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不覚の運命  作者: Traitor
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第一章 不覚 3

 ――何やら外が騒がしい。そう思った。

 はっとして、ベッドから飛び起きる。時刻を確認すると、三時半だった。

 一瞬、それが昼なのか夜なのか判断できなかったが、周囲を見渡して明らかに昼の明るさだと気付く。昨日は全く寝付けず、結局夜が明けてから眠ったのである。

 一日を無駄にしてしまった。そう思いながら、洗面所へ足を運ぶ。

 桐谷は、こんなことは久しぶりだと高校時代を思い出した。友人と一夜語り合ったとき、好きな人に振られた悲しみに眠れなかったとき、テレビゲームに夢中になって徹夜したとき、よく夕方近くに起きてしまい、一日を無駄にしたと嘆いたことを憶えている。あのころは楽しかったな、と桐谷はほのぼの思った。

 洗面所で顔を洗っていると、ふと、鏡に赤い液体が付着していることに気がついた。

 突然、脳裏に昨夜の出来事が蘇った。

 瞬間、吐きそうになる口を押さえ、壁にもたれかかる。そのままずるずると床に落ちていき、膝をつくような格好になった。

 ――夢ではなかった。

 改めてそう実感する。身体の内側からは絶望が押し寄せると共に虚脱感が、そしてもう駄目だという思いが生まれた。

 あの現実が、自分の将来に多大な支障を来たす気がしてならない。皮肉にも、そんな考えを取ることしかできなかった。

 桐谷はゆっくり立ち上がると、再びベッドへ向かって歩き出した。

 ――何も考えたくない。

 それ一心で、とにかくそのためには寝るしかないと思ったのである。

 そのとき、不意にもチャイムが鳴った。

 突然のこともあり、心臓が跳ね上がりそうになる。というより、嫌な気がしてならなかった。

 一瞬、居留守を使おうかと迷ったが、それではなお怪しいことになるので、嫌々ながらも玄関へ向かう。

 扉を開けると、そこには二人の男が立っていた。

 二人は、警察手帳を示す。

 それを見せられた途端、彼は微かな希望さえも打ち砕かれたような気分になった。

「警視庁刑事部、捜査一課の野田です」

「同じく、藤森です」

 そう名乗って、二人は桐谷を概観する。桐谷もまた、無意識のうちに二人を観察していた。

 野田は優しそうな顔つきだったが、どこか引き締まった感じのある四十代前半の男で、藤森は野田と比べると少しがっちりとした体格で、多少若そうに見えた。背丈は、二人ともあまり変わらない。

「桐谷耕介さんですね」

 野田が確認のためか、そう聞く。桐谷は落ち着かない表情で頷いた。

「……寝起きですか?」

 突拍子もない質問に、桐谷は少し困惑する。

「え? あ、はい。昨日はあまり寝付けなかったので……」

 すると、「そうでしたか」と野田は言いながら、横目で藤森と目を合わせると、二人は何か納得するように頷いた。

 桐谷も、その行動にはひどく動揺したが、とにかく何もせずに帰ってくれることを祈りながら、できる限りの平然を装う。

「それで、警察が一体何の用なんですか?」

 いかにも何も知らないというような口振りで、桐谷は聞いてみた。すると、二人の表情が急に深刻になる。

「……それが、あなたの友人である黒川隼人さんが……昨日、亡くなりました」

 数秒間の沈黙。

「え、隼人が? それは本当ですか?」

 だが、内心ではやはりと桐谷は納得した。昨日のあれは、明らかに黒川のものだったと確信していたのである。

 ――そう、あれは手だった。

 桐谷は、無意識のうちにその光景を頭の中に蘇らせていた。

 手首から先を無残にも切り落とされた人間の手。そして、それを握り締めているのもまた人間の手、つまり自分の手だった。

 二つの手は、似ているようで似えない。それらは、生と死という全く異なった環境に晒されているのだ。その両極端の手が、今自分の目の前に存在する。

 そう思った途端に、何も考えられなくなっていた。その理解し難い光景に、すべてを投げ出したくなったのだ。

 自分もいずれ、こうなる運命ではないのか。そんなふうにさえ思った――。

「どうしました?」

 その言葉で、はっと我に返った。桐谷は、自分がとても恐ろしいことを考えていたことに愕然とする。

 確かに、あれは黒川の手だった。そして、そのときは現実を見る余裕がなかったのである。だが、その現実――つまり黒川が死んだということを改めて人の口から告げられると、急に心が痛くなってくる。

 いつの間にか、桐谷の目には涙が滲んでいた。

「いえ。少し悲しくなってしまって……」

 桐谷は手で目元を拭ってから、そう言った。

 また、それは演技でも何でもない本心からによるものだったが、それを彼らがどうかは受け止めるかはわからない。それが不安だった。

「それで、何か心当たりはありませんか?」

 厳しい質問だった。一体、何と答えたらいいのだろうか。素直に言うべきか、それとも嘘をつくのか。ふたつにひとつ、やはり素直に言うべきだったのかもしれない。だが、そのときの桐谷は考えるよりも先に口が動いていた。

「いえ……。何も思い当たることはありません」

 言い終えたあとに、しまったと思う。だが、それはもう後の祭り。

 その表情が出てしまったのか、二人はいぶかしげな目で桐谷を見る。すると、野田の方が口を開いた。

「あなたが乗っている車は、下の駐車場にあるナンバーが2478の黒い軽自動車ですよね?」

「……はい」

 まさかとは思った。だが、ナンバーさえも確認済みとなると、やはりそれが現実なのだろうと思う。案外、人は知らぬ間に色々と見ているものである。

「その車が、昨日の夜九時過ぎに黒川さんの家の前に止まっていたとの情報があるのですが……。それでも、何も心当たりはないと」

「――」

 桐谷は、押し黙ってしまった。もう嘘を通すことはできない。だが、今から本当のことを言ったとして、彼らが信じてくれるのだろうか。

「では、その車にはあなたが乗っていたのですね?」

「はい……すみません」

 桐谷はうつむき、唇を噛み締めた。嘘をついてしまったことを改めて後悔する。すると、野田の表情から微かに安堵の色が見えた。

 それを見て、桐谷は口惜しくなる。これではまるで、自分が犯人のようではないかと。

「あなたが、やったんですか?」

 野田は優しい声で言った。今こそ核心に触れるべきだと思ったのだろう。だが、その質問には断じて首を縦に振る必要も理由もない。自分がどんなに怪しく映ったとしても、現実にはやっていないのだから無罪だ。そう思うと、少し楽になった。

「いえ、私はやっていません。そこにいたのは事実ですけど」

 彼らの目には、桐谷が開き直ったようにしか見えなかったのかもしれない。だが、それでも構わなかった。今は、自分が無罪だということを証明するしかないのだ。

「では、なぜ嘘をついたんです?」

 その態度の変調ぶりに少し面倒さを感じたのか、今度は藤森が不機嫌そうに聞いてきた。

「それは、その……」

 桐谷は言い返す言葉も見つからず、そのまま口籠ってしまう。正直に言えば、なぜ嘘をついてしまったのかも彼自身よくわかっていなかった。おそらく、無意識のうちに自分に疑いがかけられることを恐れていたのだろう。

「すみません、もう少し大きな声でお願いします。うまく聞き取れないので――」

 ――二人の間に、むっとするような居心地の悪い沈黙が続く。それを嫌ったのは、二人を見ていた野田の方だった。

「……まあ、藤森巡査も少し落ち着いてください。詳しくは、署の方で聞くことにしますから。いいですね?」

 野田がうまく丸め込んだような形になった。藤森は、仕方なしという感じで溜め息をつく。それを確認するか否か、野田は桐谷の方へと向き直った。

「桐谷さん。署の方で詳しいことを聞かせてもらいます」

「わかりました……」

 ここまでこじれたのだから、もはや反論の術はない。

 事情聴取を受けるのははじめてだったが、きっと正直に話せばわかってくれるだろうと桐谷は期待していた。


 野田から詳しい事件内容を聞くと、黒川一人ではなく四人も殺されていたとのことだった。そのうちの二人は彼の両親であり、もう一人は彼の友人だと思われているが、その友人の身元だけはまだ特定できていないらしい。

 ということは、と思う。桐谷が見た手は、もしかすると他の人間の手だったのかもしれないのだ。だが、そんな気味の悪い考えはしたくなかったので、それ以上は考えないようにした。

黒川は一人暮らしであるから、その日は偶然両親と友人が遊びに来ていて、一緒に殺されたと見て調査しているようだった。

 またその友人が特定できないのも、その死体と黒川隼人の死体だけがバラバラに切り離されていて、家中のあちこちに放置されていたからであった。

 その上、顔の部分は無残にも切り刻まれ、すでに誰だと判断できる状態ではないらしい。それあって、はじめは黒川隼人も本人かどうかと悩まれたが、色々調べた結果彼で間違いないだろうと判断された。

 また、野田によると犯人はまだ断定できていないとのことだったが、唯一指紋が発見され、加えて彼の車を目撃したという情報から、桐谷を犯人だと見ていたことに間違いはなさそうだった。


 事情聴取がはじまって、桐谷がすべてを話した次の日。

 彼らも桐谷の話を信じ込んだわけではないが、それでも白崎竜輔という人物については当然調べてみる。彼らも聞いたことがあるなどと言っていたので、きっと有名な探偵なのだろうと桐谷は楽観的に考えていた。

 だが、そんな考えもすぐに打ち崩されたのである。

「そんな……」

 それは、藤森が持ってきた情報に対しての反応だった。

「はい。白崎竜輔という私立探偵は、確かに存在しました。テレビにも何度か出演経験のある比較的有名な探偵です。しかし、北海道ですよ? それにここ一年間は、一度も道外に出ていないことも確認されました」

 有名な探偵だというのは間違っていなかったが、他が明らかにおかしい。だが、藤森はその情報に間違いはないと言っていた。

「そんな……でも、俺は確かに会ったんだ! 信じてくれ!」

 桐谷は叫んだが、「そう言われても」と野田は頭をかくだけで、藤森も腕組みをしながら「さすがに信じられませんよね」などと言っていた。

 まるで理解できない。そう思った。

 きっと、藤森が持ってきた情報は誤っていたんだ。自分が会ったのは、確かに白崎竜輔なんだ。桐谷は必死になって自分に言い聞かせる。だが、藤森はそんな淡い期待をも吹き飛ばす決定的な情報をも持っていた。

「あと、あなたは彼が二十代か、悪くて三十代前半と言っていましたよね?」

「はい、そう見えましたので……」

「では、この写真を見てください。右端に写っているのが白崎探偵です」

 そう言って、藤森は一枚の写真を取り出す。

 それがまず野田の手に移ると、彼は眉間にしわを寄せて「なるほど」と呟いた。そして、桐谷にその写真が回ってくる。

 桐谷は、何か嫌なものが喉に込み上げてくるのを感じながらも、恐る恐るその写真に写っている白崎を見た――。

 信じられない。それが率直な感想だった。

 それは、自分の知っていた白崎竜輔ではなかったのだ。明らかに四十代、良くて三十代後半がいいところ。誰が見ても決して二十代には見えないだろう。というより、顔からして全く違っていた。それはあの鋭い目つきを持った青年などではなく、優しそうな目をした中年男だったのである。

「どうですか? 彼に間違いありませんか?」

「……いえ、全く違います」

 桐谷の中で何かが弾け崩れ落ちていった。そして、混乱にも似た感情が生まれてくる。

 ――なぜだ?

 桐谷は自問した。心臓の鼓動は速まり、手足が勝手に震える。

 それが自分の置かれている状況に対しての不安なのか、あの日出会った見知らぬ男への恐怖心なのか、あるいは他の何かに対するものなのか、桐谷自身わかっていなかったが、少なくとも理解しようとしてもできない絶対的な事実に対して、そのすべてを拒否したかった。

「では、あなたが会った人は一体誰だったんです?」

 藤森が、嫌みのように聞いてくる。

「……わかりません」

 そう答えるしかできなかった。二人の警察官は、じっと桐谷を見つめている。

「あなたは、嘘をついたのではないですか?」

 今までずっと言いたかったことを、ついに我慢が尽きたのか藤森は明言した。

「違う! 嘘じゃない!」

 桐谷も、当然のように反論する。だが、それ以上言葉が出てこない。

「やはり、嘘なんですね?」

 言葉が詰まる。だが、桐谷はその言葉を無理やり無視して、一体あの人は誰だったのかと考えた。

 いや……と、桐谷は思い直した。そして、今までの出来事の流れを頭の中で整理し、ゆっくりと反芻する。

 そのとき、やっと理解した。

「そうか……騙されたんだ」

 導き出された結論。桐谷は呟いて、苦笑する。

 そして、自分のふがいなさに思わず机の上へ拳を打ちつけた。拳がびりびりと痺れるように痛い。だが、そんなことはすでに意識とは無関係だった。

「そうですね」

 と、野田が彼の言葉を聞き入れる。

「あなたの話を信じるのならば、あなたは騙されたということになります」

 だが、桐谷はその言葉から同情を感じられなかった。きっと、まだ疑っているのだろうと失望する。だが、そう簡単にあきらめるわけにはいかない。

「その、あなたの話を信じるなら、という言い方はやめてくませんか。それではまるで……」

「気持ちはわかります」

 今度は、藤森がなだめるようにいった。

「しかし、我々の見解としては、あなたがやったとしか考えられないんですよ。わかりますね?」

「はい……」

 そんなことは、わかっていた。だが事実は違う。それを理解してもらいたいのだが、証明できるものが何もない。

「第一、指紋も出てしまっている」

「だからそれは……」

「わかっています。しかし、それが現実なんです。もうやめてください」

 桐谷は、ついに何も言えなくなってしまった。

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