第二章 難航 1
星野という名字の人は、都内でも限りない数に上ったので、各警察署に協力してもらって調査は進められていた。その間に野田たちは新たな手がかりを探していかなければならない。
三人は今車に乗っていて、ある場所へと向かっていた。
「これは、なかなかの体力勝負になりそうですね」
藤森が、後部座席からのん気な声で言う。そんな彼に呆れた表情になる澤田には、ひとつ気にかかることがあった。藤森では当てにならないので、隣で運転している野田に聞いてみる。
「殺害された四人のうち、隼人の友人だという方の身元はわかったんですか?」
「いえ、依然として不明のままなんですよ。何せ、あの有様ですからね。彼の知り合いには現在も当たっていますが、簡単には見つからないと思います。はっきり言ってしまえば、黒川隼人も本人だとは断定しにくいんですよ。一応DNA鑑定も行い、同じく殺害された両親とも血縁関係がありましたし、血液型も一致していたので間違いないとは思うのですが」
「それなら、間違いないでしょうね。でも、なんでその友人は隼人の家にいたんでしょうか。両親もいたというのに」
「そこもまた、不可解なんですよね。一応、遊びに来ていたとして調査していますが、そんな単純なことではない気もします。もしかすると、犯人は黒川隼人だけではなく、その友人も狙っていたということも考えられますからね」
野田は、内心深刻だった。
「それに、黒川隼人だけを殺すつもりだったのならば、わざわざ大勢いるときではなく、一人でいるときを狙えばいいはずなんです」
「つまり、その日にやらなければ駄目だったってことですか?」
と、澤田は妙に鋭いところを突く。野田は、そんな彼女に少し感心した。
「そういうことになりますね。今回の事件は、不可解なことが多過ぎます」
珍しく弱気な発言をする野田に対して、彼を元気付けるためか、藤森は後部座席の方から顔を前にのぞかせる。
「大丈夫ですよ。星野という人さえ見つかって、捕まえられれば、必然的に白崎と名乗る男も捕まえられます。彼らが実際に手を下した犯人でなかったとしても、その犯行に絡んでいるのは確かなんですから、すぐに犯人も捕まえられますよ」
そうだな、と野田は微笑み、意気込んだ。
しばらくすると、車は街から北の方角にある林道へと入った。目的地は、黒川隼人の家である。澤田がまだ現場を見ていなかったので、そのためにやってきたのだ。
「あと、時間はどのくらい残っているんでしょうか」
突然、藤森が謹厳に言った。
「桐谷耕介が犯人ではない可能性がほぼ間違いないとは言っても、断固とした証拠はありません。その星野という人についても、全く手がかりが見つからなければ、やはり、彼が嘘をついていたことになりますよね?」
「そうですね。正直言って、私もまだその可能性が全くないとは思っていません」
「そうなんですか?」
と、澤田が驚いた。
「ええ。彼を信じてあげたいのは山々なんですが、警察官として、個人の情を入れるわけにはいきません。現在では、残念ながら最も怪しい容疑者ですからね」
「でも、警部は彼に全く疑っていないと言っていましたよね?」
藤森は、疑問に思ったようだった。
「ええ、言いましたよ。しかし、それはもしかすると油断して口を滑らすのではないかと期待してのことです。人間というものは安心すると気が抜けてしまい、言ってはいけないことを思わず口に出してしまうことがありますからね。まあ、そうは言っても、私は彼が犯人ではないとほぼ思っているんですがね」
「私もそう思います」
と、澤田も同意した。そこで、野田が一息入れる。
「まあ、その可能性があるにしても、もし彼が本当に無罪で全て本当の話だとしたら、彼を逮捕することは絶対にあってはならないことです。そのためにも、今は彼の話を信じて行動するしかありません」
そうですね、と澤田が賛成する。だが、藤森はそれではまだ不服のようだった。
「しかし、やはり証拠が見つからないとなれば、彼を逮捕するんですよね?」
藤森が、不安そうな表情で聞く。
「そうですね。それしか方法はありません。私たちとしても、事件の解決が最も重要なことですから、確かな証拠が見つからない限り、そうするつもりです」
そこで彼は、「よかった」と息を吐いた。
「私は、他に何の手立てもなくなっても、それでも警部は彼を犯人として逮捕しないかもと、少し心配していたんですよ」
一瞬、野田が睨むように振り返ったが、またすぐに視線を前に戻した。
「そんなことはしません。私も以前、自分の大切な友人が罪を犯したとき、彼が犯人ではないと必死になって捜査しました。しかし、結局何も見つからず、彼の犯行を裏付ける証拠しか出てきません。私は自分の思いを断ち切って、彼を逮捕しました。今回は、桐谷さんが犯人ではない可能性が高いとはいえ、手が尽きれば逮捕しますよ」
野田が言い終え溜め息をつくと、数秒間、感じの悪い空気が漂った。
「――それで、どれほどの時間が残されているんですか?」
どうにかしようと、澤田がとりあえず話を最初に戻す。
「そうですね。一応上の方には、第一容疑者は見つかったがまだ確信は得られず、他にも気になる点や不明な点が数多く存在するので、早急に事件を解決することは難しいと判断し、引き続き捜査を行っていくつもりと伝えてありますので、時間は結構あると思います。しかし、その前にこちらの手が尽きることの方が早いかもしれませんね」
「ですね。今のところ、その星野という人が見つからなければ、打つ手がほぼなくってしまいますからね。見つかればいいのですが……」
「じゃあ、彼を探す捜査の範囲が都内だけというのは、狭くないですか?」
澤田が、そう意見する。だが、野田は首を横に振った。
「いや、珍しい名字ならともかく、星野は多いですからね。範囲を広げることができればいいのですが、それこそ時間がなくなってしまいます。それに、黒川隼人はあまり積極的に外に出るような性格ではないという話なんです。それなら、都内で何かがあって殺人に結びついたと考えることもできます」
その言葉に、もう不服の声は上がらなかった。
車は林道を抜け、その先にある分岐点を右に曲がる。黒川の家までは、あと少しだった。三人は無言になって、それぞれ何か考えているようだった。
「さっき、隼人はあまり外に出るような性格ではないって言っていましたけど、昔は、そんな人じゃなかったんですよね……」
突然、澤田が呟いた。
「そうだったんですか?」
と、藤森は興味を持ったようだった。野田も「私も聞きたいですね」と彼女を見る。
「はい。昔はやんちゃで、私とも一緒に遊んでいました。たまにちょっかいも出してきて、どちらかというと社交的でしたね。でも、人は変わるって言いますしね」
「なるほど。何か変わる原因があったのかもしれませんね。しかし、彼の過去について知っている人間、つまり両親は一緒に殺されてしまいましたし、そこを探るのは難しいかもしれませんね」
「桐谷さんなら、知っているんじゃありませんか?」
「そうですね。幼馴染だったのですから、あとで詳しく聞いてみましょうか」
すると、そこで藤森が疑問を抱いた。
「そういえば、澤田さんは桐谷さんとは知り合いではないんですか?」
「いえ……。なぜですか?」
彼女は、不思議そうに聞いた。
「彼が黒川隼人の幼馴染で、それも特に仲が良かったと言っていましたから、いつも一緒に行動しているはずですよね。それなら、澤田さんが黒川隼人と一緒に遊んでいたときも、いたはずではないかと……。もし遊んではいなくても、そんな存在なら必ずどこかで会っているはずだと思ったんですよ」
「そう言えば、そうですね」
澤田は、彼が本当に記憶にないのか、今一度考え直してみる。だが、やはり思い出せなかった。
「……でも、やっぱり知りませんね。名前にも憶えがないですし」
「なら、あとでそのことも一緒に聞いてみますか」
藤森がそう言ったところで、車は黒川の家の前に到着した。すでに家内の捜査は終わっているようで、今は立ち入り禁止のテープが周囲に張り巡らされている。
三人は外に出ると、早速家の中へ入った。
玄関から真っ直ぐと続く廊下を抜けて、実際の殺人現場である部屋に入ると、三人は思わず鼻を覆った。あの事件から結構な時間が経っているとは言え、未だにあの異臭は残っている。
加えて、壁や床には血の染み付いた跡が残っていた。特に、床はその量のせいか、もとから赤褐色だったのではないかと思えるほどだった。
三人が中を一通り見回したあと、藤森は澤田に感想を聞いた。
「どうですか? ひどいでしょう?」
彼女は、血痕で染まった床を見ながら吐息をつく。
「はい、ぞっとしますね。事件の残酷さが見るだけで想像できます」
だが、そこで彼女の目付きが急に鋭くなった。
「でも、変じゃないですか?」
その発言に、二人は彼女に視線を向ける。
「何が、変なんですか?」
野田が聞いた。
「事件当時、犯人は家に急に押しかけてきて四人を殺害したんですよね?」
と、澤田は聞き返す。
「一応、そう考えて捜査していましたが……」
その質問に、野田はあいまいに答えた。それを見て澤田は、自分の考えに自信がついたようだった。
「なら、やっぱり変ですよ。急に知らない人が押しかけてきたとなれば、当然、四人はパニックに陥るはずです。あと、凶器はナイフで四人の死亡推定時刻は四時から六時でしたよね。それなら、四人とも起きているはずで、一度で一気に殺すことは不可能ですから、必然的に一人ずつ殺していくことになります。若い男が二人もいるんですから、もしかすると、捕まえられた可能性もありますよね。少なくとも、彼らは何かしらの抵抗はしたはずなんです。それなのに、この部屋には争ったような跡が何一つ見受けられません。明らかに変じゃないですか? 一人ならともかく、四人相手にそんな芸当ができるとは思いません」
澤田が言い終えたとき、二人は驚きの目で彼女を見ていた。まさか、このまだ若い彼女が、ここまで冷静に分析できるなどとは思っていなかったのだろう。
澤田は二人の表情を見て、「なんですか」と怪訝に言った。「いえ」と野田が答える。
「確かにそうですね。周囲に傷跡一つ残さず、四人もの人間を殺害することは不可能に近いです。警察に連絡しようと受話器を取ったような跡も、助けを求めて外に逃げようとした形跡もありません」
「逃げようとすれば、一人くらいは外に出れたんじゃないですか?」
「そうですね。しかし、現実には跡形もなく綺麗に殺されている……」
またひとつ謎が増え、野田は表情を曇らせた。
「なら、少なくとも四人いることは最初から知っていたということになりますね」
「それに間違いはないと思います。しかし、いくらその事実を知っていても、不可能でしょうね」
すると、藤森は何か閃いたようで手を叩いた。
「犯人は、はじめからこの家に潜伏していたんじゃないですか? そして、入ってくるのを見計らって、次々と殺していくんですよ」
彼は、ナイフで何か切りつけるようなジェスチャーをした。「しかし」と野田は言う。
「確かに、彼の留守中に家へ侵入して、帰ってくるところを狙えばうまくいくかもしれません。もしくは、最初に一人でいる黒川隼人を殺して、次からは家に来る順に殺すこともできます。しかし、前者では、四人が同時に家に入ってくることも考えられますよね。後者の方も可能性はありますが、それでも三人同時となれば、難しいでしょう。あと、両者ともその方法では、死亡する時刻がどうしてもずれてしまいます。しかし、四人の死亡推定時刻は、ほぼ同時刻です。偶然そうなったかもしれませんが、やはり可能性は低いですね。いずれにしても、それらの方法では、失敗するという可能性があります。しかし、犯人がそんなリスクを背負うような真似をするでしょうか。指紋も、髪の毛一本さえも綺麗に取っていくような奴が……」
「しませんね」
藤森は、少し気落ちしたようだった。
「じゃあ、犯人はどうやって犯行をこなしたんでしょうか?」
澤田が、当たり前の疑問を投げかける。三人はそれぞれ考えてみたが、特に有望なものは出てこなかった。
数分経ったところで、野田が口を開く。
「まあ、ここであれこれ考えるのもあれですし、今日のところはもう帰りましょうか。桐谷さんに聞くことも、色々と出てきましたしね」
二人も疲れていたようで、「そうしましょう」と快く頷いた。