十月休暇
松浦整骨院は毎年十月になると必ず、きっかり二週間の休みを取る。
これは僕が就職する前から続いていることで、大先生以外はその間は別の整骨院に応援に行く決まりだ。
十月休暇が次週に迫ったある晩、僕は大先生に呼び出された。
明かりを落とした診察室で書き物をしている大先生の背中は、どこか鶴を思わせる。
「五島くん、休みの予定はもう決まっておるかね?」
「いえ、嫁と一緒に家でごろごろしようと思っています」
結婚してもう三年になるのに僕たち夫婦には子どもが出来る兆しもない。
夫婦水入らずと言えば聞こえはいいものの、嫁も僕も少し物足りなく思っている。
「そうか。それじゃ奥さんには悪いが、ちょっと付き合って貰おうかな」
もちろん給料は出す、上手くいけば特別ボーナスも出せるかもしれない、と大先生が付け加える。
悪い話ではなかったので、僕はその場で話を受けた。
嫁との自堕落な生活に未練がないわけではなかったけれど、ボーナスは魅力的だ。
財布の中身を確認する。
お詫びに嫁に買うケーキ代くらいは賄えそうだった。
○
大先生の施術道具を載せて長崎から車で半日、僕たちは島根県に漸く辿り着いた。
出雲大社に程近い、いすゞというひなびた旅館が大先生の定宿らしい。
祭りでもあるのか大社の周りには人だかりがあり、何だか賑やかだ。
「今年は幾分、忙しくなりそうだな」
チェックインもそこそこに大先生はいすゞの二階に簡易の施術室を設ける。
毎年の休暇はここで施術するためらしい。
大先生はてきぱきと準備を整え、僕は“施術承ります”という告知を旅館近くに貼って回る。
そうこうしている内に、最初の患者さんがいすゞ二階の施術室にいらっしゃった。
高貴な雰囲気を纏った品の良いご老人だ。
「お待ちしておりました」と大先生。
「いやいや、それはこちらの科白だな。今年は案件がいやに多くてね。腰でも圧して貰わないと纏まるものも纏まらないよ」と応じる老人は上機嫌だ。
筋を伸ばし、ツボを圧し、凝りを解す。
いつもより丁寧に大先生が施術を行い、老人は機嫌よく帰っていった。
その後も患者さんは絶え間なくやってくる。
結局店仕舞いが出来たのは日が落ちてしばらく経ってのことだった。
「先生、今日の患者さんたちはどういう人たちなんですか?」
夜具を出しながら尋ねる僕に、大先生は悪戯っぽく微笑んだ。
「……神さまだ、と言ったら五島くんは信じるかな?」
○
次の日も、また次の日も、大先生の施術は続く。
最初は横で手伝うだけだった僕も、遂には施術に駆り出される。
丁寧に、丁寧に。
ただ患者さまの事だけを考えて、凝りを解していく。
肩、背中、腰、太腿、ふくらはぎ。
最初は擦るように揉み、圧を掛けて血流を良くしてやる。
強張った部分を温め、伸ばして本来の柔らかさを引き出す。
「おい、松浦の。この若いのは豪く筋が良いがお前さんの跡継ぎか?」
僕に背中を押されながら、美人の患者さんが大先生に問いかける。
「いえ。五島くんは良い弟子ですが源氏の流れではありませんでな。渡辺の揉み手も私で仕舞いですよ」
残念そうな声で大先生が応えた。
「むぅ…… 揉み手は必ずしも源氏でなくても良いだろう。要は続けばよいのだ」
「その、続く方にも問題がありましてな」
「というと?」
患者さんは起き上がり、襟元を直しながら胡坐をかく。
寝ながら聞く話ではないと思ったのだろうか。
「五島くんの処は、子どもが出来んのですよ。両親ともに健康なのですが」
そういう大先生の顔は深刻そのものだ。
僕は口を挟もうとするが、大先生に目で制される。
「なんと、子が出来ぬとな? 確かにそれでは役目を連綿とするのは難しいか」
患者さんは瞑目して何事かをぶつぶつと唱え、僕の方を向いた。
「五島とやら、お主、これからも揉み手を続けるつもりはあるな?」
「は、はい」
美人の視線に圧倒され、僕は気圧されるように肯く。
その様子を見て、患者さんは満足そうに微笑む。
「よかろう。そなたのことは覚えておこう」
○
二週間はあっという間に過ぎた。
入れ替わり立ち替わり訪れる患者さん相手に大先生と僕は休む間もなく施術を続けた。
その甲斐あって、最終日には患者さんたちも皆元気になったらしい。
感謝の言葉とお礼の土産を車に満載して、僕たちは出雲を経った。
途中のパーキングエリアで、僕は気になっていたことを大先生に尋ねることにした。
「そういえば、特別ボーナスっていうのはどうなったんですか?」
「ああ、多分、上手くいったと思うぞ」
大先生がそう答えるのとほぼ同時に、僕の携帯が鳴った。
妻からだ。
何かあったのだろうか。
「はい、もしも……」
「あなた、子ども、出来たの、赤ちゃん! 妊娠二カ月!!」
僕は通話口を抑えて大先生の方を見る。
大先生は薄い頭を撫でながら、
「出たようじゃな、特別ボーナス」と微笑んだ。