15.どうするのが一番いいんだろう。
直接の描写はありませんが、子供の虐待に関する記述があります。
神社の境内から、草をかき分けて進んだ先に、ほんの少し開けた場所がある。
ちょっとした高台だ。
中央に、大きな岩が埋まっている。
そこに腰をかけて西の方を眺めると、ちょうど木の間から街の様子が見える。
そこから見える夕焼けはとてもきれいで、街全体が赤く染まる様子が良く見えるのだという。
勇太君はこの場所を、お母さんに教わったと言っていた。
その思い出の場所に。
勇太君は一人、腰をかけていた。
ランドセルを岩に立てかけて。
岩に腰掛けて街の方をぼんやりと見ていた。
「勇太君」
そっと近づいて声をかける。
ビクッと振り向いた勇太君は、その左目をハンカチで押さえていた。
「……綾先生」
「勇太君、左目どうしたの?」
「何でもないよ」
「何でもないわけないでしょ?」
近づいて覗き込む。
勇太君は、見られまいとサッと横を向いた。
でも。
見えてしまった。
左目の周りの大きな青あざが。
「………誰に殴られたの?」
「……転んだんだよ」
「うそ。転んでできるあざじゃないよ」
「……………」
「誰にも気づかれないように、ここで、冷やしてたの?」
「……………」
「消えたら学校に行こうと思ってた?」
「…………うん。でも、なかなか消えないのな、これ」
「ここまで大きいとね………。腫れなかった?」
「腫れた。でもそれは冷やしてたら治った」
「病院には?」
「行ってない」
「行かなきゃだめだよ。目が傷ついてるかもしれないし」
「うん………」
「一緒に行く?」
勇太君は答えず、じっと下を向いていた。
「……勇太君?」
「………」
ポタポタと。
水滴が地に落ちた。
下を向いた彼の瞳から。
「勇太君………」
衝動的に抱きしめる。
「う………」
頭がちょうど私の胸のあたりだ。
2年前は腰のあたりまでしかなかったのに。
「うわああああああああ………!」
堰を切ったように勇太君が泣き出した。
私はその背中を、ゆっくりなでることしかできなかった。
「落ち着いた?」
どのくらいそうしていたのか。
ようやく泣き止んだ勇太君の顔を覗き込む。
「…………うん」
「病院、行こうね」
「うん」
「ん、ちょっとまってね、学校に連絡するから」
「言う?」
「え?」
「殴られたって、言う?」
「………見ればわかるよ?」
「う………やっぱり」
ため息をつく勇太君の横に座りながら、スマホを取り出す。
「あ、そうだ。ちょっと写真とってもいい?」
「なんで?」
「口で説明するより早いから」
「う………」
勇太君は渋りながらも、了承してくれた。
何枚か写真を撮ると、そのまま学校へ転送し、電話をかける。
副校長に事の次第を連絡すると、校医の先生のところへ行くよう指示された。
『悪いけど、任せていいか?』
「はい、大丈夫です。診察が終わり次第、学校へ連れていきます。あと、学校の代表メールに画像を送りましたから、確認をお願いします」
『わかった。SCにはこっちで連絡する』
SCは、スクールカウンセラーの略だ。
週に2日、巡回しているが、緊急時には臨時で来校することも勿論ある。
ちなみに、SSW、というのもある。
スクールソーシャルワーカーの略だ。
SCは心理的カウンセリングなど「個人」の問題解決が中心だが、SSWは「環境」問題の解決が中心となる。社会保障や生活保護の相談はSSWの方になる。
とはいうものの、「個人」の問題解決には「環境」の問題解決も必要であり、逆もまた真理。SCもSSWも、その職務内容は、かなりの部分が重なっている。
『後は児相だな』
児相は児童相談所のこと。
虐待が疑われる案件は、全て児童相談所へ通告しなければならない。
一般的に教職員は守秘義務を負っているが、児童虐待の通告に限り、守秘義務違反は問われない。同じ理湯で、個人情報保護法違反も問われない。
「はい、お願いします」
通話を切ると、私は勇太君のランドセルを手にとった。
「じゃ、行こうか、勇太君」
手をつなごうと左手を差し出したが
「いいよ。ガキじゃないんだから」
と、振り払われた。
「そう言えば、背、伸びたね」
「卒業までに、綾先生のこと追い越すからな」
「そっか~。もうすぐ卒業か………」
話をしながら、ゆっくり神社の境内を出て、医者に向かう。
「綾先生、気が早え。その前に学芸会とかあるじゃん」
「そういえばそうだね~。6年生、何やるの?」
「知らね」
「あれ、まだ決まってないんだ?」
「うん、なんかさ、色々候補があって、みんなでどれがいいか考えてる」
「そうなんだ。どんな候補があるの?」
「んーと、いくつかあるけど、全部劇団式だって。劇団式ってなに? テレビ式とかラジオ式とかあるの?」
「は? あ、いやいや、算数の式の方の式じゃなくて、四季、四つの季節ね」
「あ~もしかして、ライオンキングとか」
「そう、それ。ってことは、魔法を捨てたマジョリンとか、エルコスの祈りとかかな?」
6年生のやる劇の定番だ。
「あ、そんな名前だった。あとは、夢から覚めたらまた夢」
「夢から醒めた夢、だと思うよ」
「そう? あと、ユタとゆかいな仲間たち」
「ふしぎな仲間たち、だよ。もしそれに決まったら、勇太君が主役かな?」
「へ? 何で?」
「ユタって、『勇太』のあだ名だよ?」
「え、マジ!?」
「マジマジ」
「……どんな話?」
「えっとね……確か、転校生のユタが、みんなと仲良くなれなくて、いじめられるんだけど、座敷童子の力を借りて、みんなと仲良くなっていく話、だったかな」
「……ユタ、いじめられてたんだ」
あ、まずかったかな。
勇太君もいじめられてたっけ。
「でも、最後はちゃんと仲良くなれるんだよ?」
「座敷童子ってなに?」
「んーと、守り神、かな。座敷童子のいる家は栄えるって言われてるよ」
「へえ」
「子供にしか見えないんだって」
「そうなの?」
「そう言われてるねえ」
そんな話をしているうちに、病院に到着した。
受付で名乗るとすぐ、顔なじみの校医の先生が奥から出てきた。
どうやら学校から連絡が来ていたようだ。
診察の結果、眼球に異常はなしとのこと。
ちょっとホッとした。
青あざはしばらく消えないからあきらめろと先生に言われ、勇太君はブウッとむくれていた。
「勇太!」
学校に戻ったのは、4時間目の終わり頃だった。
昇降口で、森先生が待ち構えていた。
……考えてみたら、あれからまともに森先生の顔を見るのは初めてだ。
……大丈夫だよね?
私、いつもと同じ表情、してるよね?
「勇太、大丈夫か?」
しかし森先生は、私の方をちらっと見ただけで、すぐ勇太君の方へ向きなおった。
「あれ、なんで先生いるの? 授業は?」
「今は音楽だよ。時間割覚えてないのか?」
「あ、そうだった」
二へラッと笑う様子に、森先生は安堵のため息をついた。
「そんな口を利けるなら大丈夫か。でも放課後、ちゃんと話を聞かせろよ」
「え~~~~」
「え~~じゃないだろ」
「はーい」
「伸ばすな。……ま、とにかく一回教室行くぞ。ランドセル置いたら音楽室な」
「おう!」
「おう、じゃねえっつーの」
「ほいほい」
「遊んでるだろ、お前………」
「えへへ。じゃーね、綾先生!」
「はい。授業ちゃんと受けてね」
森先生に連れられて教室へ向かう勇太君に、バイバイ、と小さく手を振る。
「何お前、綾先生って呼んでるのか?」
「だって、佐々木先生って言いにくいじゃん? 俺も笹木だし?」
「ああ……まあそうか」
そんな会話が次第に遠のいていくのを聞きながら、私は職員室へ入っていった。
改めて事の次第を副校長へ報告する。
「お疲れ様。助かったよ」
「いえ、見つかって良かったです」
「それで、SCと児相の担当者が、15時に来校することになったから、悪いけど同席してもらえるかな?」
「はい、わかりました」
承諾して事務室に戻る。
佐藤さんから留守中の報告を受け、途中で放り出していた仕事に手を付けた時
「………あ!」
長谷川さんの一件を報告し損ねていたことを思い出した。
「どうしました?」
「あ、ごめん。何でもない」
佐藤さんの問いに慌てて答える。
「ちょっと副校長に報告しなきゃならないことがあったのを思い出したの。すっかり忘れてた」
「この騒動ですから、仕方ないですよ~」
「あはは……。ま、後で報告しとくわ」
15時の会合の後でも構わないだろう。
私は溜まった仕事を片付けるべく、目の前の書類に集中した。
15時。
校長室に関係者が集まった。
SC
児相の担当者2名
副校長
特別指導担当である早坂先生
そして発見者の私
合計6名が校長室の会議テーブルを囲む。
発見時の状況を説明し終えたちょうどその時、帰りの会を終えた森先生が勇太君を連れてきた。
SCや早坂先生に促され、勇太君はポツポツと口を開いた。
誰に殴られたのかを言い渋っていたが、最後はとうとう、酔っぱらった父親に殴られたことを話してくれた。
「良く話してくれたね。ありがとう」
早坂先生が優しく笑って勇太君に御礼を言った。
あと2年で定年を迎えるこのベテラン女性教諭は、子供たちからおばあちゃん先生と呼ばれて親しまれている。
ちなみにあだ名の由来は、実際に小学1年生の孫がいるからであり、けして揶揄の意味は込められていない。
抜群の指導力と包容力で、子供たちだけでなく、教員たちの相談相手であり、指導者でもある。
「勇太君、もう一つ教えてくれる?」
「なに?」
「お父さん、毎日お酒飲むの?」
「うん」
「飲むと怖い?」
「………うん」
「殴られたりするの?」
「………ううん。殴られたのはこれが初めて。いつもは大声出したり、壁を蹴とばしたりする」
「そっか………。お酒飲んでないときは優しい?」
「うーん……優しいって言うより、なんか苦しそう」
「苦しそう?」
「うん。ダルそうで、なんかイライラしてる。具合悪そう。なのに仕事に行って、帰ってくるとお酒飲むんだ」
「ごはんは食べてる?」
「夜は知らない。朝は食べない。俺、自分の分だけ作ってる」
「そっか。勇太君えらいね」
「早坂先生」
「なあに?」
「俺、どうすればいい?」
「そうだねえ………」
その場にいた大人たちがチラリと児相の担当者へ視線を送る。
しかし担当者も微かに眉を寄せるだけだ。
この時点で軽々しいことは言えないから。
最終的には児相で一時保護になるだろうことが予測される案件であったとしても。
「勇太」
答えたのは森先生だった。
「ごめんな。先生たちにもよくわからないんだ。どうすれば一番いいのか」
「そうなんだ……」
「これから、一生懸命考えるから、勘弁な」
「……うん」
「でも、これだけは覚えておいてくれ。勇太は、一人で我慢しなくていいんだよ」
「え」
「何かあったら先生のところに来い。副校長先生でも、早坂先生でも構わない。誰でもいいから、あったことを話してくれ。一人で我慢するな」
「………」
「もちろん、話したくなかったら話さなくてもいい」
「………叫んでもいい?」
「叫びたいならな」
「話さないで叫ぶだけでもいい?」
「ああ。でも、教室ではやめろよ。みんな、びっくりするからな」
「うん、わかった」
「今も叫びたいか?」
「………今はいいや。神社で思いっきり叫んだから」
叫んだっていうか、泣き叫んだ、だよね、実際は。
今日はおばあちゃんが来る日だというので、結局勇太君は、この日は家に帰ることになった。
「前の担任の先生から聞いた話などを総合すると、彼の父親は、アルコール依存症かもしれませんね」
勇太君が退室し、見送った森先生が校長室に戻ると、早坂先生がため息混じりにそう告げた。
「家庭訪問に行った時、酒瓶が何本も転がっていたそうです。本人からもお酒の匂いがしたと」
「ああ……そう言えば」
副校長が口を挟む。
「彼の母親が亡くなる前に言ってました。一度飲み始めると、酔いつぶれるまで飲まないと気が済まない。だから、お酒をあまりストックしないようにしていると」
「なるほど。奥さんが亡くなって、アルコールへの依存度が高くなった可能性はありますね」
SCも頷く。
「う~ん、むずかしいですね。検査をするように本人に進言しても『自分は違う』と、激しく拒絶されることが多いですから………」
「『否認の病気』と言われるくらいですしね」
「家族権限で強制入院、と言ってもねえ……」
「勇太君がっていうわけにはいきませんからね。やはり一度、お祖母さんにお話をしないと………」
「森先生」
副校長が森先生に向きなおった。
「今日、お祖母さんがいるなら、ちょっと話をしに行ってもらっていいかな」
「わかりました。後で電話して伺う時間を決めることにします」
「お祖母さんに、何日か泊まってもらえるといいんだろうけどね……」
「お祖母さんは普段どちらに?」
「お祖父さん……ご自分の旦那さんと二人暮らしだ。ただ………」
「勇太君の父親は、その旦那さんの子供じゃないんだよ」
「え?」
「再婚しててね。前の旦那さんの子だ。つまり、お祖父さんにとって、勇太君は血のつながった孫じゃない」
「………なるほど。それで月1~2回来るのが限界というわけですね」
一同ため息をつくと、本日は解散となった。
あとはお祖母さんとの話し合いの結果次第。
森先生、責任重大だ………。




