第三章 無罪 2
桐谷は夢のせいで早起きしたので、実際はそれで助かったのだが、仕事部屋で小説の続きを書いていた。事件のことの方が気になるとは言っても、星野一樹の件で自分が無罪だと証明できる可能性が高いのだから、事件が無事解決しても小説が締め切り日までに書けていなければ、それはまた大変なことになる。
午前九時。桐谷は、小説が一段落したということで休憩を取り、テレビでニュースを見ていた。
当然、署には行くつもりである。だが、桐谷はその前に自分は呼ばれるだろうと思っていた。事件が難航し進展が見受けられないのなら、ついに自分が犯人だと思われても仕方がないと思ったからである。
それはもちろん、桐谷にとってもあまり嬉しいことではないが、彼らの立場上、そうせざるを得ないということはわかっていた。そして、そこで星野一樹のことをすべて話すつもりである。
だが、もし星野一樹が犯人ではなかったとしたら……。
その可能性は十分に考えられる。だが、桐谷はあえてそのことは考えないようにした。万が一そうだとしても、それならそれで、あきらめるしかないだろうというところまで、桐谷の考えは到達していたのである。
言うなれば、これは最後の賭けのようなものだった。それで良い方向に進むなら、それは素直に喜ぶし、その逆なら、それらすべてを受け入れるつもりである。
と、ニュースの天気予報が終わったところで、電話が鳴った。
来た、と思いながら、桐谷は受話器を取る。手には、少し汗が滲んでいた。
「もしもし。桐谷さんですか?」
相手は、藤森だった。
「はい。どうしました?」
「ええと……。今日、署の方に来てくれませんか?」
「別に構いませんけど……。何かあるんですか?」
桐谷は、少し意地悪く聞いてみる。
「……はい。少しお話することがありますので」
思った通り、返答に逡巡があり、何かを隠しているような口ぶりだった。
「わかりました。あと、私も藤森さんたちにお話したいことがあるので」
「お話……ですか?」
「そうです」
「わかりました。では、昼前には来られますかね?」
「はい、大丈夫です。それでは――」
そう言って電話を切ると、桐谷は、よし、と自分に気合を入れた。
早速、出かけるために身支度をしようと思ったが、朝早く起き、少し汗もかいていたので、ひとまずシャワーを浴びることにした。
桐谷に電話したあと、藤森は野田のところへ戻ると、そこには澤田もいた。何やら話していたが、野田は藤森を見ると「どうでしたか?」と聞いてくる。
「はい。昼前には、来られるということです。あと、桐谷さんの方からも私たちに何か話があると言っていました」
「話……ですか。何の話でしょうか」
「自白、かもしれませんよ?」
藤森が言った。
「確かに、その可能性は否定できませんが……」
と、野田もその可能性は考えていたように、だが少し残念そうに答える。
「もしかすると、新しい情報を持ってきてくれるのかもしれませんよ?」
今度は澤田が言った。だが、周りの人間はもちろん、彼女だって当然、その可能性が低いということは十分承知しているつもりである。だが、それでも、その可能性に賭けてみたいという思いは、誰しも変わらなかった。
「そうだと、いいですね」
野田にとっても、彼を犯人として見たくはないというのが本音である。だが、もちろん手が尽きれば逮捕するつもりだった。
「――そういえば、黒川誠の捜索はどうなんですか?」
突然、話を変えた澤田のその質問には、藤森が答える。
「いや、まだ見つかっていない――というより、一向に見つかる気配すらないような状態ですね。やはり、捜し出すのは厳しいと思います」
「そうですか……」
澤田は、消沈したような声で言った
「他に、何か手がかりのようなものは?」
だが、野田も藤森も、黙って首を横に振るだけだった。
シャワーを浴び終わり、支度も終わった桐谷は、早速署の方に行くことにした。現在、時刻は十時少し過ぎで、車で約三十分かかることを考えれば、十一時前には到着することになる。
桐谷は車を運転している間、ずっと星野一樹のことを考えていた。
星野一樹とは、小学、中学時代の友人である。友人といっても、あの黒川との事件からは話さなくなってしまったが、それでも、一応友人である。高校は違うところへ行ったようだが、詳しくは知らない。
無邪気な性格で、勉強こそあまりできなかったが、運動神経は抜群で、それ故に喧嘩も強かった。無邪気で喧嘩というのも少し矛盾していそうだが、無邪気さ――つまり考えが単純で、悪気はないが実際は悪いことをしてしまうことがあり、故に他人の悪感情を買うことも多かったための結果である。
そのせいなのか、黒川の母親のことには素直な衝撃を受けたようで、それで性格が少し歪んでしまったのかもしれない。彼を特に庇おうというつもりではないが、それでも、中学時代の後半では、黒川に対しても謝罪の気持ちを持って、謝っていたこともある。その点から見れば、本当に悪人というわけではなく、どちらかと言えば、良い人という印象もないわけでもなかった。
ただ、黒川にして見れば当然のように悪人で、決して許そうとはしていなかった。桐谷からも、もういいだろうと言ってみるのだが、まるで意味をなさなかった。
そして、桐谷にとっては、それですべてが終わりだと思っていた。過去はすでに清算されたと思っていたのである。だが、事実は違っていたようだった。
黒川の死。
白崎の電話の相手であった、星野という人。
そして、偶然なのか、あの夢を見た。
それらの事実が組み合わさって、はじめてあの事件の解決へと繋がっていく。それは単に、桐谷の思い込みの可能性もある。だが、何度も言った通り、桐谷にはそれが真実だとしか考えられなかった。
だが、単に星野が黒川を殺したとも考えにくい。彼の性格は、本当は良い人間のものなのだ。では、なぜあの事件が起きたか。
桐谷は、こう考えていた。
つまり、星野は黒川に対して、もういじめを起こそうなどという悪い気持ちはまるでなく、反対に謝罪の気持ちを持っていた。だが、黒川は彼に対して、復讐しようという気持ちを持っている。
そこで黒川は、何らかの方法で星野に対して嫌がらせや、その他復讐のような行為を続けてきたのだろう。星野は何度も謝るが、黒川は決して許そうとしない。そのうち、星野はそれに耐えられなくなり、殺してしまった。
何とも悲しいものではあるが、桐谷はこれが真実だと思っていた。
そんなことを考えているうちに、車は署に到着した。早速中へ入っていき、野田たちとまずは挨拶を交わす。
「それで、話というのは何ですか?」
桐谷の方から、先に言った。その内容は大体わかっていたが、一応、聞いてみる。
「……いや、それより桐谷さんから先に話してくださいよ」
藤森が、何か不自然な感じで返す。桐谷も、それほど意地悪くするつもりもないので、この辺でからかうことはやめた。
「わかりました」
そう言って桐谷は、星野一樹についてのことを一切何も隠さずにすべて話した。
話している間、三人は黙って聞いていたが、その表情は少し安心していた。それは、桐谷が新しい情報を持ってきてくれたということもあるし、これで事件が解決されるかもしれないという思いもある。だが、それよりも、彼を犯人として逮捕する可能性が、また少し低くなったことに対する喜びの方が大きかった。
「――なるほど」
話をすべて聞き終わった野田が、そう呟いた。
「では、早速調べてみましょう。藤森さん、お願いします」
「わかりました」
藤森が部屋を出ていく。残った三人のうち、澤田が口を開いた。
「それにしても、耕介くん、すごいね?」
「すごい? 何が?」
「だって、こんなタイミングでそんな夢を見たんでしょ? すごいよ。偶然だとしても、すごい」
断言させられて、桐谷は苦笑を浮かべた。
「何か、そんな力があるんじゃない?」
「まさか」
そんなことで談笑していると、野田が突然口を開く。
「……桐谷さん」
野田の真剣な表情に、二人は思わず無言になった。
「何ですか?」
桐谷が、恐る恐る聞いてみる。
「私たちからも、話があると言っていましたよね? そのことなんですが……」
そのことか、と桐谷は短く息をついた。
「わかっていますよ。私を犯人として白状させようと、そんな話をしようとしていたんですよね?」
「わかってたんだ……」
呟いたのは、澤田だった。その表情は、少し寂しそうである。
「うん。星野が見つからないとなれば、ついに自分が疑われても無理もないかなって」
「そっか」
「でも、大丈夫だよ。そんなときにあの夢を見たんだから、まだ俺も神に見捨てられたわけじゃないってね」
桐谷は、少し無理をして笑った。そんな彼を見て、野田は静かに呟く。
「神……か」
だが、その言葉は桐谷と澤田には聞こえなかったようで、二人は再び話しはじめる。いや、聞こえなくてよかった、と野田は思った。
次の日。桐谷は、ぜひ星野一樹と対面したいということで、野田の許可をどうにかもらい、再び署の方に顔を出すことになった。
前日、藤森から電話があったとき、星野一樹は自分の罪を認めたということだった。だが、自分はやっていないという矛盾した証言もあるとのことだった。
電話では特に理解し難かったので、それから野田に電話して、許可をもらったということである。
昼過ぎに署へと行き、取調室に入ると、野田に澤田、あともう一人――つまり星野一樹がいた。藤森がいないようだったが、特に気にはしなかった。
「お前が……あの耕介か?」
事前から知らされていたらしく、桐谷を見た星野の第一声が、それだった。
「そうだよ、一樹……」
星野は、半袖のTシャツにジーンズというラフな格好で、その髪は茶色に染めてあった。その服装も、今日は休日であり、その真昼に星野の自宅を野田たちが訪れ、そのまま署に行くことになったということからである。
「懐かしいな」
「そうだな」
星野は、憂鬱な表情だった。それも無理はない。彼が犯人なのだから。
「いや、彼は教唆犯ですね」
「きょうさはん?」
野田の言葉に、桐谷は思わずおうむ返しする。
「はい。簡単に言えば、共犯ですね。彼は、他人に殺人を依頼して、黒川隼人を殺してもらったんですよ」
「え? ということは、つまり……」
「はい。彼の他にも、実際に黒川隼人を殺害した犯人――つまり、正犯がいるというわけです」
「じゃあ、その正犯っていうのは、まさかあの白崎?」
「そうでしょうね。本名は、宇田正則という男性だそうです。まあ、彼いわく殺し屋ということですが」
「殺し屋? そんなのが本当に実在するんですか?」
彼の真っ当な疑問に、野田は少し唸った。
「いや、わかりませんが、彼がいるのは事実ですからね……」
「そうですよね。それで、もう調べたんですか?」
「いや、今調べているところです。藤森巡査に」
「だから、調べなくてもいいって言ってるじゃないですか」
突然、星野が言った。
「彼は、もう死んでいるんですから」
「死んでいる?」
桐谷が返した。星野は「そうさ」と言う。
「彼は、もう死んでるんだ。間違いないよ」
「どういうことです?」
と、桐谷は野田に聞いた。野田は、気難しそうな顔をする。
「事件のとき、四人が殺害されましたよね。黒川隼人とその両親、あとその友人だと。彼は、その友人が宇田正則だと言うんですよ」
「……でも、どうしてわかるの?」
次は、星野に聞く。
「どうしてって……そりゃあ、直感だよ」
「直感って」
星野の呆れた発言に、桐谷は肩を落とした。だが、星野は続ける。
「俺は当然事件に関係してるから、そのニュースとかをしっかりとチェックしてきた。そしたら、変なんだよ。俺は黒川隼人だけを殺してくれと頼んだはずなのに、どうしてか彼の両親も死んでるんだ。それに、その友人もって……。それに、そのうち二つの遺体は顔を刻まれ、その上バラバラだと聞いた。これなら、捕まればまず死刑だろ? なぜそんな真似をするんだ? 俺はそう考えて、あるひとつの結論を導き出したのさ。それはつまり、俺と宇田の他に、第三者がいるとね」
「……その話は、聞いていませんでしたね」
と、野田が言った。
「第三者ですか……。確かに、その話が本当なら、おかしいですね」
「そうですよ。だから、その正体不明の友人が宇田であると、俺は直感したんだ」
「なるほど。一理ありますね」
「わかってくれて嬉しいです。それで、だから調べなくてもわかるんですよ」
「いや、一応調べてみないと、その遺体が本当に宇田正則なのかもわかりませんし」
「それなら、まあ、構いませんけど」
星野の表情は、少しの落ち着きと安堵を含んでいた。
「でも、どうして隼人を殺そうと思ったの?」
桐谷が聞くと、星野は途端に表情を歪ませ、溜め息をついた。
「それは、お前なら大体わかるだろ? 俺は何度も謝ったんだ。でも、あいつは許してくれなくて、俺に何度も嫌がらせをしてくる。その度にも謝ったんだ。でも、許してくれない。そのうち、俺の方が耐えられなくなってきちまった。でも、自分では殺せない。だから、宇田っていう殺し屋に頼んだんだよ」
星野は、終始俯いていた。
「それに……」
「それに?」
「俺は、やっぱりやめてくれって、宇田に頼んだんだよ」
「え?」
桐谷は、思わず疑問を声にする。すると、野田が続けるように言った。
「どういうことか、その話を詳しく聞かせてもらいませんか?」
「……わかりました。では、最初からゆっくりとお話しますよ」
星野はそう言って小さく頷くと、そのことについて、少しずつ話しはじめた。