第五章 意志 2
「これが、真相のすべてだ……」
話し終わった黒川は、そう言った。
「嘘だ……」
呆然としていた桐谷から出た最初の言葉が、それだった。
「嘘じゃない。これが真実だ」
「嘘だ! どうして!」
桐谷は叫んだ。だが、黒川は冷静を保っている。
「俺は、心の底から悪い人間なんだよ」
「なら、もう一度やり直そうよ! 自分の罪をしっかりと悔い改めて、もう一度はじめから……な? そうしようよ!」
だが、そのとき黒川から発せられた言葉は、あまりにも重く響いた。
「捕まれば、俺の死刑判決は絶対だ」
「――」
それは、わかっていた。桐谷は死刑について以前調べたので、あの事件が十分死刑に値する内容だということはすでに知っていた。だが、それでもまだあきらめきれない。
「どうして! なんで絶対だなんて言い切れるんだよ!」
「言い切れる。俺の死刑判決は動かない。それは、いくら改悛の情を見せても同じだ。それに……残念だが、俺は事件を起こしたことに対して、何ひとつ後悔なんて感じないんだよ。むしろ、達成感しか抱かない。まあ、星野が死刑にならないことだけが後悔として残るが、それは違う意味だ。そもそも、俺に悔い改めなんてできないんだよ」
桐谷は言葉を失った。もう、何も言い返せない。
「わかったか? 俺の死刑は決定であり、絶対なんだよ」
「…………」
「結果は、変わらないんだ。それなら――」
そう言うと、黒川は桐谷にだけ見えるような角度から、ナイフの刃を出して見せた。
その瞬間、桐谷はその場に凍りついた。
「――」
身体は動かなかったが、思考の方が異様なまでの速さで展開されていた。
どうして、ナイフを持っている?
人を殺すため? 誰を? 俺なのか?
どうして、俺を殺すんだ? 何のために?
野田さんたちは気づいていないのか?
気づいてくれ! 早く助けてくれ!
――そんな考えが、一瞬で頭をよぎる。
だが、野田たちが出てくる気配はなかった。ちょうど、死角になっているのだろう。
そう思う間にも、黒川は少しずつ桐谷に近づいてきていた。
「――っ!」
桐谷は叫ぼうとしたが、それは声にならなかった。極度の恐怖と緊張のせいで、思考以外の機能がすべて停止しているような状態だったのである。
「どうせ死ぬことに変わりはないのなら――」
黒川はすでに、桐谷の目前まで迫っていた。
――ああ、俺は殺される。ここで殺されるんだ。
桐谷は本心からそう感じた。黒川が足を止める。
野田たちがその様子の異変を感じ取ったのか、がさっと草の擦れるような音が聞こえ、こちらへ駆け寄ってきた。もちろん、桐谷には目を向けるような余裕などなかったので、それは雰囲気と音から感じ取れたことである。
「もう、遅い……」
黒川が呟く。その通りだった。野田たちは意外にも遠いところに隠れていたのである。全力で走っても、地面が不安定なせいもあり、十秒近くはかかりそうだった。
桐谷は最後の力を振り絞って、どうにか逃げようと試みた。
――えっ?
だが、無残にも桐谷は地面に尻餅をついてしまった。つまり、腰が抜けたのである。加えて、全身の力も完全に抜けていた。
くそっ、と叫ぼうとしても、それは無音の振動として空気を震わせるだけだった。
――ああ、もう駄目だ。
黒川が、ナイフを斜め下に突き出す。その刃先は、まさに目と鼻の先にあった。彼が一歩踏み出せば、途端に桐谷の顔面から血が吹き出ることだろう。
「死が必然なら――」
桐谷は、自分が失禁し、下腹部が濡れていることにさえ気づかなかった。
「――それを自ら選ぶ!」
黒川が叫んだ。
桐谷は目を瞑る。
ナイフが刺されたとき、どんな感触がするのだろうか。
冷たいのか。それとも、ただ痛いだけなのか。
痛みすら、感じないのか……。
「――」
数秒間目を瞑っていた桐谷は、異変に気がついた。自分に何の被害も出ていないような気がするのだ。現に、振動さえ伝わってこない。
おかしいな?
刺されても、痛くないのか?
それとも、もう死んでいるのか?
桐谷は思考の末、そっと目を開いてみた。
「……え?」
そこには、血まみれになった黒川の姿があった。
彼はふらふらとした足取りで数歩あとずさると、そのまま地面へと仰向けに倒れた。
その光景を、桐谷は呆然と見ていた。
「桐谷さん!」
そのころになって、ようやくやって来た三人のうちの野田が、そう叫んだ。
「桐谷さん! 大丈夫ですか?」
その言葉にはっと我に返った桐谷は、今の状況を理解するのに数秒を要した。
「大丈夫です! それより、隼人が!」
桐谷は立ち上がって彼に駆け寄ろうとしたが、それはできなかった。未だ、全身に力が入らない。何とも情けないな、と桐谷は思った。
「これはやばい……。救急車を! 早く!」
と、野田が黒川の状態を見て言う前に、澤田はすでに携帯電話を使って、救急車を呼び出しているようだった。さすがに、対応が早い。藤森は肩を貸して、桐谷を起き上がらせた。
桐谷は、藤森の肩を借りながら、黒川へと近づいた。
「どうしてだよ……隼人」
黒川は、自分の腹を一突きしていた。刃の根元まで食い込んでいて、出血は多量。助からないのは、素人が見ても明らかだった。
だが、まだ意識はあるようだった。
彼は、苦痛に歪んだ顔からどうにか苦笑いを作った。
「仕方……ないんだ……。これが、俺の……辿るべき、道……運命」
そのとき、電話を終えた澤田が、倒れている黒川へと駆け寄った。
「隼人!」
そう叫んだ彼女は、今にも泣き出しそうだった。
「誰、だ……?」
「澤田よ! 澤田皐月!」
「なんだ……皐月ちゃんか…………久しぶり」
その言葉を受けてか、澤田は膝をついて泣き出してしまった。
「隼人……」
桐谷が呟いた。黒川の意識も、すでに限界のようだ。
「最期に……いいか?」
「ああ……何だ?」
澤田も、うんうんと何度も頷いている。
「悪かった……色々と……迷惑を、かけて…………でも、俺は……後悔は……してない…………」
「そうか……」
黒川は、たとえその形がどうであれ、最期まで自分の意志を貫き、曲げなかった。
――後悔はしていない。それは、本音に違いなかった。
「ありがとう…………じゃあ……な…………」
黒川は最期にそう言って、息を引き取った。
「――――」
底知れぬ絶望感、喪失感。
そして、涙……。
そこに残るものは、ただそれだけだった。
一夜が明けた。
その日は、昨日とは打って変わった晴れ晴れしい天気だった。まだ残っている微かな湿気が、爽やかな風と共に頬を伝う。そのせいか、太陽の光もそれほど強くは感じない。夏の暑さでありながら、まるで春先のような涼しささえ感じさせた。
だが、そこにいる人たちの気分は、まさにその逆を辿っていた。
そのあまりにも切なく悲しい昨日の出来事の余韻が、当然のように残っている。
皆、俯いていた。その中で、桐谷は昨日野田が呟いた言葉を思い出す。
「すべて、私の責任です」
それは、救急車が到着し、黒川が運ばれていったときに吐いた言葉だった。そして、その言葉は桐谷の中で幾度となく反芻され、色々な形となって彼を痛めつけたのである。
――すべて、野田の責任? そんなわけがない。責任があるのは、俺なんだ。
桐谷は、そう思いながらもわかっていた。あの出来事の責任を誰かに――たとえ、それが自分にだとしても、押し付けようとすること自体がそもそも間違っている、と。何の意味も持たない、と。だが、それでも自分の責任だと思わずにはいられなかった。
桐谷は、しばしあのときのことを思い出した。
それは、黒川からメールが来たときのことである。
あのとき――黒川から公園に来いとの要求を出されたとき、桐谷はすでに色々な可能性を考えていた。
黒川が、自分を殺そうとする可能性。
ただ、本当に話がしたかっただけであり、そのあとに自首する可能性。
そして、黒川が自殺する可能性さえも浮かんでいた。
そこまで、考えていた。だが、実際に自分がその状況に立たされたとき、桐谷は何もできず、ただ自分の死のことだけを考え、彼の言葉さえ聞こえなかった。
だが、実際桐谷に何ができたのかと言えば、何もできなかったのだろう。黒川が自分の腹を刺し、死んでいくことに変わりはなかったのだろう。たとえ、桐谷がどれほど説得を試みたとしても、彼の意志に変わりはなく、自ら死を選んだことだろう。
――それでも、何かしたかった。
桐谷は、下唇を噛んだ。
死という恐怖に怯え、目の前で腰さえ抜かした自分に、黒川は一体何を思ったのだろう。滑稽だったのか。それとも、そんなことは眼中になかったのか。
彼が自分に刃先を向けたとき、彼は何かを訴えたのだろうか。
――止めてくれ。
そう訴えていたのではないのか。
桐谷は、力を入れていた拳をさらに深く握り締めた。溜め息をついて、その手を開いてみる。手のひらには、しっかりと爪痕が残っていた。
桐谷は、再び溜め息をつく。
深い悲しみに打ちひしがれる日は、まだ何日も続きそうだった。
同じくその日、野田たちは星野に黒川の死を、そしてそのすべてを伝えた。
聞き終えた星野は涙を流し、泣いていた。
それを見て、桐谷は思う。星野は、本当は彼を殺そうとなんて一瞬たりとも思ってはいなかったのだろうな、と。
彼は、ただ黒川に許してもらいたかっただけなのだ。それが、思いも寄らない不幸な出来事が続いたせいで、自分は黒川を殺すことを望んでいると、勘違いしてしまったのだろう。そして、その本意とは言えない思いのまま、彼は利用された。
――現実は、なんて辛いんだ。
桐谷は、心底からそう思った。現実は、誰もが思うようには動かない。誰かが幸福になれば、それに応じて誰かが不幸になる。そして、その幸福のために誰かを利用したり、犠牲を出したりさえする。
そんな相対的とも言える世界で、自分たちは生きている。
また、人がそこにいれば、その周囲には様々な関係が築かれ、絡み合い、ときには断ち切られ、構成されていく。自分が意識しないうちに、その関係という糸に絡まれ、利用された末に結局断ち切られたり、その罪をなすりつけられたりさえする。
現実は、あまりにも残酷なのだ。
それに耐えられなくなった人々が自殺をする気持ちも、今の桐谷には理解できるような気がした。
――では、黒川もそうだったのか。
違う、と桐谷は思った。
彼は、その糸を操っていた側の人間だった。だが、それは決して良いこととは言えない。むしろ、それで彼が起こしたことは、許されないことである。それでも、彼は自分の意志を最後まで貫き通した。そのことにだけ関して言えば、認めるべきなのかもしれない。
その意志の強さを、もっと違うところで活かせれば、彼の人生も大きく変わっていたことだろう。
桐谷は、泣いている星野と、その周りで黙っている野田たちの姿を見た。
野田たちも、同じようなことを考えているのだろうか。
そして、その罪をなすりつけられたとある意味言ってもいい星野は、今どんな気持ちでその現実を見ているのだろうか。
桐谷は、そんなことを思った。