毒舌同僚に『逆言霊』のデバフをかけたら、クズ夫が社会的に抹殺されて大破滅した件
東京星和大学附属病院の心臓外科医局に入った瞬間、久我美咲がコーヒーを片手に近づいてきた。
「まあ、七瀬先生。今日のお化粧、ずいぶん気合いが入っているんですね」
彼女の視線が、私のアイラインから唇へと滑っていく。
その笑みは柔らかいのに、刃物のように冷たかった。
「心臓外科医なのに、毎日そんなに綺麗にして、誰に見せたいんですか? 患者さんのご家族? それとも、手術の機会もその顔で取っているんですか?」
医局が一瞬で静まり返った。
キーボードを叩く音が半秒だけ止まり、すぐに何事もなかったように再開される。
私はバッグをロッカーに入れ、彼女を振り返った。
「久我主任は、ずいぶんお詳しいんですね。普段から、そうやって機会を取っていらっしゃるんですか?」
久我美咲の笑顔が固まった。
「七瀬先生、どうしてそんなに本気にするんですか? 私って、思ったことをそのまま言っちゃうタイプなんです。悪気はないんですよ」
彼女はいつもそうだった。
最も悪意のある言葉で人を傷つけておきながら、「思ったことを言っただけ」で自分だけは綺麗に逃げる。
そして私の夫、神崎悠真は、いつも彼女の側に立った。
案の定、十分後にLINEが鳴った。
神崎悠真からだった。
「美咲は理事長の姪だ。発言には気をつけろ。彼女に人前で恥をかかせると、俺の立場を笠に着て人をいじめていると思われる。印象が悪い」
私はその一文を見つめたまま、指先を画面の上で止めた。
結局、返信はしなかった。
結婚して三年。
この病院で、私は三年間ずっと耐えてきた。
けれど神崎悠真は知らない。
私には、誰にも言っていない秘密がある。
五年前、私は一度、医療事故で命を落としかけた。
その時、私はこの世界に迷い込んだ。
そして最初の試練を終えた時、古い神社の神が、私に一つだけ願いを叶えると告げたのだ。
久我美咲がそんなに「正直な物言い」が好きなら。
そんなに人を「祝う」のが好きなら。
望み通り、最後まで祝わせてあげればいい。
一
朝のカンファレンスが始まる前、久我美咲はコーヒーカップを手に、私の机のそばまで歩いてきた。
「澪、別に悪く言うつもりじゃないんだけど」
彼女は声を落とした。
けれど、その声は周囲の人間に聞こえる程度には大きかった。
「神崎先生は今、日本心臓外科学会の理事候補でしょう? 病院中が彼を見ているの。あなたの一挙一動が、彼の顔に関わるのよ」
そこで彼女は一度言葉を切り、わざと声を大きくした。
「毎日、男性医師や男性患者のご家族とあんなに近くしていたら、神崎先生の評判に傷がつくんじゃない? 先週だって、胸部外科の白石主任と二人で食事していたでしょう。お互い既婚者なんだから、少しは距離を考えた方がいいと思うけど」
医局は怖いほど静かになった。
若い医師たちはカルテに目を落としていたが、耳だけはこちらに向いている。
私は椅子を引いて座り、パソコンを開いた。
「久我主任は、ずいぶん距離感にお詳しいんですね。普段から、教授方のそういうことまで気を配っていらっしゃるんですか? 黒沢院長も、久我主任のその気配りをご存じなんでしょうか」
「あなた——」
久我美咲の顔が赤くなった。
だが次の瞬間、彼女は冷笑を浮かべた。
「私は冗談を言っただけですよ。七瀬先生、私って思ったことをそのまま言ってしまうタイプなんです。そんなに本気にしなくてもいいじゃないですか。そんなに心が狭いから、神崎先生も家では——」
彼女は最後まで言わず、七センチのヒールを鳴らして医局を出ていった。
十分後、神崎悠真からのLINEが届いた。
「美咲は理事長の姪だ。人前で恥をかかせるな。俺の立場を笠に着て彼女を攻撃していると思われる。印象が悪い」
私は画面を見て、小さく笑った。
彼の立場を笠に着る?
この三年間、私の手術も、論文も、研究課題も、患者満足度も、いったいどれが彼のおかげだったというのだろう。
けれど彼の目には、私が成果を出せば出すほど、まるで彼の威光を借りているように見えるらしい。
朝のカンファレンスが始まると、医局長が軽く咳払いをした。
「今年の若手医師奨励賞についてだが、医局での協議および病院評議会での審議を経て、推薦者は——」
彼は眼鏡を押し上げ、私を一瞬だけ見た。
すぐに視線を逸らす。
「医療管理オフィス主任、久我美咲医師に決定した」
会議室に、異様な沈黙が落ちた。
全員が私を見た。
私と親しい数人の医師たちは、信じられないという顔をしていた。
久我美咲は立ち上がり、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、医局長。先生方のご信頼に応えられるよう、これからも精一杯努めてまいります」
彼女が座る時、その視線は人垣を越えて私の方へ向いた。
目の奥から、得意げな光がこぼれそうだった。
カンファレンスが終わった後、私は廊下で神崎悠真を呼び止めた。
「どうして?」
彼は周囲を見回し、声を低くした。
「ここで話すことじゃない」
「じゃあ、どこで話すの? ここでいいでしょう」
私は彼の目をまっすぐ見た。
「今年、私の執刀件数は二百八十七件。成功率は九十九・三パーセント。久我美咲は百三十二件、成功率は九十一・七パーセント」
「私が代表を務めたAMEDの心血管再生医療プロジェクトは、つい先日終了したばかり。論文は『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』の共同特集に掲載された。彼女は独立した研究費を一つも持っていない。唯一の英語論文だって、第三著者として名前が入っているだけ」
私はスマホの画面を彼に突きつけた。
そこには、私がまとめた一年間の実績比較が表示されていた。
「この賞が、どうして彼女なの?」
神崎悠真は眉をひそめ、私の手首をつかんで非常階段の方へ引っ張った。
私はその手を振り払った。
「触らないで」
彼は一瞬固まったが、それでも先に階段室へ入った。
防火扉が背後で閉まる。
非常口の緑色の光が彼の顔に落ち、表情を冷たく、見知らぬものに見せていた。
「澪、美咲は理事長の姪だ。彼女は医療管理オフィスで、行政、人事、対外協力を扱っている」
彼の声は低かった。
「君は臨床医だ。この賞を君が取れば、他の医師からも色々言われる。病院は手術件数だけで回っている場所じゃない。大局を見てくれ」
「つまり、私の実績は実績じゃないの? 私があなたの妻だから、また避けろっていうの?」
「それとこれは別の話だ」
彼はさらに眉を寄せた。
「君はいつからそんなに細かいことにこだわるようになったんだ。たかが賞だろう。賞金が減るわけでもない。来年は必ず、もっといい形で——」
「去年もそう言った」
私は彼を見つめた。
「一昨年も」
彼は黙った。
階段室には、空調設備の低い唸りだけが響いていた。
長い沈黙の後、彼はため息をついた。
「澪、俺が来年、学会理事の選挙に出ることは知っているだろう。それに東大医学部の客員教授推薦も狙っている。理事長側の意向は重要なんだ」
彼は私を見る。
その声には、まるで自分こそ被害者であるかのような苦渋が滲んでいた。
「この時期に、人を怒らせたくない。美咲との関係は、維持しておく必要がある」
その瞬間、私はようやく理解した。
私の成功は、彼にとって重荷だった。
彼は私の手術件数、論文、研究課題を、自分の実績の一部として利用したい。
けれど同時に、人から妻の力で出世したと言われるのを恐れていた。
私の光は、いつの間にか彼の影になっていた。
医局に戻ると、久我美咲は数人の看護師と笑い合っていた。
私が入ってきたのを見るなり、彼女はわざと声を大きくした。
「だから言ったでしょう。女が手術台の上でいくら男と張り合っても、結局は意味がないのよ。人付き合いもできない、空気も読めない。最後には自分の夫にさえ助けてもらえないんだから」
誰かが気まずそうに咳をした。
誰かがうつむいて、カルテを整理するふりをした。
私は彼女を無視した。
席に座り、パソコンを開く。
新規文書を作成した。
退職届。
実は先週、横浜に新設された心臓専門医療グループから、ヘッドハンター経由で連絡が来ていた。
提示された条件は、年俸三千万円。
研究立ち上げ資金五億円。
独立した研究室。
副院長ポスト。
そしてチームは私自身が組める。
その時はまだ迷っていた。
星和大学附属病院で、私は八年働いてきたからだ。
ここには、初めて一人で執刀した手術がある。
私が育てた後輩がいる。
何度も徹夜で守った患者がいる。
けれど今なら分かる。
決断する時が来たのだ。
私はキーボードを叩き、最後の一文を入力した。
個人の職業上の発展を理由に、星和大学附属病院心臓外科医長の職を辞することを願い出ます。
印刷ボタンを押した。
プリンターが低く唸る。
久我美咲がこちらをちらりと見て、鼻で笑った。
そしてまた看護師たちとの会話に戻る。
私は印刷された退職届を手に取り、臨床研究センター長室へ向かった。
神崎悠真は机の向こうで電話をしていた。
私を見ると、いつものように眉をひそめた。
「後で折り返します」
彼は電話を切った。
「何か用か? 今忙しいんだが」
私は退職届を机の上に置き、彼の方へ押しやった。
「署名して」
彼はタイトルを一瞥し、勢いよく顔を上げた。
「何を馬鹿なことを言っているんだ」
「書いてある通り。ここではもう働かない」
「なぜだ? 美咲に少し耳障りなことを言われたからか? 若手医師奨励賞一つのために?」
彼は立ち上がった。
その声にはすでに怒りが混じっていた。
「七瀬澪、退職で俺を脅すつもりか?」
「脅しじゃない」
私は静かに彼を見た。
「ここでは、私は長期にわたって不公平な扱いを受けてきた。キャリアの発展も妨げられている。だから辞める」
「不公平? どこが不公平なんだ」
彼は両手を机につき、身を乗り出した。
「君の給与は同じ立場の医師より二割高い。研究費だって、俺がいつ却下した? 手術予定だってできる限り優先している。まだ何が不満なんだ」
「私は三年連続で執刀件数一位。それでも三年間、一度も賞をもらっていない」
私は一語ずつ、はっきりと言った。
「一年目、あなたは自分が臨床研究センター副主任に昇進したばかりで立場が不安定だから、私に遠慮してくれと言った。賞は小林准教授に渡った」
「二年目、あなたは久我美咲が管理職のポストを狙っていて、彼女の伯父が理事長だから、私にもう一度我慢してくれと言った」
「今年、あなたはまた彼女に名誉を渡した。あなたが学会理事会に入るため、理事長の支持が必要だから」
私は少し間を置いた。
「神崎悠真、私は医師よ。あなたの出世のための駒じゃない」
「澪!」
彼の声が大きくなった。
「美咲は理事長の姪だ! 来年の理事会改選で、彼女の伯父の一言が俺の候補資格を左右するんだ。少しだけ我慢できないのか? 俺が理事の席を得て、東大医学部の客員教授推薦に入れば、その後の名誉なんていくらでも君のものになる」
「去年もそう言った。一昨年も」
「今回は違う! 本当に大事な時期なんだ!」
彼の必死な顔を見て、私は急に笑い出したくなった。
彼は焦れば焦るほど、言葉を選ばなくなっていった。
「そもそも、なぜ彼女が君だけを標的にするのか、考えたことはないのか? 一方だけで音は鳴らない。君自身にも隙があるから、他人に言われるんだろう」
私は何も言わなかった。
彼は私を上から下まで眺めた。
その視線は、冷たいメスのように、私の顔から胸元へ滑っていく。
「自分を見てみろ。既婚の女医が、毎日誰のために化粧している? 白衣の下にそんな体の線が出る服を着て、何を見せたいんだ」
「それに、なぜ難しい手術ばかり君に指名が来る? なぜ患者家族は君を名指しする? なぜ感謝状も花束も、君のところにばかり届く? 君と男の教授や患者家族との間に、本当に何も——」
「啪」
私は彼の頬を叩いた。
乾いた音が、室内に響いた。
空気が凍りつく。
神崎悠真は頬を押さえ、信じられないという目で私を見た。
私は自分の手を見下ろした。
掌が痺れている。
けれど心は、不思議なほど静かだった。
三年。
私は三年間、ずっと耐えてきた。
一年目、私はアメリカでの研修を終え、星和大学附属病院の心臓外科に配属された。
胸は希望でいっぱいだった。
手術をし、論文を書き、後輩を指導した。
毎日誰より早く来て、誰より遅く帰った。
週末も病院にいた。
年末の統計で、私の執刀件数は圧倒的な一位だった。
二位を四十パーセント以上上回っていた。
患者満足度は百パーセント。
クレームはゼロ。
医局の誰もが、若手医師奨励賞は私に決まったと思っていた。
けれど神崎悠真は、帰りの車の中でこう言った。
「澪、この賞は譲ろう」
私は耳を疑った。
「どうして? 私のどこが足りないの?」
「足りないんじゃない。むしろ、良すぎるんだ」
彼はハンドルを握ったまま、やむを得ないという顔で言った。
「俺は臨床研究センター副主任になったばかりで、まだ地盤が固まっていない。君は俺の妻だ。最初の大きな賞を君が取ったら、周りはどう思う? 俺が権限を使ったと言われる。君の実績も、俺のおかげだと言われる」
「俺たちは、慎重に距離を取るべきなんだ」
私は彼の横顔を見た。
目の下には濃い疲れがあった。
私は心が揺らいだ。
彼は昇進したばかりで、きっと大きなプレッシャーを抱えている。
夫婦なのだから、彼の苦しさも理解すべきだ。
そう思った。
「分かった」
私はそう答えた。
二年目、久我美咲が病院へ異動してきた。
彼女は医療管理オフィス主任に就任した。
神崎悠真の研究実績を積み上げ、センター長のポストを狙うため、私はAMED重点プロジェクトの申請を主導した。
半年間、毎日四時間しか眠らなかった。
文献を調べ、実験を組み、申請書を書いた。
プロジェクトは採択された。
研究費は五億円。
私の論文は、心臓外科分野のトップジャーナルに掲載された。
インパクトファクターは十五・八。
年末評価の直前、神崎悠真はまた私に「話がある」と言った。
「今年は美咲も奨励賞を狙っている」
彼は私の手を握った。
その目は誠実そうに見えた。
「彼女の伯父は理事長だ。今、彼女と正面から争っても得はない。この賞は、もう一度だけ我慢してくれ。俺がセンター長になったら、来年は必ず君にもっといい形で報いる」
その年、奨励賞は久我美咲に渡った。
神崎悠真は順調に臨床研究センター長になった。
病院の年末懇親会で、久我美咲はシャンパン色のドレスを着て、ワイングラスを手に院長、教授、同僚たちへ感謝を述べた。
彼女は壇上から降り、私の横を通り過ぎる時、小さな声で言った。
「七瀬先生、お疲れさま。プロジェクト、よく頑張りましたね。でも、名誉は私のものです」
宴会の後、彼女は化粧室で口紅を塗り直していた。
鏡の中の私に向かって、彼女は笑った。
「澪、あなたはまだ若いのよ。病院は技術だけで生きていける場所じゃない。女に大事なのは、メスを握ることじゃなくて、人の心を握ることよ」
あの時、私は流れる水の下で何度も手を洗った。
爪が掌に食い込み、深い跡が残った。
三年目、私は国内でも稀な複雑大動脈基部置換および冠動脈バイパス併施手術を成功させた。
手術は十一時間に及んだ。
症例報告が公開されると、国内外の同業者から祝福のメールが届いた。
一方、久我美咲はどうだったか。
彼女が執刀した僧帽弁置換術で重大な合併症が発生し、患者は術後感染を起こしてICUに三週間入った。
家族は一カ月間抗議し、最終的に病院は三千万円を支払って揉み消した。
彼女が私の軽症患者を奪っても、神崎悠真は「同僚なんだから気にするな」と言った。
彼女が夜勤、病棟管理、学生指導を私に押しつけても、神崎悠真は「できる人間が多く担うべきだ。大局を見ろ」と言った。
彼女が私の手術の時にわざと十分な看護師を配置しなくても、神崎悠真は「ただの手違いかもしれない。考えすぎるな」と言った。
私は耐えた。
何度も、何度も耐えた。
その結果、何が残ったのか。
医局全体の前で、彼女に下劣な噂を流された。
私の枕元にいるはずの夫は、私を守るどころか、真っ先に「分をわきまえろ」と連絡してきた。
彼の心の奥底には、久我美咲と同じ汚い疑いが、最初から埋まっていたのだ。
そう思った瞬間、目頭が熱くなった。
涙は落ちなかった。
ただ視界だけが滲んだ。
「神崎悠真」
自分の声が震えているのが分かった。
「あなた、本当に最低ね」
彼は私の涙に触れて、ようやく我に返ったようだった。
「澪、違う。そういう意味じゃない」
彼は一歩近づいた。
「俺は焦っていたんだ。今は学会理事選の大事な時期で、少しの噂でも結果に響く。言葉が過ぎた。君だって分かっているだろう、俺は本気で——」
「もういい」
私は目元を拭った。
「もう、あなたの道具にはならない」
彼の大事な時期。
彼の苦しさ。
彼の大局。
私は三年間、それを聞き続けた。
そして三年間、耐え続けた。
けれど、もう耐えたくない。
私は机の上の退職届を指さした。
「署名して」
彼を見据える。
「署名しないなら、今日の久我美咲の発言について、正式に病院倫理委員会、医療安全調査委員会、厚生労働省の医療監査部門に申し立てる」
「学会理事の選考中に、『臨床研究センター長の妻が同僚から性的な中傷を受け、病院が隠蔽した』なんてニュースが出るのは、あなたも困るでしょう?」
神崎悠真の顔色が変わった。
怒り。
屈辱。
迷い。
計算。
それらが次々と彼の顔をよぎった。
やがて彼はペンを取り、退職届に自分の名前を書いた。
「七瀬澪、後悔するぞ」
彼はペンを机に投げた。
「外の医療グループは金だけはよく見えるかもしれないが、星和と同じ土台があると思うな。いつか戻りたいと言っても、俺は通常の手続き通り厳格に審査する。特別扱いはしない」
私を傷つけるためなのか、彼はさらに言葉を足した。
「それから、辞めるのは構わない。君が抱えている患者情報、手術記録、研究データは全部整理して、三日以内に美咲へ引き継げ」
私は頷いた。
「構わないわ。彼女が受け止められるならね」
「どういう意味だ」
「言葉通りよ」
私はそれ以上説明せず、署名済みの退職届を手に取ってドアを開けた。
廊下の行政職員たちが、センター長室から出てきた私を見て、それぞれ違う表情を浮かべていた。
私は気にせず、人事課へ向かった。
退職届を提出すると、人事課長は眼鏡を押し上げた。
「七瀬先生、退職には手続きが必要です。最短でも三日はかかります。その間は本院の職員として、通常勤務をお願いします」
「分かっています」
「また、規定により、退職者には業務の引き継ぎが必要です。患者情報、研究データなど——」
「引き継ぎはします」
私は彼の言葉を遮った。
「ただし、久我美咲には渡しません。医局長、あるいは医療安全管理部に直接引き継ぎます。医療管理オフィスがどうしても受け取ると言うなら、書面で引き継ぎ書を作成し、責任の所在を明確にしてください」
人事課長は一瞬固まった。
「は、はい……承知しました」
行政棟を出ると、東京の冬の陽射しが妙に眩しかった。
私は階段の上で深く息を吸った。
その夜、病院を出た私は、横浜山手にある古い神社へ向かった。
五年前、この世界に来たばかりの頃、私は一度だけこの神社で声を聞いた。
試練を終えた者には、一つだけ願いを許す。
そんな声だった。
けれど私は、手術と研究と人間関係に追われ、その約束をほとんど忘れていた。
境内には誰もいなかった。
鳥居の上に、一羽の烏が止まっている。
黒い瞳が、じっと私を見下ろしていた。
私は賽銭箱に五円玉を投げ入れ、手を合わせた。
「お願いします」
遠くの木々が、かすかに揺れた。
「久我美咲がこれから口にするすべての“祈り”を、逆さまの言霊にしてください」
「彼女が誰かを祝えば、その願いが最悪の形で返るように」
「発動は、明日の十九時。星和大学附属病院創立六十周年記念式典で」
境内に吊るされた風鈴が、ちりん、と鳴った。
その音は、冬の空気の中で異様にはっきり響いた。
次の瞬間、頭の奥に冷たい声が落ちてきた。
——願いは聞き届けられた。
——反言霊は、明日十九時、星和大学附属病院創立六十周年記念式典にて発動する。
——対象、久我美咲。
——一度動き出した言霊は、誰にも止められない。
烏が一声鳴いた。
私は目を開けた。
「分かっています」
神社を出て駅へ向かう途中、スマホが鳴った。
姑、神崎夫人からだった。
電話に出た瞬間、甲高い声が頭から降ってきた。
「七瀬澪! 今すぐ家に戻りなさい!」
私は足を止めた。
「ご用件なら電話で伺います」
「電話で? よくそんな口が利けるわね」
彼女の声は怒りで震えていた。
「悠真から聞いたわ。あなた、あの子を叩いたそうね? 私の息子に手を上げるなんて、何様のつもり?」
私は静かに言った。
「その件を責めるためのお電話なら、私からお話しすることはありません」
「話すことがない?」
彼女は冷たく笑った。
「今日中に悠真に土下座して謝らなければ、この話は終わらないわよ」
「悠真は将来、日本心臓外科学会の理事になり、いずれは医学部教授になる人間なの。神崎家の誇りよ」
「それに比べてあなたは、地方出身で、奨学金に頼ってここまで来ただけの女でしょう? 悠真が手を差し伸べなければ、東京の大学病院にあなたの居場所なんてなかったはずよ」
「あなたのご両親だって、田舎で細々と暮らしているだけの人たちじゃない。神崎家に嫁げたことが、どれほど特別なことか分かっているの?」
「それなのに恩も忘れて、よくそんな態度が取れるわね」
私の指が、スマホを握る力を少しだけ強めた。
彼女はいつも、私の痛いところを正確に突いた。
私の出身。
私の大学。
私の両親。
「神崎家には、あなたのように身の程を知らない女はいなかったわ。夫の将来は、妻の自尊心より大切でしょう? そんな簡単なことも分からないの?」
彼女はますます興奮していった。
「悠真から聞いたわよ。退職するなんて騒いでいるそうね。言っておくけれど、辞めるなんて許さないわ。あなたが仕事を辞めたら、住宅ローンは誰が払うの? 家のことは誰がするの? 悠真は忙しいのよ。まさか、あの子に家事をさせるつもり?」
「それに、あなたの服やバッグや化粧品、どれも悠真のおかげでしょう? 女医として少し稼いでいるからって、本当に自立したつもり?」
私は深く息を吸った。
「私が使っているお金は、すべて自分で稼いだものです」
「笑わせないで」
彼女は鋭く言った。
「悠真が病院で根回ししてくれなければ、あなたに今の立場があったと思う? 研究費を取れたと思う? 手術を任されたと思う? 医長になれたと思う?」
「七瀬澪、私は最初から分かっていたわ。あなたは神崎家にぶら下がっているだけ。羽が生えた途端、飛び立とうとしているのね」
「選択肢は二つよ。一つ、今すぐ悠真に謝り、退職のことなど忘れること。二つ、明日私が病院長に会って、あなたが夫に暴力を振るい、恩を仇で返す女だと話すこと」
「夫を叩くような女を、どこの病院が雇うか見ものね」
「お話は終わりましたか?」
自分でも驚くほど、私の声は落ち着いていた。
「その態度は何なの?」
「私は、すでに退職します」
私は一語ずつ言った。
「今日から、あなたの息子の世話も、神崎家の施しも必要ありません」
少し間を置く。
「今後、私に連絡しないでください。あなたに、その資格はありません」
私は電話を切った。
番号をブロックした。
そして連絡先を開き、「神崎夫人」という名前を削除した。
翌日、医局へ戻ると、私は引き継ぎ資料の整理を始めた。
午後になって、久我美咲がやって来た。
仕立ての良いスーツを着て、高いヒールを鳴らしながら、得意げに私の机の前に立つ。
「七瀬先生、神崎主任から聞きました。あなたの患者情報は全部、私が引き継ぎます」
彼女は明るく笑った。
「安心してください。あなたの患者さんたちは、私がきちんと診てあげますから」
私は顔を上げた。
「構いません。ただし、書面で引き継ぎ書を作成してください」
「何ですって?」
「引き継ぎ完了後、患者の以降の治療については、引き継ぎ先の医師が全責任を負う。前主治医には責任がない。そう明記してください」
彼女の顔色が変わった。
「どういう意味? 私に治せないとでも思っているの?」
「言葉通りです」
私は再び書類に目を落とした。
「引き継ぐなら、規則通りに。引き継がないなら、医局に一括して渡します」
彼女は歯を食いしばった。
「いいわよ、署名してあげる。あなたの患者なんて、こちらから願い下げだけど」
彼女は怒りを隠さず去っていった。
午後五時半。
私は荷物をまとめ、最後にもう一度だけ医局を見回した。
八年だった。
ここで、私は初めて一人で手術を執刀した。
初めて英語論文を発表した。
初めて、自分の後輩を一人前に育てた。
そしてここで、数え切れない不眠の夜を過ごした。
命の強さと脆さを見た。
医師であることの誇りと、どうしようもない無力さを知った。
もう、行く時だ。
私は白衣をきちんと畳み、椅子の上に置いた。
明かりを消す。
鍵を閉める。
鍵はナースステーションに置いていった。
「七瀬先生、本当に辞めてしまうんですか?」
長年一緒に働いてきた看護師長の目が赤くなっていた。
私は彼女の手に軽く触れた。
「またどこかで一緒に働けるかもしれません」
「久我主任に、先生の患者さんは無理です」
看護師長は声を潜めた。
「複雑症例の術後管理だって、まともにできないのに」
「大丈夫」
私も声を落とした。
「彼女には受け止められない」
病院の正面玄関を出ると、すでに夜になっていた。
スマホが震える。
横浜心臓医療グループのヘッドハンターからだった。
「七瀬先生、正式なオファーをお送りしました。メールをご確認ください。ご一緒できることを楽しみにしております」
私は返信した。
「確認しました。来週月曜日に伺います」
二
星和大学附属病院創立六十周年記念式典は、東京帝国ホテルの宴会場で行われた。
今年の式典は、例年よりずっと大がかりだった。
全職員だけでなく、退官教授、提携大学の代表、製薬会社の幹部、患者代表、報道関係者まで招かれている。
五百人収容の宴会場は、空席がないほど埋まっていた。
私が到着した時、式典はまもなく始まるところだった。
私は端の席を選んで座った。
隣にいた行政職員たちが私を見て、小声で何かを話した。
けれど誰も声はかけてこなかった。
その方がよかった。
静かでいられる。
主賓席の方から、一条綾乃が私に気づいて歩いてきた。
「七瀬先生、いらしていたんですね」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「以前、母の件でアメリカの心臓病専門医をご紹介いただきましたでしょう。術後の経過がとても良いんです。正式にお礼を申し上げたかったのですが、なかなか機会がなくて」
私は立ち上がった。
「一条様、お役に立てたなら何よりです」
実際には、ただ紹介しただけではなかった。
一条綾乃の母親は、複雑な先天性心疾患に大動脈病変を合併していた。
国内でその手術が可能な専門医は、五人もいなかった。
私はアメリカ研修時代の人脈をすべて使い、恩師に頭を下げ、半ば引退していた世界的権威をようやく動かした。
三カ月かかった。
国際電話を何度もかけた。
百通を超えるメールを送った。
なぜそこまでしたのか。
星和病院の本当の権力者は、黒沢院長でも、表向きの理事長でもないと知っていたからだ。
本当の中心は、一条綾乃だった。
彼女は病院最大の寄付財団の後継者であり、実質的に理事会を動かす人物だった。
黒沢院長は、彼女の父親に取り立てられたにすぎない。
神崎悠真は必死に黒沢院長へ取り入っていたが、本当に見るべき相手を知らなかった。
一条綾乃は私の手の甲にそっと触れ、声を落とした。
「退職なさったと聞きました。残念です。私は、あなたを副院長候補に推薦するつもりでした」
私は微笑んだ。
「お心遣い、ありがとうございます。ただ、人にはそれぞれ進む道がありますから」
彼女は私を見て、静かに頷いた。
「そうですね。あなたなら、どこへ行っても輝けます」
少し間を置いて、彼女はまた笑った。
「ちなみに今夜、私は授賞者側の来賓です。本当は、あなたに賞を渡せると思っていました」
私は笑うだけで、何も言わなかった。
彼女は主賓席へ戻っていった。
式典が正式に始まった。
黒沢院長が壇上に立ち、挨拶を始めた。
病院六十年の歴史。
医の倫理。
科学技術の革新。
国際的な連携。
美しい言葉がいくつも並んだ。
会場からは拍手が起こった。
そして表彰式に入る。
最初の賞は、若手医師奨励賞だった。
黒沢院長はリストを手に、満面の笑みを浮かべた。
「この賞は、本院の若手医師の中でも特に優れた代表者を表彰するものです。高度な医療技術と優れた医徳を備えた、星和の未来を担う人材——」
スポットライトが客席をなぞる。
「今年の若手医師奨励賞を受賞するのは——」
彼はわざと間を置いた。
「医療管理オフィス主任、久我美咲医師です!」
大きな拍手が起こった。
久我美咲が席から立ち上がった。
彼女は真紅のオフショルダードレスを着ていた。
裾は床を引き、首元のダイヤモンドネックレスが眩しく光る。
一歩進むたびに、光が彼女の上で流れた。
私の列の横を通り過ぎる時、彼女は足を止め、こちらをちらりと見た。
その目には、得意げな挑発があふれていた。
彼女は舞台に上がり、黒沢院長からトロフィーと賞状を受け取った。
そして客席へ向き直る。
スポットライトが彼女に落ちた。
その赤いドレスは、血のように見えた。
「まずは、黒沢院長、理事会、そして日頃から支えてくださる先生方に心より感謝申し上げます」
彼女は原稿を読み上げた。
だが途中で、ふと手を止める。
そして原稿を折りたたんだ。
「けれど今夜、私が一番申し上げたいのは、こうした形式的な言葉ではありません」
彼女は優しく笑った。
その声には、わざとらしい誠実さがあった。
「皆様もご存じの通り、私は遠回しな言い方があまり得意ではありません。思ったことをそのまま言ってしまうタイプです。ですから、この場をお借りして、ある大切な同僚のために、心から祈りたいと思います」
彼女の視線が会場を横切り、私の上で止まった。
「心臓外科の七瀬澪先生です」
会場が静まり返った。
全員が私を見た。
主賓席の方で、神崎悠真の顔色がわずかに変わる。
久我美咲は、さらに明るく笑った。
「七瀬先生の手術の腕が素晴らしいこと、研究能力が高いことは、私たちもよく知っています」
彼女は一拍置いた。
「でも、同僚として、私は心から祈っています」
一語ずつ、彼女は言った。
「これからは手術ばかりに夢中になるのではなく、人としての振る舞いも学べますように。病院で働く以上、医術だけでなく、人間性も大切ですから」
その言葉が終わった瞬間だった。
久我美咲の足元が滑った。
彼女は細いヒールを履き、舞台の端に立っていた。
身体が大きく後ろへ傾く。
「きゃあ——!」
悲鳴とともに、彼女は一メートル以上の高さがある舞台から転げ落ちた。
背中から床に叩きつけられ、尾骨が階段の角に激しくぶつかった。
乾いた骨の音が、胸元のマイクを通じて会場中に響いた。
「腰が! 腰が折れた!」
久我美咲は床の上で絶叫した。
痛みで顔が歪んでいる。
「助けて! 救急車を呼んで!」
スタッフが駆け寄った。
会場は一気に混乱した。
ストレッチャーが運ばれてくる。
四人の男性職員が、久我美咲をどうにか載せようとする。
少し動かすたびに彼女は悲鳴を上げ、腰に触れることさえできなかった。
ストレッチャーの上で、彼女は涙を流し、真っ青な顔をしていた。
その時だった。
彼女が突然、主賓席の方へ目を向けた。
その視線は、神崎悠真に向かっていた。
「神崎主任!」
彼女は甲高い声で叫んだ。
「私は、神崎主任が一日も早く日本心臓外科学会の理事になれるよう祈っています! きっと東大医学部の客員教授推薦にも入れます!」
その言葉が終わらないうちに、神崎悠真のスマホが鳴った。
静まり返った宴会場に、着信音だけが不自然に響いた。
彼は電話に出た。
数秒後、顔色が真っ白になる。
「何だって? 今? 監査チームがもう到着している? 俺は式典会場に……分かった」
電話を切った彼は、立ち上がって逃げるように動こうとした。
だが宴会場の扉が開いた。
黒いスーツを着た、表情の硬い男たちが数人入ってくる。
彼らはまっすぐ主賓席へ向かった。
全員がその動きを見ていた。
男たちは神崎悠真の前で足を止め、身分証を提示した。
「神崎悠真医師。私たちは厚生労働省の監査チームです。実名による告発および初期調査により、研究費の不正使用、臨床データ改ざんの疑いが確認されています。事情聴取にご同行ください」
神崎悠真はその場で硬直した。
唇が震え、声が出ない。
会場がどよめいた。
「どういうことだ?」
「監査チームが来たって?」
「研究費の不正? 本当なのか?」
ストレッチャーの上でそれを見ていた久我美咲は、恐怖に目を見開いた。
「ち、違う……私は、ただ……」
話そうとしても、痛みで息が詰まる。
黒沢院長が立ち上がり、無理に落ち着いた声を出した。
「皆様、どうか落ち着いてください。何かの誤解でしょう。式典はこのまま——」
その時、久我美咲が黒沢院長に向かって叫んだ。
「黒沢院長! 私は、院長先生のご健康とご家庭円満を心から祈っています!」
黒沢院長が口を開こうとした瞬間、彼は胸を押さえた。
顔色が急速に紫色へ変わっていく。
呼吸が荒くなった。
「院長!」
「急いで! 院長が心臓発作を起こした!」
同時に、紫色のドレスを着た中年女性が舞台へ駆け上がり、司会者からマイクを奪い取った。
黒沢院長の妻、黒沢真紀だった。
「黒沢隆!」
彼女は会場に向かって怒鳴った。
その声は怒りで震えていた。
「よくもこんな場所で医の倫理なんて語れたものね。製薬会社の女性担当者を囲っていることを、私が知らないとでも思っていたの?」
会場が一瞬、完全に沈黙した。
次の瞬間、爆発するように騒ぎ出す。
黒沢真紀は客席に向き直り、全員に聞こえる声で叫んだ。
「三年前に飛び降り自殺した研修看護師。あの子は、この男に妊娠させられて、辞職を迫られたのよ! 病院は遺族に二千万円の口止め料を渡した。知らないとでも思っていたの?」
記者たちが狂ったように写真を撮り、動画を回し始めた。
患者代表が立ち上がり、大声で抗議する。
職員たちはざわめき、誰もが呆然としていた。
久我美咲はストレッチャーの上で震えていた。
彼女は口を閉じようとした。
けれど口だけが、まるで別の生き物のように動いた。
「私は祈る……私は……祈って……」
一条綾乃が主賓席からゆっくり立ち上がった。
彼女は舞台のそばへ歩き、黒沢真紀からマイクを受け取った。
その表情は静かだった。
彼女の声が、会場全体に響く。
「言わせなさい」
久我美咲は激しく首を振った。
「嫌! もう言わない! 祈らない! 黙って! 私の口、黙ってよ!」
それでも、彼女は止まらなかった。
「私は、財務部の帳簿が一点の曇りもなく、清らかでありますよう祈っています!」
宴会場の横に設置された大型スクリーンが、突然点灯した。
誰も触れていない。
それなのに、画面は勝手に病院の財務システムへログインしていた。
電子帳簿が次々と表示される。
架空請求。
研究費の流用。
虚偽の調達契約。
金額は数十万円から数千万円に及んでいた。
財務部長が勢いよく立ち上がった。
「私じゃない! 久我主任に指示されたんだ! 院長も黙認している、理事会は調べないと言われた!」
久我美咲が悲鳴のように叫んだ。
「私は、後方支援と医療機器調達が公明正大で、透明でありますよう祈っています!」
スクリーンが切り替わった。
監視カメラ映像が流れ始める。
時刻は深夜。
場所は後方倉庫。
調達主任と数人の医療機器業者が、段ボール箱を開けていた。
中に入っていたのは現金だった。
久我美咲はその横に立ち、笑いながら札束を数えている。
そして束になった現金を、自分のブランドバッグへ詰め込んだ。
調達主任は椅子に崩れ落ち、顔面蒼白になった。
久我美咲はすでに壊れかけていた。
けれど止まらない。
彼女の目が会場をさまよい、青ざめた人々を次々と捉える。
その口は、制御不能の機械のようだった。
「私は、大槻副院長が発表されたすべての論文が完全なオリジナルであり、どんな剽窃検査にも耐えられますよう祈っています!」
スクリーンが切り替わる。
論文剽窃チェックの結果が表示された。
大槻副院長が昨年発表した三本の主要論文。
重複率はそれぞれ九十二パーセント、八十七パーセント、九十五パーセント。
原著者は地方病院の若い医師たちだった。
大槻副院長は、強引に責任著者として名前を入れただけだった。
「私は、内科の森田主任と患者さんたちの関係が円満で、一度も医療紛争など起きていませんよう祈っています!」
患者代表席にいた中年男性が、勢いよく立ち上がった。
「森田! 去年、父はお前たちの科で死んだ! 病歴を改ざんして、投薬ミスを隠したことを忘れたとは言わせない! もう弁護士に依頼している!」
「私は、薬剤部が仕入れた薬品がすべて安全で有効であり、キックバックなど一切存在しませんよう祈っています!」
スクリーンに薬品購入リストが表示された。
数十種類の薬品の仕入れ価格が、市場価格より三十パーセントから百パーセントも高い。
備考欄には、はっきりと記載されていた。
リベート十五パーセント。
リベート二十パーセント。
久我主任取り分五パーセント。
宴会場は完全に崩壊した。
患者家族が舞台へ駆け上がろうとし、警備員が必死に止める。
教授夫人がその場で夫の頬を叩いた。
「外に女を囲っていたの? 研究費でマンションまで買って? 離婚よ、絶対に離婚!」
同僚同士が指を突きつけ合った。
「お前がキックバックを受け取ったんだろう!」
「最初に誘ってきたのはお前だ!」
久我美咲の視線が混乱の中を泳ぎ、最後に神崎悠真の上で止まった。
神崎悠真は監査担当者に囲まれ、棒立ちになっていた。
汗が滝のように流れ、スーツの背中は濡れていた。
「それからあなたよ! 神崎悠真!」
久我美咲は叫んだ。
「私は、あなたの研究費が一円残らず正しい目的に使われ、不正など一切ありませんよう祈っています!」
大型スクリーンに、神崎悠真の研究費使用記録が映し出された。
大量の領収書偽造。
実験耗材の架空計上。
研究費による高級品購入。
「去年の八千万円の研究費、あなたは五千万円分の高級実験動物を申請した。でも実際には普通の実験用マウスだった! 差額はあなたの株式口座に入っている!」
「今年はもっと酷い! 国際学術交流プロジェクトなんて存在しなかった。一億円の研究費のうち、七千万円をあなたが横領した!」
会場中の視線が神崎悠真へ集中した。
彼は死んだように白い顔で、唇を震わせていた。
やがて彼は私を見た。
助けを求める目だった。
私は視線を逸らした。
久我美咲は言い終えると、泥のようにストレッチャーの上へ崩れ落ちた。
そしてうわ言のように呟き始める。
「違う……私は祈りたくない……助けて……」
一条綾乃はマイクを持ち、混乱の舞台中央に立っていた。
その声は、最後まで静かだった。
「今夜の式典は、ここで終了といたします」
「厚生労働省の監査チーム、医療安全調査委員会、ならびに東京地検の関係者はすでに到着しています」
「関係者は全員、職務を一時停止し、調査に協力していただきます」
彼女は一呼吸置いた。
「今夜明らかになったすべての問題について、徹底的に調査します」
そう言って、彼女は秘書と警護担当者に囲まれ、会場を出ていった。
一条綾乃が去った瞬間、会場は完全に制御不能になった。
妻たちが夫に飛びかかり、頬を叩いた。
患者家族が医師をつかまえて問い詰めた。
同僚たちは互いの不正を暴露し合った。
久我美咲はストレッチャーの上で泣き笑いしながら、なおも「祈り」を呟いていた。
神崎悠真は木偶のように連れて行かれた。
私はもう見る気がしなかった。
立ち上がり、会場を後にした。
三
家に戻ると、私は荷物をまとめ始めた。
私のものは多くなかった。
衣類。
本。
医療関係の資料。
数冊の英語医学誌。
結婚写真、ペアの雑貨、神崎悠真から贈られたもの。
それらはすべて置いていった。
引き出しの奥から、離婚届と離婚協議書を取り出す。
半年前に用意していたものだった。
ずっと署名できずにいた。
それをリビングのローテーブルに置いた。
キャリーケースを引き、ドアを閉める。
それから数日間、東京の医療界はその話で持ち切りになった。
星和大学附属病院に激震が走った。
黒沢院長は心臓発作から一命を取り留めたが、妻から離婚訴訟を起こされ、さらに横領、不倫、医療事故隠蔽の疑いで立件された。
副院長、財務部長、調達主任など十数人が連行された。
神崎悠真は研究費横領とデータ改ざんにより職務を解かれ、法的責任と巨額の賠償を負うことになった。
学会理事への道は完全に潰れた。
久我美咲はさらに悲惨だった。
彼女は病院を懲戒解雇され、横領、データ偽造、医療詐欺の罪で起訴された。
あの夜の「祈り」で、彼女はあらゆる人間を敵に回した。
患者家族に待ち伏せされ、病院送りにされたとも聞いた。
一方、私は仮住まいのマンションに移った。
横浜心臓医療グループの面接は順調だった。
彼らは私の手術技術と研究能力を評価し、年俸三千万円と研究担当副院長のポストを正式に提示した。
グループ本部ビルでの面接を終えて出てきた時、神崎悠真が私の前に立ちはだかった。
わずか数日で、彼は十歳も老けたように見えた。
無精ひげ。
落ちくぼんだ目。
皺だらけのスーツ。
「澪」
彼の声はかすれていた。
「俺が悪かった。許してくれないか」
私は足を止めた。
彼は慌てて言った。
「美咲とは何もない。俺があんな女を相手にするわけがないだろう。全部、黒沢院長に強要されたんだ。俺だって仕方なかった」
私は頷いた。
「分かっているわ」
彼の目が明るくなった。
「やっぱり君は分かってくれる。澪、もう一度やり直そう。俺は離婚しない。これから必ず君に償う」
「神崎悠真」
私は彼の言葉を遮った。
「私たちの問題は、最初から久我美咲じゃない」
彼は固まった。
「あなたが何度も私に犠牲を強いたこと」
「私を出世の駒として扱ったこと」
「あなたの心の底に、私への悪意ある疑いがあったこと」
「久我美咲は、それを表に出しただけ」
「違う!」
彼は激しく言った。
「俺は君を愛している。成功したかったんだ。君にもっといい生活をさせたかった。研究費を横領したのだって、金を増やして君を楽にしたかったからで——」
「私を楽にする?」
私は思わず笑いそうになった。
「だから、私が受け取るべき名誉を他人に渡し、他人が私を侮辱するのを黙認し、私の潔白を疑ったの?」
私は彼を見た。
「あなたの愛なんて、もう受け取るつもりはない」
「じゃあ、俺にどうしろっていうんだ!」
彼は突然叫んだ。
「俺はもう何もかも失ったんだぞ! 仕事もなくなった。金も賠償で消える。刑務所に入るかもしれない。君はそれでも平気なのか?」
ほら。
彼は自分の過ちを理解したのではない。
ただ、怖くなっただけだ。
「道は自分で選んだものでしょう」
私は言った。
「離婚協議書に署名して、私に送って」
「離婚? ふざけるな」
彼の顔が歪んだ。
「七瀬澪、横浜の医療グループに拾われたからって、俺を捨てられると思うなよ。俺が不幸になるなら、お前も無傷ではいられない」
彼はそう吐き捨て、去っていった。
彼がこれで終わらないことは分かっていた。
案の定、二日後、一条綾乃の秘書から電話が来た。
「七瀬先生、病院に告発がありました。先生が退職時に患者情報と手術データを持ち出し、医療情報保護に違反した疑いがあるとの内容です。病院側は現在、警察への相談も含めて検討しています」
「同時に、その話が医療界にも広がりつつあり、先生の新しい勤務先に影響が出る可能性があります」
私は静かに聞いた。
「一条様にお伝えください。私が説明します」
電話を切り、私はかつての家へ向かった。
鍵は開いていた。
部屋の中は酒の臭いで満ち、ひどく散らかっていた。
神崎悠真は空き瓶の山の中に座っていた。
私を見ると、狂ったような得意げな目をした。
「怖くなったか? 俺に頼みに来たのか?」
私は彼を無視し、いくつかの薬品名と製薬会社名を口にした。
それは、この数年、彼がキックバックを受け取っていた会社だった。
神崎悠真の顔色は、私が一つ名前を出すたびに灰色になっていった。
最後には、彼はソファに崩れ落ちた。
「お前……前から知っていたのか?」
「疑っていただけ」
私は言った。
「あなたが患者に処方していた高額薬、効果は一般薬と変わらなかった。製薬会社の会合には毎回出席していた。帰ってくるたび、口座に出所不明の入金があった」
彼は目を見開いた。
「証拠は持っていない」
私は彼を見た。
「でも、一条綾乃に一言伝えれば、彼女は調べられる。そうなれば、賠償だけでは済まない。あなたは本当に刑務所に行くことになる」
神崎悠真の全身が震えた。
私は離婚協議書を彼の前に置いた。
「署名して。告発を取り下げて」
「あなたがこれ以上私に関わらないなら、この件を私の手で表に出すことはしない」
彼の手は、ペンを握れないほど震えていた。
それでも最終的に、彼は署名し、拇印を押した。
私は書類を受け取り、最後に彼を見た。
かつて、生涯を共にできると信じた男。
今は、床にこぼれた泥のようだった。
「どうか、これ以上自分を壊さないで」
私は背を向けて出ていった。
その後、私は患者情報を一切持ち出していない証拠を、一条綾乃の秘書へ提出した。
すぐに返信が来た。
告発は事実無根。
一カ月後、離婚手続きは完了した。
二週間後、私は横浜心臓医療グループに正式に入職した。
肩書きは、研究担当副院長。
新しい環境は、能力だけを見てくれた。
過去を問わなかった。
私は自分のチームを組み、新しい研究課題を申請し、再び手術台に立った。
時々、星和病院の噂を耳にすることがあった。
神崎悠真は家を売って借金を返し、後に地方の小さな診療所へ移ったらしい。
久我美咲は有罪判決を受けた。
星和大学附属病院は、一条綾乃の改革によって腐敗した人間を大量に排除し、少しずつ信頼を取り戻しているという。
ある深夜、私はマンションの窓辺に立ち、横浜港の灯りを眺めていた。
スマホが鳴る。
一条綾乃の個人番号だった。
「七瀬副院長、新しい場所で活躍なさっているそうですね」
彼女の声には笑みが混じっていた。
「星和に戻って、私を助ける気はありませんか? 今の星和には、臨床と研究の両方を本当に理解している副院長が必要です」
私は窓の外を見つめ、微笑んだ。
「一条様、お誘いありがとうございます」
「でも、私は今の場所と挑戦が気に入っています」
「それに、星和は一条様のもとで、きっともっとふさわしい人材を見つけられるはずです」
電話の向こうで、少し沈黙があった。
やがて、一条綾乃が低く笑った。
「そうですか、七瀬澪」
「あなたの前途が、明るいものでありますように」
私も笑った。
「星和病院の未来も、明るいものでありますように」
電話を切った後、私は少し冷めたコーヒーを口にした。
苦い。
けれど、その後にほのかな甘さが残った。
数日後、私は横浜山手の古い神社の前を通りかかった。
夕暮れ時だった。
鳥居の向こうの空は、淡い金色に染まっていた。
一羽の烏が屋根の上に止まり、低く鳴いた。
風鈴が鳴った。
それは、遅れて届いた別れの言葉のようだった。
頭の奥で、あの日と同じ声が最後に響いた。
——反言霊は、これにて終わる。
——この先の道は、あなた自身の手で選びなさい。
私は鳥居の向こうに広がる空を見上げた。
烏が一羽、黄昏の中へ飛び去っていく。
もう、願う必要はなかった。
私の行き先は、私が決める。




