第六章 想念
桐谷は、街の東側に位置するとある居酒屋へ、微雨の中、車を走らせていた。この地域周辺では、夜の八時ともなると、歩行している人の姿も少なくなる。その代わりと言ってか、仕事を終えたサラリーマンたちなどが居酒屋へと向かう姿の割合は高かった。明日から土曜日なので、思う存分飲めるのだろう。
あれから、三ヶ月近くがたっていた。
八月上旬。梅雨も終わり、人々の気分もそれまでの異様な湿気と長雨に耐え抜き、やっと快適に過ごせるということで、高調だった。
桐谷もその例外ではなく、気分は良かった。あの出来事での陰鬱さも、時間の経過につれて薄れていき、今では以前と変わらない生活を送っていた。
仕事の方では、以前締め切りに追われていた小説を無事書き上げ、今は新たな執筆に追われている。何とも休む暇のない仕事だが、それでも桐谷は純粋に小説を書くことを楽しんでいた。
それにしても、今の桐谷は異様なまでに気分が良さそうである。
その理由は、澤田とのことにあった。以前メールアドレスを交換して以来、度々メールすることがあったのだが、ついにこの間、彼女の方から交際を申し込まれたのである。
急なこともあり、桐谷は多少悩んだが、結局受諾した。広い視野から理想を目指したいという気持ちがないでもなかったが、それでも彼女は十分理想の女性だったのである。決して、軽い気持ちから交際を受諾したわけではなかった。
そして、今日がその初めてのデートだったのである。と言っても、夜の八時に居酒屋とは友人同士が飲み語らうような時刻と場所だが、彼女は仕事の都合であまり時間が取れないらしく、それに彼女からそこを指定してきたのである。
桐谷は浮かれた気分で、下手な口笛を吹いてみせた。
そして、約束の時刻の十分ほど前に、桐谷はその居酒屋に到着したが、すでに澤田は来ているようだった。彼女が、店の前に立っていたのである。
「お待たせ。随分と早いね」
「うん。場所はもう取ったから、ついてきて」
笑顔で言ったあと、彼女は店の中へと入っていった。桐谷もあとに続く。
ついていって、部屋の襖を開けると、中の様子に桐谷は驚いた。
そこには、野田と藤森の姿があったのである。
「桐谷さん。お久しぶりですね」
「すみませんね。二人の邪魔をするみたいで」
桐谷を見るなり、野田と藤森はそれぞれ言った。
驚いた顔のまま、桐谷は澤田を見ると、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。
「ごめんね? でも、驚いたでしょ?」
「うん」
二人きりではなかったのか、と少し残念な気がしないでもないが、それでも悪い気は全くしなかった。何せ、この二人である。それが澤田の友人や他の人たちなら、桐谷もさぞ不愉快に思っただろう。だが、野田と藤森だけは特別だった。
「桐谷さん。邪魔をするみたいで、すみませんね」
藤森が、また同じことを言った。彼は、単にからかって楽しんでいるように見える。
「いえ。むしろ嬉しいくらいですよ。またこうしてお会いできたんですから」
桐谷は素直に答えた。
「桐谷さんも、元気そうで何よりです。三ヶ月ぶりですかね?」
野田が言う。彼も変わっていないな、と桐谷は思った。まあ、当然のことだが。
「そうですね。あのときは、本当にお世話になりました」
「いえ、こちらこそ。最近、小説の方はどうなんですか?」
野田は、何か書くようなジェスチャーをしながら聞いた。
「なかなか順調だと思いますね。この間も、一作書き終わりましたし。今は、新しい作品に取りかかっているところです」
「その作品は、ぜひ読ませてもらいたいですね」
「ありがとうございます」
「私も読もうかな」
藤森が、呟くように言った。
「藤森さん。本当に読むんですか?」
「確かに」
と、皆が笑った。そんなこんなで談笑していると、そのうち話の趣旨は野田たち警察のことへと変わっていった。
「そう言えば、あれ以来何か大きな事件はあったんですか?」
桐谷が、聞いた。最近あまりニュースも見ていなかったので、そのことが少し気になったのである。
「いえ、大きな事件というのはないですね。事件があったとしても、すぐに犯人が見つかるようなものばかりですし。まあ、あの事件が複雑過ぎたんですよ。あのような事件は、当分の間は起きないと思います」
「そうですか。まあ、あんな事件がそう何度も起きていたら、警部さんたちも身が持ちませんよね」
「確かに、その通りですね」
野田は微笑んでいたが、隣で藤森が何か悲しそうな顔をしているのが、桐谷は気になった。だが、あえて聞こうとはしなかった。
それから、一時間ほどたったころだった。
「――では、私たちはこの辺で」
「そうですね」
突然野田がそう言って、立ち上がった。藤森も頷き、それに続く。
「もう、帰るんですか?」
「はい。明日も色々とありますので」
「そうですか。大変ですね」
「まあ、二人の邪魔をしないように、ということですよ」
と、藤森がまたからかうように言った。桐谷は苦笑いする。
「今日は久しぶりに桐谷さんとお話ができて、随分と有意義な時間を過ごせました。ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。帰りは、気をつけてください」
野田は礼をすると、「では」と言って帰っていった。藤森も「楽しんでください」と相変わらずなことを言って、野田のあとについていく。
「耕介くん……」
二人きりになったところで、澤田が口を開いた。それがどこか深刻そうな様子だったので、桐谷も真面目に彼女の方へと顔を向ける。だが、彼女は俯いていた。
「どうしたの?」
澤田は、少し躊躇ってから言った。
「あのね……野田警部、やめるかもしれないんだって」
「やめるって、警察を?」
「うん……」
桐谷は一瞬、言葉に詰まった。野田が、警察をやめる?
「どうして?」
その質問に対しても、彼女はやはり俯いたまま答えた。
「なんか、やっぱり自分にはこの仕事は合わないって……」
「そんな……」
「あの事件からずっと考え込んでいたみたいだったから、直接聞いてみたんだ。そしたら、そう言ってたの。あの事件で、色々と思い知らされたんだって」
「その場に、藤森さんはいたの?」
「うん、いたよ。でも、相当にショックを受けてたみたいだったから……。まあ、それは私も同じだったんだけど」
だからあのとき、あんなにも悲しそうな顔をしていたのか、と桐谷は思った。
「でも、もったいないよ」
「うん。私もそう思ったから、言ったんだ。でも、もう耐えられないんだって。とりあえず、刑事部はやめて違うところにでも入れたらと言ってたけど、そんな簡単にうまくいくとも思えないし、もしそれが駄目だったら――」
「もし駄目だったら、本当にやめるって?」
桐谷は、澤田がすべて言い終わる前に聞いた。
「――うん。でも、そうは言ってたけど、本当かどうかはわかんない。野田警部には家族もいるから、そのことも考えたら、やめられないと思うの。でも、本当に辛そうだったから……」
「そっか……。澤田さんは、やめたりしないよね?」
「私は、やめない。あの事件は色々と辛かったのは本当だけど、やっぱり、警察官でありたいし、大変なこともあるけど、私はこの仕事を誇りに思ってるから……」
「そう言えば、澤田さんはどうして警察官になろうと思ったの?」
桐谷は、何気なく聞いた。だが、途端に彼女の表情が暗くなったのを見て、しまったと思う。
「私、小さいころに父親を殺されたんだ……。そのこと、耕介くんには話してなかったね。詳しく聞きたい?」
澤田は、暗い顔を桐谷に向けて言った。最後にそう聞いたのは、強がりなのだろう。本当は、そんな悲しい過去のことなんて、話したくもないはずだ。
「いや、いいよ。ごめん……」
桐谷も、それ以上彼女にかける言葉が、見つからなかった。
――俺はまだ、澤田さんのことを何も知らない。
そう思った。彼女とは小学時代の友人だったとは言っても、所詮それだけの関係だったのだ。
だが、だからこそ知りたいと思った。これから付き合っていく中で、彼女について少しでも多くのことを知っていきたいと思った。そして、彼女にも自分のことをもっと知ってもらいたい。
桐谷はそう思い、そこにいる彼女を見るのだった。
桐谷は、結局そのあと酔い潰れた澤田を家まで送っていくことになり、マンションに着いたので、彼女を降ろした。
彼女は今までずっと眠っていたので、多少は酔いが醒めたようだった。
「ごめんね? なんか暗い話になっちゃって」
「うん……いや、いいよ。それより――」
桐谷が言い切る前に、澤田は悟ったように言った。
「でも、今度はちゃんと二人でデートしようね」
彼女は、にっこりと笑った。桐谷も、それで安心して微笑み返す。彼が言おうとしていたことは、まさにそのことだったのだ。
「あと、帰りは気をつけてね」
「うん、ありがとう。じゃあ、お休み」
「うん。お休みなさい」
そう言って、二人は別れた。
帰り道。桐谷は、やはりいつものように思考を巡らすのだった。
――野田が、警察をやめる……。
それは、あの事件が様々なものを巻き込んだ証拠だった。そして、それは人々の心に影響を与え、行動にまで現れたのである。そのわかりやすい例が、野田だろう。
桐谷も、同じだった。あの事件によって――特に黒川の死によって、色々なことを考えされられた。
ただ、それは野田のように悪い方向へと動いたのではなく、良い方向へと動くきっかけとなったのである。つまり、それは、しっかりとした意志を持って、後悔のない人生を送りたいということであり、自分を表現できる小説という仕事をもっと頑張りたいということでもあった。
黒川の「後悔はしていない」という最期の言葉が桐谷は特に印象に残っていた。
彼の起こしたことは、人間として許されないことだったが、それでも、彼は最期まで自分の意志を貫き、決して後悔などしていなかった。
――自分も彼のように、後悔はしたくない。
彼の場合、結果は最悪と言えるべきものになってしまったが――彼自身にとってはそれで良かったのかもしれないが、桐谷は、彼の考え方については認めていた。
そのためにも、自分は小説という分野をもっと頑張っていきたい。桐谷は、そう思ったのである。
車が、信号にひっかかった。
桐谷は珍しくも、車に乗りながらタバコに火をつけると、そのままゆっくりと煙を吸い込んだ。それを吐いて、白い煙が次第に薄くなっていく様子を眺める。と言っても夜で暗いため、闇に消えていくようだった。
――まあ、とりあえずは今度の澤田さんとのデートを楽しみに待とうかな。
信号が青になったので、車を発進させる。
これからも人生は、まだまだ続くはずだ。それでも、今を楽しみ、決して後悔などしないように、生きていきたい。
あの事件から得たものを、決して無駄にしないように。
彼の死を忘れず、そこで生まれた感情を無駄にしないように。
暗い夜道の中を自宅へと向かいながら、桐谷はそう心に誓った。