第三章 無罪 1
誰かが、泣いている……。
そこは、ある教室の一角。床は木造で、その木目に沿って机が規則正しく並べられている。前方には大きな黒板が、後方には個々のためのロッカーが備わっている。どこにでもありそうな、ただの教室だった。
でも、そこは何か懐かしさを帯びていた。夕日が差し込んでいるせいかもしれない。
そんな教室の隅で、誰かが泣いている。
――誰だろう?
周りには誰もいない。そこには、僕とその彼しかいなかった。
「どうしたの?」
僕は、声をかけてみた。
彼が、ゆっくりと振り向く。くしゃくしゃになって涙を流しているその顔は、僕に大きな衝撃を与えた。
「どうしたの? 何かあったの?」
僕は、声が少し大きくなっていたと思う。
「……耕介くん?」
彼の口からやっと出た言葉は、僕の名前だった。
「そうだよ! どうしたの? 隼人!」
僕も、そう言って彼の名前を呼ぶ。彼とは幼馴染で、仲は良かった。
「僕……あの……」
そのまま、口籠ってしまう。でも、僕には隼人が何かを言おうと一所懸命になっていることが、十分に伝わってきた。
「辛かったの?」
僕は、優しく言った。隼人は小さく頷くと、震える口を懸命に開こうとする。
「僕……いじめられているんだ」
「そうなの? なんで?」
よく見れば、彼の制服はボロボロとまではいかないが、ひどく傷ついているように見えた。誰か複数人に、何度も蹴られたようなあとだった。
「なんで、いじめられてるの?」
「お母さんが……」
「え?」
「お母さんが、昔、悪いことしてたから……」
「悪いこと?」
「うん。風俗……やってたから」
僕には、その風俗という言葉はよくわからなかった。聞いたことあるような、ないような、そんな言葉だった。
「耕介くんも、やっぱりいじめるの?」
「え?」
「……僕のお母さんが風俗だったって知ったから、やっぱりいじめるの?」
僕にはその言葉はよくわからなかったし、たとえ彼の母親が昔何をしていたとしても、彼をいじめる必要はないと思った。
「なんで、いじめなきゃいけないの?」
僕は、素直に言った。
「え?」
「だって、それは隼人の母さんのことで、隼人とは関係ないよ」
それを聞いた彼は、多少の――本当に小さな笑みを浮かべる。
「ありがとう……」
そして、そう言ってくれた。僕は、純粋に嬉しかった。
――そのとき。
突然、勢い良くドアを開く音がして、僕は身体が勝手にびくっとなって驚いた。後ろを振り向くと、そこには男子生徒が三人いた。
「隼人!」
真ん中の男子が叫んだ。
「一樹……くん」
隼人は、怯えきった表情で呟く。きっと、あの三人が――特にその真ん中の一樹がいじめているんだと、僕はすぐにわかった。
「なんだ……耕介もいるのか。何してんの?」
僕は、一樹とも仲が良かった。でも、いつもの彼と何か雰囲気が違う。
「そうか! お前もいじめてたんだな?」
一樹は笑った。そのまま、続ける。
「だよな? そんな汚い子供と仲良くできるわけないよな!」
汚い子供……。
僕はそのとき、ぴんとは来なかったが、きっと隼人の母親とのことで関係しているのだろうと、何となくわかった。
「違うよ! 僕はいじめてなんかいない!」
すると、彼は途端に表情を変えた。
「は?」
そして、再び笑い出す。
「お前、そんな奴のこと庇ってんの? 馬鹿か?」
その言動に、僕は感情を押さえ切れなくなった。
「お前の方が馬鹿だよ! いじめてるのはお前たちだろ? なんでいじめるのさ!」
「だから言っただろ? 汚いんだよ」
「汚い? なんで!」
僕は風俗という言葉を知らなかったから、汚いという理由もわからなかった。
「……お前、風俗って言葉知らないだろ?」
そう言って、少しずつ近づいてくる。周りの二人も、あとに続いて歩いてきた。
「それは……」
僕が何も言い出せないのを見て、一樹はまた高らかと笑った。
「知らないなら無理もないな! まあ、俺はお前と仲を悪くするつもりはないからな。今度教えてやるよ」
「教えなくていいよ! そんなの!」
すると、一樹の顔がまた厳しくなる。
「人が丁寧に教えようって言ってんだ! 素直に聞いとけ! お前だって、それを知ったら隼人を庇うなんて真似、できなくなるさ」
一樹は、僕の目の前まで来た。後ろには、隼人がいる。
「どけよ!」
一樹は、そう言って僕を無理やり横へ払いのけると、そこにいる怯えた隼人の顔を見て、また高潮に笑った。
「わかってんのか?」
一樹は、隼人の顔を睨みつけながら言った。
「お前の母ちゃんは、金欲しさに股開いて何でもするような最低の女だったんだぞ? そして、お前はそんな最低の女から生まれた、最低の子供なんだよ! そんな分際のくせに、俺たちの前にのこのこ現れやがって! むかつく奴だな!」
ひどい……。
一樹の言っていることは、僕にはすべてはわからなかったが、とにかくひどい。そう思った。
「……僕のお母さんは、そんな人じゃないよ!」
隼人が必死に叫んで抵抗している姿は、なんて哀れで、悲しいのだろう。僕はそう思い、彼をどうにかして助けてあげたい。そう思った。
「うるせえ! 自分の立場をわきまえろ!」
そう言って、一樹の足が上がったかと思うと、そのまま踏みつけるような格好で、隼人を蹴り飛ばした。
「やめろよ!」
気がつけば、僕は叫んでいた。
「やめろよ! 隼人をいじめるなよ!」
「ああ? お前も、いじめられたいのか?」
一樹は、僕を睨みつけた。彼は運動神経が良く、喧嘩も強い。僕のような人間がどう足掻いても、彼に敵うわけがなかった。
「お前も、殴られたり蹴られたり、痛い思いしたいのかって聞いてるんだよ! 返事くらいしろよ! それとも、怖いのか?」
僕は、何も言い返せなかった。正直に、怖かった。
「もう、いいよ……」
隼人が、今にも消え入りそうな声で呟いた。
悔しい。僕はそう思った。
「お前みたいな弱い人間は、黙って見てればいいんだよ!」
そう言って、一樹は再び隼人を蹴った。
「…………」
僕は、何もできなかった。
目の前で友人が、友人をいじめている。でも、僕には何もできなかった。
悲しかった。
辛かった。
悔しかった。
――ごめんね……隼人。僕には何もできない。力になってあげられない。
でも、いつか力になってあげたいと思った。
本当に、助けてあげたいと思った……。
――場面が、切り替わった。なぜそうなったのか、僕にはわからないし、意識もしていない。でも、とりあえず場面が切り替わっていた。
そこもまた、教室だった。
でも、さっきの教室とは違う。外から眺められる景色が、広く遠くなっていた。つまり、さっきより高い場所にいるのだ。
今度は、教室に人がたくさんいた。
「ありがとう。耕介」
僕の目の前の男子が、僕にそう言った。隼人だった。ただ、さっきよりも背が高く、顔つきも大人になっていた。
「耕介のおかげで、俺はここまでやってこられたんだ。本当に感謝してるよ」
そう言って、隼人は笑ってくれた。僕も自然に笑みがこぼれる。
「でも……」
突然、表情が一転して俯くと、彼の拳にぎゅっと力が入った。
「でも、あいつだけは許さない」
彼は振り向き、教室の隅で楽しそうに笑っている一樹を見て、そう言った。
「あいつだけは絶対に許さない。いつか、復讐してやるんだ」
その表情は憎悪に満ち、歪んでいた。
「やめなよ。そんなことしたって、何も意味がないよ」
「ごめん、耕介。いくら耕介の頼みでも、これだけは譲れないんだ。俺をこんなにしたあいつを、そして、俺の母さんを罵倒したあいつを――」
「隼人……」
「――いつか、殺してやるんだ」
僕は、彼のそんな言葉を聞いた気がした。
――はっとして、桐谷はベッドから飛び起きるような格好で目を覚ました。
時刻は、午前四時過ぎ。
全身が汗でびっしょりとしていて、何とも気持ちが悪い。桐谷はベッドから出ると、近くのテーブルに置いてあったタバコを手に取り、一本に火をつけた。
「夢、だったのか……」
桐谷は、タバコの煙を吐き出しながら呟いた。また、桐谷はその夢をはっきりと憶えていたのである。何とも現実味を帯びた夢だった。
だが、少し考えているうちに、いや、と桐谷は思い返した。あれは、夢であって夢ではないのである。つまり、桐谷の過去の記憶だった。
一樹と黒川とのあのやり取りも、桐谷の記憶にはしっかりと残っていた。まさに、あの通りだったのである。
「ひどいよ……一樹」
桐谷は、思わずともそう呟いていた。
一樹とは、あの日以来から話さなくなってしまったのである。以前は、性格も合う良い友人だと思っていた。それに、黒川とも仲が良かったのだ。黒川が一樹を家に誘っているのを何度か見たことを憶えている。
だが、あの出来事が起こってしまった。つまり、それは黒川がいじめられるきっかけとなった出来事である。多分、その現場にいたのは一樹だったのだろう。
親の密談……。
それを隠れて聞いていた二人は――特に黒川本人は、愕然としたに違いない。
そして、その日から一樹は変わってしまった。黒川を偏見し、罵倒し、周りの友人にも言いふらす。そして、いつの間にか性格さえも邪道なものになっていた。
そして、夢でも見たあの黒川の言葉。
そこまで言っていたかは、正直憶えていない。だが、復讐すると言っていたのは、事実だった。今でも、はっきりと憶えている。
桐谷は、タバコの火を揉み消すと、居間へ行った。そして、テレビの横にある本棚の一番下の段を探る。そこには、小学校や中学校、高校の卒業文集や今まで得た賞状など、自分の過去に関係するものが数多く入っていた。
その中から、中学校の卒業文集を取り出す。特に見る必要もなかったが、あの夢を見たせいか、少し懐かくなった気持ちがあって、見たくなったのである。
ページをめくり、懐かしい顔ぶれが目に入る。桐谷は、自分が何組だったのか憶えていなかったので、順々に見ていくと、三組に自分がいた。
まだ幼く、我ながら可愛いものだな、と桐谷は自嘲気味に思った。黒川も、夢で見た通り全く同じだったのが、意外で少し驚いた。過去の記憶はすごいな、と思う。一樹もいるはずだと、その名前を探してみた。
「え……」
あまり、信じたくはなかった。だが、そこにあるのは紛れもない事実。黒川が殺したいと言った気がする相手、一樹のことである。
「星野……一樹だと?」
それがあまりにも偶然で、それ故に必然だと思われるその組み合わせ。黒川と一樹との間に起こった過去の出来事。桐谷にとっては、それは単なる過去の思い出のひとつに過ぎなかった。だが、今こうした状況に立って、はじめて理解できる。
これは単なる過去の出来事ではなく、今も続いていることだと。あの出来事は、単なるきっかけにしか過ぎなかったということを。
桐谷は、あまりにも恐ろしい事実に対して、何か冷たく、肌寒いものを感じ、無意識のうちに自分の腕をさすっていた。
もちろん、これが真実とは限らない。だが、桐谷の直感はそれが真実だと言っていた。信じたくはない。だが、信じざるを得ない。
桐谷はゆっくりと卒業文集を閉じると、それをもとの場所に戻す。一度立ち上がってソファに腰かけると、再びタバコに火をつけた。
深呼吸をするように、ゆっくりと肺全体にタバコの煙をめぐらし、吐く。
そして、桐谷は今日、署に行ってすべてを話すことを決心した。昔の友人を裏切るような真似で決して本意とは言えないが、それでも不本意というわけではない。事件解決のため、すべてを知るため、そして自分の容疑を晴らすため、桐谷は言わなければならないと思った。
夢を見たこと。そして、それが原因で卒業文集を見たこと。それらはすべて偶然かもしれない。だが、それこそが自分の運命なのだと、桐谷は思った。
その日、野田と藤森の二人は、早い時間から署に来ていた。
捜査の手詰まり。これ以上捜査を続けても、何も進展がないと二人は考えていた。唯一、期待されるのは黒川誠だが、その線も行方不明ということで簡単な問題ではないし、彼が犯人だという可能性も高いとは言い切れない。そうなると、必然的に桐谷耕介が怪しくなってくる。
野田も、彼に対する情など入れている余地もなかった。事件の解決は、結局は最初から何も変わっていないのである。
「甘く見過ぎたね」
野田が言った。それは、星野の捜査のことだった。
「単に『さん』がつけられていたからと言って、それで会社の上層部の人間であると決めつけたことが間違いだった。もう少し考えるべきだったんだ」
「すみません。私がそんなことを言ってしまったので……」
「いや、藤森巡査のせいではないよ。私もそう考えたから、捜査したんだ」
「しかし、今からまた捜査することはできませんよね。第一、人数が多過ぎますし、他の署の方もこれ以上は協力してくれないと思います」
「そうだろうね。黒川誠も見つかる可能性は低そうだ。そうなると、やはり桐谷耕介ということになる」
「何か、少し残念ですね」
「確かにそうだが、そう言ってもいられないだろ。手がかりが、全くないんだ」
「そうですよね。しかし、そうなると桐谷耕介は今まですっと嘘を押し通してきたことになりますよね?」
「そうなんだ。それが少し気にかかる。彼は、自分から積極的に捜査に関与しようとしていたし、何より、あれがすべて嘘だったとは考えにくい」
「私もそう思いますね。しかし、事件自体も妙なんですから、あれくらいの行動はできるとも思います」
「すべて、計画通りの犯行だったというわけか……。しかし、それならなぜ偽装の犯人を特定させなかったんだ?」
藤森は、少し考える。それから、口を開いた。
「特定しなかったのではなくて、できなかったのではないですかね? 第一、証拠がないので、無理に偽装の犯人を特定させてしまったら、不自然になると考えたんではないでしょうか」
「なるほど。しかし、では、いずれ自分が捕まることも予想のうちに入れていたということか?」
「そうかもしれません。彼は、簡単に捕まることは嫌だが、自分が罪を犯したことに対しては謝罪の気持ちを持っている。だから、他の冤罪者が間違えられて捕まるのが最もいいが、結局自分が捕まえられても後悔はないということではないんですかね」
「それは一理あるな。とりあえず、その桐谷さんを呼んでからだな」
「そうですね。では、私の方から呼んでおきます」
「わかった」
そう言うと、藤森は部屋から出ていった。一人になった野田は、胸ポケットからタバコとライターを取り出して、火をつける。
「……本当に、桐谷耕介が犯人なのだろうか?」
野田は天井を見上げながら、そう呟いた。