胡同(フートン)の屋根の上から
もしもし――?
あ、わたし。うん、そう。
急にごめんね、今電話だいじょうぶ?
仕事してた?
お休み? だよね、夏休みだもんね。
わたしも、夏期休暇とってるんだ。そう。土日もあわせたら1週間。
ん?
……よくぞ聞いてくれました!
えへ、実はこれ、国際電話なんだよ? すごいでしょ!
うん、中国から! 前から来てみたかったの。知らなかった? ってゆーか、電話とかかけるの自体、すごい久しぶりだよね。
ううん、携帯だよ。使えるんだ。手続きしていったからね。
4泊5日の、上海−北京のツアー。うん。一人だよ。わたし、彼氏いないもん。知ってるでしょ?
ううん、もう4日目。明日が最終日。帰りたくないなぁ。しあさってから仕事だなんて……いやいや、今は考えないようにしよ。
時差? こっちは午後3時だよ。1時間しか時差はないの。そっちはまだ2時なんだよね。
今ね、北京にいるの。
上海は初日と二日目だった。うん、昨日の昼から北京に着いて、いろいろ見てまわったよ。
――ねえ。今わたし、どこにいると思う?
ふふっ。違うの。北京は北京なんだけど、今いる場所はどこかってこと。
ホテルじゃないよ。お店でもない。
えっとね――。今わたし、胡同の屋根の上にいるの。
そう、屋根の上だよ。ここはね、ちゃんと屋根に登れるようにはしごがついてたんだ。勝手に登ったんじゃないよ! 登れるよってガイドさんが云ってたんだから。
あっついよぉ! めちゃくちゃ暑い! 天気いいし。何度くらいあるのかなぁ。……ま、物好きっちゃあ物好きかもしんないけど。
え?
うん。そう、“フートン”。
聞いたことない?
えっとねぇ、なんて説明したらいいかなぁ。
北京特有の古い路地のことなんだけど……通路って云うより、“生活の場”って感じの場所。
曲がりくねったり入り組んだりしてるから、最初はリアルな迷路なのかなって本気で思ってたくらい。
わたしね、この胡同って場所が本当に気に入っちゃって、誰かにそのことをすごい話したかったの!
自転車借りてね、一人でいろいろ見てまわってきたんだ。
――なんか懐かしいんだよね、雰囲気が。土の香りとか、空気の匂いとか。
え? あ、違うよ、胡同は地名とかじゃなくて、なんていうか、そういうものの名前。
え〜っと、日本語にはちょうどいい訳ができないんだけど……「横丁」っていうか、「路地」っていうか、とにかく場所を指す言葉。
壁とか崩れかけたりしてるけど、こわい感じは全然しないの。人がたくさん生活してるんだ。この辺りはちょっと静かだけど。でもね、野菜売りの人の声とか、笑い声とか遠くからきこえてきて、静かなときでも、どこか安心する静けさって感じがする。
北京にはね、今わたしがいるような胡同が三千以上あるんだって。実際ね、大通りをちょっと入ったら胡同だったり、その胡同を抜けたらまた別の胡同だったりするの。
う〜ん。北京の街のなかに胡同があるっていうより、胡同のなかに北京って街があるっていう方が正しい気がする。
今、時間だいじょうぶ? 話、聞いてくれる?
そう、よかった! 一人で来てるしさ、たまたま今回のツアーには同世代の人とかがほとんどいなくて話し相手が欲しかったの。
――あ、その前に。いちばん大事なこと云うの忘れてた!
妊娠、おめでとう! 聞いたよ!
奥さん、もうお腹大きいの?
そうか。楽しみだね! 大事にしてあげなきゃダメだよ?
さてさて、それじゃ――
その、わたしが大好きになった胡同の話をしていいかな?
だって、わたしが知ってる中でいちばん聞き上手なんだもん。
――えへ。ありがと。
まずね、胡同って、全然カラフルじゃないの。
ううん、それがすごく素敵なのよ。
ほとんど灰色一色なの、胡同全体が。はっきりした黒とか白もなくて、なんか水墨画の世界みたいな――っていうと生活感がないようにきこえちゃうけど――、墨色って感じなのよね。
ガイドさんはね、「黄色は皇帝の象徴の色だったから、皇帝しか黄色は使っちゃダメだった」とか、「緑色のかわらを使うのは皇族とかしか許されてなくて、庶民は灰色しか使っちゃダメだった」なんて説明してたけど、わたし、なんかそれ違うと思ったの。
北京の人って、灰色が心から好きなんじゃないかなって思った。屋根もレンガも灰色だけど、そんな灰色の街に住みたかったんじゃないかなって思うの。
だってね、北京の人のご先祖サマは北方民族で、砂漠っていうか、荒野に暮らしてた人たちだから――これもガイドさんの受け売りだけどね――だから、赤とか黄色のカラフルな街より、灰色の砂のような荒野みたいな街に住みたかったんだって思うんだ。
ここね、ホント生活の場っていうか、生きる舞台って感じの場所なんだ。
小さい子どもがね、机で宿題とかしてるんだよ? そう、路地の壁際で、学校の机みたいなのに座って。
女の人は野菜とか豆とか買ったり、立ち話したりしてて、お年寄りはイスで寝たり、鉢植えのお花を育てたりしてる。
そうそう! 外で寝てる人がたくさんいてわたし最初すっごいビックリしちゃった!
なんで道で寝るんだろうって思って、よっぽど聞いてみようかと思ったよ、「どうして道で寝てるんですか?」って。
わたし中国語すこしだけならしゃべれるんだよ? 去年からラジオの中国語講座聞いてるんだもん。基礎中国語が終わったから、今年は続・基礎中国語で勉強してるんだ。
いやでもほんとに、胡同ではね、昼過ぎに道ばたの槐の木の下で人がいっぱい寝てるんだよ。
え? 槐よ、えんじゅ。えんじゅの木。知らない?
槐の木の下はね、けっこう涼しいの。今、こっちは昼間は毎日35度越えるくらいすんごく暑くって、だけどね、木陰はすごく気持ちいいんだ。
ううん、暑いのは暑いんだけど、湿度が高くないからかな、日本の暑さと全然違うの。
木陰の下にいたら、吹いてくる風で汗もすうっと引いてくし、なんかね、とっても心地いいの。
風が吹くでしょ、そしたらね、頭の上の方で葉っぱがすれる音がするの。槐の木は葉っぱも独特で、丸い――楕円かな? そんな葉っぱが連なってるんだけど、その葉っぱを透して木漏れ日がゆれてて、一歩木陰から出たら灼熱なもんだからもうそのまま腰かけてたくて、そんで、そよ風も吹いてくるでしょ? 北京の人じゃなくっても眠くなって当たり前だと思った、うん。
――食べ物? うん、いろいろおいしいもの食べたよ。
だけどあれがいちばんおいしかったなぁ。
スイカのフレッシュジュース。
西瓜汁っていうんだけどね。え? 今の中国語っぽかった? だって中国語だもん。ラジオで勉強したって云ったでしょ?
フレッシュジュースのスタンドでお店の人がね、「西瓜は身体を冷やしてくれるから夏の街歩きには西瓜だよ」ってオススメしてくれたんだけど、わたし、スイカのジュースなんてはじめて飲んだよ。ミキサーがね、ガガーッてまわって、赤いジュースを赤いストローで飲むんだけど、意外とおしゃれだったな。――あ、これは上海で飲んだんだけどね。
上海の初日の夜に食べた料理もおいしかったな。
「辛いの食べたい」って云ったら、鶏と唐辛子が1対1の割合で入ってる皿が出てきて、お箸で怖々肉だけつまんで食べてみたら、これがしっかりとお肉にも唐辛子の辛さがしみ込んでるのよ! そりゃもう辛いったら! 唐辛子は食べないよ。うん、だからお皿の上には唐辛子だけが残るの、最後には。
うんそう。全部食べちゃった。ぺろりとね。辛いけど、おいしかったの!
買い物? うん、いろいろしたよ。
雑貨屋さん? うう、さすが、読まれてるなぁ……。
可愛い小物がたくさんあってさ。
あ、そうそう。漢方ばっかりたくさん売ってあるお店にも行ったよ。
ううん、特別どこか調子が悪いってわけじゃないんだけど、美容と健康になんかいいのないかなって思ってさ。
漢方ってホントいろいろあるんだ。
ね、“百合”って漢方にもなるんだよ。知ってた? そう、あの百合の花の百合。
咳とか神経系の痛み止めにも効く薬草になるらしいの。――うん、ガイドさんの受け売り。よく覚えてるでしょ。
タンポポもあったな。
おっぱいの出が悪いときとかに飲むといいんだって。奥さんのお乳の出が悪いときのためにおみやげに買っておこうか?
いい?
うん。漢字で書くと蒲公英――くさかんむりに浦で蒲、公務員の公、英語の英で「蒲・公・英」って書くみたい。
タンポポにはね、消炎作用とか解熱作用とか、鎮痛の効能もあるんだって。
――よく覚えてるでしょ? もっとほめて。
――あ……。
うん。
そろそろ集合時間だからもどってみるね。
ホテル、この近くなんだ。だから、夕方もうちょっと夕涼みがてら胡同を歩いてみて回ろうと思ってる。
だいじょうぶ。ツアーの誰かを誘って一緒に行くから。
ほんとだいじょうぶだよ。変なとこで心配性だなぁお兄ちゃんは。
それじゃね。急に電話してごめんね。聞いてくれてありがとう。
もしかしたら、夜また電話するかも。いい?
――ありがとう、お兄ちゃん。
* * *
――あっ、もしもし、お兄ちゃん?
わたし。うん。
またかけちゃった。
今、だいじょうぶ?
うん、わたしは今お風呂上がったとこ。今日まで撮ったデジカメの写真をチェックしてたんだ。
なかなかいいのがたくさん撮れたんだ。
なかでも特に良く撮れたのが10枚ほどあるの。聞いてくれる?
そりゃ見た方が早いけど、今聞いて欲しいのよ。ほら、傾聴のトレーニングの一環だと思って。
ね?
じゃあいくよ、第10位!
――そうよ? ランキング形式で発表した方が盛り上がるでしょ?
多い? 撮った順番にか……。わかったよ。
えっとね、まずはこれ。
へたくそな竜の絵が描かれた天井。
いいの。わたしがいいなぁって思ったんだから。
あ、これもいいなぁ。街の屋台で牛肉のおまんじゅうみたいなのを売ってた太った男の人の写真。その近くにはね、露店なんだけど、純白のウェディングドレスを通りの電線にぶら下げて売ってあったの。びっくりしたけど、ドレスがきれいだったから写真撮っちゃった。ウェディングドレスは洗濯物じゃないつーのって云いたかったけど、なんか中国っぽくて好きだった。
他にはね、借りた黒い自転車を胡同の壁に立てかけて撮った一枚とか、その自転車のタイヤに空気を入れてくれた自転車屋の白いシャツ着た焼けた肌のおじいさんとか。
可愛いのもいっぱい撮ったよ。
赤い紙でできた提灯とか、割り箸みたいな木でできた鳥籠がいっぱい吊ってあるのとか。
あと、別になんてことない当たり前のことなんだけど、中国ってやっぱり、壁の落書きも漢字なんだね。なんか、おかしかった。
――うん。
胡同に夕涼み、行ってきたよ。二人ずれの女の人と一緒に3人でね。
初夏の胡同の夕暮れ――。わたし、ずっとこの日のことを忘れないと思う。
特別になにかあったわけじゃないよ。ただね、……風景とか、時間の流れとか、そういったもの全部が日本のわたしが過ごす毎日とぜんぜん違ってたから。
暮れそうで暮れない、夕暮れの暗さがだんだん濃くなってくるんだけど、それでも薄明るい、そんな不思議な、懐かしい感じの時間だったな。
歩いてるとね、いろんな人がいるの。
将棋をしてる人たちがいっぱいいた。七輪出して炭でご飯炊いてるお母さんとか、石蹴りしてる女の子たちとか、夕涼みしてるお年寄りとか。
いろんな声や音もきこえるの。
大人たちの早口のケンカみたいな話し声とか、女の子たちの笑い声とか、赤ん坊の泣き声とか。
お母さんが遊んでる子どもを呼んでる声も、なんだか怒鳴ってるみたいな声で、――おかしいけど、なんか懐かしい感じがして良かったな。
――あ、そうか。云われてみると、たしかに“昭和”の感じに似てるのかもしれない。だから、懐かしく感じるのかもしれないね。
両側の槐の並木も風に揺られてザワザワ音をたててて、その葉音が空から降って来るみたいに感じたんだ。
いろんな匂いもした。
醤油が焼ける匂いとか、ごま油があぶられる匂いとか、肉が炒められる匂いとか。あと、木とか葉っぱの匂いもするんだ。
いろんな匂いが涼しくなってきた夕暮れの風に揺られて運ばれてくるの。
三人の親子は子どもをまん中にして歩いてた。カップルも買い物籠を振りながら歩いてた。
一日が終わる安堵感とか、そういう胡同を包んでる空気が、すごい素敵だった。昔は日本にも、そんな空気とか、そんな時間が流れたんだろうなって思ったら、ちょっとさびしくもなったよ。
日本じゃさ、この時間帯って、子どもは塾とか行って、大人は男の人も最近じゃ女の人も残業ばっかで、主婦の人もきれいなキッチンで一人で料理してるんだなぁとか思ったら、こっちの夕方の方が豊かで幸せな時間が流れてるなぁっておもったの。
――そのあとね、わたしたちも3人で晩ご飯食べて、帰りにも来たとき通った胡同をもどったの。
そしたらね、薄暗がりのなか、夕ご飯食べ終えた人たちが満足そうな感じで――うん、顔の表情はほとんど見えないけど、なんか雰囲気が。仕事も終わった、ごはんも食ったって感じの満足そうな雰囲気で歩いてるの。家族連れとか、仲間同士とか。そぞろ歩きしてるんだ。集まってる人も多いの。なんだか昼間よりも人が多いみたいだった。
槐の木の下で雑談してる人とか、街灯の下で将棋してるおじいさんとか。
とにかくのんびりした時間が流れてるんだ。
いいなぁって、思った。
えっ? ううん。元気よ。ちょっと、いろいろ考えちゃった。――えへ。人生の本当の大切なものってなんなんだろうとか。
明日、日本に帰るね。
えっ、うそ、迎えに来てくれるの? だってけっこう遠いよ?
――うん、嬉しい。じゃ、おみやげ買わなくちゃね。
買ってないよ。途中の日に買ったら荷物になるもん。おみやげは最終日に買わなきゃ。
なにがいい?
蒲公英の漢方にしよっか?
いらない? ちぇっ。
うん。
じゃあ、明日ね。
――あ〜あ。
明日で中国旅行も終わりかぁ。さみしいなぁ。
うん。――そうだね。
最後まで、楽しんでくるよ。
ありがと。
それじゃね。
おやすみ、お兄ちゃん。
胡同は、少しずつその姿を消していっています。
一人でも多くの方に「胡同」という存在を知ってもらいたいと思い、この作品を書きました。
執筆に際しまして、いくつかの胡同に関する資料や本、ホームページ等を参考にしました。この作品が完成したのはそういった資料等を作られた方々のおかげです。自分の独創ではないことをここで認めておきたいと思います。
ただ私は、消えゆく胡同や、日本人が豊かな時間を失いつつあるこの現状になにかがしたかった。
もしこの作品で何人かの人に「胡同」という言葉を覚えてもらえたら、作者として、この作品は役目を十分果たしたと評価したい思います。
この作品もまた、“燃えさかる森にハチドリが落とすひとしずくの水”になれることを祈って。――さすらい物書き