第二章 難航 4
「しかし、よくそんな人数を調べたね」
運転席でハンドルを切っている野田が、横目で後部座席に座っている藤森を確認するように話しかけた。藤森の隣には桐谷が座っていて、野田の隣、つまり助手席には澤田が座っている。
「はい。大変でしたよ。各警察署に協力してもらったとは言っても、数千人の情報を引き出すのには、多大な時間を使いましたね。一週間くらいですか。それでも、随分と早かった方じゃないですか?」
「ご苦労だったね」
全くです、と藤森は苦笑いをした。澤田も、それにつられて少しほころぶ。すると、その彼女が口を開いた。
「あの、私も少し彼について調べたんですけど……」
彼女も、ここ一週間をただ漫然と過ごしていたわけではないらしい。
それを知って、野田は自分に対して苛立ちを覚えた。藤森も澤田も、しっかりと事件の解決に向けて取り組んでいる。だが、自分はどうなのか。色々と考えることはしたが、結局は何も思いつかないということであきらめ、桐谷が犯人かもしれないという消極的な考えに走ったのだ。
「彼というのは、黒川隼人のことですよね?」
「はい。そうです」
藤森が、確認する。
「それで、何を調べたんですか?」
「彼の生い立ちや家族構成などについて、もう一度しっかりと確認してみたんです」
「なるほど。それで、何かわかりました?」
「はい。少しですけど……。生い立ちに至っては、すでに私や耕介くんが話した通りで、特に新たな発見は見られませんでした。でも、私は調べた時にはじめて知ったんですけど、隼人には双子の弟がいるようですね」
そのとき、桐谷ははっと思い出したようだった。
「そうだ……そうでしたよ。隼人は双子だったんですよ。すっかり忘れていました」
「そのことなら、私たちも既知の情報ですね」
そう言ったのは、野田だった。
「え? 知っていたんですか?」
「ええ。事件を捜査する上で、家族構成は確認しましたので」
「そうですか……。それなら、私が調べたことはあまり意味がなかったんですね」
澤田は滅入った様子で、肩を落とした。それをすかさず、藤森がフォローする。
「そんなことないですよ。詳しく調べたのなら、他にも手がかりとなる情報があるかもしれませんし。第一、私たちはその双子の存在についてあまり触れていなかったんですから、見直すのにいい機会をつくってくれましたよ」
そうですね、と野田も賛同する。
「確かに、その双子についてはあまり考えていませんでしたね。行方不明だから、というのもありますけど」
「行方不明なんですか?」
桐谷が聞くと、野田は少し驚いた顔になる。
「桐谷さん、知らなかったんですか? と言うことは、黒川隼人からは何も聞かされていなかったということですよね?」
「はい。双子がいたことは知っていましたけど――そう言えば、その双子に会った記憶もあまりないですね。小中学校の頃には何度か遊んだ記憶はありますけど、高校では一度も会っていない、というよりむしろ、見ていない気がします」
「……妙ですね。同じ学校だったんですか?」
「いや、それがあまり憶えていないんですよ。確か、小中学校の時は一緒だったと思うんですけどね……」
桐谷の記憶は、あいまいなようだった。彼も、きっとその存在について特に意識してはいなかったのだろう。
「そのことについてなら、私、知っていますよ」
澤田は、役に立つだろうと思ったのか、少し嬉しそうに言った。
「本当ですか?」
「はい。その双子の弟について少し気になったので、調べてみたんですよ」
「助かるよ。それで、どうだったんですか?」
「はい。――耕介くんの言う通り、同じ小学校で、中学校も同じですね。高校は違ったようですけど」
だから、高校のときは見なかったのか、と桐谷は思った。だが、小中学生の時にもあまり遊んだ記憶はない。仲が悪かったわけでもないだろうし、一体どうしてだろうか。
「あと、親とは相当仲が悪かったらしいですね」
「親と? それは、彼の母親が元風俗嬢だったことにも関係しているのでしょうか?」
「それは、わかりません。でも、彼は小中学時代、特に中学の頃はほとんど学校を休んでいて、いわゆる不登校だったようですね」
「不登校か……」
野田は、そのことに思い当たる節があるのか、何かを感じたようで腕組みをして考えている様子だった。
――そんなことを話し合っているうちに、車はN社のビルの前に着いていた。
ビルは二十数階建てのようで、最近新たに塗装されたのか、外装を見る限り新築の雰囲気さえ感じられた。と言っても、このビルは築二十年近くたっており、それほど新しいとは言い難い。
四人は車から降りると、早速中へ入っていった。
玄関ホールを抜けて、広いロビーに出る。資料を持って歩いている従業員や、受付のところで何やら話している人などの姿が目に入った。
「悪くないですね」
藤森がロビー全体を見回したあと、そう呟いた。ロビーは淡いブルーを基調としたつくりで、落ち着いた雰囲気である。
また、野田たち――つまり警察の存在はかなりの注目を集めたようで、そこにいた半数以上の人が、彼らを注視しているようだった。
桐谷は周りの視線が気になり、少し肩をすぼめたが、他の三人は慣れているのか、堂々と中央を横切って受付の前まで歩いていく。
受付係の女性も、かしこまった表情になっていて少し緊張している様子だった。
三人は、警察手帳を示す。
「警察です。星野義雄さんに会いたいのですが……」
すると受付係は、「少々お待ちください」と言って奥の部屋に入っていった。
「彼、いますかね?」
「まあ、いることを願うしかないな」
しばらくすると、受付係は戻ってきた。
「今、役員の方をお呼びしましたので、あちらのソファの方で、もうしばらくお待ちください」
四人は言われた通りにそのソファへ行き、腰をかける。先ほどの受付係はというと、新たに来た客を相手に応対をはじめるところだった。
数分後、左手の廊下から背の高く少し偉そうな中年男が歩いてくる姿が見えた。
その男は、先ほどの受付のところまで行くと、その受付係に野田たちが待っていることを伝えられたようで、こちらの姿を確認し了解するように頷いた。
そのまま歩いてくる。四人が立ち上がると、彼はまず一礼した。
「はじめまして。私、ここの取締役をしている杉上と申します」
「警視庁刑事部、捜査第一課の野田です」
「同じく、藤森です」
「澤田です」
そのとき、桐谷は自分の立場を一体何と表現したらいいのだろうか、と考えていた。警察と一緒に、作家がいるのも妙な話だ。だが、そうは言っても、自分が事件の容疑者的存在だとは言い難い。
そんなことで、桐谷が一人逡巡していると、それを見た野田が、軽い笑みを浮かべて言った。
「あと、付添い人の桐谷さんです」
桐谷は、その杉上という人への挨拶として――どちらかというと、野田の援護に対しての感謝の気持ちの方が強かったが――礼をした。
「とりあえず、応接室の方までよろしいでしょうか?」
「わかりました」
野田がそう答えると、杉上は来た方向でもある左手の方へ歩き出す。
「こちらです」
四人は、彼の後ろについて歩き、廊下を一つ右に曲ると、すぐに応接室と書かれた部屋が目に入った。
「ここが、応接室です」
と、杉上はドアを開けて中へ入る。四人も続いて入ると、当然だがそこには中央にテーブルがあり、それを挟んでその左手に複数人が座れる長椅子、右手には一人がけのソファが二つ並べられていた。普通の応接室である。
「こちらに、腰かけてください」
杉上は丁重に言うと、野田たちが座る上座とは対峙する下座、つまり一人がけソファの方に腰をかけた。
四人が座ると、杉上は一つ咳払いをしてから、話しはじめる。その表情は、自嘲の中に多少の当惑があるような、そんな感じだった。
「すみません。私、あまり状況を把握できていないものでして、少し乱雑な言い方になるかもしれませんが……」
そう言いながら、彼は四人をゆっくりと見回す。
「警察の方が、一体何の用件でお尋ねしたのでしょうか?」
彼の質問は、真っ当だった。野田たちは、何の連絡も入れないでここを訪れた――つまり、押しかけたような形になってしまったのである。
「すみません……そうでしたね。では、最初から話していこうと思います」
そう言って野田は、事件の概要と今までの捜査のことについて、ゆっくりと話しはじめた。
「なるほど。おおよそは、わかりました」
野田の話を聞き終わった杉上が、そう言った。
「つまり、その事件に関係のある星野という人が、もしかすると我が社にいる星野義雄かもしれないということですね?」
「はい。そういうことです」
「……わかりました」
と、杉上は突然立ち上がった。
「少々、お待ちください」
そう言い残して、杉上は部屋から出ていく。きっと、星野を連れてくるのだろうと、四人が全員同じように思った。
――数分後、杉上は戻ってきた。だが、その表情に何やら申し訳なさそうな感じがはっきりと見て取れる。
「すみません。今、星野義雄は本社にはいないようで……」
杉上が、そう詫びるように言ったところで、四人は彼の表情の理由を悟った。
「――しかし、昼過ぎには戻ると思いますので、そのときにでも、お手数ですがまたお越しいただけないでしょうか?」
現在の時刻は十一時前だったので、それまでには二時間ほど空いてしまう。
「では、どこかで昼食でも取って、また来ますか?」
そう案を出したのは、藤森だった。野田もこれには賛成する。
「そうですね、そうしましょうか。澤田さんと桐谷さんも、それでいいですか?」
「いいですよ」
と、澤田が快く返す。桐谷も頷いた。空腹だったことは事実だが、それ以上に他人と一緒に食事をすることが、作家という仕事のせいか、いつも一人だった桐谷にとっては久しぶりだったのである。
「どこにします?」
四人は今、車に乗っていて、どこか食事のできる場所を探していた。席順は、先ほどと変わっていない。
「私、良い店知ってますよ?」
藤森の質問に対して答えたのは、澤田だった。
「――ラーメンですけど……」
と、数秒置いてから付け加える。
そのとき、車がちょうど信号に捕まったので、野田は後ろに座っている藤森と桐谷の方へと振り返った。
「私はそこで構いませんけど、二人はどうですか?」
「食べられるなら、私はどこでも」
藤森は、笑いながらそう答えた。桐谷も頷く。と言うより、たとえ嫌だったとしても頷くほかないと思った。
「では、そこで決まりですね。どこですか?」
そう聞いて、澤田がその店の住所を伝えると、車は次の信号を右に曲り、その店のある方向へと走っていった。
「さっきの話の続きですが……」
と、澤田が話を切り出す。
「隼人の双子の弟――つまり、黒川誠が高校を都内にしなかったのも、その親との関係があったからだという話ですね」
「都内ではなかったんだ」
桐谷が、珍しく口を開いた。澤田は「うん」と笑顔で答える。
「しかし、小中学校は同じなんですよね? それなら、何で澤田さんは彼のことを知らなかったんでしょう?」
藤森は、それを疑問に思っていた。先ほどは聞き逃したので、今聞いてみる。
「それは多分、同じ小学校だったとは言っても、私は二年くらいしかいませんでしたからね。それで彼も不登校でしたし、なかなか会う機会がなかったんだと思います。もしくは、何度か会っていたとしても、単に私が忘れているだけかもしれませんしね」
「なるほど。そういうことですか」
藤森は、納得したようだった。
「まあ、その二年という短い期間の中でも、隼人と耕介くんとは仲良くしましたね」
「仲良くしていなかったら、多分、憶えてないだろうね」
桐谷がそう言ったところで、野田が話を少し戻す。
「――それで、彼の高校までの生い立ちはわかりましたが、その後のことはどうなっているんですか?」
それが、と澤田は溜め息をついた。
「一応、高校を卒業したあとは、都内の民間企業に就職したらしいんですが、なぜかそこをすぐに止めて、また都内を出たようなんですよね。それからは、もう親への連絡も全くなくなったようで、ほぼ行方不明というわけです」
「なるほど。親は、彼を捜さなかったんですか?」
「いや、少しは捜したようですけど、結局見つからなかったようです。それに彼は都内を出る前にも、捜すな、って何度も言っていたようですからね」
「そういうことですか。それにしても、両親もいないのに、よくそんなに情報が集まりましたね」
野田の言葉に、「そんなことは」と澤田は謙遜した態度になる。
「彼の両親が住んでいた家の近所の方に聞いたら、すぐに集まりましたよ。黒川さんとは長い付き合いだからね、などと言っていましたし」
車は信号を次に左へ曲って、そのまま真っ直ぐと進んでいく。
「彼、今は偽名でも使っているんでしょうか?」
「そうかもしれませんね。そうでなければ、簡単に見つかると思いますし」
野田はタバコをくわえながら、藤森の質問にそう答えた。
「――あっ! あそこです!」
澤田が突然、無駄に大きな声を出したので、野田はくわえていたタバコを落としそうになったが、どうにか落とさずに済んだのでそのままライターで火をつけた。残りの二人も一瞬驚いたが、彼女はそのことに全く気がついていない様子で、ただ微笑んでいる。そんな彼女を見て、どこか抜けている部分があるのかもしれないな、と桐谷は思った。
野田は、彼女の指差した店の駐車場に車を入れていった。車から降りると、早速中へと入っていく。
「ここ、本当においしいんですよ」
そう言いながら微笑んでいる彼女を見て、少し呆れた表情になる桐谷だった。