第一章 不覚 1
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その日も、いつもと同じ何ら変哲もない一日だった。
夕日もそろそろ沈むころで、辺りのビルやその他の建物は鮮麗な橙色に染まっている。車の流れる音の他に、巣へと帰るだろうカラスの鳴く声が遠くの方で聞こえていた。
桐谷耕介は、部屋の窓から沈みゆく夕日をぼんやりと眺めていた。
高層マンションの上層部から眺めるその景色は確かに格別なものではあったが、大都市であるここ東京では人工的に植えられた緑がその大部分を占めている。この高さから眺めてもビルなどの建物が視界を妨げ、その間から遠方に霞む山々がどうにか見えるくらいだった。
田舎育ちだった桐谷にとってそれは少し不愉快なものではあったが、それでも都会の便利さというものを知ってしまってから、その生活に離れられなくなっていた。といっても桐谷は作家であり、毎日必ずしも外に出るという習慣はない。どちらかといえば、一日中家で過ごすことの方が多い。それでも、できる限り外に出ようとしていた。
何せ、毎日が退屈だった。作家という仕事柄のせいか、それとも性格の問題か、何も変わらず坦々と流れていく毎日にストレスを感じていたのである。
当然、仕事はしている。だが、それだけではその膨大な時間を潰せるほど忙しくはないのだ。だから、時折外に出て気分転換を図る。そうしないと、自分の中の何かが弾けそうで怖かった。
とにかく、どうにかして今の日常を変えたい。そう思うのだが、そんな簡単なことではないのもまた事実だった。
夕日も見えなくなって、だんだんと暗くなっていく空を眺めながら、桐谷はひとつ溜め息をついた。
――これで今日も終わり。そして、また今日のような明日がやってくる。
そう思うと、辛かった。生きている意味、それが何なのか、今の桐谷に答えることなど到底できるはずもなかったのである。
空が完全に暗くなったのを確認すると、桐谷は部屋の明かりをつけた。ソファに腰かけ、テレビのリモコンを握る。
今は三月の下旬で、上旬にもなれば桜が咲き始めるころだった。テレビでは、桜が開花する日を予測するニュースなども取り上げられている。桐谷は、特に桜について興味があったわけではなかったが、そんなニュースをただ呆然と見ながら、たまには花見もいいかな、などと考えていた。
すると、一本の電話を知らせる音が部屋中に響き渡った。
久々に鳴った電話に桐谷は少し驚いたが、所詮大したことではないだろうという思いで受話器を取る。
「すみません。桐谷耕介さんですか?」
受話口から聞こえてきた声は、意外にも若々しい男の声だった。だが、その声に聞き覚えはない。
「……どちら様ですか?」
「私立探偵をやっている、白崎竜輔と言います」
探偵が作家に一体何の用だろうかと思ったのも束の間、彼は妙なことを口にする。
「黒川隼人さんとは、お知り合いですよね?」
「……はい。そうですけど」
桐谷はその名を聞いて少し驚いた。それは、黒川隼人というのは桐谷の友人だったからである。
また、桐谷にとって黒川は無二の親友と言っても良いほどの存在だった。彼とは、悩みがあれば率先して相談し合う仲であったし、何より互いに本音を語り合うことができた。それは、彼とは幼い頃からの付き合いで今までずっと仲良くやってきたからこそのことである。
互いに社会人になってからも、何度か食事をしたり遊びに行ったりしていた。ただ、最近は忙しいということもあり連絡を取っていない。
「隼人が、どうかしたんですか?」
桐谷が思ったままに聞くと、白崎は何やら深刻そうな声で返事をした。桐谷も思わず息を呑み、続く言葉に耳を傾ける。
「実は彼、現在行方不明になっていまして――」
瞬間、桐谷は彼の言葉を遮って叫ぶように驚きの声を上げた。
「――行方不明? それは本当ですか?」
短い沈黙のあと、「はい」と白崎は小さく答える。
「一昨日の夕暮れから、行方がわからなくなっていまして……。何か知っていることがあれば聞きたかったのですが、その様子だと無理のようですね」
「すみません。彼とは最近、連絡を取っていなかったので」
「そうでしたか……」
再び、数秒間の沈黙が流れる。
「――そういえば、あなたは彼と大変仲が良かったと聞いておりますが」
「はい。彼とは幼馴染だったので」
一体誰に聞いたのだろうかと思ったが、別に気にはしなかった。
「そうですか。では今度、お話を伺ってもよろしいでしょうか? こちらとしても、聞きたいことがたくさんありますし」
「はい。構いませんけど……」
そう答えると、白崎は待ち合わせの場所や時間などを指定してきた。その日は特に予定もなく、何せ毎日が退屈だった桐谷にとっては外に出る良い機会である。
何より、彼は黒川のことが心配だった。最近、連絡を取っていなかったこともある。
電話を切ったあと、念のため黒川に電話をしてみたが彼は出なかった。
それから二日。その日は、白崎と面会する日だった。
待ち合わせた場所は、最近新しくできた質素な造りの喫茶店だった。内装は白色を基調としていて、空間にゆとりを感じられる落ち着いた雰囲気である。
桐谷の住むマンションからは少し離れているため、車で行かなければならなかったが、それほど面倒なことでもない。近くの駐車場に停めて、少し歩けばいいだけのことだった。
その日も暇だった桐谷は予定された時刻よりもだいぶ早く来て、一人でゆったりとブラックコーヒーを楽しんでいた。というより、本当は黒川の現状を早く知りたかったのである。
それも、あれ以来何度か黒川に連絡を試みたのだが、すべて空振りに終わったからだった。不安はつのる一方である。
桐谷は胸ポケットからタバコを取り出し、テーブルの上にライターを置いた。その内の一本をくわえて火をつける。自宅以外では、久しぶりの一服だった。
――でも、どんな人なんだろうな。
と、黒川のことへの心配以外にも、その白崎との面会に対して少し楽しみにしている自分もいたことを悟り、思わず苦笑してしまった。
それから数分、桐谷が一人でタバコにふけっていると不意に後ろから声がした。
「あの、すみません――」
反射的に振り返ると、そこには整えられた黒いスーツを身にまとい、清純そうな黒髪をした若い男の姿があった。
「――桐谷さんですか?」
一瞬、きょとんとした表情になった桐谷だったが、次の瞬間にはあっと声を上げた。
「……白崎さん?」
「はい。改めまして、白崎竜輔と言います」
彼は会釈すると、そのまま「失礼します」と言って桐谷と対面になる席に座った。店の係員が来ると、彼は「ブラックコーヒーをひとつ」と注文する。
「すみません。お忙しいところを……」
「いえ。こっちも毎日暇なんで」
と、桐谷は笑った。白崎も微笑んではいたが表情は硬いままだった。
「では、早速お話を伺ってもよろしいでしょうか?」
そう言って、彼は手帳とペンを取り出した。桐谷は少し緊張した面持ちで頷き、白崎の顔に改めて目を向ける。
整った顔立ちに、その目はすべてを見透かしているかのように鋭い。その態度、雰囲気はまさに名探偵でもやっていそうな、秀才という言葉がぴったりだった。だが、それにしても随分と若そうに見える。
「先週の水曜日は、何をしていましたか?」
彼に見入っていた桐谷は、その言葉で我に返った。そして、先週の水曜日とはいつだったかと考え出す。
今日は日曜日、あの電話が金曜日だったので、水曜日は黒川が行方不明になったと言われた日だった。
桐谷は、いきなりアリバイのことかと思ったが、仕方のないことだと解釈した。黒川の友人であれば、疑われるのは当然だろう。
「一日中、家にいましたね。何せ作家なんで……」
桐谷は、頭をかきながら苦笑した。これでは疑われても無理はない、と自分の日常の単純さに改めて呆れ果てる。
「一度も外には出ていないんですか?」
桐谷は小さく頷いた。白崎も、聞きながら手帳にペンを走らせている。
「……では、黒川さんと最後に会われた日のことは憶えていますか?」
その質問に、彼の行方不明と何の関係があるのだろうと思いながらも、桐谷は腕組みをして、懸命に記憶を辿ってみる。
思いのほか、その記憶は容易に思い出せた。
「確か、二ヶ月くらい前だったと思います。街へ買い物に行っていたときに、偶然、彼に会ったんです」
だが、会ったということは憶えていたが、そのときの記憶は漠然としていてはっきりと内容までを思い出すことはできなかった。
「それは、何時ごろのことでしたか? あと、そのとき何か話しました?」
「正確にはわかりませんが、昼過ぎだったと思います。それで、久しぶりに会ったので近くの喫茶店に寄って、一時間ほど話をしたんです。彼も暇だったらしいので」
「その喫茶店の名前は、憶えています?」
「いえ、そこまでは……」
と、桐谷は首を横に振る。白崎も、小さく唸るだけだった。
それからも白崎は黒川についての質問を繰り返し、すでに三十分が経とうとしていた。
「では、次の質問に――」
そのとき、不意に携帯電話の着信音が彼の胸の辺りから聞こえた。
白崎は携帯電話を開くと、何やら意味深な表情を浮かべる。それから桐谷に「すみません」と言って電話に出た。
「もしもし、星野さん? どうしました?」
すると白崎は、一瞬はっとした表情になったかと思うと、次の瞬間には桐谷を睨めつけるような目で見ていた。なんだ? と桐谷が思う間にも、彼は一度携帯電話を耳から離し、再び「すみません」と言って席を立った。そのまま、トイレの方へ歩いていく。
桐谷は、彼がトイレに入っていくのを確認すると大きな吐息をついた。タバコを取り出し、火をつける。
三十分も質問を続けられ、桐谷もさすがに参っていた。それに加えて、彼にはしっかりとしたアリバイがない。実際、黒川の件とは無関係であったが、それでも変なことを言ってしまい、ますます疑われては困る。そんなことを意識しながら答えていた桐谷は、すでに限界にまで疲れ切っていた。
黒川のことも心配だったが、それ以上にあとどのくらい質問が続くのだろうか、という方が恐ろしかった。
タバコが吸い終わったのとほぼ同時に、白崎はトイレから出てきた。「すみません」と言いながら席へ戻ってくる。
彼に目を向けると、その表情が先ほどまでの硬い印象とは違う、多少の柔らかさを含んでいるように感じた。その変わりように、桐谷は少なからず妙な印象を受ける。
「少し情報が掴めました。彼を目撃したという人の情報が入ったんです」
それを聞いて、桐谷は期待するように身を乗り出した。疲れてはいたが、黒川が見つかってほしいというのは当然ながら本音であり、一方で、これで質問が終わるかもしれないという淡い期待も寄せていた。
「本当ですか?」
「はい。ですから、早速その人に直接会いに行こうと思いまして」
言いながら、彼は席を立つ。桐谷は、質問が終わったことに喜びを感じると同時に、その開放感から、彼について行ってその本人から詳しく話を聞きたいという新たな欲も生まれていた。
「私も、行っていいですか?」
だが、桐谷の気持ちとは裏腹に、彼は「いえ」と手を使って制止した。
「あなたを連れて行くことはできません。これ以上、迷惑はかけられないので」
「そうですか……」
と、桐谷はあからさまに不服そうな顔をする。
「まあ、そう気を落とさないでください。もし何かあれば、また連絡しますので」
そのとき、白崎ははじめて笑顔で答えた。
桐谷も残念ではあったが、連絡してくれるのであればと無理に追求はしなかった。
翌日、早速白崎から連絡が入った。
その日、桐谷は街へ買い物に出ていて、夕方近くに家へ帰ってきたちょうどそのときに電話が鳴っていたのだ。
「――明日は、何か予定が入っていますか?」
突然の質問だったが、きっと黒川のことで話があるのだろうと思っていた。もちろん、特に予定はない。
「では、明日は一日中、自宅の方に待機していてはくれませんか? 急に連絡することがあるかもしれないので」
桐谷は落胆した。一日中待機とは、何とも面白みがない。だが、何より黒川のことであり、断るわけにもいかなかった。
「……わかりました」
桐谷はしぶしぶ承諾する。続いて、白崎が「お願いします」と言ったかと思うと、次の瞬間には電話が切れていた。
桐谷は、その電話にも多少の違和感を覚えた。どこか急いでいるように感じたのである。わずか、三十秒ほどの対話だった。
それから夕食を済ませてシャワーを浴び、ベッドに横になったとき、ふと疑問が浮かんだ。それは、先ほどの白崎との電話のことだった。
「明日は一日中、自宅の方に待機していてはくれませんか? 急に連絡することがあるかもしれないので」
――あるかもというのは、ない可能性をも指している。
例えば、黒川の所在がわかりそうな場合、見つかり次第連絡するということはあるだろう。だが、それをただの友人、つまり桐谷に急いで連絡する必要はないのだ。見つかった次の日にでも構わない。
その友人が、本当に急いで知りたがっている場合ならあり得るかもしれないが、少なくとも桐谷は、早く知りたいことは知りたいが一刻も早くという思いはない。白崎との会話でも、そんなことは言っていなかったはずだ。わざわざ家に閉じ込めて、連絡するまで待っていろと強制する必要はどこにもないのだ。
電話での違和感といい、何か妙だなと思う。
だが、白崎も桐谷のことを思ってのことかもしれない。不必要ではあるが、少なくとも非常ではないだろう。白崎の思い込みの可能性もある。
そんな思考にふけっているうちに、いつの間にか眠りについていた。