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不覚の運命  作者: Traitor
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第一章 不覚 2

 朝は、いつもの機械的な行動から始まる。

 まず洗面所に行って顔を洗い、歯を磨いてから朝食の準備をする。朝食を取ったら、すぐに食器を洗ってしまおうというのが日課だった。そして、それが終わるとあとは暇になってしまう。

 洗濯や買い物は昨日のうちに済ましておいたし、特にやりたいこともない。そこで、昨日はあまり仕事に手がつけられなかったということで隣の部屋に行った。そこには、仕事をするためのパソコンが一台置いてあり、桐谷はそこに座った。

 桐谷の家は2LKで、その割に家賃はそれほど高くはないという好都合な、彼にとっても満足のいく家だった。いつもはリビングルームで食事をしたり、テレビを見たりしていて、残り二つあるうちの一つは寝室、もう一つの部屋は仕事専用として設けていた。

 また、桐谷はその仕事だけで暮らしていけるほど、有名な作家だった。

 彼の処女作が応募したところで最優秀賞となったのが、作家としてのデビューのきっかけだった。ベストセラーも一本書いたことがあり、雑誌などで取り上げられることも多かった。

だが、あまり人前に出たくないという理由で、テレビなどの出演にも何度か呼ばれたことがあったのだが、それらはすべて断っていた。

 以前はそんなことでそれほど退屈ではなかったが、最近はあまり調子も乗らず、作品の売れも良いとは言い難くなってきていた。そのせいで、たまにはテレビにも出演してみたい気にもなるのだが、以前のように呼ばれることもなくなり、ひどく退屈になってきていたのである。

 桐谷はパソコンの電源を入れると、早速作業に取りかかった。

 さすが作家ということだけあって、続きを書こうと気合を入れると気づけば昼近くになっていた。

 一段落したところで立ち上がり、大きく伸びをする。一息つくとそのまま台所へ向かった。

昨日買っておいた食パン二枚をオーブンで焼き、バターを塗ってパソコンの前に持っていく。軽めの昼食だった。

 昼食後、再びパソコンに向かってキーを叩く。きりのいいところまで終わらせると、ちょうど三時を回ったところだった。

 なかなか連絡が来ないな、と思いながらベランダに出て外を眺める。

 相変わらずの光景。そこで一服し、部屋に戻るとベッドに倒れこんだ。

 長い間パソコンと向き合っていたので、目も疲れている。少し休憩するつもりで目を閉じたが、そのまま眠ってしまった。


 日も落ち、すっかり暗くなったころ。

 目が覚めたのは、突然かかってきた電話のためだった。

 桐谷は半ば朦朧とした意識の中で、その電話に出る。相手が白崎だと名乗ると、わずかに意識が目覚め緊張した。だが、声の雰囲気やイントネーションが今までと少し違うように感じるのは、気のせいだろうか。

「すみません。今すぐ、黒川さんの自宅に行ってくれませんか?」

 時計を見ると、すでに八時を回っていた。

 桐谷は、常識では考えられない時間帯ではないだろうかと思う。寝起きのせいか、そんなことは面倒で仕方がなかった。

「……俺が行くんですか? あなたが行けばいいじゃないですか」

「今、手が離せないんですよ。それに少し離れたところにいるので、あなたに行ってもらった方が断然早いんです」

 その言葉は、言い訳にしか聞こえなかった。そもそも一般人を巻き込むこと自体、非常識ではないだろうか。

「でも、行方不明なら家にいるはずがないのでは?」

 桐谷も必死に抵抗する。だが、彼はそれでも引き下がろうとはしなかった。

「黒川さんが家にいるという情報が入ったんですよ。それで一刻も早く、その真偽を確認したいんです。お願いします」

 なぜそこまでこだわるのか、桐谷には理解できなかった。

「――わかりました。行けばいいんですね」

 桐谷はそう吐き捨てると、電話を切った。とにかく面倒だったが、言ってしまったものは仕方がないと身支度をはじめる。

 昼ならまだしも、こんな夜遅くに頼むなんて失礼だと少し乱暴に玄関のドアを閉めたが、さすがに近所には迷惑をかけられないだろうと思い直し、静かに歩いて駐車場へ向かった。

 エレベーターを降りて外に出ると、夜風が少し冷たかった。

 駐車場に停めてある見慣れた黒の軽自動車に乗り込み、エンジンをかける。

 黒川の家はここから街の北にある林道を抜けた先にあり、そこは自然の残ったあまり人の住んでいない区域だった。以前、何度か訪れたことがあったので憶えている。

 桐谷は車を運転しながら、携帯電話で黒川の家に連絡を入れてみた。

 その行為自体交通法違反だが、今はそんなことを守ろうという気分ではなかった。黒川が家にいなければ、それこそ無駄足になってしまうのである。せめて連絡さえつけば、行く意味も出てくる。行方不明になった理由を聞くことができるからだ。

 だが、黒川は電話に出ない。やはり、家にはいないのではないか。携帯電話にも連絡したが、それでも彼は出なかった。

 何とも気が進まないまま、それでも車は黒川の家へ少しずつ近づいていった。

 街中を抜け、車通りの少ない林道に入る。電灯も少なくなってきて、都会の街並みに慣れていた桐谷にとっては、どんどんと闇の中へ吸い込まれていくような感じだった。

 また、桐谷は車を運転している一方で、自分はもう少し固執するような性格にはなれないのかと考えていた。

 先ほどの電話もそうだったが、今までを振り返っても断りたいとは思っているのだが、結局断りきれずに従ってしまうということが甚だ多かった。それが性格なのだから仕方がない気もするが、それで後悔した経験は何度もある。日常を変える以前に、まず性格を変えなければいけないのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、車は林道を抜け、少し解放的な道に出ていた。周囲を見渡すと、所々に民家が見当たるようになってきている。

 分岐する道を右に曲がれば、あとは一本道だったはずだ。おぼろげだった記憶も、見覚えのある道を進んでいくうちに、どんどんと鮮明になってくる。間違いない、この道だと確信し、桐谷はなぜか嬉しくなった。

 それから数分。数少ない民家のひとつに、はっきりと記憶に残っている家があった。電灯ひとつで照らされているその家は、さぞ不気味には見えたが、間違いなく黒川の家だった。

薄い灰色を主体とした一般的な平家。たいして大きくは見えないが、それでも一人暮らしには十分なほど中は広かったことを憶えている。

 また、家の前には車が一台止まっていた。

 桐谷と同じ黒の軽自動車で、ずいぶん酷似しているように見える。きっと黒川の車なのだろうが、以前はワゴン車だったので不思議な気分だった。

 そしてもうひとつ、気にかかることがあった。

 それは、部屋の明かりがひとつもついていないことだった。すでに寝ている可能性もあるが、時刻はまだ九時を回ったところで、一般的に考えてその可能性は低い。それでも車はあるのだからいるはずで……と、色々考えていると混乱しそうになるので、あまり深くは考えないようにした。

 車を止め外に出ると、思った以上の寒さに身震いする。都会に比べて気温が低いのはもちろん、障害のないところを真っ直ぐと吹く風はもっと冷たかった。

 玄関まで歩き、一息置いてからインターホンを押す。だが、しばらく待っても返答はなかった。携帯電話に電話しても、やはり出ない。

 やはり、いないのではないか。そう思いながらも、何度かコールを繰り返してみる。だが、出るような気配は全くなかった。

 最後に、駄目もとでドアノブをひねってみる。すると、予想外にもそれは回った。

 ――瞬間、はっとして息を呑む。嫌な予感がするのは、気のせいだろうか。

 ゆっくりとドアを引いてみた。金属が擦れるきしんだ音が、辺りの静寂に鳴り響く。中は、真っ暗で何も見えなかった。

 そこで何度か、黒川の名を呼んでみる。だが、叫んでみても返事はなく、余計に静けさの印象を強めるだけだった。

 確かめた方がいいのだろうか。桐谷は葛藤していた。第一、中に入ること自体相当なリスクを伴うのだ。不法侵入にもなってしまう。

 だが、その一方で只ならぬ予感がしていたのも事実だった。夜の九時、全く連絡の取れないこの状況で、ドアが無造作にも開いている。明らかに妙ではないか。

 まさか、黒川の身に何か起こったのでは……。

 そう考えると、いても立ってもいられなくなった。

 意を決して中に踏み入る。幸い、照明のボタンは近くにあったので、これで安心だとそのボタンを押した。だが、なぜか照明はつかない。

 瞬間、身体が硬直し背筋に冷たいものが走った。再び、嫌な予感が胸中に宿る。

ただ、偶然にブレーカーが落ちているだけかもしれない。不甲斐なくも、そんな無理な考えに走ってしまう。だが、そんな単純なことではないという感じは、当の桐谷には嫌なほど伝わっていた。

 仕方がないので、ドアを開けたまま微かに入ってくる電灯の光を頼りに、奥の方へゆっくりと進んでいった。

 暗闇の中、桐谷は一歩一歩慎重に足を運んでいく。

 一寸先は闇ということわざは、つまり今この状況を指しているのだな、と桐谷は思った。何も見えない暗黒の世界で、次の瞬間に一体何が起こるのかなど万人に知るよしもないのだ。

 また、思考している他方で、桐谷はある異変を感じはじめていた。それは、奥へ進めば進むほどはっきりとしてくる。

 腐臭……。

 それは、生臭いを通り越したような強い吐き気をもよおす激烈な臭いだった。その根源さえわからなかったが、彼の予感は確信に変わりつつあった。

 桐谷は、自分の心臓が大量の血液を全身に送り出していることに気がついた。

 ――極限の恐怖が、形を持って自分の未来に訪れる。

 それを頭だけではなく、身体でも感じていた桐谷は、引き返したいという気持ちでいっぱいだった。だが、真実を突き止めるべきだと反発の意識も働いている。

 逃げ出したいという欲を振り払って、扉の前まで一気に歩み寄る。ここまで来たからにはやるしかないだろ、と桐谷は自分自身に言い聞かせていた。

 扉に手をかける。今にも心臓がはち切れそうな思いの中、気合を入れてそのままゆっくりと押していく。

 中の空気が入ってくると、途端に強烈な臭いが鼻孔を刺激した。

 ――異様なまでに、静まり返っているような気がする。

 中をのぞいた瞬間、桐谷はそう思った。では、先ほどまで静かではなかったのかと言えば、もちろん静かだった。だが、そのような聴覚の問題ではなく、感覚の部分で今までとは全く違う静寂の中にいるという錯覚を生み出していた。

 勇気を出して、一歩、二歩と踏み出していく。その度に強い恐怖が押し寄せてきて、半身まで浸かった泥水の中を進むように、思うように身体が前に進まない。それでも、懸命に前へと踏み出していく。

 すると、足の先に何かが当たった。

 身体が敏感に反応して、咄嗟に足を引っ込める。恐怖のあまり、そのままの姿勢で数秒間硬直していた。はっと我に返り、そのものを凝視する。だが、暗闇のせいで黒い塊にしか見えなかった。

 生理的にあまり手に取りたくはない。それが本音だったが、身体は姿勢を降ろすことの方を恐れていた。

 やむを得ず、手を伸ばす。

 ――ゆったりとした、永遠にも感じられそうな時間が自分の中を流れていた。そして、心臓の鼓動も異様なまでにゆっくりと感じられた。

 それは、妙な感触だった。もっと硬い金属か何かだと思っていたが、柔らかくそして冷たかった。だが、それはぬいぐるみなどとの感触とはまた違い、触ったことはあるのだが、それが何だったのか思い出せない。

 結局何もわからないまま、そのものを掴む。

 瞬間、全身に鳥肌が立ち、つかんでいた手が勝手に離れた。手が拒絶したのである。苦手な昆虫、例えば蜘蛛が知らぬ間に手の上にいたときのような、そんな反応、また気持ち悪さだった。

 気を取り直そうと、深呼吸をする。ものを取るという単純な行為も、場合によってはこんなにも大変なことになるのか、と桐谷は痛感した。

 嫌々ながらも、もう一度つかみ自分の顔の前に持っていく。心臓の鼓動は、先ほどとは打って変わって速まっていた。

 ――驚愕、というより、それは困惑に近い状態だった。

 そのものが、なぜここにあるのか。どうしてこうなっているのか。一瞬では判断しきれなかった。数秒、数分、どれほどの時間が流れたなどわかるはずもなく、ただ固まっていることしかできなかった。体が動かない、何もできない、時間さえも止まったような、空白の時間が流れる。

 やがて、それが何であるかを認識したとき、身体の内側から溢れんばかりの恐怖が押し寄せてきた。自分では制御できないような、絶対的な恐怖に支配される。

 気がつけば、桐谷は叫びながら、それを闇の中へ思い切り投げ捨てていた。

 それは花瓶か何かに当たったようで、物が割れ、水が飛び散るという耳をつんざくような不快音が轟く。だが、桐谷はそんなことなど気にも留めず、そのまま振り返ると玄関に向かって走り出した。

 外に出ると、一目散に車へ駆け込み、急いでエンジンをかけ発進させる。

 そのすべてが、無意識の行動によるものだった――。


 帰り道も、長く果てしなかったように感じた。

 それは、彼の意識が通常とは全く異なったところにあったからかもしれない。だが、そのように自分を客観的に見ることもできなかった桐谷は、その長い道のりをただ呆然と進み続けるだけだった。

 やがて家に帰った桐谷は、自分の意思とはほぼ関係なく洗面所へ向かった。そして、住み着いてしまった恐怖を洗い落とそうというように、懸命に手を洗う。

 未だに頭の中はぼうっとしていて、思考することさえままならなかった。

 ふらふらとした足取りで、そのままベッドに倒れこむ。

 それはかつて経験したことのない出来事、というより桐谷はその非常事態に対して、完全に無力だった。普通、警察に通報するはずのことが、脳裏にそんな考えは生まれてこない。これが夢であってくれ、と願うだけだった。思い出そうとするだけで、激しい頭痛が襲ってくる。

 ――眠れない。

 桐谷は一晩中、その現実の悪夢にうなされていた。

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