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双子のディープリム  作者: NAO
双子のディープリム
1/6

#1「双子のマイカー貯金」

挿絵(By みてみん)


 しずくが一滴、弧をつたう。


 風に煽られ、へりに沿って右へ、左へ。


 また一つ滴り、揺れ動いてふたつがくっついて。


 重みを帯びた大きな一滴は風に震えて。


 すると、もう一滴あらわれては誘われるようにして三つがひとつに。


 大きなしずくはようやくして、へりからおっこちた。


 けれど、しずくは地面にぶつかる前に猛烈なスピードで追い上げる後続集団にのまれて砕け散った。


 時速70km、かき鳴らされる走行音の大群。


 セミの大合唱ではない、自転車の後輪が回転する音が群となっている。


 冬を終えた浅緑の季節、連続して行われる九十九折をアウトインインのダウンヒルで連なった選手たちが大蛇となって一気に下りきらんとしていた。


 ただでさえ急角度の下りで自然と加速するだろうというのに、それでも足らないと先頭グループは流型の競技用自転車を左右に大きく振りながら脚を回し続けている。


 そう、それはサイクルロードレースの真っ只中。ただしアマチュア。

 はじめ見た時、その迫力からプロレースだと思ってしまった。


 昼食を終えた土曜日の午後、姉がそのWEB中継をモニターで眺めていて、わたしは皿洗いをしながらその映像をソファに座る姉の背中越しに見つめていた。


 自転車競技なんか最近流行り始めたなぁぐらいしか知らないわたしが、たまたま姉が眺めているこの映像をプロレースだと思ってしまったのは、まず今写っている映像はヘリコプターからの空撮だったからだ。


 それほどお金が動いて、大掛かりな運営が行われているのなら、と思った。


 で、アマチュアだと気付いたのは画面左上にしっかりと「エイトップ・ミヤギ・アマチュアサイクルロードレース」と書かれていたから。


 画面端のテロップに目をやるまで5分は硬直するように見入ってしまっていた。そのバイタリティー溢れる映像もさることながら、映る選手たちが皆女性だったからだ。


 エナジーを漲らせて、その脚が爆発するんじゃないかという迫力で漕ぎ続ける彼女たちが、モニターの中で活躍する遠い存在の彼女たちがとても輝いてるように見えた。


 少なくとも、モニターの前で土曜の午後を浪費するという贅沢を満喫している私達の延長線上にいるなんて思えなかった。


「自転車ってこんなに速いんなぁ」


 ソファに背中で座る姉がぽつりと呟く、頭の中に浮かんだものがそのまま口から漏れたみたい。


「カーブの時なんか撮影している車を引き離してるよね」

「そらな、プロやもん」


 アマチュアだって書いてあるでしょ……。

 なんか捻った返しでもしようかと思ったけど。


「アマチュアって書いてあるよ」何も工夫しなかった。

「えぇ?嘘いわんで」


「……ほんとやん」


 姉はこんな人だ。


 双子なのだから、先に生まれたとはいえ大きな違いが出るものかと両親は常々思ったそうだけど、本来イーブンで分かち合うはずの2人分のノーテンキを姉は多めに貰っていったみたいだ。


「これでアマチュアなら、プロは空でも飛ぶんかな」


 一方のわたしは、姉に行く分の冷静さを少々多めに持ってきたのだと思う。こうやって言葉にして思う分、多めの嫌味も余計にもってきたのかなと感じる。


「そしたら鳥人間コンテストにでもいくのかもね」


「あー、そうなんか、そうかも」

「たぶんそうだよ」


 切り替わっていくカメラに映るのは恥ずかしげもなくボディラインくっきりの全身ピチピチタイツを着込んだ先頭集団だった。私と姉は学生の頃から水泳をやっているとはいえ、屋内プール競技で着用する水着のようなウェアを陸上で着る感覚はとても理解できなかった。なんというか、TPOというか、いくら競技目的でも地上で着るには場違いのようなギャップをとても感じるんだ、あのカラフルピチピチウェアには。


 レースも佳境なのか、先頭グループはちぎれちぎれになり遂に残ったのは3人で、チームなのかな、真っ黒ベースに白いラインがいくつか入ったシンプルなウェアを着た常にびったり連なる2人組と、もう1人単走しているのは白ベースにケチャップをぶち撒けたようなショッキングな迷彩パターンの選手だ。


「あんなんあたし着れんで、あれ水着より恥ずかしいヤツやん」

「なんで上下セパレートにしたんだろね、おへそ見えてるよ」


「ウチら水泳やってたけど、あれは着られんなぁ」


 流麗な筆記体を思わせるラインの競技用自転車に、皮膚に対して寸分の隙間なく吸着したボディスーツを着込んだ女性達が大衆の眼前を風よりも速くかっ飛んでいる。


「なぁなぁ、あの自転車めっちゃ高いんやろなぁ、10万くらい?」

「わかんないけど、めちゃくちゃ高そうだよね」


 姉が手元のクライアントモバイルでモニターに映るメーカー名を調べている様子、少ししたあと、ぽつりと言葉を漏らした。


「た、高いのでひゃくまんこえてる……」

「外国のサイトでしょ?通貨単位とか読み間違えてない?」


「えぇ?、いやいや、いちじゅうひゃく……」


 いくら競技用とはいえ、自転車がひゃくまんを超えるなんて認めたくなかった。だから、否定したい気持ちでそう言ってしまった。だって、カゴ付き自転車が2万円で、カゴ無し自転車が3万円。電気スクーターが30万で同僚が購入を目指してるガソリン車のバイクが90万円で……エンジンなんか付いていない自転車がいくら競技用とはいえ……一周回って、それくらいするのかも、とも思ってしまう。


 クライアントモバイルの画面とモニターを行き来しながら見ているウチにレースは最終局面の模様、実況解説者がゴールを争う2人の選手の名を交互に叫んでいる。


 黒白の二人組の内、先頭が右にそれてこぼれていった瞬間に背後にいた黒白の1人と白赤のショッキング模様が全力で更なる加速。


 ヘリコプターが映す山を下りきった先にあるストレートのゴール、そこへ時速60kmの猛スピードで2台のシルエットが突っ込んでいった。


 あんなうっすいウェアなんかでもし転んだらどうすんの……。


 競技性もビジュアルも危険度も多分金額も、何もかも世間一般の常識から逸脱した露出狂アスリート達の中継を私達は結局表彰式になるまで眺めていた。その他の国内スポーツ同様、このアマチュアレースもどこか遠くからやってきたお家元の外国人が周囲を蹴散らした末に表彰を飾るばかりなのかと思った。けど優勝者の名前はどこか、大理石のような質感を思わせる美しい響きだった。


 名が体を表したようなスラリと引き締まったライン、ブラウンシュガーの肌に黒々と切り揃えられたショートヘアはまるでサラブレットを思わせた。走るためだけに錬成されたそのボディが、高潔なまでに美しく私の目に映った。


 黒と白のセパレートウェアは、まるでシャチを連想させる、


 「黒石成海」2039年4月、エイトップミヤギ・アマチュアサイクルロードレースの優勝者だ。

 

 その姿を見た時、はや仕事に慣れてしまい、これから会社と家の往復を繰り返すことに終始した生活が向こう数十年続くのか……という諦めのような感情を抱いていた私の胸が、心拍が少し高まった気がした。きっとこういう思いを憧れというのだろう。もしわたしが今10代の少女なら、こういうのを胸に秘めてもいいかと思うけれど今やは私は会社勤めの21歳だ。皿洗いの末に穴が空いたゴム手袋と共に、このリアリティに欠ける憧れを、おとなしくゴミ箱にそっと捨てた。


 すると、姉が思い出したようにぽつりとわたしに語りかけた。


「なぁなぁ、ありやちゃんや」


「なぁに?」


「ここにマイカー貯金があるやろ?」


「……」


 マイカー貯金、それは私達姉妹の聖域。静かなる地平線、なんだそりゃ。会社勤めを始めた月から私達は移動の自由を手に入れるためにテクノロジーとモータリゼーションに夢見ていた。


 子供の頃、ガソリン1リッターの価格がビール2本分と同じになってから、商用車を除いたガソリン車の数は10%以下へ激減し、代わりに電気自動車がようやくと普及し始めてきた。別にエコロジスト達の啓蒙活動が幸を奏したワケではない、もうガソリンが高くて仕方がないのだ。


 親世代の話を聞いていると、全体の交通量は昔の半分以下に減っているという。クルマが無くともやっていけるように公共交通インフラが発達したからだそうな。でもいくら前と比べて電車バスタクシーが増えたからといって、今までクルマに乗っていた人たちが乗り込んで来たらどうだろう。


 結局はいつも満員なのだ。 


 もう毎朝ギュウギュウの通勤電車なんていやだね、バス使うのもイヤだね、自由に好きな場所を走りたいね。色んな温泉地に行きたいね、あっちこっちに買い物行きたいね、みてみてこの広告、あのCMでやっていた電気で動く軽が160万円だって、流行りのスタイルにかわいいカラーバリエーションが8種類、インテリアも4種類からだって。


 そんな事を語らいながら姉妹の貯金は120万円。


 ケンカをした時も仲違いをした時も、夢のクルマの話を振ればスグに仲直りした。

 ふたりで乗るクルマだもんね、中古じゃなくて新車がいいね、ローンじゃなくて一括がいいよね。


 いまや私の精神的支柱となっている、マイカー貯金。


 だから私は姉が「じてん」と口走った直後に「あ?」と遮っちゃった。


 だって120万の内80万は私のお金なのだから。


「いやいや、じょーだん、じょーだん」

慌てて手をヒラヒラと振ってジェスチャーする姉。


「そうだよねー」

きっと私の目は笑っていなかった、一体何がじょーだんだったというのか。だって120万の内80万は私のお金なのだから、じょーだんではない。


 すると圧に押されてしまった様子の姉は、座りを正すようにしてモニターに向き直って口を開いた。


「なーなー、ありやさんや」

「ん?」


「明日の水泳、ウチちょっといけんわ」


「どうして?」


 姉は長い髪を人差し指でピンとつまんではゆるめてパラパラ、大きな瞳はそっぽを向いていかにも建前ですよといった手癖を止めないまま「んー、だから友達と会うかもしれんの」だってさ。まぁいいけど、明日はわたしだけレーンを目一杯使って存分に泳ぐから。


 今のわたしは少し気が短くなっていた。


「じゃ、冷蔵庫にあるロールケーキは全部私が食べるね。わたし、明日午前と午後合わせて2400kcal分泳ぐから、お姉ちゃんは運動もせずダラダラ過ごすなら一切れも食べれないでしょ」


 20代の初めとはいえ、仕事と家の往復の中、ストレス発散にとお酒とおいしいものをばくばく食べてはぶくぶくと体型を失っていった友人達を数多く知っている私達姉妹は、運動による推定消費カロリー分しかデザートを食べてはいけないという鋼鉄のマイルールの中で生活しているのだ。


「……ええよ、明日はせめて一切れ食べれる分はどこかで体使ってくるから」


 何に張ったわけでもない意地を互いに披露した後、姉はモニターの電源を落とした。



 両耳を絶えずくぐもった音の流体が覆う。


 肌の表面に感じるのは冷たさでもなく熱さでもなく、鉛のように重く流れる水の圧迫感。


 速ければ速くなるほど、重くのしかかり、身体を押し返さんとする抵抗を全身の力で突き破り続ける。


 わたしなりに練り上げたこの自由形のフォーム。結局、高校時代目一杯打ち込み続けた水泳ではあったけど、遂にタイムレコードには通用する事の無かったこのスタイルで今になっても泳ぎ続けている。


 高校を出てから大会や水泳競技には出る事はもうなくなった、当時の習慣の名残なのかプールサイドに転がるメモ帳には各ラウンドのレコードが日付毎に書き連ねられている。けれどタイムは相変わらずの横ばい。


 執心していたフォームでもやがてタイムを出せると証明したいのか。


 それともいくらトレーニングを重ねても無駄だと思い知りたいのか。


 それでも、この泳ぎ方で前に進みたい、そう思ってきた。


 一体……私は何に対して意地を張っているというのか。


 これから何か大会に出るという意欲がある訳でもないのに。


 一人で泳ぐとこういう思いをしてしまうからあまり好きじゃない。


 私は泳ぐ度にタイムを測る習慣があるが、姉はというとまったくといってタイムを気にしない。いつか楽しいか楽しくないかだけが書かれているメモ帳を見たことがある。それを見た時は一瞬だったけれどかなりの衝撃だった。「いい、いい感じ、イイ感じ、たのしー、そうでもない」とか段階別ですら無い感想がひたすら並んでいる狂気のメモ帳だ。


 打って変わって週末の楽しみの度に増えていくはずの私のメモ帳に連なる数字の羅列は、時たま囚人が壁に削る正の字を思わせる。


 20本ほど往復をこなして一息ついた今、トレーニングも間延びしてきた所で、ひとつ気合を入れてタイムを狙ってみようと意気込んでみた。


 100m長水路・自由形


 肺の奥まで届くような深呼吸を8回。


 素足を見つめてまばたきを2回、そして3回目で正面を、きっ、と睨んだ。


 いつも変わらなかった、わたしが自己ベストを狙う時に行うルーチンのようなもの。


 理屈なんて、どうだって良かった。


 つま先で、とん、と飛ぶ。


 この空中から水中へ指先が触れる瞬間。


 この瞬間だけは、幾度となく繰り返した水泳という一連のプロセスの中で、最もドラマティックに感じる。


 指先に水面がほんの少しつく時、この水の温度を知覚した一瞬がわたしの中でのスターターピストルとなり体中の動脈から毛細血管に至るまで駆け巡った。


 全身の筋肉が飛び起きて、細やかな緩急のついたテクニカルな波打つフォームを15mきっかり無呼吸でこなし続け、8回分の深呼吸を消費した瞬間にクロールにシフト。


 地上からの慣性を失って、今スピードを決めるのは、この水中という壁の中をもぐらのように破る自分のパワーだけ。


 いいペース、この初動でどれだけタイムを稼げるかが分かれ目だ。あとは自分のこの身体との我慢比べ、これは耐えるんじゃない、力むんじゃない。


 余力を十分に確信して、これ以上無いほどの最高な距離感でクイックターン。ここからのラストスパート、ここをどうやり抜くか、わたしは結局4年かかった。


 耐えようとしても力もうとしても、意地になってもダメだった、どれを試しても途中で折れてしまう。


 憧れた水の中、泳いで見れば暗く深い地中とさして違いは無い。


 そしてわたしが辿り着いたのは。


 絞り続ける。

 体中のなにもかも、その一滴が無くなるまで、絞り尽くす。


 流体の振る舞いをした鉛で出来た壁の中で、完膚無きまで絞り切る。

 

 1秒を重ねるごとに全身に累積する疲労、瞼の裏で光がちらついて、水の重みで潰れそうになる。


 今、わたしは深海魚になったかもしれない。

 そしてゴールセンサーにタッチ、乾いたビープ音が響いた。


 プールサイドの縁に触れていないとバランスすら取れない疲労、どれだけ空気を貪っても収まらない息切れ。この感覚から手応えを確かに感じていて、淡い期待を抱いてしまう自分を宥められない。


 ――58.99(sec)


 ここ2年、高校時代自己ベストだった58秒の壁を越えられないでいる。

 タイムを削るのはおろか、ミリ単位で後退を続けている結果に思わず、目の前が暗くなる。


 あとどれだけわたしは後ろに下がるのだろう。


 あとどれだけ過去の自分に追い抜かれていくのだろう。


 1分まで差し掛かかるのはいつになるのだろう。

 そうなったらわたしはどうやって自分を納得させようとするのかな。


 しばらく水面でぼんやりしていると、プールサイドから女性のスイマーに声をかけられた。スタイルからしてフィットネスとして泳いでるような人だった。

「わぁ!すごいタイムじゃないですか!あ、急にごめんなさい、鬼気迫る泳ぎについ見入ちゃって……」


「あ、いえ……ありがとうございます」

たまにこういう事を言われることがあって、その度にわたしは自分が少し嫌になる。


「大会とか出られるんですか?このタイムなら入賞狙えますよ、きっと!」

「……あんまり、もう興味なくて出てないんです」

年は19くらいかな、大学生くらいかな、この人はとても元気いっぱいで、わたしに期待をもって話しかけてくれたのだろうけど、それがかえって重みになってしまう。


 話しかけた割に愛想なく盛り上がりに欠ける返事ばかりするわたしに気を遣ってか、スイマーさんは挨拶を済ませるとそそくさとどこかへ言ってしまった。


 わたしは、わたしの中での表彰台に上がりたい。誰かと競うつもりなんてこれっぽちも無くて、誰より速いかより、過去の自分のどれよりも速くなきゃ全てが無価値になってしまっていた。


 学生時代のコーチにその事を話した事があって、当時のコーチはその相談に「あなたと似たそういう考えの選手は沢山いたけど、10人の内9人は潰れてしまったよ。だからね、あなたのお姉さんみたく少しは楽しんでいる自分を見つけなさい」と、わたしを諭した。


 言いたいことはわかる、結局趣味みたいな事なんだから楽しんでやってなんぼだって。これは学業とか仕事の傍らのフィットネスなんだって、でもわたしは、今の自分が過去最高でなければ、楽しくないんだ。


 こんなんじゃ、楽しくないんだ。


 水中で握りしめた手の内には、水一滴とさえ入る余地無く力が込められていた。


 ……もう、上がろうか。


 純粋な気持ちで流体の中を進めなくなったのはいつからだろうか。


 何かきっかけがあったのだろうか。


 行き場のない思いが、水を吸ったショートヘアを絞る力を思わず強くする。


 プールサイドの壁に背を預けながら50mに及ぶ水面を眺めていると、中学生くらいの女の子が真剣に水泳のトレーニングをしている光景が目に映った。ふと昔のことを思い出す、小さい時に姉と初めて水族館に行ったときの事だ。


 水泳を初めたきっかけは最初の水遊びが楽しかったわけでもなく、海が好きなわけでもなく、水族館の魚に憧れてしまったからだ。


 曖昧な記憶を探れば、あれは沖縄の水族館だったのだろう、全国最大級の巨大な水槽を縦横無尽に泳ぐセイルフィッシュや緩急を付けて加減速するベルーガを見た私達姉妹はそろって「おさかなになりたい!」と両親にダダをこねたそうだ。


 流石にダダをこねられる方もこの言い振りには呆れを通り越してしまい当時、「この子達は魚の腹から生まれれば良かったのか」とつい思ったという事を何年か前に帰省した時に聞かされたことがある。


 父の丁寧な言い聞かせが功を奏し、私達は魚になることも、海の藻屑になることもなく、学生時代から今に至るまで水泳を楽しむことが出来た。


 でも、今になって思うのは。


 わたしが憧れたのは大海を狭しと泳ぐ魚たちであって。限られた水槽の中でいっぱいっぱいな水族館の展示物でも、プールの1レーンを往復し続けるだけのちっぽけな存在ではなかった。


 最初に憧れた魚たちが飼育された魚だったから、この結果に至ったのか。もし初めに憧れた魚たちの姿が沖合を泳ぐ野生の姿だったのなら、今はプールではなく海を泳いでいるのだろうか。


 それだけが好きだったから、これしか出来ない。


 プール以外の泳ぎ方を知らないから、今も波を知らない。


 アクアテラリウムの魚は、海水では生きていけない。

 

 社会を歩くより泳ぎの方が得意な脚では、葛藤一つもままならない。 


 下らないたらればを振り払うようにタオルで髪の水気を切ると、腰のあたりに締まらない感覚に気付いた、水着がいつのまにか緩んでいるようだった。酷使された末にやや伸縮性を失った競泳水着の中に溜まった水をぱしゃりと抜いた後に、わたしはこの水槽を後にした。


 これももう、替えどきかな。


 次のはただの練習用に安いウェアにしようか、高価なレースモデルを使い捨てるのはやめにしようか。


 体育館周辺の芝生には緑の香りが漂い、ちびっこの笑い声が響く4月の春陽気の中、わたしだけが冬を終えられずにいるような気分だった。


 そんな煮え切らない想いを振り払えずにいたまま2DKのドアを開けて生乾きの水着を洗濯カゴに放り投げた後、ダイニングに目をやって……愕然とした。


 顎が落ちるとはこのことだった。


 腰に手を当てて仁王立ちする姉。


 堂々としているつもりなのだろうけど、口の端だけが自信なさげに震えている。それよりもこの状況を物語るのは私と姉の間に鎮座する2つの異物。


 流型の……。


  筆記体を思わせる三角に……。


   ドーナツをミリ単位にぺちゃんこにしたような車輪が2つ、ついていて。


    バシバシと描かれたなんて読むかもわからないロゴが目に焼き付く。


 「な、なに……コレ……、なに?」


 姉は言った「フルカーボンロードレーサーや!」だと。カーボンがどんなものかわからないけど。これがただの自転車では無いことも、レース用の代物という事も、きっとその類の中でもとびっきりのモノということは素人のわたしでも見ればわかった、放たれる雰囲気がオバケそのものだ。空力オバケのシルエットだ。


 ぐにゃりとした三角形の骨組みも、車輪もハンドルも、よくわからない形したブレーキもなにもかもが未知の形状をしている。


 自転車というものに乗ったことも見たことももちろんある。けれどこの自転車と呼べるのかどうかもわからない空力オバケに付いている全ての部品にわたしは触れたことも見たことも聞いたこともない。


 心の中が不穏にざわつく。


 点きっぱなしのモニターからCMが流れた、「あなたのお金はどこから?」「わたしは七七銀行から!」人気女優が髪を揺らして出演する毎度おなじみ地元銀行のフレーズ。購入を決めていた電気自動車のCMもこの女優がやっていたかな、今のタイミングで流れるその言葉に姉の口角が引きつり、わたしの目尻が力んだ。



「お姉ちゃんのお金はどこから?」



「ねぇ」

 


「どこから?」



「……ま、マイカー貯金やで!」



 姉はもうヤケという表情でそう言ってのけた。私は膝から崩れるしかなかった、きっと人生で初めてだ……こうガクンと膝をついたのは。モニター越しにこんな振る舞いをしていたフィクションの登場人物達の心中が今私には分かる。掴みかかって怒鳴る事も、モノを投げつけることもできない、今のわたしのプールで使い果たしたこの身体にはそんな余力は到底無かった。


 だからこうするしかなかった。


 さようなら、モータリゼーション。


 夢で会おうねマイカー通勤。


 明日会おうね公共交通機関。


 だって120万の内80万はわたしのお金なのだから。


 2年少しに亘る貯金生活は、目の前の異質なカーボンのカタマリに成り代わって終わった。


 わたしの双子の姉、真理矢は生まれる時にわたしが受け取る分だった、わたしには無いもの全てを貯金ごと持っていった。


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