第四章 結集 2
それから四日が過ぎた。桐谷は自分が決心した通りにその四日間は仕事に専念し、自分でも納得できるほどの成果を上げることができた。
一応、野田には何かあれば連絡をくださいと頼んでおいたのだが、彼のことだから、多少のことではきっと連絡は来ないと思っていた。だが、意外にもその日、彼から電話がかかってきたのである。
午前十時過ぎ。桐谷は八時ごろに朝食を終えて、部屋を軽く掃除したあとにそろそろ執筆をはじめようかと考えているときだった。
「桐谷さん。今日、署の方に来てくれませんか?」
桐谷は、今日も用事がなかった。というより、どちらかと言えば野田からの連絡を待っていた立場だったので、当然断る理由はない。ただ、呼び出される理由は気になった。
「わかりました。何かあったんですか?」
「はい。事件で殺害された四人のうち、まだ特定されていなかった――つまり黒川隼人の友人の身元が、やっとわかったんですよ。それで、桐谷さんにも少し確認したいことがあるので……」
「わかりました。では、一時ごろでもいいですか?」
「はい、構いません」
一時と指定したのは、今日はまだ仕事をしていなかったので、せめて昼まで執筆しようという魂胆である。
電話を切ったあと、桐谷は冷蔵庫から缶コーヒーを取り出すと、それを持って仕事専用の部屋に入り、執筆を開始した。
執筆中は、それに集中するというのが当然であり原則だが、その日はどうにも落着きがなく、そわそわしていた。それはきっと、事件のことが気になっているからだろう。これでは良いものも悪くなると、仕方がなく執筆を中断し、その代わりにテレビを見て時間を潰すことにした。
こんなことなら早く行けば良かったな、などと多少後悔も感じるが、今更野田に連絡するのも気が引けたので、のんびりと過ごすことにする。
十二時前になると、さすがに家に居続けることも退屈になってきた桐谷は、食料も切れてきたということもあり、久しぶりに外食をすることにした。
身支度を整えると玄関から出て廊下を歩き、そのままエレベーターを使って一階まで降りる。駐車場に止めてある自分の車に乗り込むと、適当な飲食店を探すため、半ばドライブするような感覚で車を走らせた。
できれば警察署から近い飲食店をと、その辺りを適当に徘徊するように車で巡回していると、良さそうな店があったので、そこで昼食を取ることにした。あまり贅沢はできないので、比較的安いものを注文する。
昼食を終えると、一時十分前だったのでちょうど良かった。
四日間の空白があったとしても、すでに見慣れてしまった署に入り、いつもの取調室に向かう。特に取り調べられるわけではないのだが、桐谷のような一般人で一応容疑者だったということもあり、いつもそこだった。
中にはいつもの三人と、あと星野一樹もいた。
星野にとっては、自分の教唆による殺人が未遂か否かも問題であり、それによって罪の重さも変わってくるのだろう。
桐谷はまず挨拶をすると、自分から本題に入った。
「それで、隼人の友人の身元がわかったんですよね?」
質問には、野田が答える。
「はい。わかりました。予想していた通り黒川隼人の同期の友人で、有原智也という人でした。ご存知はないですよね?」
「有原ですか……知りませんね。それで、確認したいことというのは何ですか?」
「はい。とりあえず、この写真を見てくれませんか?」
そう言って野田は、今まで気づかなかったのだが、横のテーブルの上に置いてあった封筒を手に取ると、そこから一枚の写真を取り出した。
それを、桐谷に手渡す。
一体誰の――その有原智也の写真だろうかと、そこに写っている人を見た桐谷は、途端に顔色を変えた。
「この人って……」
その顔には見覚えがあった。整った顔立ちに綺麗な黒髪。そして、鋭い目つき。それはまさしく、あのとき桐谷が会った白崎竜輔だった。
「……どうして、白崎の写真が?」
「はい。その人が、有原智也なんですよ」
「え? じゃあ、つまり、白崎も殺されたってことですか?」
「そういうことですね」
桐谷は言葉を失った。驚きと、なぜか知り合いを殺されたときような――実際、そこまでではないが、そんな悲しい気持ちになる。その理由さえわからなかったが、少なくとも、これで事件について奇妙な点が増えたのは事実だった。
「あの白崎――つまり有原智也が隼人の友人だったということは、彼も隼人を憎んでいたということですか?」
「それが、そうでもないという話なんですよ。彼は大学での友人だったようなんですが、人嫌いだった黒川隼人も、彼とだけは別段仲が良かったということなんです。つまり、あなたと黒川隼人との関係に近かったと思います。しかし、人間の気持ちなんていうのは簡単に変わってしまいますから、突然憎むようになったとも考えられますが……」
桐谷は、自分が黒川隼人を憎むようになることがあるのか、と考えたが、それはないだろうと思った。だが、それは当然断定できないし、人それぞれでもある。きっと、その例も少なくないというのが実態なのだろう。
「それで、黒川誠とはどうなんですか?」
それが、事件解決に向けての重要な要素だということは理解していた。もし関わりがないとすれば、それでまた厄介になってくるのである。
「いや、それがまだ判然としていないんですよ。黒川誠から彼に接触した可能性はありますが、もともとはお互い知らなかったようなんです。その情報も、確かとは言い切れませんが……」
なるほどね、と桐谷は納得してから、もう一度有原の写真を見た。確かにあの白崎と同一人物だったが、どこか雰囲気が違うように感じた。
「この写真は、いつ撮ったものなんですか?」
「ええと。彼が就職するときの写真と言っていましたから、二十三歳のときに撮った写真ですね」
「ということは、私とも同い年だから四年前の写真ですか。もう少し最近の写真はないんですか?」
「いや、ないと言われましたので……。何か気づいたことがあるんですか?」
「なんか、少し雰囲気が違う気がするんですよ。それより、この写真をくれた人というのは誰なんです?」
「彼の両親です。彼の身元が明らかになったあと、その両親の家に行ったんですよ。そうしたら、それが最も新しい写真だと言われました」
「では、その四年間は両親とあまり会っていなかったということですか?」
「いや、それでも毎年正月やお盆の日には帰っていたらしいです。ただ、写真を撮る機会というのは少ないでしょうからね」
「なるほど。彼の友人には当たったんですか?」
「はい。もちろん当たりました。しかし、彼は写真に写るのが嫌いだったようで、全然ないということでした。あと、彼もあまり人とは触れ合わないタイプだったようです」
「隼人と似たような人間だったということですか」
「そういうことになりますね。ですから、彼とだけは良い友人になれたのではないかと思います」
「それなら、彼が隼人を憎んでいたというのも、少し考えにくくなりますよね?」
「まあ、確かにそうかもしれませんが、先ほども言ったように人間の心情なんていうのは、ひどく繊細で簡単に変化してしまいますからね。とりあえず、これから調べてみないとわかりませんね」
桐谷が頷くと、そこで澤田が口を挟んだ。
「有原智也をバラバラにしたことも、何か意味があるんでしょうか?」
「真意はわかりませんが、彼の殺人を隠したかったということではないでしょうか?」
「黒川誠がですか?」
「はい。その可能性は十分考えられると思います。まあ、重要なのは、その隠したくなった理由ですが」
「理由ですか……。それなら、彼を殺すことは黒川誠にとって、予定外のことだったとは考えられませんか? はじめからバラバラにする気で殺すというのも、何か不自然な気がします」
野田は一瞬驚いた顔になったが、すぐさま納得するように頷いた。
「確かに、そうかもしれませんね。そのことは考えていませんでした。それなら、黒川誠と有原智也は繋がっていたが、有原が不慮の行動に出てしまったので黒川がやむを得ず殺害し、それを隠すためにバラバラにしたということも考えられますね」
「では、二人で黒川家に乗り込んだということですか?」
「その可能性は高いでしょうね。殺人現場が傷ひとつついていない理由も、二人だったからこそ、ということかもしれません」
すると、そこで藤森が言った。
「そう言えば、捜査しているうちにわかったことなんですが」
「何ですか?」
野田が聞いた。
「黒川隼人と誠の関係なんですが」
「やはり、仲が悪かったと?」
「いえ、その反対です。二人はとても仲が良かったという話なんですよ。黒川誠が家から出て行方不明になったあとも、隼人とだけは連絡を取り合っていたということです」
それを聞いて、野田はうんざりするように溜め息を漏らした。
「それは、もう少し早く言って欲しかったですね。これでまた、複雑になってしまいました」
「すみません。忘れていたもので……」
藤森は素直に謝った。野田もそうは言ったものの、特に怒っている様子ではなかったので、藤森は安堵する。
「じゃあ、隼人は誠とも有原とも仲が良かったということですよね? それが急に二人とも殺意を持つなんていうのは、さすがに不自然ではないですか?」
桐谷が指摘する。それは絶対とは言い切れないが、それでも十分に説得力を持った正論だった。そのまま、続けて言う。
「誠と有原の関係は最初からはなかったんだから、たとえ隼人に対してどちらかが殺意を持つことがあったとしても、その両方が持つようになるのは、考えにくいですよね? 例えば、誠の方が隼人に対して殺意を持ったとして、それで有原に接近し一緒に殺害しようと言っても、有原はそれに同意することはないと思います。そんな簡単に殺害を決意できるわけがないですよね?」
「と言って、その両者が黒川隼人に殺意を持つようなことが起きる確率なんていうのは、ほぼゼロに近い……そういうことですね?」
「はい。その通りです」
野田は、桐谷の解釈は正しいと思った。確かに、そんなことが起こるとは考えられない。では、一体どういうことなのだろうか。
だが、いくら考えても思い浮かばなかった。
桐谷と星野、それと澤田も帰って、残った野田と藤森の二人は、事件に関する資料をもう一度確認していた。
「それにしても、桐谷さんも澤田さんも、鋭いものを持っていますね」
藤森が感心するように言った。それには野田も同感する。
「確かにそうだな。澤田さんは前からそう感じていたが、桐谷さんも高い見識を持っているよ。特に最近はなかなか鋭いところを突いてくる。今までは、あまり話していなかったんだがね」
「今までは容疑者として疑われていたから、あまり口出ししないようにしていたのではないですか? それか、容疑が晴れたためにプレッシャーがなくなり、深く考えられるようになったのかもしれませんね」
「そうかもしれないな。しかし、私たちも当然彼らに頼るわけにはいかないから、考えなければいけない」
「事件の真相ですか。今回の事件は、色々と複雑ですからね」
藤森はそう言いながらも、どこか神妙な顔つきでいることに野田は気がついた。
「何か、気になることでもあるのか?」
野田の言葉にはっとした藤森は、少し躊躇ってから口を開いた。
「はい。少し前から思っていたことなんですが……」
「何だね?」
「犯人は、本当に黒川誠なんでしょうか?」
彼が犯人だとほぼ決めつけていた野田にとって、それは突飛な発言だった。
「と、言うと?」
「桐谷さんの指摘した通り、彼や有原智也が黒川隼人に殺意を持つ可能性というのは、低いと思います。しかし、そう考えるとどうにも犯人の名が浮かんできません」
「まあ、確かにそうだが、それでも黒川誠が犯人だという可能性が最も高いと思うのだが……」
「しかし、彼の所在は一向に見つかる気配がありませんよね?」
それは事実だが、と野田は頷く。
「なら、彼はすでに殺されたということはないですか?」
「殺された?」
野田は思わず、繰り返した。
「どういうことだ?」
「つまり、事件で黒川隼人だと思われている遺体は、本当は黒川誠だということですよ」
「何だって?」
野田は、絶叫に近い声を上げた。その可能性は、今まで考えたこともないことだった。
「では、黒川隼人はまだ生きているということか。そして、彼こそが真犯人……」
「はい。あくまで推測ですが、そう考えるとすべてが説明できるんですよ。彼は黒川誠と有原智也の二人と仲が良かったからこそ、彼らを動かすことができたんです」
藤森は話しながら、自分の中でその考えがどんどんと確信に変わっていくのを実感した。やはり、話せば話すほど、思考が今までよりも先へ進んでいく。今まで気がつかなかったところまで、解明されていくのである。
「では、二人を動かした方法も予想がついているのか?」
その質問にも、藤森は迷わずはっきりと答えることができた。
「はい。まず、黒川誠を動かした方法ですが、それは彼が両親を憎んでいたことに手がかりがあると思います。つまり、黒川隼人は彼に両親を殺せるという口実をつくって、彼を動かしたんだと思います。彼が両親に対する憎悪は、殺意にも十分達していたと思いますので。そして、黒川隼人は彼に宇田正則と名乗らせて、星野一樹と接触させたんです」
「しかし、どうして星野一樹と接触させたんだ?」
「それは、彼に対しての復讐のためでしょう。黒川隼人は、彼を犯人に仕立て上げたかったんです」
「なるほど。それで彼に自分の殺人を依頼させて、罪を持たせるというわけか」
「そういうことです。次に有原智也への方法ですが、これは単純に金だと思います。特にその目的――つまり、他者を殺害するということを教えずに金だけをちらつかせ、彼に白崎竜輔と名乗ってもらい、桐谷さんと接触させたわけです」
「理屈はわかるが、それでは黒川誠でもできることではないのか?」
「確かに、可能ではあります。しかし、仮に黒川誠が有原に接触したとしても、赤の他人からいきなり金を出すから協力してくれと頼まれて、はたして普通の人間が承諾すると思いますか? 少しは、というより大いに疑いますよね? まあ、その額によっては承諾する人もいるかもしれませんが、黒川誠は調べたところどこにも就職していないようですから、きっとフリーターです。そんな彼に、そこまでの金を用意できるとは思いません。有原も一般的なサラリーマンで独り身ですので、そこまで金には苦労していなかったと思います。そう考えると、やはり黒川隼人という友人からの誘いの方が、乗りやすいのは明らかなんですよ」
藤森は自分で言っていて、それが妙に恐ろしくなった。実際そこまで考えてはいなかったのだが、話しているうちにどんどんと浮かんでくるのである。
野田も、感心しながら話を聞くばかりだった。
「それで、彼を桐谷さんと接触させた理由というのは?」
野田は、そこで質問を入れてみた。自分でもその答えはあったのだが、一応聞いてみる。
「それは以前、澤田さんが言っていたことでほぼ間違いないと思います。つまり、自分に保険をかけるためですよ。まあ、違うところと言えば、彼が、星野さん、と言ったのは、わざとだということくらいですかね」
「わざと?」
「はい。黒川隼人は星野一樹を犯人に仕立て上げるつもりだったんですから、その前に疑われるはずの桐谷さんにその情報をわざと与えたんですよ。たとえ、桐谷さんが嘘をついていると警察に見なされて彼が逮捕されても、それはそれで構わないと思ったんでしょう。友人だが、自分が捕まるよりはましだと。そして、桐谷さんの証言が信じられて星野を捜索することになっても、以前澤田さんが言った通り、星野一樹は捜し出せないと自信があったんだと思います。そして見つかれば、予定通り彼が教唆犯となり逮捕され、その正犯は見つからない。それが黒川隼人の筋書きだったんではないでしょうか」
「なるほどね。いくつも罠をしかけておいて、そのどれかにはまれば許容範囲。それで星野一樹が捕まれば予定通りということか」
「そういうことです。どうでしょうか?」
藤森は、自分の推理に対しての自信は十分だったが、それでも控え目に聞いてみた。
「いやあ、本当に素晴らしい推理だったよ。私もそれが真相のような気がする、というより、今はそうとしか考えられないな」
野田は感嘆した。今まで残っていた違和感は、すっかり消えていたのである。
藤森は、そんな言葉に対しても有頂天にはならず、自重して礼を言った。
「ありがとうございます」
だが、すぐさま藤森は、少し場違いだったかな、と思った。