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メンソール

作者: ゆきのん

すれ違った時に、確かに感じた。

彼がいる。

そう思って急いで振り向いて、目に付いた男性に声をかけた。


「あのっ……」


男性が振り返る。

懐かしい匂いがした。

ヘビースモーカー特有の煙草の匂い。

体になのか衣服になのか知らないが、うつってしまっているあの匂い。


「何か?」


なのに。

振り返ったその顔は彼ではない。




彼は変なところで律儀な人間だった。

歩き煙草は平気でも、他人の家や車では絶対に吸わない。

煙草の匂いが染みついた服を着て、彼女の部屋に上がり込む割にその部屋の中では絶対に吸わないのだ。

同じことじゃないかと笑っても、彼は全然違うと真面目な顔で答えた。

彼に曰く、自分の持ち物や自分のエリアではないところに匂いをつけるのは失礼なことなのだそうだ。

力説する彼を可愛らしく思いながら、動物みたいね、とからかうと彼は決まってこう答える。


「人間だって動物だ」


それはそうだけど、と彼女は苦笑する。

人間にも縄張り意識はあるが、マーキングという行為は一般的でない。

ましてや匂いでマーキングなどとまるで犬ではないか。

それに、彼の吸っている煙草は彼のオリジナルというわけではない。

市販されている上に、メジャーで吸っている人間も多いものだった。

そんな匂いはいつどこで同じものと出会うか分かったものではない。

それでも彼は匂いをつけないという点は絶対に譲らなかった。

事実、今の彼女の部屋に彼の匂いはまるで、ない。




彼と彼女が付き合い始めて季節がぐるりと巡った頃。

彼女は一周年だからということで、何かしようと彼に持ちかけた。

彼は目を閉じて逡巡し、やがてこう聞いてきた。


「何か食べたいもの、ある?」


食事に連れて行くという意味だが、どんな記念日にも彼はこう繰り返してきた。

景色の綺麗なところへ連れて行ってくれたり、美味しい食事をご馳走してくれたりと、気は遣ってくれる。

だが、彼女にはこの一年を通じて彼からモノをもらったこと経験が一度もなかった。


「たまにはわたしの欲しいもの、買ってくれたりしないの?」


彼は曖昧に笑って、頭をかいた。

答えたくない時やどう答えていいか分からない、といったときに彼が見せる表情だった。

そんなに迷惑な要求だったろうかと彼女は内心で首を傾げたが、彼を困らせたくて言ったわけではない。

ただ、不思議だったから聞いてみただけなのだ。


「ごめんなさい、言ってみただけだから」


謝って彼の腕を取る。

頭を切り換えて、今日は何がいいかしら?と話しかけた。

彼はやっぱり曖昧に笑ったまま少し間を置いて、何でもいいよと答えた。

一瞬のその間に、彼は少しだけ口を動かしている。

ごめん、と。

彼女は彼の口の動きに気付かなかったけれど、今では彼が謝った意味を知っている。




「あの、私になにか?」


話しかけられた男性は困惑していた。

呼び止められた気がして振り返ってみれば、女性が切羽詰まった表情でこちらを見ている。

ぶつかってしまっただろうかと不安になったが、その割に女性は何も言ってこない。

しばらくは向こうの出方を窺っていたが、徐々に焦れて再度用件を尋ねた。


「あ、その、すみません。わたし、人違いで…」


男性は自分が何もしていないと分かって安堵したが、同時にそれだけのことを言うのにどれだけ時間をかけているのだと苛立ちも覚えた。

失礼、と一言ことわって立ち去っていく。

多くはないがそれなりに人通りのある道で立ち止まってその男性の後ろ姿を見送る彼女。

通行人が不審げに彼女を見ているが、気にした様子もなかった。

やがて人々の間に男性の姿が消えると、彼女はぽつりと呟いた。


「なに、やってるんだろ」


あの頃の匂いがしたと思って。

もしかして帰ってきてくれたんじゃないかと思って。

もう一度会えるんじゃないかと思って。

ほんの一瞬、期待してしまったら止まらなかった。

痕跡なんて記憶の中にしかない。

彼がくれたのはすべて思い出だけだったから。

思い出させるような痕跡は何一つないのだ。

時間が経てばいずれ朧気になって、いつか何かのきっかけで思い出した時には輪郭だけしか残っていなくて。

痛みや悲しみがあったことも忘れて、朧気な美しさを味わうことが出来たはずだった。

そして、それが彼なりの気遣いだったはずだ。

ほとんどの部分で成功していた彼の気遣いは、たったひとつの致命的なミスがあった。

彼に染みついていたあのどこかすっとするような匂いは、どこにでもあるようなありふれた匂いだったから。

彼がいた場所に残さなくとも、いつかどこかで簡単に出会えてしまうようなものだった。


「あれ、おかしいな…」


風化して美化される前に、その匂いに出会ってしまった彼女は。

我知らず流れる涙にようやく気が付いた。

しかし、止めることは出来ない。

どこでその匂いに出会っても、心が求めているたった一人に出会うことはもう、ないのだから。


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