無くなっていた、確か高校3年の頃で最後の大会を終えた後からだった、別に男が出来たとか、ただ飽きたとかとかそういうのではなくて何か大きなきっかけがあったわけでもなく、緩やかに時間が経つにつれて徐々に水泳に打ち込むプレッシャーが薄くなっていた。


 そういう姿にわたしはもう少しぐらい本気で泳いで欲しいなと、そうでないと張り合いが無くなっちゃうだなんて少なからず思っていた。そして今日、姉からあの言葉を聞いて気付いた。


 姉はいつのまにか、水泳がただのフィットネスになっていたんだ。


 店主の奥さんが差し出したホットレモネードの水面で緩やかに回転するレモンの輪切りが、これから回り始める自転車の車輪と、いままで囚われていた時計の針に重なって見えてしまった。



[リース内約及び契約書・賃貸物件一覧]―――――――――――


フレームセット:CACCIA・ATOUT(49cm SIZE)

2\[2ヶ]


ホイール:BAX・REACH Tube Less DISK(RIM HEIGHT 48mm)

149,800\[2ヶ]


コンポーネント:LAURO・ApexⅢ Full Pack(Disk/Wired)

308,000\[2ヶ]


ペダル:LAURO・GEN4

19,000\[2ヶ]


ウェア:SRAL・LATONA

19.800\[2ヶ]


シューズ:LAURO・GEN4 SHOOSE

18,000\[2ヶ]


ヘルメット:Valley・AeroDynamics

21,000\[2ヶ]


上記1セット

535,600\


総計1,071,202\

月額賃貸料45,000\


メンテナンス及び修繕は佐沼自転車店が担うものとする。

総計定価分に支払い賃料合計が達した時点で所有権は利用者に亘るもとする。

なお、どうしてもと言うなら利用者が要求する限り賃料支払を1ヶ月は待つものとする。

―――――――――――――――――――――――――――――

次回更新は来週2/16くらいです。

このお話は架空のメーカーやモデルが出てきます。

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