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14.事件はいつも突然に

 家に帰って。

 普段着に着替えて。

 メイク落として。

 ペタン、と床に座り込んだ。


「…………はあ」


 何度目のため息だろう。


 森先生の気持ちは、わかった。

 なら、私の気持ちは?


 ……それがわからない。

 自分のことなのにわからない。


 私は再度ため息をつくと、スマホを取り上げ、電話をかけた。


「あら、お姉さん」


「ごめんね、美咲ちゃん、忙しいのに」


 そう。

 電話の相手は美咲ちゃんだ。

 茂の婚約者の。


 今は結婚式の準備で一番忙しいとき。

 わかっているけど、他に相談する相手が思い浮かばなかった。


 え、茂?

 論外!


「その人、いい人ですね。お姉さんの話を聞いた限りの判断ですけど」


 私の話を最後まで聞いてくれた美咲ちゃんの、最初の言葉がこれだった。


「普通、床ドンまでしながら踏みとどまれる人、なかなかいませんよ?」


「………そういうもの?」


「え、と。多分」


 美咲ちゃんは、私も女なので、と、電話の向こうでケラケラ笑った。


「で、その人……森さん、ですか? の気持ちはハッキリしたわけですから、後はお姉さんの気持ちですよね?」


「………それが、わからないの。自分の気持ちなのに」


「それは………。ああ、そうか。失礼ですけど、お姉さん今まで、恋愛経験ないですよね?」


「う……うん」


 それどころじゃなかったからね。


 学生時代は、デートする暇があるなら、家に帰って掃除でもしていたかったし。


「だから、わからないんじゃないですか? 未知の経験だから」


「え、未知のって」


「恋愛感情。経験、ないんですよね?」


「あ……う………確かに」


 そうかもしれない。


「お姉さんにとって、その人は『友達』ですか?」


「……わからない」


 わからなくなっちゃった。


「今までは、気の合う同僚……同僚じゃないか。ええと、職場仲間? だと思ってた。ざっくりくくって『友達』? でも、今は……わかんない」


「うーん………。じゃあ、なんでもいいので、その人のこと教えてくれませんか?」


 美咲ちゃんに聞かれるままに、私は森先生のことを話しだした。


 いつも朝、通勤電車で一緒になること。


 いつも先に来て、いい場所をキープしてくれること。


 座席の端に座らせてくれて、自分はその隣に座ること。


 おかげで、今までは時々、居眠りおじさんが寄りかかってきたりとかあったけど、森先生が防いでくれるから快適であること。


 よく行くレストランでは、ドアを押さえててくれたり、イスをひいてくれたり、寒くないか気にしてくれたり。


 歩道を歩く時は、必ず車道側を自分が歩いてくれている


 そう言えば、歩く速度も私にあわせてくれているみたいだ、ということ――




 ………あれ。


 もしかして私、かなり色々気を使ってもらってない?


 ……もらってる、よね?


 今頃気がつくなんて………。




「ねえ、お姉さん」


 考え込んだ私の耳に、美咲ちゃんの声が響く。


「もしも、ですけど。森さんが、これ以上待てない。他の人と結婚するって言ったらどうします?」


「え? えーと……。奥さんは扶養に入れますか?」


「仕事から離れて下さい!」


「あう」


「そういうことじゃなくて! 森さんの横に、知らない女の人がいたらどう思うかってことです! 森さんがその人に、にこやかに笑いかけながら、お姉さんにしたようなことをその女性にしてたとしたら、それでも平気なのかっていうこと!」


「あ…………」


 スマホを落しそうになった。


 なに、これ。

 なに、この痛み。


「………お姉さん?」


 やだ。

 そんなの、やだ。


 胸が痛い。


 なにこれ。

 こんなの、知らない。

 こんな痛み、知らない


「あの………お姉さん? 大丈夫ですか?」


「うん………大丈夫」


 心配そうな美咲ちゃんに、ようやっとの思いで返した声は、微かに震えていた。


 うん、大丈夫。


 だって、これは『もしも』だから。

 ただの、想像だから。


「美咲ちゃん。相談に乗ってくれてありがとう。おかげで………わかったような、気がする。自分の、気持ち………」


「お姉さん?」


「……私ね、好きになるって、もっと何かこう、インパクトのあるものだと思ってたの」


「インパクト?」


「もっとこう、一目で恋に落ちる、とか、全身に衝撃が、みたいな」


「ああ………」


「でも、違うんだね。こんな風に、いつの間にか……なんてことも、あるんだね」


「多分、その方が多数だと思いますよ」


「そうなの?」


「統計取ったわけじゃありませんけどね」


 ほんの少し笑いあうと、私たちは電話を切った。


 考えてみたら

 先生も言っていた。


 いつからだろうって。

 いつの間にか、気づいたら、だと


 ごろん、とベッドに寝転がる。


 想像してみる。

 もし、森先生と結婚したら?


 朝起きて、おはようと言いあって。


 毎朝一緒にご飯食べて。

 毎朝一緒に出勤して。


 早く帰った方がご飯をつくって。


 一緒に食事して

 一緒に……………


 いやいやいや、その後のことはちょっと置いておこう!

 経験ないし想像つかないし!


 ええと、休みの日には掃除をしたり、買い物に行ったり………。


 ……不思議。

 なんだか容易に想像できる。


 今とあまり変わらない。


 今の生活の延長のような気がする。

 実際は違うのかもしれないけど……。


 ふいに、アドバイザーさんの言葉が蘇る。


 恋人は他人で夫婦は家族。


 恋人は特別な娯楽。

 結婚は日常生活。


 恋人は、ときめきをくれる人。

 伴侶とは、信頼と安心をくれる人。


 信頼と、安心。


 うん。

 森先生への想いは、そっちの方がしっくりくる。


 トキメキとかドキドキとかじゃなくて。


 ……まあ、流石に床ドンの時はドキドキしたけど!


 でも。

 大事だからと、引いてくれた。


 信頼できるかと問われれば、今でも即座にうなずける。


 信頼できる人と、結婚しても、今までと同じように普通に暮らせる。……かも、しれない。


 それって、もしかしたら、ものすごく贅沢なことなんじゃないだろうか。


 でも、流石にちょっと恥ずかしいので、朝の通勤電車はしばらく別にしてもらおう………。




 そして月曜日。

 久しぶりの一人での通勤は、なんだか味気なかった。

 物足りないって言えばいいのだろうか。


 とはいえ。

 学校に着けばいつもの通りだ。

 朝の打ち合わせを済ませ、仕事を始める。


 しばらくすると、職員室がざわりと揺れた。


「何かあったのかな」


「みたいですね」


 仕事の手を止めて佐藤さんと顔を見合わせる。


 時刻は9:10。

 連絡のない欠席者の所在確認をしている時間だ。


 まさか………?


 ふいに、バタバタと足音が近づいたかと思うと、事務室の扉が開け放たれた。


「佐々木さん、勇太君の居場所がつかめない!」


「……えッ!」


 私は椅子を蹴倒す勢いで立ちあがった。




 笹木 勇太。6年生。

 森先生のクラスだ。


 事務職員は、原則として児童とは関わらない。

 だが、物事には必ず例外がある。

 私にとって、その例外が勇太君だった。


 彼は2年前。

 4年生の時に。

 お母さんを亡くしている。


 葬儀を終え、気落ちする彼を、クラスの子や当時の担任が、精いっぱい支えた。


 でも。

 母親が亡くなって。

 父一人子一人になって。

 だんだん生活がおざなりになっていった。


 服はいつも何となく薄汚れていて。

 忘れものが多くなった。


 給食を人一倍食べるようになった。

 まるで朝と夜は何も食べていないかのように。


 深夜番組の情報に詳しくなった。

 ぼうっとしていることが多くなった。

 眠くて仕方がないようだ。


 そしてついに。

 他の児童たちが、勇太が臭いと言いだした。


 その頃になってようやく、担任が父親とコンタクトすることができた。


 何度連絡してもつながらず、つながったと思っても会う約束を取り付けることができず、なかなか大変だったらしい。


 その後。指定の日時に家庭訪問をした担任によると、家の中はすさまじい状況だったという。


 もともと、彼の父親という人は、家事能力がほとんどない人だったらしい。


 ご飯は作れない。

 食器の片付けもしない。

 掃除のやり方を知らない。

 洗濯機の操作の仕方も分からない。


 更に、妻のいなくなった家には極力いたくないと、朝早く出て、夜遅く帰る生活を続けていたらしい。


 勇太君がどうしてるか、ちゃんと食べてるのか、そんなことはまるで気にしていなかった。


 というより、気づいていなかったのだという。

 自分が世話をしなければならないのだということに。


 子供が勝手に育つとでも思っているのかと担任に責められ、初めて勇太君がまだ10歳で、とても一人では生活できないことに思い至ったというのだ。


 ――てめえ、ふざけてんじゃねえ! って、蹴とばしたいのを必死で抑えた! 褒めて!


 と、当時の担任が言っていた。同感だ。


 それでもどうにか生活できていたのは、月に1~2回、母親――勇太君にとっては祖母にあたる人が来て、その時に掃除や洗濯、何日か分の食事の作り置きなどしてくれていたかららしい。後は給食。


 その後。

 地域の保護司の人や、児童相談所の人も含め、話し合いを進めていたようだが、事態はあまり改善しなかった。


 家事能力皆無のおっさんが下手に頑張ると、余計悲惨なことになるという様々な実例だけが積みあがっていった。


 そんな状況だから、夕会でもたびたび彼の名前は上がっていた。


 事務職員の私ですら名前を覚えてしまう頻度で。


 そんなある日。


 銀行の用事を済ませた帰り、偶然、見かけてしまったのだ。


 下校途中の彼が、他の児童から、臭い、寄るなとからかわれているところを。


 最初、それが勇太君だとは思わなかった。

 顔写真まで見ていなかったので。


 だけど。


「くっせー! 逃げろー! 勇太菌がうつるー!」


 数名の児童がそう言って一斉に逃げ出したのを見て、彼だとわかった。


 半泣きで彼らを追いかける勇太君を、私は思わず抱き留めた。


「勇太君、だよね。ちょっと落ち着こうか」


「……誰だよ、おばさん!」


「おばさんはね、勇太君の学校の事務のおばさんだよ」


「……え?」


「って言っても、きっと知らないと思うけど」


「うん、知らない」


「だよね~」


「なんだよ、離せよ!」


「……あのね、おばさんのお父さん、おばさんが5年生の時に死んじゃったんだ」


「え………」


 暴れていた勇太君が動きを止めた。


「大変だったよ。お母さんは今まで以上に働かなきゃならなくなって、家にいる時間が短くなったの。そしたら家の中がメチャクチャになっちゃった」


「…………」


「おばさんにはね、弟もいるの。4歳下の。だから、その時はまだ1年生だった」


「1年生、で……死んじゃったんだ。お父さんが」


「うん、そうなの。でね、おばさん、とうとう言っちゃったの。お母さんに。お部屋が汚いよ。洗濯もの溜まっているよって。そしたらね」


「そしたら?」


「5年生でしょ! 家庭科で習ったでしょ! あんたも少しはやりなさい! って言われちゃった」


「あ………」


「その日からね、部屋の掃除とか、ごはんをつくるのとか、洗濯とか、そういうのがおばさんの仕事になったんだ」


「5年生で?」


「そう。5年生で」


「………4年生でもできる?」


「習えばできるよ」


「ほんと?」


「ほんとほんと。家庭科の先生にお願いしに行く? それとも、おばあちゃんから教わる?」


 そう言われて、しばし考えていた勇太君だったけど、ややあってスッキリした顔で


「おばあちゃんに教わる。おばあちゃんがいない時には、事務のおばさんに聞く」


「……え? 私?」


「うん、だって、おばさん、子供の時からやってるんだろう? だったら、子供ならこうした方がいい、とか、わかるだろ?」


「ああ……。うん、そうだね。わかるかもね」


「決まり! えと……事務の先生、何ていう先生?」


「ん? 名前?」


「うん」


「勇太君といっしょだよ」


「え?」


「おばさんもね、佐々木っていうんだ。字は違うけどね」


「マジか!」


「マジだ!」


 そうして。

 二人で笑いあって。


 勇太君はすっきりした顔で帰っていった。


 その後、担任によると、本当に勇太君は、おばあさんに色々教わったらしい。

 少しずつ、身ぎれいになっていった。


 事務室にも顔を出してくれた。


「事務の先生、本当に佐々木っていうんだね。佐々木綾だって、先生に聞いた」


 と言いながら。


 そして子供にもできる簡単料理を、栄養士さんに教わって帰っていった。


 そしてある日


「俺、事務の先生のこと、綾先生って呼ぶね! 佐々木先生っていうの、なんか変だから!」


 思えば。

 私のことを最初に名前呼びした異性は勇太君なのだ。ちょっと哀しいけど。


 その勇太君が、学校に来ていない?


 考えられない。


 自分で簡単な料理はつくれるようになったけど、でも給食がやっぱり一番美味しいと言っていた彼が?


 家で一人でいるより、学校にいる方が良いと、何度も下校時間を過ぎても学校に居残っていた彼が?


「先生、勇太君、ケータイ持ってましたよね。GPSは?」


「それが、電源を切っているようなんだ」


「え………」


「佐々木さん、勇太君と仲良かったよね。彼が行きそうな場所、わかる?」


「………そうですね。心当たり、あります」


 今思いつくのは3か所ほど。


 河川敷か、中央公園。そして神社の境内。


 場所を描きとめた副校長が踵を返す。


「待ってください、私も行きます!」


 その背中に慌てて呼びかけた。


「佐々木さんが?」


「神社の境内ですけど、その境内から少し入ったところにちょっとした広場があるんです。もしかしたらそこかもしれません」


「あそこにそんなところあったか?」


「はい。多分、大人はあまり知りません。だから」


「わかった。神社は頼む。河川敷と公園は手配する」


 今は授業中だ。

 捜索に割ける人員はほとんどいない。


 間の悪いことに、今日、校長は出張だ。

 管理職が二人ともいなくなるわけにはいかない。副校長は動けない。


 となると、手が空いているのは、ほんの1~2名というところだろう。


「助かる。何かあったらすぐ電話して」


「わかりました。じゃ、佐藤さん、後はお願いします」


「はい、お気をつけて!」


 私はバタバタと支度を整え、事務室を飛び出していった。

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