なな。消した想い
―――天国にいたはずだったのに、いきなり地獄に突き落とされた。…そんな感じだった。
ついさっきまで目の前で震えていた携帯は、寸分違わず明らかに九条さんのもの。そして、液晶画面に映っていたのも、間違いなくひなの名前だった。
嘘だ、まさか―――という気持ちと、なんとなく、あぁやっぱりな―――という気持ち。
あたしの中身が何か真っ黒で空虚なものになった気がして、目の前が霞んで見えなくなった。
あぁそうか―――。
合点がいったのだ。
ここ最近のひなの様子。尋常じゃない『誰かとの』メールの数。あたしへの態度。
やけに必死だったひなのメール相手は―――九条さんだったんだ。
あは…道理で嫌な予感がするわけだ。あのひなが本気で必死になってメールしてんだもん。なんか変だと思った。
…ねぇひな。どうして言ってくれなかったの?それに、あたしは一体何に対してショック受けてんの…?
ひながあたしにだまって九条さんと連絡取り合っていたこと?
それとも―――九条さんが九条さんでなくなるときのあの眼差しが、全部、ひなに向けられていたんだっていう、事実?
分かんないよ。あたしは―――っ、
チリンチリン。
ビクリと身体が震えた。
九条さんが戻って来たのだ。
「未羽ちゃん、決まっ―――………どうしたの?なんかあった…?」
変わらない彼の笑顔。今はそれを見るのが、辛い。
でも、だめ。知られちゃいけない。あたしが九条さんの携帯を勝手に開いたこと。
たとえ不可抗力だとしても、ひなと連絡取り合っていることに気づいたことを、決して知られてはいけない―――。
大丈夫。受信完了画面は見たけど、メール自体は開いていない。表示は何も変わっていないはず。あたしさえうまくやれば―――。
「ううん、大丈夫です。…なんにも、ないです」
ちゃんと、笑えた、はず。
九条さんは何か言いたそうな顔をしていたけれど、あたしがそれを遮った。
お願いだから、なにも聞かないで。
…知らんふりしててよ。
「九条さん?あたし、決めましたよ」
「?えっと…」
「やだ、この短時間で忘れちゃったんですかー、もう。あれ」
と、意識的に笑いながら指差したのはメッセージコーナーの最上部の棚。
「あぁ。ガラスビン。どうするの?」
「―――買って、くれるんですよね?」
かがんで、挑戦的な目で下から覗き込んでやった。
九条さんは一瞬目を瞠ったあと、
「お嬢様の、仰せのままに」
変わらない笑顔で、ほほえんだのだった―――。
外に出てみればもう、太陽は夕方のやわらかい光に変わっている。
水面が陽射しを反射してキラキラと輝いていて、あたしは思わず目を細めた。生ぬるい風が頬を撫でて、髪を一房さらってゆく。
みやげもの屋さんからまた砂浜に戻ってきたあたし達は、海に来てからこっち、ここで初めてゆっくり話をした。ここぞとばかりに今まで聞きたくても聞けなかったことを聞く。
「あのぅ…」
「ん?」
あたし達は今並んで砂浜に座っているわけだけど、こちらを振り返った彼がキラースマイルでつい一瞬怯んでしまう。
うう、弱いんだってばその笑顔…。
「九条さんって、実のところ何才なんですか?」
「実のところって…。そこ、気になるとこ?」
「はい!気になります!」
「…二十三」
「…うぇっ?」
「あれ、何その反応。二十三だよ」
に…二十三?
「えっと…意外と若いん、です、ね?」
「そう?そんなことないけど」
「うぅん…、いや。逆に、思ってたより歳、うえなのかも?あれ?でも、やっぱり落ち着きようが二十後半みたいな感じだし…でも顔はやっぱり二十くらいにも見えるし」
「未羽ちゃん、声。だだ漏れだから」
「え!!
恥ずかしい!
とっさに九条さんをみやれば、くつくつとのどで笑っていた。
あ、また…。こんな笑い方でもカッコいい…。
―――ひなは知ってるのかな。九条さんの笑い方。
ふとそんなことを思って、すぐに首を振る。
今は、それより九条さんのこといっぱい知ろう。時間がもったいないし。
「それで、あの。誕生日とか血液型とか」
「うわ、なんかベタなのきたねぇ」
「重要ですからっ」
「力いっぱいだねー。そんな知りたい?」
「もちろん」
「誕生日は…九月三日で」
「えぇ!三日前じゃないですかッ」
あたしどんだけタイミング悪、
「うんまぁ嘘だけど。本当は十五日」
―――九条さんはどんだけ意地悪なんだろう。うん…なんか分かってきたけどね?
でも、本気で焦ったんですけど。しかも十五日って結局近いし。
「あと血液型は…」
と、こともなげに続けるのは九条さんの口。
えぇい、反応するのはこの耳かっ。
「未羽ちゃん、当ててよ」
「あたし!?」
「四分の一の確率でしょ。一発で当たらなかったら、未羽ちゃん罰ゲームね」
何それ!!何そのめちゃくちゃ不条理なゲーム?
あたしのメリットは果たしてあるんでしょうか!?
「ちなみに罰ゲームとは」
「…デコピン?」
キラースマイルで言いますか、それ!
「ほら。何型?」
「う…」
どれだろう。ぱっと見A型っぽいんだけど…今日一日でその見解はあてにできなくなったし。マイペースな所はBっぽいけどおおらかな感じがO型。もういっそ、全部ひっくるめで変人な感じがAB型ー!?
「だから、声に出てるって!」
九条さんは大笑いした。
「僕、変人かぁ〜。未羽ちゃんに言われると正直ショックだ」
「そそ、そんなつもりで言ったんじゃありません!」
「分かってる分かってる」
片手を上げて制する九条さん。肩は今だに震えてる。…あたしに対する笑いで。無意識にぷくっと頬を膨らますと、九条さんが「ごめんすねないで」と淡く笑う。
「それで、結論は?」
「………―――A」
色々考えたけれど、基盤として真面目な感じ、誠実な感じはやっぱり何を差し置いてもA型な気がした。
答えを待つけれど、反応がない。
「あの、九条さん?」
「…はずれ。罰ゲームだね」
「はずれですか!?」
「はい、前髪あげて〜」
おでこ出して、と右手が伸ばされる。
接近する骨張った、それでいて綺麗な手に、自分でもびっくりするくらい心臓が早鐘を打った。
ああでも今そんなことより!!
「ちょちょ、ちょっと待ってください!ほんとにやるんですか!?やるんですか!?あたし、デコピン無理です怖いです痛いです!」
「だーめ。約束でしょ」
なおも追随の手は止めず九条さんが完全に向き合い、左手であたしの肩を逃げられないように捕まえた。
いつもならどきどきするこんなシチュエーションも、今じゃ通用しないっ。デコピンにはトラウマがあるのよーっ!
九条さんの指が額に照準を合わせ、
あぁもう、だめ…。
ぴたりと、止まる。
「嘘だよ、当たり」
「…ふぇ?」
「A型だから、僕」
一瞬、言ってることが理解できなかった。
え、えーがた?
…A型なの?
「―――なっ、何でそんな嘘つくんですかっ!?あた、あたし、ほんとにデコピンされるかと思ってー!」
涙目になれば、九条さんが焦ったようにあたしの頭に手を置いた。
「ごめん、慌てぶりが面白かったからつい」
そのまま、くしゃっと頭を撫でられる。
あぁ―――どうせあたしはこの笑顔に勝てないんだ。
無言で首肯すれば、ほっとしたように力を抜いて、九条さんの身体が離れていった。―――一瞬寂しいと思ったことは、口が裂けても言えない。
「…綺麗だね」
一瞬の沈黙のあと、ふいに九条さんが呟く。
視線はまっすぐ海に向けられていて、見れば、沈みかけの太陽がまばゆいオレンジ色に輝いて、水面を照らし、雲に色を移し、世界を橙色に染めあげていた。
ほとんど無意識で、「はい…」と返す。
どこかぼんやりとしながら、それでもこの心地よい空気に身を任せる。
ありきたりではあるけれど、その時確かにあたしは―――時間が止まってほしい―――心から、そう思った。
思って、いたのに。
ピリリリリリ、ピリリリリリ。
夢心地の空間は、突如として切り裂かれる。
着信は、九条さんだった。
画面を見てつと考え込んだあと、あたしに視線をよこす。
―――だれ?…まさか、ひな?
あたしの不安そうな表情から心中察したのかどうかは分からない。でも、電話に出るかと思いきや、九条さんはそのまま携帯を閉じて、ポケットに戻そうとしたのだ。
「で、でなくていいんですか!?」
「うん」
あまりにも迷いなく答えられるものだから、逆にこちらのほうが不安なってしまう。
出たほうがいいんじゃないの…?だって、メールじゃなくて、電話だよ?何か、どうしても大事な用なんじゃないの?
そうは思うけれど、言えないあたしがいた。
―――………ううん。言いたくない、あたしがいた。
着信はそれから10秒程して止まったけど、そのあとの九条さんは、あの、あたしが知らない表情をする彼になってしまった。
着信がひなだった保証なんてない。でもあたしは、ひなだと信じて疑っていなかった。嫌な予感って、当たるものでしょう…?
ふ、と自嘲気味な笑みが零れた。
脳裏に、あの小悪魔的な笑顔が浮かぶ。
高校入って、初めて芯から仲良くなった友達。そりゃ、ちょっと手に負えない所はあるけれど、やりすぎなところもあるけれど、ひなはいつだってあたしのためを思って全ての行動を起こしてくれていた。
クラスに馴染めないあたしを、あっという間に輪に引き込んでくれた人物。正直、泣くくらい嬉しかったのを覚えている。
あの時からあたしはひなのことが大好きで、あたしたちは―――唯一無二の、親友だ。
…今度はあたしの番じゃないの?
あたしが、ひなのために何かしてあげる番じゃないの…?
―――そうだよ、大丈夫。…あたしは、まだ、引き返せる。
「…九条さん」
「ん?」
「電話、かけ直しましょうよ?」
笑って言う。
「でも」
「あたしのことは、気にしなくていーですから、ほらっ」
「…本当に、いいの」
「だぁいじょーぶですっ、てば!逆にあたしの方が気になって仕方ないんですもん。ほら、早く」
急かすと、渋々と言った感じで九条さんは腰をあげる。
「じゃあ僕、車の方に行って話してくるけど…」
「はい、時間も時間だし、あと少ししたらあたしもそっち行きますから。遠慮せず電話して下さいっ」
笑顔で、九条さんの背中を見送った。
「―――っ、」
一人になった海岸で、あたしはおもむろに鞄からあるものを取り出す。
―――ガラスの小瓶だ。
さっき、お店で九条さんに買ってもらったやつ。
眼前で左右に振ると、中に入った丸められた純白の紙が、カラカラとかすかに音をたてて転がった。
ガラスを通して見るオレンジ色の太陽が、ゆれて、霞んだ。
…ガラスを通したから光が屈折したんだと思った。
―――違った。涙だった。
「はっ―――、」
息を止めて、声を殺して。後ろをいく、九条さんに気づかれないように。
頬を伝わる幾筋もの涙を乱暴に手の甲で拭って、それから大きく息を吸って次に取り出したのは、セットで買ってもらった油性ペンだ。
コルクの蓋を開けて、紙を取り出す。膝のうえに小さな紙を広げて、一気にペンを走らせた。
『好きです』
書いたのは、たった一言。
でも、この先口にだすことはないであろう、一言。
―――そうだよ。あたしは、九条さんが好き。
いま、この局面になってはっきり自覚した。
―――馬鹿なあたし。いつだってタイミングが悪いのだ。
それから、震える手をコントロールしながら首からネックレスを外した。それも紙と一緒にガラスビンに入れて、蓋をする。
今、この時。確かにこの思いが存在した証を、残すために。
それからあたしは立ち上がって―――勢いよく、海に向かって小瓶を投げ入れた。
小さなガラスビンは、幾重にも重なる波に飲まれて、消えた。